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近況など

 最近ひさびさに津村記久子を読みました。『ミュージック・ブレス・ユー‼︎』というやつで、面白かったです。主人公は最後の方である機会を逃すのですが、そんなに落ち込みません。タイトルにも関わる恩寵というのは機会ではなく、包まれるように感じるものだから、これでいいんだという深い安堵を感じました。
 そして津村からどうしても連想してしまうのが萱野葵で、萱野のどうしようもない儚さと比べれば、津村はすごく健康なので、軽く読みたいときは津村ですね。でも萱野の下り坂を転がっていく感じ、社会にどうしようもなくぶつかって、反抗して、消えていく姿のほうがどうしても心に残ってしまいます。恐らく自分の中にもそういう面があるのだと思いますが、自由というのは全く安全ではありません。特にこんな世の中では。

 というわけででもないのですが、お仕事の報告です。もうだいぶ発表から時間が経っているのですが・・

 去年の12月に刊行された早稲田文学冬号に寄稿しました。本邦恐らく初のポストフェミニズム特集第1回です。ナンシー・フレイザーの翻訳もさせてもらいました。また越智さんがジュディス・バトラーの翻訳も載せてらっしゃいます。他にも豪華な執筆陣です。

 その第2回目、早稲田文学春号には、アンジェラ・マクロビーの翻訳と解説を載せてもらいました。他も興味深い論考、翻訳載っています。amazon等でも買えると思います。

 

 上記には、鼎談でお話しさせていただき、寄稿もしました。この鼎談については、「3人が違うのが面白い」といろんな人から言っていただいていて、確かにそうだよな〜(😅)というか。。この特集号は、問題を指摘されている論考もあり、わたしもどう発言すべきか迷っているところです。SNSで主張するのが得意でないので、考えすぎて分からなくなっている状態です。

 コロナのため数少ない趣味であるホットヨガに行けなくなり、へこみ、ラブサイケデリコを20年ぶりに聞いてまだやってるんだと感動し、鶴舞のソラカフェさんのパティシェさんの笑顔に励まされ、という近況でした。




 








# by anti-phallus | 2020-03-13 13:12

映画「ロニートとエスティ 彼女たちの選択」

 久しぶりに映画を観に行けました。「ロニートとエスティ」です。以下ネタバレを含みますのでご注意。



 良かった、の一言に尽きます。実はちょうど先日、仕事で「アナ雪2」を観て、その評を某誌で語ったのですが、やっぱり辛口というか、距離をおいて観ざるをえなくて、単純に好きな映画を観るというのとは違うので、こういう入っていける作品は観た後の癒し感がものすごい(笑)。
 舞台はイギリスの厳格なユダヤ教コミュニティ。時代ははっきり描かれてなかったと思いますが現代か、少し前くらい?二人の女性が再会し、お互いへの「愛」を確認する。二人を引き裂いたのはユダヤ教の教えとそれに基づいた家族・地域社会。主人公ロニートの帰郷に揺れる人々。

 ユダヤ教というと、日本の私たちには遠い世界ですし、今の日本だったら二人のレズビアンももっと楽しく生きられるのではと思う人も多いのかもしれませんが、わたしにはすごく近く感じられました。
 ユダヤ教ではなくても、女性がレズビアンとして自由に生きることのできる社会はそんなに多くないと思います。レズビアンとして生きるということは、家父長制的な社会のルール、習慣、文化に逆らわなくてはならない。結婚せず、子どもを持たず生きることはそんなに簡単ではない。今の社会は、結婚と子育てによって親族を継承して、そのなかですべてのひとが生まれ、死んでいくことを原則としている。「結婚もせずに一人で生きるなんて寂しい」というセリフがロニートに投げかけられる場面がありますが、これは今の日本でも頻繁に絶え間なく語られ、繰り返されている言葉。現実には結婚や家族の中にも孤独や不安はあるわけですが、まるでそんなものはひとつもないように思わせるのが結婚と家族の制度。結婚や家族の制度の内と外で生の意味や質が変わるかのように私たちは思わされているし、じっさい制度がその認識を裏打ちしようとする。その仕組みによって引き裂かれたのがまさにロニートとエスティ。でも二人が楽しそうに歩く場面はとても安らかで美しかった。

 わたしがこれまで出会ったレズビアンたちは、男性(ヘテロだったりゲイだったり)と仮面夫婦をしていたり、子どもにはだまっていたり、一人で生きていたり、もちろんカップルで幸せに暮らしていたり、いろんなひとたちがいた。でも家族や親族と無縁で生きられる人はいない。それぞれの関わり方で向かっていた。男女で違和感なく結婚して家族を作ってという「普通の生き方」をしていれば考えなくて済むことだろう。
 もちろん「普通の生き方」はとてつもなく息苦しいからロニートは生きるために脱出したのだけれど。制度の外に何かを探しに行こうとするひとの強さとはかなさが心に残る。同時に、制度の中にいることの苦しさとたやすさも私たちは確認できる。そして、自分を抑圧する者への決して消えない愛情にもわたしたちは困惑する。

 二人を引き裂く位置の一つに置かれたのが幼馴染のドヴィッドですが、彼の描かれ方も素晴らしかった。ずるさと優しさ、真摯さ全てが端的に描かれていた。ラストの3人の抱擁は観客に希望を与えるものだった。

 最後に一つだけ。原題は「Disobedience」(反抗)ですが邦題は「ロニートとエスティ 彼女たちの選択」になっています。全く印象が違う(笑)。また「選択の自由」という言葉が作品中でもキーワードになっていますが、わたしは逆に、「選択の不可能性」を考えさせられた。3人とも、最後まで、選択しているようでできない苦しさと闘っていたと思う。誰しも、自分を隠して、だまして生きることはできないのではないだろうか。「本当の自分」のようなものを隠しても、必ずどこかで露見しているのではないだろうか。誰にも、自分にも気づかれなくても。どの道を進むのも自由なのだけれど、でも本当に選んでいるかというとそうでもないし、選ばされているのかもしれないし、どれかの道を選ばなくてはいけないことは決められてしまっている。
 ですが3人のその後の出会いは必ずもっと良いものになるだろうと思える、そんな映画でした。





 

# by anti-phallus | 2020-02-14 15:12 | シネマレビュー

フランスの買春禁止法(2016)が現場に与えた影響 「新廃止主義」とは

 友人の研究者が関わった調査を紹介します。セックス・ワークに関するものです。
 日本ではセックス・ワークの問題は、十分に共有されていません。ですがフランスなどの欧米はもちろん、アジアでも議論がたくさん行われ、運動も活発です。日本では90年代に論争が一部で活性化したものの、その後の深化が進んでいないのはとても残念です。また、現在、セックス・ワークを禁止しようとする動きが世界的に広がっており、日本でもその波が見られることをわたしは懸念しています。



 今回紹介するのは、2016年にフランスで買春禁止法が成立しましたが、それをめぐって現場にどのような影響があるかを調査した研究者の報告です。この法をめぐってフランスのマスコミ上で大きな議論が巻き起こり、またもちろん当事者の反対運動も行われました。
 ちなみに日本では既に売春防止法という法律があり、それによって売春は原則禁止されていますが、風俗営業法によって類似行為が事実上認められている状態です。私見ではこれは非常に国側が管理しやすい法構造だと思います。国側が管理しやすいということは、つまり働く側のコントロールできる余地は小さいということです。
 それからここでは詳論できませんが、多くの場合国の禁止政策をフェミニストが支持することが多くあります。しかし一部のフェミニストは現場の働く女性やマイノリティを支持していることも事実です。まずは、冷静な議論の場を確保することが必要です。その意味で、あまり知られていない情報提供という意味でここに抄訳します。
 ここで重要なのは、性的人道主義と新廃止主義(neo-abolitionism)という言葉です。これは、売買春を全面禁止しようとするこれまでの伝統的立場(廃止主義)に対して、近年フェミニズムの影響を経て力をもっている、売る側は非処罰化、買う側を厳罰化しようという立場です。その意味で「新廃止主義」とされていて、それは「女性の自由」や「平等」を掲げるので、一見「人道主義」のように見えます。売る側を非処罰化するのは良いことのようですが、じっさいにはそうではなく、ネガティブな影響が大きいことがこの調査からも分かってもらえるかと思います。
 

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フランスにおける「スウェーデン・モデル」の影響:予言された大災厄の物語
政策決定者が、助けようとしている当事者の声ではなく、偏見に導かれる時、何が起こるのか

2018年4月25日


2014年3月から2015年3月までの間、筆者の二人(MaiとGiametta)はフランスの500人の移民と非移民のセックスワーカーとともに、客を犯罪化することをねらった法案へのワーカーたちの意見を理解するために、調査を行なった。その法案は2014年と2015年に繰り返しフランス議会によって議論され、2016年4月に最終的に承認された(法番号2016-444)。この調査は、2014年1月から2015年12月にわたるエックス・マルセイユ大学地中海社会学研究所による「Emborders:実験的映画製作によって性的人道主義を問題化する」プロジェクトの一部である。このプロジェクトは参加型倫理アプローチを採用し、性産業で働く人々とセックスワーカーを代表し支援する組織が、会合やインタビュー素材の分析同様、リサーチ・クエスチョンの策定まで含め様々な段階で関与した。わたしたちは英国とフランスにおける移民セックスワーカーとセクシュアル・マイノリティの亡命希望者を対象にした人道主義的介入の効果を比較した。

「Emborders」の主要な目的は、フランスと英国における「性的人道主義」の結果を理解することであり、この概念はMaiによって展開され、トラフィッキングと搾取への推定される脆弱性にもとづいた政策形成と社会的介入によって移民セックスワーカーがどのように影響を受けるのかを分析するためのものである。きわめて重大なことに、性的人道主義の概念は新廃止主義言説のグローバルなヘゲモニーに関係している。それは売春をトラフィッキングとまとめ、売春を「男性権力のシステムの模範」として表現し、性的サービスへの要求を除去することによってその廃止を求める。この趨勢は「スウェーデン・モデル」のグローバルな反響によって最もよく例証されている。それは、セックスワークを非犯罪化し、性の購入を犯罪化することによって売春の需要を減らすことをねらう政策形成の枠組みであり、トラフィッキングと戦う理想的な手段とされている。

性的人道主義の概念は新廃止主義の言説のグローバルなヘゲモニーと関わっており、それは体系的に売春をトラフィッキングと一体化させる。

支配的な新廃止主義言説とそれから結果する政治的解決の主な問題の一つは、移民と非移民のセックスワーカーの優先性と必要性を無視することである。それは、貧困や国外追放の危険と同じように、増大した社会経済的脆弱性と搾取されやすさの一因となる。2014-15年に私たちが着手した調査のねらいは、セックスワークのこれらの主流の理解を超えて動くことであり、その代わりに、政府による客の犯罪化案についてフランスのセックスを売る人々の見方を中心にすることである。驚くことではないが、調査された移民・非移民のセックスワーカーの98%がそれ(訳注:客の犯罪化法案)に反対した。

移民・非移民を含めた回答者の多くが、2016年以前からこの問題がメディアで集中的に報道された結果、「法2016-444」が実施される以前からその法の結果、苦しめられ始めていることを報告した。早くも2014年からセックスワークの価格は下がり始め、多くの顧客が罰金を科される恐れからワーカーを呼ぶことをやめた。パリでエスコートとして働く27歳のフランス人女性の言葉は、より詳しくこのことを物語っている。

「近い将来犯罪化されるという恐れから、私の客の何人かはすでに離れていきました。最も尊敬できる人たちでした」(パリ、2014)

また、マルセイユの路上でセックスを得る40歳のトランスヴェスタイトの言葉には同じ不安が宿っている。

「もうすでに起こっています。テレビではいつもその法についてしゃべっていて、客は通り過ぎて、そしてまたゆっくり近づいてきます。1年前には40人の客がいたのに、今では20人。こんなことになるとは思ってもいなかった。前にはしなかったのに今は車に乗ります。客がいないんです。だからできることをしなければいけない。」(マルセイユ、2015)

この法律の予測された否定的影響は、2016年4月から2018年4月にかけてエレン・ルバイとCalogero GiametaとSEXHUMプロジェクトの共同で行われた新しい調査によって確定された。Maiの率いるSEXHUMプロジェクトは、Embordersプロジェクトの最初の重点を、性的人道主義政策と介入の結果をオーストラリア、フランス、ニュージーランド、米国で比較することによって拡大した。

この研究はセックスワーカーを支援する数名のNGO関係者によりフランスで開始され、その後二人の研究者に調査の遂行に協力するよう依頼された。(中略)

この法律の主な目的は、セックスワーカーの数を減らし、以前の公共空間での客引きの犯罪化を廃止することでセックスワーカーを守り、代わりに犯罪性を客に転換することである。しかしながら、この法はその意図された目的と反対のことを達成するに至った。インタビューされた人々の大多数は、客の犯罪化は、以前の客引きを禁じる法よりも自らの健康と安全に対して有害だと信じている。彼(女)らは、新しい法が実施されて以来、客の数が減ったため、自分の労働条件をコントロールしにくくなったと感じている。

そして多くの場合、セックスワーカーは、客を通報するよう警察から圧力を感じており、また非正規滞在の場合、従わないと国外退去の脅威も経験している。さらに、調査によれば、地域レベルではその法律は常には条例と日常的な身分確認を停止していないので(訳注 フランスでは地域によって警察の恣意的な身分確認が禁じられている)、その結果、セックスワーカーはそのいつもの職場や市の中心からより危険な孤立して知られていない場所へと追いやられることになってしまっている。

フランスにおけるセックスワーカーの数を減らすことに失敗している上に、その法律はセックスワーカーの安全と健康、そして全般的な生活条件に有害な影響を与えている。それは、セックスワーカーを、その身体的精神的健康にとって危険な意味を持つ、より有害な条件下で行動するよう仕向けている。その法律は、多くのセックスワーカー、とくにすでに経済的困難を経験している人々、街頭で働く移民女性を貧困化している。客の数の減少とセックスワーカー間の競争の激化により、セックスワークの相場は低下している。

客に罰金が科されるのを避けるため、客との交渉のプロセスは室内が増え、セックスワーカーが客を判断し、選択する余地が厳しく狭められている。セックスワーカーは以前なら断ったであろう客を受け入れざるをえなくさせられている。概して、客と交渉する時間が減ることは、セックスワーカーにとって状況をコントロールするのを難しくする。多くのインタビューにより、コンドームの使用が減っている問題と、HIV陽性の人々が治療を続けることが難しくなっている問題が明らかにされている。労働条件の悪化により作り出された負担もまた、アルコールやドラッグの摂取から鬱状態と希死念慮までの様々な心身相関の健康問題の根元にある。

質的調査の結果はまた、あらゆる種類の暴力的事例が増えていることと、貧困化、増大する健康上の危険と暴力にさらされることが有害な円環を形成していることを明らかにしている。もし、政治家がセックスワーカーたちに耳を傾け、2014-15年の調査結果を信頼し、「スウェーデン・モデル」の影響に関する既存の学問研究に依拠していれば、これらすべての否定的な力学は避けられただろう。彼(女)らは自らの性的人道主義、新廃止主義のアジェンダを優先した。彼(女)らが助けると称する人々の関心に向き合うのではなく。











# by anti-phallus | 2020-02-13 14:37 | セックス・ワーク

12/28栗田隆子さんとブックトークやります❤︎


 なんと栗田さんとブックトークをやらせてもらうことになりました。
 12/28(土)、年末です。下北沢の本屋B&Bさんです。
 楽しい会にできるといいなと思っています。ぜひご参加ください!
 ※ありがたいことに、追加販売になったそうです。





# by anti-phallus | 2019-11-25 16:43 | イベントの案内

スーザン・ファルーディ「家父長は失脚し、家父長制はかつてより強化されている」

またまた、どうしても訳したくてやってしまいました。スーザン・ファルーディ、『バックラッシュ』の著書で知られている方です。「#MeToo」などフェミニズムの盛り上がりの背後にあるものについて考察しています。

「susan faludi」の画像検索結果"




ファルーディが指摘しているフェミニズムの分断の歴史は、女性史(ジェンダー史)ではよく知られていることですが、フェミニズム一般の知識としてはあまり共有されていないように思います。フェミニズムのわかりやすい部分とそうでない部分の分断。「人はわかりやすいほうに流れるからね」というだけでは済まされない質の問題です。セックスワークの問題にも深く関わっています。
こういうフェミニズムの論客がいるというのはほんとうに良いことだなとうらやましくなってしまいます。
日本では、「#MeToo」が流行るや、何でもかんでもそれに含めようというような傾向が見られますが、そういうなりふり構わないやり方って、本当に政治的に有効なのでしょうか。運動を一過性の流行に終わらせないためにより強力な批評が必要なはずです。

ファルーディが取り上げているトランプの税制改革についても、日本の報道では大企業の立場に立って歓迎する向きばかりで、それが女性やマイノリティにどのような影響をもたらすか分析したものはあまりないようです。
日本でも、年金財源がアベノミクスで投資に使われしかも失敗して多額が失われたことなど報じられたでしょうか?(参考:https://www.excite.co.jp/news/article/Jisin_1713526/)年金受給者の多くは女性です。年金も立派に女性にとって(も)大問題です。医療制度も、長期入院を病院に拒否させる政策などは、単に公的支出を減らすため(参考:本田宏『誰が日本の医療を殺すのか』洋泉社新書、堤未果など)。それは結果的に家庭で女性に介護させることになるだけ。電気の民営化を市民自身が望んでいるでしょうか?生活の決定権がどんどん市民の手から離れて、負担ばかり押し付けられるようになっています。これらの動きは、ファルーディ的に「ネオリベラル家父長制」といってもいいでしょう。

英文は難解ではありませんが独特のレトリックがあり、1文わからないもの(Today we’re already seeing the long knives come out for sister travelers who have called for some due process and proportionality in confronting male harassers.)は割愛しました。どなたか分かればご教示を。
→コメントでアドバイスいただきました!ので加筆しました。ありがとうございます。(20200831)


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家父長は失脚し、家父長制はかつてより強化されている

2017/12/28

フェミニズムにとって、どんな苦悩をはらんだものであろうと、少なくともゲームは変更されたという感慨で2017年を締めくくるのは難しいことではない。

「女性の革命はここから」「家父長制を粉砕せよ」ソーシャル・メディアと主流メディアが報じている。「女性と男性の間の主人/奴隷関係の根本命令を告発する」「これは家父長制の終わりだ」(これは雑誌『Forbes』から!)「人間性の男性支配」ツイッターも新聞スタンドも街も一致している。今年はアメリカの性の政治における変化の瞬間を目にしているのだ。

もちろん、「#MeToo」現象の結果は有意義だ。ハーヴェイ・ワインスタインが去り、潜在的なワインスタインはその運を支配している女性たちにハラスメントする前に何度も考えるようになるだろうことは全く喜ばしいことだ。だが「家父長制の終焉」?周りを見渡してみよう。

今月、トランプ大統領は税制改革法案にサインしたが、これは女性に爆弾を投じるものだ。2017年税制改革法は、最も支援を必要とする女性たちを助ける免除を抜き去った。それは個人及び扶養者の課税控除廃止(低所得者、3分の2は女性にとっては大災害)を意味している。育児税額控除の失効と社会保障カードを持たない移民の子どもたちへの控除の廃止など。ACAの個人加入強制条項の停止。そして、民主党の反対によりなんとか避けられたが、学資積立優遇制度(529 plan)の様式における未出生子に「人格性」を認めること、これは合法的中絶に対して手榴弾を投下するものだ。

共和党の議員が莫大な連邦赤字を全額返済しようと計画していることは言うまでもなく、その法案は公的支援を切り縮めることで、再び女性に対して重大な危機を与える。メディケイド(国の出生数のほぼ半分と、家族計画の75%をカバーしている)と、メディケア(65歳以上の受益者の半分以上と、85歳以上の3分の2が女性)など。

そしてそれらすべてのトランプの侮辱的な政策に、以下を加えなければいけない。中絶に関するグローバル・ギャグ・ルールの復活、ジェンダーの賃金格差調査の停止、「公正な賃金と安全な職場環境に関する大統領令」の埋葬などなど。

私は困惑している。一握りのハーヴェイたちを追い払うと同時に、何百万もの女性たちから基本的な権利が失われているとしたら、私たちは本当に勝ったと言えるのだろうか?女性の革命の最中に、この女性の大惨事がどのように起きているのだろうか?その答えは、150年の間女性の抵抗につきまとってきた分裂にあるかもしれない。

アメリカの女性運動は歴史的に二つの形をとってきた。ひとつは、男性個人からの私たちに対する振る舞いや虐待のやり方に直接怒りを表明する。それは、可視的な顔のある明白な敵、私たちの弱さにつけこみ、私たちの屈辱を喜ぶ男性捕食者に対する正しい怒りだ。ワインスタイン氏の顔は現代の悪魔の顔であり、#MeToo運動はこのキャンプにまっすぐはまっている。もう一つの形式は、派手ではないが本質的だ。それは世界が構造的に女性に反して設計されるやり方と闘う。その闘いに結びつくことは、女性が十全に生を送れる財と力を持つ公平なシステムを築く困難で多義的な仕事である。

捕食者男性個人に対してラッパが鳴り響き、より広いジェンダーの平等への力は部分的で分かれているようだ、とくに今は。ドナルド・トランプが機械の名ばかりの頭である時、その機械自体がオレンジ色の髪をしていると想像することは魅惑的だ。またハーヴェイ・ワインスタインを負かすことは勝利であると。しかし家父長制は家父長よりも強大なのだ。

もちろん女性の抵抗の二つの形は交差する。フォード自動車世代の女性労働者たちに聞けば、職場のセクシュアル・ハラスメントが抑圧のシステムを補強していることを知っている。だが、家父長との闘いと家父長制との闘いは異なるところもある。前者は後者より人気を獲得しがちである。あらゆる軍事的扇動者が知っているように悪魔に対して結集させるのは容易である、ポピュリストのデマゴーグに対しても。平和に関する事柄で成し遂げるのは、難しいし興奮を与えない。宣戦布告はスリル満点だが、国家形成はそうではない。

フェミニズムにおいてこれがどのように結末を迎えるかというと19世紀以来明らかである。アメリカの女性たちが売買春と「白人奴隷」の少女に対して「社会浄化」運動を開始した時代である。19世紀における最も広い女性の動員は参政権のためではなかった。それは、禁酒法のため、悪魔のラムを飲み、酒場で給料を使い果たし、家に帰って妻に暴力をふるいレイプする悪魔のような男に対する道徳的改革運動だった。キリスト教婦人矯風会はすぐに米国最大の女性団体となった。素行の悪い男性へのあの戦争は、女性の平等のためのより広い闘いに影響を及ぼしたのだろうか?多くの点でyesだ。スーザン・B・アンソニー自身は禁酒運動活動家として一歩を踏み出した。酒の悪魔を厳しく非難した多くの女性は女性の参政権からは退いた。酔っ払い男と闘うことは、家庭と家族を守るという昔ながらの女性の範囲に収まった。女性の権利を新しい政治領域に広げることはラディカルだがすぐに実現はしない。矯風会の優れた第2代会長であるフランシス・ウイラードは、女性の投票を「家庭の保護」の問題として再定義することによって女性の参政権を支援するようついに組織を変えた。「市民である母」は、道徳的に優れた性として、家庭内と公共領域から社会的堕落を取り除くだろう。だが、ウイラードの道徳的努力を第二の運動の形に結びつける試み、とりわけ週労働時間数の短縮や生活賃金、ヘルスケアや刑務所改革のために「なんでもする」運動は、彼女の死とともに消え去り、会の幹部はより広い社会改革への支持を放棄した。

現代の挑戦は、アンソニーとウィラードが直面したものだ。男性の悪事への怒りを、女性の平等のための広範な運動に関連させるようにどのように持っていくか。あまりにもしばしば、世界の関心は前者にのみ占められるようだ。

数週間前、ピッツバーグの冷えた朝、チェルシー・エンゲルとリンジー・ディスラーは、税制改革法案に抗議するために、上院議員のパット・トゥーミーの地元事務所の建物の入り口に自らを縛り付けた。「状況は絶望的だ」とスカーフで体をドアに縛り付けたディスラーは語った。「何かしなければいけない」彼女は2ダースの見物人と数名の警察官に演説をしたが、8時30分までに、彼女たちは警察に収監された。彼女たちの抗議は2,3の地方誌以外にはほとんど記録されなかったが、その日のメディアは、ハラスメントで告発された最新のセレブ、ニューヨーク・シティ・バレエ団監督のピーター・マーティンスの報道であふれていた。

女性の抗議の二つの形は相互に対立して位置付けられることすらある。1980年代に、「反ポルノグラフィ戦争」キャンペーンが女性運動自体の内部で「セックス・ウォー」にダメージを与え出した。女性の平等に対するバックラッシュが力を蓄え、ロナルド・レーガンの政治が国の半分を不均衡に損なう政策を公式化しようとしていたまさにそのときに。言論の自由の制限を不安に思い、すべてのポルノグラフィ的な素材への非難を問おうとした「セックス・ポジティブ」のフェミニストたちは、反ポルノ派のフェミニストたちによって、その業界のサクラやヒモとラベルを貼られていることに気づいた。現在、男性のハラスメント加害者に立ち向かうさいに、正当な法手続きと均衡の取れた判決を求めてきた姉妹たちに対し、長い剣が突きつけられる状況を我々は目の当たりにしている。
同じ対立が昨年のヒラリー・クリントンの敗北で表面化した。あるフェミニスト志向の女性が、彼女は、女性のより大きな利益のために、国を運営する押し引きの技術を追求するには受け入れられない選択だと考えた。なぜなら彼女はすでにビル・クリントンと共にいて支えることによって妥協しているのだから。

このような分裂の背後にある力が手に負えないのは一つには、非常に心理的な問題だからだ。善と純潔のマントを正しいとすれば、悪魔と戦うのは天使の側に立つことになる。対照的に、政治的アリーナでは、天使の居場所はなく、勝利は遅く、しばしば不完全である。沈黙を破る人の勇気を否定せずに、その裏面に気づくことができる。とりわけ今は、その言葉はすぐにドラマティックな反応を、経済的法的構造に抗議するときよりもっと直接的な満足感を引き出せるということに。

トランプ氏の選挙以来、女性たちは両側との闘いに尽力してきた。「#MeToo」運動とともに、ワシントンのウイメンズ・マーチや、アラバマ民主党員を上院に送るための黒人女性有権者の運動や、驚くべき数の次期選挙の女性立候補者が事務所を探している。もし女性たちが、個人的な怒りの純粋な政治を社会構築の不純な政治に動力化することを妨げていた呪いを解けるなら、そのときは、我らがチェルシー・エンゲルたちとリンジー・ディスラーたちは、次の女優が不快なボス(のハラスメント)を暴露するのと同じくらいの注目を得ることになるだろう。

そのようなパラダイムの転換は、健康保険、賃金の平等、家族計画、性虐待など女性の権利のための次の闘いに勝つために決定的に重要だろう。危険は、女性活動家たちがその分断を乗り越えられないことである。そのような場合、#MeTooは家父長たちを倒し続ける一方で、家父長制は勝利し続けるだろう。







# by anti-phallus | 2019-11-25 15:27 | フェミニズム