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菊地夏野のブログ。こけしネコ。


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北原みのり『フェミの嫌われ方』

 『フェミの嫌われ方』を読んだ。

北原みのり『フェミの嫌われ方』_f0210120_1357397.jpg


 この方の本はわたしはまだ案外読んでいない。今まで2冊読んだくらい。
 最近、日本でフェミニズムってどう見られているか論じたものを読みたくて、これを選んだ次第。去年の警察の件も頭にあったのですが。

 読んでみたらタイトルに合うような内容とはちょっと違っていて、著者のフェミへの思いを綴った本だった。著者がどういう経験、どういう思いをして「フェミ」にたどり着いたのかが分かる。
 今の日本の文化のなかで、女性が軽んじられたり甘く見られていることへの違和感や怒りが率直に、素直に書かれていて、共感する人は多いのではないかと思う。確かにこういうストレートなフェミニズムの本って少ないんですよね。

 とくにつんくの『LOVE論』批判が印象に残った。男性の筆による保守的な恋愛論はありふれているものですが、やっぱり批判が少ない。正面切って批判するのはためらわれる力学がある。違和感を持っても、「勝手にして」と無視するのが多くの人の態度だろう。でもこういう言説は根強くはびこって世の中の恋愛秩序、ジェンダー秩序に影響を及ぼしていくからほんとうはあえて恥を忍んで批判しなくちゃいけない。そういう意味でエラいと思う。
# by anti-phallus | 2015-01-15 19:28 | ブックレビュー

フェミニズムへの批判

 フレイザーの議論に関連してまず一言書きたいと思います。わたしはこの主張が、現在のジェンダー・セクシュアリティを考える上で非常に重要な内容だと考えており、いくつかのところで紹介してきました。そのなかで思ったことについてです。
 このフレイザーの主張に対して、「フェミニズムを批判するもの」と捉え、否定的に対応された経験が少しありました。それは、ジェンダー・セクシュアリティに関連する研究者からです。
 近年、日本のフェミニズム研究が以前と比べて新しい議論が少なくなってきているのは、この反応に代表されるフェミニズム研究界の問題があると思います。
 まあもちろんこのフレイザーの論考を読んで下さる方の多くは研究界には直接縁のない方も多いでしょうから、こんなことを書くのは野暮なのですが、実は研究界に止まらない重要な問題点を含んでいると思うので書いておきます。

 それは、フェミニズムがひとつの「正義」や「権威」になってしまっているのではないかということです。フレイザーの議論は、フェミニズムがネオリベラリズムと共犯関係になってしまったのではないかという批判であり、それ自体はフェミニズムに対して非常に厳しく反省を迫るものです。しかしお読みいただければ分かるように、フレイザーは自身もその一翼を担ったものとして、自己反省的にあえて振り返っているのです。そしてその反省は、自己反省に止まらず、フェミニズムを歪めて内在化させた現在のネオリベラリズムの本質のありかにもつながるものであり、そういう意味では普遍的な側面をももつからこそ、このフレイザーの議論は多くの人の興味を呼ぶのです。

 では、どうしてこのようなフェミニズム批判がある人々にとっては受け入れがたいのかと考えると、フェミニズムという概念が、既にある、「正しい言説」であったり、「それを身につけている正しいフェミニスト」のものであるという了解が広がっているからではないでしょうか。そのような「正しい思想」「正しいひと」を批判するのは、「それ以外の間違ったもの」「敵」に利するものだからよくない、という認識図式があるように感じます。
 それは、研究界だけではなく、一般にも、勉強していないとフェミニストではないとか、フェミニストは学歴もキャリアも高い人、というイメージは広くあるのではないでしょうか。

 ですが、何人かのフェミニストが論じてきたように、フェミニズムとは「既にあるもの」というよりは、「いまだ言葉になっていないが、確かにどこかにあるような、多くの女性たち、あるいはそれ以外のものたちにも分け持たれている、性差別への怒り」だとわたしは考えています。ですが、世の中は性差別に根づいていますので、そのようなフェミニズムを自覚している人は少ないです。だから、もっとフェミニズムを多くの人に伝えていくことが大事なのです。
 そのために例えば研究はあるのだと思います。そして、今あるフェミニズムが完全ということはありえないのですから、時代に応じて、社会に応じて、フェミニズムは常に刷新されなければいけないでしょう。

 ある意味では、批判され続け、刷新していくことがフェミニズムの命なのです。
 日本のフェミニズムは残念ながら、(自覚的な)担い手の層は高齢化し、力を失っています。そんななかでアベノミクスのようなネオリベラリズムが大展開していますから、とにかく大変残念な状況です。フレイザーの議論は、アメリカ社会を念頭に置いたものですが、日本の状況にもよく当てはまるのは驚くくらいです。
 フェミニズムにとって今は冬、激寒の時代ですが、だからこそ、このようなフェミニズム批判を踏まえて、立て直す時期なのではないでしょうか。
# by anti-phallus | 2015-01-07 12:08 | フェミニズム

ナンシー・フレイザー「フェミニズムはどうして資本主義の侍女となってしまったのか」

 アメリカの社会主義フェミニスト、ナンシー・フレイザーの文章を訳したものを紹介します。
 これは「The Guardian」のサイトに寄稿されているものです。2013年10月に掲載されたようです。翻訳に間違いがあるかもしれません。ですが、非常に重要な議論をしています。多くのひとに読んでほしいと思うのでここに紹介します。
できるだけ原文にあたってもらうことをお勧めします。(→ココ

 ただこの主張自体は、以前からフレイザーが論じているもので、ここでは簡略化したものが寄稿されています。日本語に訳された論文もありますので、関心のある人は、CINIIで検索して読むといいと思います。
 なお、掲載にあたっては著者ご本人の承諾をいただきました。ありがとうございます。

※1/6 ご指摘をいただき、第4段落「with the benefit of hindsight」の訳を直しました。
※ほかにも読みやすいようにちょっとずつ直しています。
※1/10 最終段落中の「mantle」ですがコメントをいただいたので「底流」と直してみました。ただ、わたし自身はまだ迷いがあります。様々な問題や運動を覆う傘のようなイメージで「外套」という意味をこめたのかもしれないとも思うのですがどうなのでしょう。


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フェミニズムはどうして資本主義の侍女となってしまったのか−−そしてどのように再生できるか
資本主義の搾取への批判として開始された運動がその最新のネオリベラル局面にとって鍵となる発想を提供するようになってしまった

                            ナンシー・フレイザー

 わたしはフェミニストとして、女性解放のために闘うことで、より良い世界−−より平等で、公正で自由な−−を築いているといつも考えていた。だが最近、フェミニストたちによって開拓されたそのような理想がかなり違った結果をもたらしているのではないかと不安を感じ始めた。とくに、わたしたちの性差別批判が、いまや不平等と搾取の新しい形式のための正当化を供給しているのではないかと。

 運命の意外な展開により、女性解放のための運動は自由市場の社会を築くためのネオリベラルな努力との危険な結びつきに巻き込まれてしまったのではないかとわたしは恐れている。それは、かつてはラディカルな世界観の一部を構成したフェミニストの思考がますます個人主義的な用語によって表現されているさまを説明するだろう。かつてフェミニストがキャリア至上主義を促進する社会を批判したところで、それは今や女性に「がんばる」よう助言する。かつては社会的連帯を優先した運動が今や女性の起業を称揚する。かつては「ケア」や相互依存の価値を発見した世界観がいまや、個人の達成や能力主義を奨励する。

この変化の背後にあるのは、資本主義の性格の変貌だ。戦後の国家管理型資本主義は新しい形式の資本主義−−「組織されない」、グローバルな、ネオリベラリズム−−に道を譲った。第二波フェミニズムは前者への批判として現れたが、後者の侍女になってしまった。

結果論になるが、女性解放運動は同時に異なるふたつの可能な未来を指向していたということが分かる。第一のシナリオでは、ジェンダーの解放が参加型民主主義や社会的連帯と同時に実現する世界を予想した。第二のシナリオでは、新しい形式の自由主義、女性に男性同様の個人的自立のための資源や増大する選択肢、能力主義的達成を認めるようなものを約束した。この意味で第二波フェミニズムは両義的である。ふたつの異なる社会のビジョンのどちらにしても、ふたつの異なる歴史による彫琢に影響された。

フェミニズムの両義性は、近年、第二の個人的自由主義シナリオの観点に結実したように思われる。だがそれはわたしたちがネオリベラルな誘惑の受動的な犠牲者だったからではない。逆に、私たち自身が、みっつの重要な思考をこの展開に貢献したのである。

第1に寄与したのは、わたしたちの「家族賃金」批判だった。男性稼ぎ手と女性家庭責任者(の組み合わせ)という家族の理想は、国家管理型資本主義の中心にあった。この理想に対するフェミニストの批判は、今は「フレキシブル資本主義」の正当化に役立っている。結局、この形式の資本主義は女性の賃労働−−とりわけサービス産業と大規模生産産業における低賃金の仕事、若い単身女性によってのみではなく既婚女性や子どものいる女性によっても従事される、人種化された女性だけではなく、実質的にあらゆる国籍と民族の女性たちによる−−に依存している。女性が世界中の労働市場にあふれてくるにつれて、国家管理型資本主義の家族の理想はふたりの稼ぎ手という、より新しい近代的な規範−−フェミニズムに公認された−−に取って代わられている。

その新しい理想の下にある現実は、低下した賃金レベル、減少する雇用の保障、切り下げられた生活水準、世帯収入に必要な労働時間の急増、ダブルシフト(仕事のかけもち)の悪化−−ふたつどころかしばしば三つや四つのかけもち−−、貧困の悪化、女性が家計責任を持つ世帯での貧困の集中などであることを忘れてはいけない。ネオリベラリズムは女性のエンパワメントの語りを磨くことで、小石を宝石に見せてしまっている。フェミニストの家族賃金批判を搾取の正当化のために利用することで、女性の解放の夢を資本の蓄積のエンジンに結びつけているのだ。

フェミニズムはネオリベラルの精神に第二の貢献もなした。国家管理型資本主義の時期に、わたしたちはちょうど、階級の不平等にばかり傾注して、ドメスティック・バイオレンスや性的搾取、生殖/リプロダクションの抑圧などの「非経済的な」不公正が見えなくなっているような狭い政治的ビジョンを批判した。「経済主義」を批判して「個人的な事柄」を政治化することで、フェミニストはジェンダーの差異という文化的な構築を前提とする地位のヒエラルキーに挑戦できるように政治的課題を広げた。それは文化と経済の両方を横断する正義のための闘争を拡張する結果となるはずだった。だがじっさいには、「ジェンダー・アイデンティティ」のほうにばかり注目し、パンとバターにまつわる事柄を犠牲にする結果となった。より悪いことに、フェミニストは、何よりも社会的平等の記憶を全て抑圧したい、上昇するネオリベラリズムにあまりにぴったりと適合するアイデンティティ・ポリティクスと化してしまった。結果的に、わたしたちは、状況が政治経済の批判について再二重化された注目を必要としているまさにそのときに、文化的な性差別の批判を絶対化してしまった。

最後に、フェミニズムはネオリベラリズムに第3の思考を貢献した。福祉国家的パターナリズムに対する批判である。国家組織型資本主義の時期には明らかに進歩的だったが、その批判はその後、ネオリベラリズムによる「乳母的国家」に対する戦争と、より最近の皮肉なNGOの発想へ収斂した。その実例は、「マイクロクレジット」、グローバルな「南」における貧しい女性たちへの小さい銀行型融資のプログラムである。トップ・ダウンの官僚的な国家政策に対してエンパワーするボトムアップのオルタナティブと位置づけられ、マイクロクレジットは女性の貧困や従属へのフェミニストの処方箋として見なされている。しかしながら見逃されていることは、煩わしい同時発生物である。マイクロクレジットは、国家が貧困と闘うマクロ構造的努力、小規模な融資では代替できない努力を捨て去った時に急成長した。この場合でも、フェミニストの思考はネオリベラリズムに取って代わられた。市民をエンパワーするために国家権力を民主化することをもともと目指していた展望は、今や市場化と国家の削減を正当化するために利用されている。

これら全ての場合において、フェミニズムの両義性は(ネオ)リベラルな個人主義のために分解された。しかし他方で、連帯に向かうシナリオもまだ存在している。現在の危機は、その縫い目をもう一度拾い上げ、女性解放の夢を連帯社会のビジョンに再結合するチャンスを与えている。そのためには、フェミニストはネオリベラリズムとの危険な結合を断ち切り、私たち自身の目的のために三つの「貢献」を再主張する必要がある。

第一に、賃労働を脱中心化し、ケア労働やそれ以外のものを含む賃金化されない活動を尊重する生活様式に影響力をもたせることで、私たちの家族賃金批判とフレキシブルな資本主義の誤ったつながりを切断したい。第二に、男性中心的な文化的価値を前提とする地位秩序を変容させる闘いを、経済的公正のための闘いと統合することによって、私たちの経済主義批判からアイデンティティ・ポリティクスに至る道を崩壊させたい。最後に、公正のために資本を制御することを求められている公的権力を強化する手段として参加型民主主義という底流を再主張することによって、私たちの官僚制批判と自由市場原理主義の間のにせの絆を切断したい。
# by anti-phallus | 2015-01-05 17:07 | フェミニズム

ミソジニーの実例

こんなにもくだらない、女性の身体をあげつらったメディアが普通にあふれているのに、女性が女性の性器を表現したら逮捕、起訴する国って、どれだけ女性をバカにしてるのか。これがミソジニー(女性嫌悪)の実例です。あるコンビニで。


ミソジニーの実例_f0210120_1324220.jpg


結局この国は、女性が男の「欲望」みたいなものにしたがって可愛くしたり、たまにちょっと「色っぽく」してたりすれば、ご褒美を上げて「守って」やるよってそういう国だっていうことが今回のろくでなし子さんの事件ではよく分かる。

女性がそういう秩序に従わず、ちょっと自分で自分の身体を自律的にコントロールしようとするととたんに権力発動。
あまりに分かりやすい。

これはその他大勢のわたしたち女性への見せしめです。女はこの国の男性中心的秩序に従っておけ、さもなければ・・・という。みな逮捕されたり責められたり白い目で見られたりするのはごめんだから、おとなしくせざるを得ない。
今の日本は女性にとって恐怖と危険で満ちている。
# by anti-phallus | 2014-12-25 13:24 | つれづれ

ジェンダー・セクシュアリティの視点からレイシズムを考える

 先日11月23日に、ICU(国際基督教大学)のCGS(ジェンダー研究センター)でシンポジウムがありました。呼んでいただいてパネリストのお仕事をさせていただきました。「対立を語り直す」というタイトルで、下記のようなものでした。
ジェンダー・セクシュアリティの視点からレイシズムを考える_f0210120_18235551.png



 終わるまでとても緊張したのですが、振り返ってみるとずいぶんと重要な、深い企画だったと改めて思います。ちょっと驚くくらいに。
 そもそもの企画の発案が、最近のヘイト・スピーチの問題から発しています。街頭で、差別的なスピーチを叫び続ける集団と、それに対する「カウンター」のひとびとによる批判の行動。マスコミでも報じられているのでご存知の方も多いかと思いますが、一体この先どうなるか予断を許さない状況と言っていいでしょう。
 この企画はそのようななか、ヘイト・スピーチ現象を批判するさいに、ジェンダーやセクシュアリティの問題が抜け落ちているのではないかという問題意識から設定されました。
 ヘイト・スピーチがターゲットとしていることのひとつが、「慰安婦」問題を消し去ることですから、この指摘はもっともなことです。単に、ヘイト・スピーチを「レイシズム」と括ってしまうと、性暴力の問題が見えなくなってしまいます。これは非常に大きな問題です。

 企画では鄭暎惠(ちょんよんへ)さんが、ポスト・コロニアル・フェミニズムの可能性を話されて、私も改めてその必要を感じました。
 
 これまで、「慰安婦」問題はこのまま消えていってしまうのだろうかと漠然と不安に思っていましたが、最近の情勢を見るにつけ、おそらく決して消えはしないだろうと思うようになりました。ただし、正確に戦後責任の問題として政治的、社会的に認識されるまでは、幻影のように、ナショナリストが否定しても否定しきれない、亡霊のようにこの日本社会で残存し続けるのではないでしょうか。
 現在起きている「民主主義への嫌悪」。ものを考えるひとびとはこの現状から逃げることはできないでしょう。
# by anti-phallus | 2014-12-02 18:32 | 仕事