菊地夏野のブログ。こけしネコ。


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カテゴリ:フェミニズム( 26 )

大学の男女共同参画政策について

 この10年くらいずっと悩ましく思っていて、いつかちゃんと論じなきゃと考えてきたけれどもなかなかできていないという問題群の中に、標記のものがある。
 足元のことであり、しかもかなり複雑な意味合いを持っているものなので、論じるのも荷が重い。けれどもこのままだとするっと網を抜けてどんどん世の中に広まって埋め尽くしていくような怖さがある・・・・。
 この10年か20年くらいか、全国の大学ではどんどん男女共同参画政策が進められている。これは当初は、80年代頃からの大学における女性学やジェンダー論の興隆を受けて教員や市民の方々の草の根の努力から始まったところもある。だが、だんだんと国公立大学が法人化し、大学の貧困化が進み、一方で男女共同参画や女性研究者・女子学生支援に文科省や厚労省の予算が付き出した頃から、おかしくなっていった。初めは大学における女性研究者の比率の増加や、理系の女子学生の増加の推進から始まっただろうか。次に出産・子育てに従事している女性研究者の支援策が設置されるようになった。ちなみに、ここでいう女性研究者とは実質的に専任(常勤)の女性教員を指すことがほとんどだ。非常勤教員は利用できないことが多いし、そもそも制度設計が常勤の教員を念頭に置いてなされている。近年では、ワーク・ライフ・バランス政策とあいまって、「ワーキング・マザー」や「ワーキング・ファーザー」のロールモデル集なども作られているようだ。
 そして女性活躍推進法も混ざってきて、大企業から女性管理職を呼んで「女性の働き方・両立の仕方」を講演させたり、学生に指南したりという企画はどこの大学でも目白押しだろう。

 今まで問題を感じながらも、批判もしにくく、結果的に「スルー」してきた。しかし、止むことなく「ロールモデル」が掲げられるに及んで、もうガマンできない(笑)。あまりにうっとおしい・・・・。なんで「バリバリ働いて、成果もあげて、地位と名声もあって、そしてもちろん子どもも夫もいて、キラキラ輝いている女性」なんかをめざさなくてはいけないんだろうか・・・。確かに誰かがそういうあり方を目指して頑張るのはいいだろう。「女だから」大学院に入れなかったり、研究者になれないような状況よりはいいだろう。

 でも、かといって、誰もがそんな「キラキラ」を「モデル」としなくてはいけないのだろうか?そもそも大学とは、研究したり教育をしたりの場なのであって、それ以外の「家庭生活」や「私生活」の基準を教わるための場なのだろうか?研究・教育を中心とする大学という場で、人生について私生活について学ぶことはあっていいだろう。師や仲間から色んなことを教わることは得難いだろう。だが、大学が、教員や学生にある種の生き方を「推薦」したり評価したりすることがあっていいのだろうか?そういうことをやるとき、よほど配慮しないと必ず、その社会で「主流」の生き方の規範化の再生産になる。今は、「前向きに働いて成果を出して」「子育てもする」既婚女性と、それを支えるし当然収入も地位もある夫という組み合わせが「良い人生」だろう。仕事もパッとしないし恋愛にも恵まれないダメンズとか、仕事にも男にも興味ない女子とか、パートナーのいないレズビアンなんかはあまり想定されていない・・・。「活躍」したくないひとなんていないかのような言われ方。

 「活躍」という名の労働。そういうことなのだろう。

 そして怖いのは、こういう「活躍」言説がまるでフェミニズムのひとつでもあるかのような雰囲気。おそらく多くのフェミニスト(を自称する人)は、こういう批判に同意するだろう。でも表立って批判する動きは大きくない。活躍言説を批判するとまるでフェミニズムを批判しているかのように見られかねない難しさがあるから。でも批判しないと、フェミニズムはますます「お上の」意向みたいになってしまって、力を失っていくだろう。

 フェミニズムは誰かに「モデル」を指南したり、教えたりするものではない。むしろ世の中が女性に様々なモデルを押し付け、自由を奪っていることを気づかせ、そうではないひとりひとりの自由なありかたを尊重することを支えようとするもの。「活躍」なんてしたってしなくたっていい。できるときとそうでないときがある。上から言われる「活躍」ほど怖いものはない。そういう「活躍」をしていないと見なされる人、「普通」の女性たち、日の当たらないところにいるひとりひとりのためにあるのがフェミニズム、のはず。

 「男性活躍推進法」なんてありえないし、そんなのだったらみな笑うだろう。なのに女性の場合だけ、「良いこと」のようにされてしまうおかしさ。どれだけ女性がバカにされてるのかということに気づかないと。

 しっかし、こういう「正論」めいたことを言うと浮いてしまう世の中。今更感があるというか、みんな活躍なんかしたくないんだけどでもそんな本音はおいておいて、一億総活躍社会、という「ていに」しておいたほうが国的にいいよね、みたいな。やっぱり今はもうゆるい戦時中なんだろうかと思ってしまう。少なくとも戦争準備体制、ではある。これ以上乗せられないように、自分の正気は保っておかないと。









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by anti-phallus | 2016-12-22 20:10 | フェミニズム | Comments(0)

ナンシー・フレイザー インタビュー「クリントンはエリート女性に利するネオリベラル・フェミニズムの象徴」

フレイザーのインタビューを訳しました!スペイン語の評論サイト『CTXT』上に、2016年4月20日公開されたものです。原文は↓

 前にこのブログでご紹介したもの(ココ)は、フェミニズムの意味について論じられたものでしたが、こちらはもっと長く、テーマも広汎にわたっています。現在が主に承認の時代にあるというフレイザーの従来からの主旨に加えて、戦後からの世界的変化について分かりやすく論じている冒頭のところは、承認と分配の理論についてご存じない方にも取っ付きやすいと思います。そしてこのインタビューの意義のひとつは、承認と分配に加えて、最近導入している「Representation 表象/代表」の概念について説明している点です。

 それから、アイデンティティ・ポリティクスと承認の運動の違いについて話していて、そのなかで同性婚やLGBTの政治の意味、軍隊における同性愛の処遇について触れているあたりも非常に刺激的。

 そしてタイトルにもなっているアメリカ大統領選についての論評は、もっと早くにご紹介できたら・・・と悔やまれますが、今読んでも価値は大きいものと思います。クリントンがトランプに負けた後、新聞等で「ヒラリー敗北を惜しむ日本の女性たち」というような記事を載せていましたが、ヒラリーは「女性の味方」「女性の代表」なのでしょうか?フレイザーは、クリントンが「全ての女性の味方」ではないことをはっきり指摘しています。どうして日本のマスコミはこれくらいのことを理解できないのでしょうか・・・。その上で、トランプが支持を集めていたことについてより詳しい分析が欲しかったですね。このフレイザーの指摘を踏まえると、先の大統領選は「エリート女性のためのネオリベラル・フェミニズム」と大衆の味方のふりをした右翼ナショナリズムとの対決だっということになるでしょうか。


 全て含めて、非常に面白いインタビューでした。フレイザーさんの了解を得てここに公表できることを嬉しく思います。とはいえ訳は相変わらず粗いのでお許し下さい。誤訳等ありましたらお知らせください。付け加えますと、アイデンティティ・ポリティクスと承認の政治の峻別は難しいところだと思います。フレイザーのフェミニズムやLGBTの運動への評価は議論を呼ぶところですが、私たちにより大きい世界観で運動を評価すべきことを思い出させてくれるという意味で理解されてほしいです。


■■■■■■■■■


ナンシー・フレイザー(ボルティモア、1947)は、1960年代後半以来、フェミニストの闘いと批判理論の最前線に存在している。彼女のいう「ネオリベラル・フェミニズム」への批判や承認と再分配の理論は、社会的不平等を理解するために大きな影響を与えている。CTXTは彼女と、マンハッタンのニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチの哲学科にある彼女の研究室で会い、この時代におけるアイデンティティ・ポリティクスの優位性やバーニー・サンダース、ドナルド・トランプ、ヒラリー・クリントンの重要性、そしてなぜ彼女が最新作("Fortune of Feminism")において何が現代社会を病ませているかということと、治癒するための闘争はどこに注目すべきかということの両方を考察するために、第3の概念ーー「表象」を導入するよう求められていると感じているのかということについて話し合った。

─────15年前にあなたはヘーゲルから借りた用語、「承認」について、差異とアイデンティティの問いを理解するようになる時代のキーワードであるとしました。ヘーゲルはそれをどのように理解し、またなぜそれが顕著なのでしょうか

NF ヘーゲルにおいては本質的にふたつの行為者が相互に出会い、それぞれが主体です。ですが完全な主体になるためには、それぞれは他方から承認される必要があります。それぞれは他方を主体としてそれ自身の資格で認め、その資格は同時に平等であり、私と異なっています。もし双方の人々がそれを認められるなら、相互的な平等で対称的な承認の過程を経るでしょう。しかし、よく知られているように、主人と奴隷の弁証法において、彼らは相互に非常に非対称な、不平等な関係性、支配あるいは従属的な関係性で出会うのです。そして非互恵的な承認を得るでしょう。


─────なぜそれが2000年代初め以降流行したのでしょう?

NF それはわたしがポスト社会主義状況と呼んでいる時代と関係があります。配分的正義の問題が、圧倒的多数のマジョリティがもつ社会的闘争と対立の資源を組織化するヘゲモニーの能力を失った、戦後社会の歴史における一時期でした。この時点まで、戦後期において、この再分配のパラダイムは覇権的であり、ほとんどすべての社会的言説と対立はそれらの時代に組織化されました。このことは多くの事柄をより困難にしています。多くの主張が、分配の文法に合わないという理由で周縁へと格下げされました。基本的に、我々が後知恵でもって今わかることは、承認の政治の隆盛がネオリベラリズムの隆盛と同時に生じたということです。ネオリベラリズムは実質的に社会民主主義の想像力に置き換わり、平等主義的な配分的正義を攻撃し、すべての社会民主主義モデルは、完全に崩壊したとまではいかなくとも、少なくともすり切れ、その影響力を失い、政治的空間と言説を組織化する能力を失い、ある意味で様々な承認の主張と闘争に空間を開きました。


─────どのような例がありますか。

NF 1989年の共産主義とソビエト圏全体の崩壊のあと、私たちは何を得たでしょう?間もなく宗教対立や国家間対立が増えました。今私たちは承認の領域の中にいます。以前は、それらの主張は抑制され、除外されていました。そして分配の言説の共産主義のバージョンもありました。それは破壊されました。西洋ではそれは社会民主主義のヘゲモニーの喪失でした。ネオリベラリズムの隆盛とは別に、その一部分は1960年代から生まれた新しい社会運動に起きていることと関係があります。ニューレフトは、ラディカルな、反資本主義精神といっても良いものをもっており、再分配と承認の両方に、とてもラディカルな方法で焦点を当てました。ですが何十年か後、ニューレフトのある種のラディカルな反資本主義的精神が消え、残されたもの、新しい種類のフェミニズム、新しい種類の反レイシズム、LGBTの性の政治の運動などの運動の継承者たちは物事の政治経済面を無視しがちであり、私が地位や承認の観点で分析する問いに焦点を当てる傾向がありました。

─────あなたはそれらの問いをアイデンティティ・ポリティクスに結びつけました。どの程度までそれは否定的な意味合いがあるのですか。

NF 私が研究の中で試みたことの一部は、アイデンティティ・ポリティクスと承認の政治の性急な同一化を分離することでした。承認の政治は正義の合法的な局面であり、承認の不公正を乗り越えるための主張は重要であると言おうと努めてきました。それらは通俗的なマルクス主義がしたように、分配の主張へ単に還元されてはなりません。わたしは承認の主張の重要性や合法性、相対的自律性を守りたかったのです。ですが、それらを理解するためには一つの方法以外にもたくさんの方法があるということを示唆したかったのです。つまりそれは必ずしもアイデンティティ・ポリティクスの形式をとる必要はないと。じっさいしばしば、承認の主張はアイデンティティ・ポリティクスの形式をとります。これは私からみると不幸な事態です。それはあらゆる種類の問題を生み出し、承認のために闘うことを意味するもののアイデンティティ主義的でない思考を見いだせるならしばしばそのほうがよいのです。


─────それは何を意味しているのでしょうか?

NF フェミニズムのような運動が闘うべきものは、ある異なるアイデンティティや女性性の特質があり、それらは男性性と平等なのだから肯定的承認を必要としているというような考えのためではないのです。そうではなく私が言いたいのは、フェミニスト運動における承認の政治はジェンダーの事柄に結び付けられる地位の不平等の形式に対する闘争であるべきだということです。そしてそれは、これはそれがどうであれ「女性性」を再評価すべきかどうかということを開かれたままにしておきます。このようにわたしは承認の政治をアイデンティティ・ポリティクスから切り離そうと試みています。


─────振り返ると、もし誤った分析でしたら訂正して欲しいですが、アメリカ合衆国では結婚の平等や、黒人の大統領を冠するなど、可視性に関する事柄でも、承認に関して大きな進歩があったように思います。そちらにあまりに多くの強調がなされ、再分配の方にはあまりに少なかったのではないでしょうか?私たちは非常に不平等な時代に生きていて、より良い方向に行くようには思えません。

NF それは多い少ないの問題ではなく、均衡が存在しないという問題です。不均衡と一面性が存在しています。例えばゲイ・ムーブメントやLGBTの運動は、結婚の平等や軍隊へのアクセスに焦点を当てています。これらは今私が闘いを起こす場所のための第1の選択ではありません。ですが、その両方とも、面白いことに、分配的な要素をもっているのです。例えば軍は、大学の学費を得られる数少ないルートの一つであり、したがって経済的な利点がそこにはあるのです。また結婚する権利を得ることは、承認と同様に経済的社会的権利付与を得ます。


─────より望ましいと思うオルタナティブの道にはどのようなものがありえるでしょうか?

NF そうですね、わたしは基本的な社会的権利付与、結婚上の地位に関わらない個人の社会的権利を想像するための闘争が好ましいと思いますし、結婚しているかどうかを強調しない社会を選びたいと思います。「我々も結婚したい!」と叫ぶのではなく。医療や税やあらゆる種類の保障を、ただ人間であるだけで、この国に住んでいる市民、住民であるというだけで得たいとなぜ主張しないのでしょう?


─────部分的には再分配に関わる事柄でもあるのにそれらの運動は地位を強調します。それはなぜでしょう?

NF そうなのです。結婚の平等の事柄はそれ自身で、結婚している人としていない人その他の間に、不平等な地位の比較を導きます。わたしたちはそれを強化する必要はないのです。

─────2000年代初めに、あなたは「承認の問いは再分配の闘争を周辺化したり除外する」という「置き換え」の問題について書いていました。今やもうほとんど20年経ちました。この時代をどのように考えますか?

NF 少なくともアメリカでは社会的対立と主張形成の状況が、私が書いていた当時からはかなり異なっています。もっともドラマティックな実例は、現在の大統領の第一次選挙キャンペーンです。そこでは、一方に、「民主的社会主義者」であろうとするバーニー・サンダースがいて、分配に圧倒的に焦点化する明確な階級の線を根本的に押し出そうとしています。彼はまたあらゆる良質な進歩的な承認の闘争を支持していますが、実際に中心的に力を入れているのは、1%ほどの億万長者階級に対するこの問いです。


─────彼が第一に階級を強調することによって多くの支持を得られたことは驚きではありませんでしたか?
NF その通りです!信じられないほど驚きました。とても喜ばしいことですし、私はそれまで予見しませんでした。なにより、冷戦の終わりから大変遠くまで来たということを教えてくれました。社会主義という言葉を使うことができるという事実、その言葉が偏見をもたらしたり、赤狩りや狂気のようなものを触発しないということは興味深いことです。他方、ドナルド・トランプ側では、ある種の右翼の権威主義的国家主義的大衆主義があり、階級問題のようなものを呼び起こすかのようだが、排他的な、半ばレイシスト的で、確実に国家主義的な色合いに染めています。そしてこれら二つの姿は承認の政治において、その計画案と同様非常に激しく異なっているかのようですが、それらは双方とも分配の新しい特色を表現しています。私が90年代半ばにそれについて書いていた時、分配は周辺にあって、すべてのものは承認、承認、承認でした。もはやそういう状況ではないのです。承認は消えていませんし、消えるべきではありませんが、それは異なる種類のバランスの中にあるのです。

─────選挙について触れられましたが、民主党側の他の候補者、ヒラリー・クリントンについてはいかがですか。グロリア・スタイネムのような多くの第二波フェミニストは、彼女は女性でありフェミニストの候補者なのだから女性は彼女を支援すべきだと声高に主張しています。彼女はフェミニストの候補者なのでしょうか?

NF そうですね、私はそう思いません。ですが非常に興味深いことが進行しています。クリントンは長い間、献身的なフェミニストであり、彼女は女性と子どものための支援でキャリアを開始しました。彼女は「女性の権利は人権である」と国連で演説を行ったことでも有名ですし、妊娠中絶支持派であることは確かです。ですから、それらすべての事柄がこの種の承認の側に適合するなら、彼女はそちらに位置付けられるでしょうし、よりはっきりさせれば、サンダースよりもそちら側でしょう。ですが一方で、これはどんな種類のフェミニズムなのでしょう?クリントンはある種のネオリベラル・フェミニズムを体現しているのです。ガラスの天井を破り、中に入っていくことに焦点化するような。それは、すでに、政治や経済の序列を上昇するための文化や他の形式の資源を豊富に持っている、特権を持ち高学歴の女性たちを妨げる障壁を除去することを意味しています。これは、特権を持つ女性を主な受益者とするフェミニズムですが、彼女たちの上昇する能力は、ある意味で、すべてのケア・ワークを提供するこれもまた女性化された低収入で不安定でしばしば人種化されたサービス業の広大な蓄積に依存しているのです。そして同時に、ヒラリー・クリントンは彼女の夫同様に、金融の規制緩和によってウオール街に深く関わっており、従ってこれらすべての経済の新自由主義化に関与しているのです。したがって、サンダースが代表するような種類のフェミニズムは、すべての女性、貧しい女性、黒人女性、労働者階級の女性たちなどのためのフェミニズムになりうるより良い機会を持っているのです。そしてそれは私の考えるフェミニズムにも近いのです。


───── あなたは著書の中で、第3の概念を導入されました。そこでは承認と再分配については触れず、表象を提示しています。なぜそうする必要を感じたのでしょう?

NF 一方の経済的分配の問題とも他方での地位と承認の問題とも離れて、社会の根本的な局面として、政治的なもの自体に関わらなければならない他の問題群があるという考えをはっきりとした方法で主題化するためです。また私たちの時代においては、難民、亡命希望者、未登録者(訳注:非合法移民)の世界の中で誰が政治的地位を持つのかという問いすべては大変重要なものです。これは特に承認にも再分配にも関連せず、それらの交差物でもありえません。それは政治的な声を持つことについてでもあるのです。

───── それらの超越した境界線はどの程度までなのでしょう?

NF 政治的な声と誰がそれを持ち誰がもたないかということについて考えるとき、合衆国や他の既存の国民国家の限定的な政治的共同体についてのみではなく、より広く国際的で、トランスナショナルな、グローバルな文脈で考えるべきだと思います。国家が不平等に権力を与えられている世界の問題もあります。だから、あなたが例えばソマリアのような、失敗した国ではなくとも、巨大なグローバル権力の支配下にあったり、IMFなどのようなグローバルな金融機関の支配下にある非常に弱い国の市民であったなら、この巨大なレベルで、あなたの国内だけではなくそのような世界システムの中で取り組まなければならない大きな問題に政治的な声に関連して直面するのではないでしょうか。そしてそれらに到達する唯一の方法はこの表象の概念によってなのです。その考えは、正義の三つの局面、誤分配、誤承認、誤あるいは無表象または政治の問題の間違った枠組みの3つの異なる不正の形式について考えるということです。


─────そうしますとあなたはそれを社会運動や政治の観点でどのように分節化しますか。例えば私はヨーロッパについて考えていますが、政治的主体性をどのように分節化するかという問い、それはアイデンティティ・ポリティクスを確立し、あるいは取って代わることなしに起こり得るのか、という論争があります。あなたは表象やトランスナショナリティの概念を紹介しますが、グローバル化した世界の中で、アイデンティティを強調することなく、例えば表象を強調することで共同体の権力を築けるのでしょうか?それが起こり得ることをどのように提示しますか?

NF 例えば、EUの全体構造や問題は部分的には表象に関する問題だと思われます。ヨーロッパ中央銀行とグローバルな金融機関は現在、いわゆるトロイカの関係で、財政緊縮の遂行によって選挙を無効化できるような限りない権力を持っているという事実によってだけでも。彼らはギリシア人に、「われわれはあなたが誰に投票しようと気にしない。あなた方はそのような政策は実行できない」と言えるのです。ですから、EUがグローバルな金融秩序と交差するとき、その構造の中には、政治的権力と政治的声はどこにあるのかという基本的な問いが横たわっているのです。それは承認と分配の問題以上のものであり、さらにいえばそれらに切り替わって投射されるのです。より富裕な北の国々がPIGSと呼ばれる南の国々を怠惰で税金逃れだと見下しているヨーロッパでは、ある種の承認の政治が存在しているのですから。それはあまりになじみのある承認の物語です。しかしそれが本当に怖いのは、それがこの構造的な問題と交差するところで、そしてもちろん、それが民主的な声に対して抑制を強制するようなEU自体の創出に関係があるということです。















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by anti-phallus | 2016-11-29 20:00 | フェミニズム | Comments(0)

アメリカ大統領選についてフェミニストの立場から

アメリカの大統領選について、マスコミはもっぱらトランプ氏についてばかり報じていますが、フェミニズムの視点から見た論評を紹介します。
政治学者のジラー・アイゼンスタインの、the Feminist Wireというサイトへの寄稿です。(元記事はこちら
ヒラリーという女性の権利を主張する政治家の存在にどう対峙すべきか悩ましいフェミニズムの状況が見えてきます。
ちなみにフレイザーも、オバマとヒラリーの対決について、興味深い論評をしています(『正義の秤』第7章など)。
学歴の高いイデオロギー的なフェミニストや若者がオバマを支持したのに対して、学歴や階層の低い地方の女性たちがヒラリーを支持したと。そしてこの分裂を超えてフェミニストの連合を再生させるのが課題だと。

アイゼンスタインにしてもフレイザーにしてもこれだけしっかりした責任あるフェミニストがいるということに感謝の念をもちます。日本でもフェミニズムの視点からこういった言説を出していかないと。

文中に出てくる中絶の問題についてはこちらの記事が参考になります。
中絶の権利がどんどん死文化しつつある状況がわかりますが、日本では刑法堕胎罪にしても母体保護法にしてもなかなか議論にもならないのに中絶天国と言われるような状態。女性の権利を守るというのは本当に難しい。
抄訳ですし、著者の了解は取っていないことをご了承ください。
(特に最後のビヨンセのレモンのところ、訳しにくかったのでカットしてますが、うまく訳せる方いますか?)


++++++++++++++++++++++++++


「わたしたち」はthe WOMAN cardで遊ぶ用意ができた。でも反レイシスムのフェミニストはどうすべきだろうか?

わたしはこれを、大統領選に女性候補者がいるという事実をよろこんでいて、だがこの特定の候補者のフェミニズムの観念が好きではない多くの女性たちのために書く。わたしはまた、バーニーのキャンペーンを含むアクティビストのグループの多くを支持する者として、だがよりラディカルに反レイシストでフェミニストでありたいと欲する者としても書いている。わたしはまた、選挙という舞台が求めるべき民主主義をもたらすとは思えず、だがこの夢ーーー十全に人道的で、自由で、非帝国主義的で、反レイシストでフェミニスト的で、ジェンダーに基づかない世界ーーーのためにできる限りのことをしなければならないと考える人々のためにも書いている。

これは地獄から来た選挙だ!あからさまに人種差別主義で、ヘテロセクシストで、金持ちの頑固者が、合衆国で初めての女性の大統領候補者に狙い撃ちしている。そしてこの初の女性候補者は、大いに大衆的な、最初の白人男性、民主主義的な社会主義者に挑戦を受けている。

ヒラリー・クリントンはエリートでフェミニストの候補者とみられている。そしてバーニー・サンダースは進歩的で平等主義的な候補者とみられているが、彼は人種や性やジェンダーの平等については十分に発言していない。

これら候補者の誰も、十分に反レイシスト・反帝国主義的なフェミニストであるとはいえない。しかし、われわれはどちらか、あるいはこのぬかるみのなかにいることを選ぶよういわれている。ヒラリーは女性の「権利」は彼女のメッセージの核心だと考えているが、「権利」の言説は部分的で、帝国主義的で人種化されたままである。

女性の「権利」は十分ではない。女性は例えば中絶のような何かへの権利を持ちうるが、それを獲得するためのアクセスをもっていない。人は中絶への法的権利を持ちうるが、医学校がもう中絶の方法を教えていないなら、彼女はアクセスできないだろう。もしTRAP法が続けば、中絶のできる病院は中絶の権利を無意味なものと考えて閉鎖し続けるだろう。

ヒラリーの女性の権利のアジェンダは女性を男性と同等とみなしている。だがこれは、2016年においては問題がある。彼女はここでどの女性のことを考えているのか?我々すべてのことを考えているだろうか?そして私たちはどのような男性と同等であるべきなのだろうか?

わたしたちはいつもヒラリーがミソジニストに笑い者にされないようにするだろうが、それはわたしたちの多くにとってあまりに特権化されたフェミニズムを支持することとは異なる。バーニーは経済の不平等に完全に焦点化しており、残りはあとからついてくるだろうと考えている。だがはっきりとした反レイシストでフェミニスト的なアジェンダが自然と進展するだろうと信じるのは難しい。

反レイシストで反軍事主義者のフェミニストは、帝国主義やレイシズム、女性嫌悪、そしてヘテロセクシズムの深く結びついたシステムについてもっと聞く必要がある。ヒラリー、わたしたちは単にガラスの天井を割るだけではなく、すべての女性を地下室から解放し、そして地下室を壊す政策を求めている。そしてバーニー、わたしたちは女性、とくに有色女性が貧困層の中でも最下層であることの承認と救済を求めている。

反レイシストで反帝国主義的フェミニストは、人種とジェンダーの抑圧のつながりと重なりを考察しなければならない。白人の特権は、白人女性の生を強調し、他のすべての肌の色の女性たちを抹消する。ヒラリーとバーニーは白人とこの白人支配に苦しんでいるそれ以外の人々のあいだの特徴と差異を明確にし、救済策を探る必要がある。

そのような反レイシストのフェミニズムは、より包括的でラディカルな民主的実践を進める。思考を明確にしていくとより一層、それは包括的になっていく。普遍的になると包括的になるというよりは。誰も明確化から除外はされない。だから誰も排除されない。もし政策が妊娠中の女性に中絶によって妊娠を終わらせることを許すなら、誰もこの選択から排除されない。誰もそれを選ぶ必要はないが、その選択はまだ残っている。そして今日男性は選択肢を必要としないが、選択肢を持つ女性は彼を排除しない。その逆は真実ではない。

反動的な、リベラルな、あるいは単に沈黙させられたフェミニズムを超えて考えよう。

ネオリベラルフェミニズムと超軍事主義的フェミニズムを超えて考えよう。選択の法的支えに焦点化することで権力と特権の現存する構造を特権化する「権利」で定義されるフェミニズムを超えて。

そしてわたしたちは「フェミニスト」の選挙言説の討議とディスカッションをさらに開きたい。トランプのミソジニーでもヒラリーの(暗黙の)白人主義的ネオリベラルフェミニズムでも、バーニーの語られないフェミニズムも十分ではない。私たちは他の方法、第三の方法、いわゆる、私たちの望んでいる新しい人種とジェンダーの正義について考える方法が欲しい。

反レイシストで反帝国主義のフェミニストとしてわたしたちは、次のことに責任を持っている。賃金の平等、リプロダクティブ・ライツとその権利を行使できるアクセス、15ドルの最低賃金、有給の家族休暇、LGBTQの公正、すべての人のヘルスケア、すべての人が受けられる大学教育、気候変化との闘い、公平な移民と難民政策、人種の正義、警官の暴力と大量監禁の終了、先住民の権利、そしてどんな犠牲を払っても戦争を避けること。

わたしたちはビヨンセのフレーズに感謝する。
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by anti-phallus | 2016-05-31 17:24 | フェミニズム | Comments(0)

フェミニズムと美

 またよもやまですが。フェミニズムと美の関係は複雑で、フェミニズムに関心のある人からもそうでないひとからも「女性の美に対するフェミニズムの考え」をなにか固定的な内容として受け止めているように感じることがある。
 まあ代表的には、「フェミニズムは女性に美しさを求める社会を批判するものだから、フェミニストは外見など気にしてはいけない」というイメージ。こういうイメージが強くなると、フェミニストはスカートを否定するとか、美人が嫌いとかいう歪んだフェミニスト像が生まれることになる。また、フェミニズムを支持する立場の人自身がそういうイメージに縛られているように感じることもある。

 わたしにとってのフェミニズムはそういうものではないので、不思議だなといつも感じている。それで思ったのは、わたしの場合フェミニズムに入っていったのは、90年代の華やかだった頃のフェミニズム関連の文献からで、美をテーマにしたものと言えば例えば江原由美子さん編集の「フェミニズムの主張」シリーズ(勁草書房)とかからで、そんななかではミスコンや性の商品化なんかが賛否両方から喧々諤々と論じられていて、でも統一的な結論などは提示されていなかった。だから、そういう風に色んな立場から自由に議論する場がフェミニズムみたいなイメージを持っていたと思う。
 それは単に何でも議論すればいい場、という意味ではなくて、ジェンダーや性に関してはまず言葉にするのがはばかられる社会というものがあって、とくに女性が率直に性について語るのは今でも「恥」や何かのネガティブな評価を受けやすい。美や外見に対する強制力はとても強いものがあって、それを否定するのには勇気が要る。そんななかで、自分個人の感覚も含めて議論しても許される場、というのはたぶんフェミニズム以外にはないのではないだろうか。90年代よりも今はさらにそうだという気がする。

誰もが自分をありのままに認められたいと思っている一方で、そのためには「ああいう顔」「〇〇さんみたいな体」にならないとだめだという圧力も自分の中にある。フェミニズムに関心のある人だってこういう社会的圧力から完全に自由ではない。単に、この美に縛られた社会を否定するのではなく、そういう情けない自分も受け入れながら、本当に自分にとって望ましい美を考え探し続けていく。それをサポートするのがフェミニズムなんじゃないかなと思う今日この頃です。
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by anti-phallus | 2015-12-23 15:27 | フェミニズム | Comments(0)

ろくでなし子さんとフェミニズム

 遅ればせなのですが、ろくでなし子さんの活動への応援的なことを書きたいと思います。わたしが彼女の存在を知ったのは警察に逮捕される前後あたりでした。「ま◎こ」をかたどったアート作品を作っているということで、「え?日本にも今でもそんなことしてるひとがいるんだ〜」的な驚きを感じました。
 わたし自身は、アメリカのフェミニストアートのなかでそういう手法があるのは知っていましたし、日本のリブ運動の中でも「女性の健康」などをテーマにしたグループで同じような女性器への取り組みをされてるのに参加したこともありました。ですが今、しかも同世代で真正面から「ま◎こアート」に挑戦しているひとがいるとは!と感動。
 そして、彼女が逮捕されるなんて、フェミニズムへの弾圧!と考えました。
 ですが、あいかわらずの忙しさでほとんど何も支援できず。(余談ですがこの忙しさは本当に腹立たしい。やりたいことがなかなかできず、政治状況は悪化する一方で鬱々するばかり)そのうち無事?釈放され、活動再開されていて本当に良かったです。

 というところで、また問題は、ろくでなし子さんには色んなかたが応援しているようですが、わたしが思うのはフェミニズムからの応援がもっと必要だ!ということです。というのは、ろくでなし子さんの活動は、フェミニズムそのものだと思うからです。

 日本でま◎こはおとしめられています。本来は女性器は女性にとって大事な身体の要素のひとつであり、セクシュアリティを司るものですし、毎日の身体作用の要でもる子宮や卵巣などとつながってもいる。手や足が大事な身体の要素であるように、性器もひとりひとりが快く生きていくために大事にされるべきものです。
 ですが、まず名前を呼べない。マスメディア上では無論、ネット上でもそうだという指摘も見かけました。「ま◎こ」と書くとブログ停止になるとか?どうなんでしょう。。
 この状態は、女性の身体が他者に奪われているに近い状況を象徴しています。名前を呼べなかったら、ともだちとそれについて楽しく会話することもできないし、それについて正しい情報や知識を得ることもできない。PMSという月経困難症で悩む女性は多いですし、女性器に関する不調や病気にかかることも女性にとってそれほど珍しいことではない。婦人科にかかることでさえ恥ずかしいような空気はある。また、セックスについて話すこともしにくくなる。「ま◎こ」と公的な場面で言う女はさげすまれるから。
 何せそのことをろくでなし子さんの逮捕は余すところなく証明してくれました。

しかも!そういうふうに表の世界で口に出しにくい一方で、ポルノの世界、つまりアダルトビデオや官能小説(いまどきこういうジャンルがどれだけあるのかは知らないが)、アダルト動画、男性週刊誌等々では女性器をにおわせる表現があふれています。コンビニや街角の本屋に行けば、女性は目を背けざるを得ないアダルトコーナーがあちこちにあるのが日本の現状。
 これは何を意味しているか。あまりに日常化していて、誰も反対していないように見えるのでもうあえて考えられもしませんが、実はこれはいわゆる、「女性の身体が男性に支配されている」ということにほかなりません。ここでいう「男性」は個々の男性ひとりひとりではありません。男性中心社会と言えばいいでしょうか。
 女性の身体を特別視して、女性アナウンサーやアイドル,モデル等々のヌードを掲載して儲けている出版社・ビデオ会社、それを買って喜ぶ読者。男性中心的な性意識が資本と結びついて、女性の身体を支配しているのが今の現実です。
 女性の身体は何か「いやらしい」もの、オープンにしてはいけないもののように感じさせられてしまっているのです。
 
 女性の身体は「わいせつ」ではない、それがろくでなし子さんの活動から受け取るメッセージ。その活動、ま◎この表現で大事なポイントは、それが「セックス」とは別の文脈で表現されている点です。女性器は、落書きなどに現れているように、「性交」を意味するように使われることが多いです。性器はもちろん性交にも使われますが、女性の日常生活の中ではそれに止まるものではない。例えば生理や排泄など日々の健康に関わる機能で大活躍しています。もちろん妊娠・出産においても大事な部分。それを、セックス、しかも男性視線的なセックス観でばかり意味付けされている現社会での女性器観に、ろくでなし子さんの活動は挑戦している。これがフェミニズムでなくて何がフェミニズムといえるでしょうか。

 ろくでなし子さんへのフェミニズムからの支持が少ない一因に、「表現の自由」問題があるようです。表現の自由を支持する立場と、差別表現を規制することを重視する立場の対立ですね。わたしは、原則的には表現の自由は守られるべきと考えていますが、現状のポルノ産業のあまりの野放しぶりを看過するのもどうかな〜と迷っています。両者の中間あたりの立場はないものかと思っていますが、ともあれ女性からの性的な表現がもっともっと伸びてくるのが理想。女性が性的な表現をしにくい今の社会。どんどん色んな考えの女性が登場することで、自由派と規制派が対立して硬直してしまっている構図も変えられていくのではないでしょうか。


 最後に、ろくでなし子さんの活動は、「これからフェミニズムってどうなってしまうんだろう〜」とウツウツしているわたしに元気をくれました。フェミニズムはお勉強じゃない、ということを体現している意味でも大事だと思います。

※ある人からのアドバイスにより、検閲でブログ閉鎖されるのを避けるため、残念ながら伏せ字にしました。ああバカらしい。






 
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by anti-phallus | 2015-07-17 14:41 | フェミニズム | Comments(2)

フェミニズムへの批判

 フレイザーの議論に関連してまず一言書きたいと思います。わたしはこの主張が、現在のジェンダー・セクシュアリティを考える上で非常に重要な内容だと考えており、いくつかのところで紹介してきました。そのなかで思ったことについてです。
 このフレイザーの主張に対して、「フェミニズムを批判するもの」と捉え、否定的に対応された経験が少しありました。それは、ジェンダー・セクシュアリティに関連する研究者からです。
 近年、日本のフェミニズム研究が以前と比べて新しい議論が少なくなってきているのは、この反応に代表されるフェミニズム研究界の問題があると思います。
 まあもちろんこのフレイザーの論考を読んで下さる方の多くは研究界には直接縁のない方も多いでしょうから、こんなことを書くのは野暮なのですが、実は研究界に止まらない重要な問題点を含んでいると思うので書いておきます。

 それは、フェミニズムがひとつの「正義」や「権威」になってしまっているのではないかということです。フレイザーの議論は、フェミニズムがネオリベラリズムと共犯関係になってしまったのではないかという批判であり、それ自体はフェミニズムに対して非常に厳しく反省を迫るものです。しかしお読みいただければ分かるように、フレイザーは自身もその一翼を担ったものとして、自己反省的にあえて振り返っているのです。そしてその反省は、自己反省に止まらず、フェミニズムを歪めて内在化させた現在のネオリベラリズムの本質のありかにもつながるものであり、そういう意味では普遍的な側面をももつからこそ、このフレイザーの議論は多くの人の興味を呼ぶのです。

 では、どうしてこのようなフェミニズム批判がある人々にとっては受け入れがたいのかと考えると、フェミニズムという概念が、既にある、「正しい言説」であったり、「それを身につけている正しいフェミニスト」のものであるという了解が広がっているからではないでしょうか。そのような「正しい思想」「正しいひと」を批判するのは、「それ以外の間違ったもの」「敵」に利するものだからよくない、という認識図式があるように感じます。
 それは、研究界だけではなく、一般にも、勉強していないとフェミニストではないとか、フェミニストは学歴もキャリアも高い人、というイメージは広くあるのではないでしょうか。

 ですが、何人かのフェミニストが論じてきたように、フェミニズムとは「既にあるもの」というよりは、「いまだ言葉になっていないが、確かにどこかにあるような、多くの女性たち、あるいはそれ以外のものたちにも分け持たれている、性差別への怒り」だとわたしは考えています。ですが、世の中は性差別に根づいていますので、そのようなフェミニズムを自覚している人は少ないです。だから、もっとフェミニズムを多くの人に伝えていくことが大事なのです。
 そのために例えば研究はあるのだと思います。そして、今あるフェミニズムが完全ということはありえないのですから、時代に応じて、社会に応じて、フェミニズムは常に刷新されなければいけないでしょう。

 ある意味では、批判され続け、刷新していくことがフェミニズムの命なのです。
 日本のフェミニズムは残念ながら、(自覚的な)担い手の層は高齢化し、力を失っています。そんななかでアベノミクスのようなネオリベラリズムが大展開していますから、とにかく大変残念な状況です。フレイザーの議論は、アメリカ社会を念頭に置いたものですが、日本の状況にもよく当てはまるのは驚くくらいです。
 フェミニズムにとって今は冬、激寒の時代ですが、だからこそ、このようなフェミニズム批判を踏まえて、立て直す時期なのではないでしょうか。
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by anti-phallus | 2015-01-07 12:08 | フェミニズム | Comments(0)

ナンシー・フレイザー「フェミニズムはどうして資本主義の侍女となってしまったのか」

 アメリカの社会主義フェミニスト、ナンシー・フレイザーの文章を訳したものを紹介します。
 これは「The Guardian」のサイトに寄稿されているものです。2013年10月に掲載されたようです。翻訳に間違いがあるかもしれません。ですが、非常に重要な議論をしています。多くのひとに読んでほしいと思うのでここに紹介します。
できるだけ原文にあたってもらうことをお勧めします。(→ココ

 ただこの主張自体は、以前からフレイザーが論じているもので、ここでは簡略化したものが寄稿されています。日本語に訳された論文もありますので、関心のある人は、CINIIで検索して読むといいと思います。
 なお、掲載にあたっては著者ご本人の承諾をいただきました。ありがとうございます。

※1/6 ご指摘をいただき、第4段落「with the benefit of hindsight」の訳を直しました。
※ほかにも読みやすいようにちょっとずつ直しています。
※1/10 最終段落中の「mantle」ですがコメントをいただいたので「底流」と直してみました。ただ、わたし自身はまだ迷いがあります。様々な問題や運動を覆う傘のようなイメージで「外套」という意味をこめたのかもしれないとも思うのですがどうなのでしょう。


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フェミニズムはどうして資本主義の侍女となってしまったのか−−そしてどのように再生できるか
資本主義の搾取への批判として開始された運動がその最新のネオリベラル局面にとって鍵となる発想を提供するようになってしまった

                            ナンシー・フレイザー

 わたしはフェミニストとして、女性解放のために闘うことで、より良い世界−−より平等で、公正で自由な−−を築いているといつも考えていた。だが最近、フェミニストたちによって開拓されたそのような理想がかなり違った結果をもたらしているのではないかと不安を感じ始めた。とくに、わたしたちの性差別批判が、いまや不平等と搾取の新しい形式のための正当化を供給しているのではないかと。

 運命の意外な展開により、女性解放のための運動は自由市場の社会を築くためのネオリベラルな努力との危険な結びつきに巻き込まれてしまったのではないかとわたしは恐れている。それは、かつてはラディカルな世界観の一部を構成したフェミニストの思考がますます個人主義的な用語によって表現されているさまを説明するだろう。かつてフェミニストがキャリア至上主義を促進する社会を批判したところで、それは今や女性に「がんばる」よう助言する。かつては社会的連帯を優先した運動が今や女性の起業を称揚する。かつては「ケア」や相互依存の価値を発見した世界観がいまや、個人の達成や能力主義を奨励する。

この変化の背後にあるのは、資本主義の性格の変貌だ。戦後の国家管理型資本主義は新しい形式の資本主義−−「組織されない」、グローバルな、ネオリベラリズム−−に道を譲った。第二波フェミニズムは前者への批判として現れたが、後者の侍女になってしまった。

結果論になるが、女性解放運動は同時に異なるふたつの可能な未来を指向していたということが分かる。第一のシナリオでは、ジェンダーの解放が参加型民主主義や社会的連帯と同時に実現する世界を予想した。第二のシナリオでは、新しい形式の自由主義、女性に男性同様の個人的自立のための資源や増大する選択肢、能力主義的達成を認めるようなものを約束した。この意味で第二波フェミニズムは両義的である。ふたつの異なる社会のビジョンのどちらにしても、ふたつの異なる歴史による彫琢に影響された。

フェミニズムの両義性は、近年、第二の個人的自由主義シナリオの観点に結実したように思われる。だがそれはわたしたちがネオリベラルな誘惑の受動的な犠牲者だったからではない。逆に、私たち自身が、みっつの重要な思考をこの展開に貢献したのである。

第1に寄与したのは、わたしたちの「家族賃金」批判だった。男性稼ぎ手と女性家庭責任者(の組み合わせ)という家族の理想は、国家管理型資本主義の中心にあった。この理想に対するフェミニストの批判は、今は「フレキシブル資本主義」の正当化に役立っている。結局、この形式の資本主義は女性の賃労働−−とりわけサービス産業と大規模生産産業における低賃金の仕事、若い単身女性によってのみではなく既婚女性や子どものいる女性によっても従事される、人種化された女性だけではなく、実質的にあらゆる国籍と民族の女性たちによる−−に依存している。女性が世界中の労働市場にあふれてくるにつれて、国家管理型資本主義の家族の理想はふたりの稼ぎ手という、より新しい近代的な規範−−フェミニズムに公認された−−に取って代わられている。

その新しい理想の下にある現実は、低下した賃金レベル、減少する雇用の保障、切り下げられた生活水準、世帯収入に必要な労働時間の急増、ダブルシフト(仕事のかけもち)の悪化−−ふたつどころかしばしば三つや四つのかけもち−−、貧困の悪化、女性が家計責任を持つ世帯での貧困の集中などであることを忘れてはいけない。ネオリベラリズムは女性のエンパワメントの語りを磨くことで、小石を宝石に見せてしまっている。フェミニストの家族賃金批判を搾取の正当化のために利用することで、女性の解放の夢を資本の蓄積のエンジンに結びつけているのだ。

フェミニズムはネオリベラルの精神に第二の貢献もなした。国家管理型資本主義の時期に、わたしたちはちょうど、階級の不平等にばかり傾注して、ドメスティック・バイオレンスや性的搾取、生殖/リプロダクションの抑圧などの「非経済的な」不公正が見えなくなっているような狭い政治的ビジョンを批判した。「経済主義」を批判して「個人的な事柄」を政治化することで、フェミニストはジェンダーの差異という文化的な構築を前提とする地位のヒエラルキーに挑戦できるように政治的課題を広げた。それは文化と経済の両方を横断する正義のための闘争を拡張する結果となるはずだった。だがじっさいには、「ジェンダー・アイデンティティ」のほうにばかり注目し、パンとバターにまつわる事柄を犠牲にする結果となった。より悪いことに、フェミニストは、何よりも社会的平等の記憶を全て抑圧したい、上昇するネオリベラリズムにあまりにぴったりと適合するアイデンティティ・ポリティクスと化してしまった。結果的に、わたしたちは、状況が政治経済の批判について再二重化された注目を必要としているまさにそのときに、文化的な性差別の批判を絶対化してしまった。

最後に、フェミニズムはネオリベラリズムに第3の思考を貢献した。福祉国家的パターナリズムに対する批判である。国家組織型資本主義の時期には明らかに進歩的だったが、その批判はその後、ネオリベラリズムによる「乳母的国家」に対する戦争と、より最近の皮肉なNGOの発想へ収斂した。その実例は、「マイクロクレジット」、グローバルな「南」における貧しい女性たちへの小さい銀行型融資のプログラムである。トップ・ダウンの官僚的な国家政策に対してエンパワーするボトムアップのオルタナティブと位置づけられ、マイクロクレジットは女性の貧困や従属へのフェミニストの処方箋として見なされている。しかしながら見逃されていることは、煩わしい同時発生物である。マイクロクレジットは、国家が貧困と闘うマクロ構造的努力、小規模な融資では代替できない努力を捨て去った時に急成長した。この場合でも、フェミニストの思考はネオリベラリズムに取って代わられた。市民をエンパワーするために国家権力を民主化することをもともと目指していた展望は、今や市場化と国家の削減を正当化するために利用されている。

これら全ての場合において、フェミニズムの両義性は(ネオ)リベラルな個人主義のために分解された。しかし他方で、連帯に向かうシナリオもまだ存在している。現在の危機は、その縫い目をもう一度拾い上げ、女性解放の夢を連帯社会のビジョンに再結合するチャンスを与えている。そのためには、フェミニストはネオリベラリズムとの危険な結合を断ち切り、私たち自身の目的のために三つの「貢献」を再主張する必要がある。

第一に、賃労働を脱中心化し、ケア労働やそれ以外のものを含む賃金化されない活動を尊重する生活様式に影響力をもたせることで、私たちの家族賃金批判とフレキシブルな資本主義の誤ったつながりを切断したい。第二に、男性中心的な文化的価値を前提とする地位秩序を変容させる闘いを、経済的公正のための闘いと統合することによって、私たちの経済主義批判からアイデンティティ・ポリティクスに至る道を崩壊させたい。最後に、公正のために資本を制御することを求められている公的権力を強化する手段として参加型民主主義という底流を再主張することによって、私たちの官僚制批判と自由市場原理主義の間のにせの絆を切断したい。
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by anti-phallus | 2015-01-05 17:07 | フェミニズム | Comments(2)

アベ・・・ポスト・フェミニズム

 最近、モヤモヤ感が高まっている。原因は、政治です。もちろん仕事が忙しいとか、暑くなったり寒くなったりの気候だとか、そういう日常的なものもあるんだけど、それだけじゃなく、か、それよりも政治がほんとに鬱陶しい。

 例えば、安倍政権の女性政策。女性活躍推進法案とやらで、女性管理職の登用数値を企業に義務づけるとかつけないとかで、話題になっている。少し前には女性閣僚数が史上最多とかで、政権支持率がアップしたとかもあった。
 これは、政界や経済界としては当然の動きで、日本はどんどん労働力が少なくなる訳ですから、働ける誰かを持ってこなくてはいけない、と彼らは考える。そこで、外国人労働者はどうかと考えたが、外国人労働者に自由や権利を与えるという道は基本的にあり得ないから、少数のエリート外国人には道を開くが、それだけではとても足りない。ということで、とうとう女性に大々的に目をつけた訳です。
 ただそれだけの話。あくまで雇用政策、安く、効率よく働かせようというだけのことで、これは女性差別の解消にも、平等にも関係ないんです。日本の女性は日本語もしゃべれるし、黙ってよく働くから、もっと使おうかと彼らが考えただけで。
 もちろん女性を働かせたいということで、雇用条件や雇用環境を本当に変えて、どんな女性でも働きやすい雇用システムに変えるならば歓迎なわけです。総合職・一般職のコース別雇用制度をなくし、正規と非正規の格差もなくし、派遣も原則禁止するなど。男性の長時間労働も禁止し、法定休暇も増やすなど。
 ところが現政策は、それどころか、残業代ゼロ法案など、逆をいっています。
 雇用システムの女性差別性はそのままに、一部のばりばり働ける、上に行きたい女性労働者だけ取り立てようということです。

 この動きで、わたしがブルーなのは、政策の中身そのものはもちろんのこと、それ以上に、ジェンダーに関してどんどん誤解が広がることです。
 というのは、早速この前もある若い人が、この政策を「女性であるだけで昇進できる時代になった」と批判していました。このひとはとくにいわゆる「バックラッシャー」とかネトウヨとかではなく、ごく普通の、社会問題にもほどほどの関心をもっているひとです。この人が特別なわけではなく、報道だけ見ていると、こういう誤解を抱いても仕方ないわけです。新聞やマスコミは、女性労働の問題などよく分かっていない記者・ジャーナリストがほとんどで、政策の表面だけ見て、そのまま報じるだけですから。記事の最後に、多少憂慮しているような専門家のコメントを載せていても、記事全体の趣旨としてはよく分からない、結局は政策を後押しするような記事が多いです。
 こういう、ジェンダーの実態は伝えないままに、どんどん打ち出される法案や政策の良さげなイメージだけ広がっていくという状況は、男女共同参画推進法あたりから常態になっています。ジェンダー研究者や女性運動家も高齢化していっているので、適切に大きい声で批判する層も減っています。
 結果、「女性差別はなくなった」「男女は平等、どころか女性が優遇されている」というイメージが広がっているのです。

 わたしはこの状況を日本版「ポスト・フェミニズム」だと見ています。ポスト・フェミニズムというのは「フェミニズムは終わった」とする社会の風潮のもと、能力主義・エリート主義が女性の中に強化されていき、男女格差に加え女性間格差も拡大する社会の様子を示しています。イギリスやアメリカで議論されている問題ですが、日本ではあまり知られていません。

 サッチャーやブッシュ/クリントンあたりから英米ではどんどん進んだ状況ですが、日本では、2000年代以降、小泉や安倍のあたりから本格化していっています。
 一番の問題は、こういうポスト・フェミニズム的状況がある、これを変えなくてはいけないということを主張する声が少ない、ほとんどないことです。わたし自身が、色んなことに忙殺されて、なかなかできていない・・・。
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by anti-phallus | 2014-09-29 10:40 | フェミニズム | Comments(0)

家事ハラの誤用

 やっと前期授業期間が終わり、ほっとひといきつけそうです。最近全然書けていないので色々書きたいところ。
 まず、昨日発見して、驚いた事件。家事ハラスメントという言葉についてです。
 この言葉はそもそもは竹信三恵子さんという研究者、ジャーナリストの方が岩波新書『家事労働ハラスメント』で提起したもので、女性に家事を押し付ける今の社会のあり方を批判したものです。
 それが、旭化成ホームズ「共働き家族研究所」というところの行った調査で、全く逆の意味、「妻が夫の家事にダメ出しをすること」と定義されてしまっています。この研究所はムービーも公開していて、見てみたところかなりびっくりしました。これって、女性のみならず、男性に対しても失礼な内容ではないでしょうか。夫をまるで幼稚な子ども扱い・・・しかも東京の電車の吊り広告で同じメッセージを大展開している模様。


 動画の方も是非見てみて下さい。不快な気分になるかもしれませんが・・・
 これは近年続いている、一連のフェミニズムへの逆流現象だと思います。バックラッシュとはもはや言えない、もっと構造的な。ひとつひとつ声を上げていかないといけませんね。


 竹信さんが研究所に対して質問状を出されましたので掲載しておきます。

++++++++++++++++++


旭化成ホームズ株式会社「共働き家族研究所」御中

「妻の家事ハラ」実態調査についての抗議・要請書
        2014年7月24日 和光大学教授・ジャーナリスト 竹信三恵子

 7月14日付の御社の「妻の家事ハラ実態調査」についてのニュースリリースと再現ムービーを拝見しました。ここでは、「夫の家事協力に対する妻のダメ出し行為」を「家事ハラ」と定義づけるとされています。このような恣意的な定義づけによる誤用、捻じ曲げに、この言葉の創設者として困惑しています。
 「家事ハラ」は2013年10月に私が出版した『家事労働ハラスメント~生きづらさの根にあるもの』(岩波新書)の中で創出した造語です。ここでは「家事ハラ」を、家事労働の蔑視・無視・排除といった嫌がらせ(ハラスメント)によって、これを担う人々(主に女性)に大きな不利益をもたらしている社会システムの歪みを取り上げ、「家事ハラ」によって経済力を持ちにくい立場に置かれたことが女性の貧困の増加を招いていること、男性もまた、家事労働という生にかかわる労働から排除され、ワーク・ライフ・バランスを欠いた「働く機械」として生きることを余儀なくされていることを指摘しました。そして、女性が抱え込まされている家事労働を、①企業の労働時間短縮、②行政の社会サービスの充実、③労働時間の短縮
による男性の家事分担という3つの関係者によって再分担し、女性が外で働く時間を生み出すことで、二人働きによる新しい豊かさを生み出す政策が必要であることを提案しています。
 ところが、御社の誤用によって、このような「家事ハラ」の意味は大きく損なわれました。女性からは「家事のやり方を注意したくらいでハラスメント扱いする不愉快な言葉」と反発が起き、「家事のやり方をとがめるくらいなら家事を頼むな」という男性の反発も誘発し、そんな不毛な紛争の只中に、この言葉は投げ込まれることになってしまったのです。

 その結果、著者としての私がこうむった実害は、下記のようなものです。
1.御社のような大手企業の大量宣伝を通じて「家事ハラ」の意味が本来のものと全く逆のものとして社会に流布し、著書のイメージが完全に破壊されたこと。

2.メッセージを届けようと想定していた読者層がこの言葉に嫌悪感を抱くようになり、著書の普及が大きく阻害されかねないこと。

3.人々が気づいていなかった現象に新しい名前(たとえば、セクハラやDVなど)をつけることで、その問題点を見えるものにするという社会改革の試みが、勝手な言葉の再定義によって頓挫させられようとしていること。

このような深刻な実害を及ぼした御社の誤用に強く抗議するとともに、そのような行為がなぜ生まれたのかの経緯を説明していただき、かつ、被った実害を軽減する措置を要請します。お願いしたい措置は、別紙の通りです。


(別紙)
旭化成ホームズにお願いしたい措置
                              2014年7月24日 
和光大学教授 竹信三恵子

今回の事態を収拾し、竹信が受けた被害を救済するため、下記のような対応をお願いします。

①中央線などに旭化成ホームズが張り出した車内広告のすべてに、家事ハラの本来の定義と本のPRを盛り込んだステッカーを目立つように張り込むこと
②ホームページにも同様のものを目立つように掲載すること
③正しい家事ハラの意味を伝える再現ムービーを制作し、これもホームページで公開すること
④謝罪文の提出
⑤なぜこのような誤用が生まれたのかについての事実経過の文書による提出

<参考:フェイスブックの投稿から>
・今、乗っている中央線の車内広告は、すべて、“妻の”家事ハラ白書と、題されたヘーベルハウス 共働き家族研究所のポスターです。(いわゆる一本買いです)ここで言う 「家事ハラ」とは、夫のやった家事に妻がダメ出しや文句を言うことで、それにより、夫は家事から遠ざけられてしまうのだ、と言うものです。竹信 三恵子さんが、岩波新書で、書かれた家事ハラス メントとは、全く異なるものです。しかし、これはキャンペーンだと思います。竹信さんの産み出された家事ハラを消すための。どこの広告代理店かは分かりませんが、大大キャンペーンです。悔しいです。(女性)

・私は家事ハラの本質をそらして見失わさせ、保守的な家族観やさらには家長制復活のためのキャンペーンではと感じましたが。みなさんはどう思います?(男性)

・家事を夫が「手伝う」って感覚自体にまず違和感。そんなので調査したものなどダメですよね!!(女性)


+++++++++++++引用終わり++++++++++++++++++







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by anti-phallus | 2014-07-25 16:27 | フェミニズム | Comments(0)

補足/結婚について

 昨日、あれだけ書いて力尽きたのですがまだ言い足りなかった(笑)。
 上野氏の記事を読み返しててだんだんと怒りを感じてきたのは、後半の、結婚=幸せ論。ユニクロとか鍋とかに目を奪われがちですが、より深い問題は、上野氏がここで結婚カップルをはっきりと推奨していることです。
 昨日も触れましたがこれまで上野氏は結婚制度を批判し、結婚しているフェミニストも批判していました。ところがこの記事では、若い女性に、結婚することを勧めている。

引用:
「女の分断の第1段階が「正規と非正規」だったとすれば、第2段階は「非婚と既婚」になるでしょう。少ない年収だって持ち寄れば倍になる。カップルとシングルの所得格差が拡大します。/ちなみにヨーロッパでは、男性が結婚相手を選ぶ際、稼得能力の高い女性を選ぶという傾向がはっきりと出ています。日本でも男性の平均所得は減少していますから、結婚相手に「キミは働かなくていいよ」なんて言わなくなるはずです。つまり、稼げない女は、結婚相手としても選ばれなくなる可能性が高い。」

 このへんほんとうにひどい。結局この記事は、女性たちに、「男性から結婚相手として選んでもらうために」稼ぐ力を身につけなさいと言っているのです!

 私が初めこの記事のタイトルを見た時、割と普通のこと言ってるなーと思いました。というのは、上野世代の女性運動に関わっている方々は、とにかく色々差別があっても、自分は(往々にして正社員として)働き続けてきたことに誇りを持っていることが多い。闘いながらも、職場を辞めずに働き続けてきたことを胸を張って語る。そして、若い女性たちにもそうすることをアドバイスすることが多々あります。だから、これまであまりそういうことを言っていなかった上野氏が同世代の女性活動家たちと同じようなこと言ってるな〜と思ったのです。
 ですが、よく読むとその働くことも、どうも男性に選んでもらうため、という目論みがあるよう。これは、女性運動に関わっている人たちはさすがにあまり言わない。は???なぜそんなお見合いを勧める親戚のおばちゃん(偏見)のようなことを・・・・戦略といってもほどがある。単なる未来予測として家族社会学者がこういうことを言うことはありますが、記事全体を読むとそれにとどまらないアドバイスとして読めてくる。これがジェンダー研究やフェミニストの考えだともし誤解されたら私は本当に嫌です。上野氏は一体どうしちゃったのか。

 結婚制度というものは、女性の賃金を安くしている根本のものです。たいていの経営者は言います、「きみは夫に養ってもらってるんだから給料が安くても/クビにされてもいいだろ」と。そして女性たち自身も、家事や子育てを抱え、「男性=正社員並みに」働けるわけがない。一般職で頑張っても、男性と同じ土俵には乗れない。そうして女性たちは辞めていき、子どもの手が離れるとやっとパートとして「復帰」するのです。
 また、結婚制度の精神への影響も計り知れない。こうやって、男がいないと暮らせないと思わされた女性たちは、常に男性からどう見られるか、結婚出来るかを気にし、女一人で、あるいは女性同士で生きていくなんてできない、さみしい、無理と思わされていきます。その現代版が「女子力」言説です。女子力のゴールは「幸せな結婚」。
 そして、結婚制度と切り離せないのがDV。どんな関係であれ権力関係のあるところにはハラスメントや暴力が発生する可能性が高まります。一方が他方を養うような関係性だったら、DVの発生するリスクは高まります。
 上野氏が推奨しているお互い年収300万円カップルだったらどうでしょう。その提案の中には、男女の賃金格差や労働のジェンダー構造を変革するという側面はなかったから、平均賃金が女性は男性の半分くらいの今の日本の格差のままだと思われるので、年収300万円同士のカップルでは、男性は妻と同じ収入であることを気にしている可能性が高い。社会が不平等なままですから、個人の意識もそうならざるを得ない。よほどの人物でなければ。そうすると妻の方はこれ以上自分の収入を上げて夫を脅かさないように気を遣うでしょう。夫はユニクロ、自分はしまむら、という見えない気遣いをせざるを得ないかもしれない。こういうぴりぴりした空気を上野氏は幸せといっているのか。
 上野氏の推奨している幸せ像は現実的ではないんですよね、こう考えると。

 ともあれ、結婚がジェンダー論の目標ではないということは少なくとも言っておきます。この記事が、まとめたライターのために、上野氏が話したこととだいぶ違っているならいいのですが。





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by anti-phallus | 2014-03-04 10:40 | フェミニズム | Comments(0)