菊地夏野のブログ。こけしネコ。


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2018年の3月11日に

今年の3.11には地元でデモに参加できました。
2011以来、3月11日になるとどうもウツになって、1日の終わりには「無事過ぎたか・・」と妙な安堵感を感じるというのを経験してきました。自分にとってあの日以来世界が大きく変わったように思います。あれから7年間、自分はどう過ごしてきたのか考えてみると、最初の何年間かはなんとか仕事と生活をこなしてきたという感じでしょうか。事故の直後はもうてんやわんやで、連絡の取れなくなった家族の心配や、事故がどうなるのか分からず無我夢中でした。でも名古屋や関西のひとびと(の多く)はそれほどいつもと変わらないようで、4月には普通に大学の授業も始まるし、東北出身の自分との差を感じる時期でした。

菅元首相の脱(正確には減)原発宣言は嬉しい出来事でした。その後はどんどんそれを裏切る政治の流れの中で、自分の仕事も忙しくなり、震災と原発のことに向き合えない罪悪感が募るばかりでした。最近やっと心を決して少しでもできることをしようとしています。向き合うのはしんどいと感じてきましたが、逆に向き合ってしまえば心は軽くなるものですね。まあ元気のないときは向き合ってもつらいだけだからやめたほうがいいですけどね。

向き合うといってもとりあえず調べてるだけですが、これがけっこう大変です。福島原発が今どうなっているかということも公表されていないからよく分からないし、放射能汚染の実態も同じ。というか、私が一番怖いのは、この何も公表されていない、という感覚なんですね。大規模な原発事故は、世界でチェルノブイリに続く2回目で未知の領域ですから、誰も分かっていないわけです。放射能が人体にどういう影響を及ぼすのか、明確なデータはありません。ですがだからこそ、この事故の影響を最大限漏らさず正確に調べ続け、対策を練り続けることが必要なはずなのに、政府や関連学者は「影響は小さい」と繰り返して調査すらもう終わらせようとしている様子。

「国家規模」の隠蔽工作、というと大げさで嫌ですがそれに近い状況になってきているような・・・。




2016年時点のもので、動植物への被曝の影響を、チェルノブイリと比較しながら紹介しています。人間への影響は分からないとしていますが、動植物にこんなに影響が出ているのに、人間に対して無害だということはあり得ないでしょう。
こういう番組を見ることすらとても怖い。だから多くの人々は目を背けてしまうでしょう。でも完全に逃げることはできないでしょう。

被曝を語るときによく言われるのが子どもを守る、というスローガンです。ですが、守られるべきは本当には子どもだけではないでしょう。被曝は全ての生き物にとって有害です。大人だろうと誰であろうと。ただ、影響が出やすいのが子どもだから、子どもをとくに守ろうとするのは間違っていません。当然のことです。ですがそれを聞くたびに、違和感があり・・。わたしたちは、自分自身の問題として被曝を拒否すべきなのではないでしょうか。私たち自身が危ないのです。年寄りなら被曝を引き受けるべきだという議論がありますが、それは暴論ではないでしょうか、私たち自身の問題として被曝を拒否しなければ、子どもも守れないのではないかと思うのです。

フクシマの事故後、他の国の動きを見ると、ドイツが脱原発へ向かったり、ベトナムが日本からの原発輸入を断ったりしているものの、チェルノイブイリを経験したロシアなど旧ソ連諸国がやめるどころかさらに原発拡大を進めていることを知ると、恐ろしくなります。一人ひとりの健康や安全よりも、国と大企業の権力と利益のほうが優先される現実。


この規模の大きい原発という問題に立ち向かうにはあまりに無力感を感じる。でも生きていく以上、自分で納得のいくことをしないと辛いのも事実。どうなるのか分かりませんが、考えることだけは少なくともしていこうと思います。







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# by anti-phallus | 2018-04-12 17:00 | 原発/震災 | Comments(0)

#MeToo

#MeTooの動きから目を離せない。アメリカ映画界から始まった動きが各界に広がっている。政界に関する報道もあります(朝日の記事)。

 アリッサ・ミラノ始めハリウッドの有名女優がそろって参加しているから、日本の若い人々にもそれなりの大きなインパクトがあるものでしょう。しかもカトリーヌ・ドヌーブやブリジッド・バルドーら往年のフランス・スターまで参戦した。まあドヌーブやBBと言っても今や知る人しか知らないかもしれないけど、わたしはなぜか高校・学生時代少しフランス映画にはまっていた(当時目新しかったBSチャンネルでしょっちゅう放映されてた)ので、なつかしかった。ドヌーブらはMeTooの運動に対して反対したのですが、その後、批判を受けてセクハラ被害者に対して謝罪したようです。ドヌーブとしては、性暴力・性被害は当然良くないが、映画を始め表現に対する魔女狩りのような規制には反対だ、と自分の立場を明確にしました。




 というわけで、この米仏の論争は、セクハラ・性暴力自体については良くないことは当然だという共通理解がある程度できたけど、映画や美術界における性表現や「ジェンダー問題」についてはまだ争点となっているようです。例えば、女性の裸が描かれた絵をイギリスの美術館が撤去したという件などがよく報じられています。



 こちらの映画や美術に関する問題については、日本の反応を見ても撤去に否定的なものが多いようです。ですが、美術作品といえば女性の裸のオンパレードなのは誰でも知っていることで、そこにどのようなジェンダーをめぐるポリティクスが働いているか、考えてみることは大切。美術館だけでなく街ですらたまにおかれている彫像などにも女性の裸は展示されています。これをどう考えるか。一切撤去すべきなのか?だとするとわたしたちの美術・芸術の歴史はその多くがお蔵入りすることでしょう。それとも、この歴史を素材に、新たな、別な視線にもとづいた美術作品を発掘したり、創造したりという方向に向かうのか、議論の行き着く結論はひとつではありません。
 上記のイギリスの例は、国や行政などの一方的な命令によるものでもなさそうですし、美術館側が問題提起として行った一時的な措置のようですから、議論のきっかけとして歓迎すべきではないかと思います。
 映画の方を見ると、ルイス・ブニュエル、大島渚、ナボコフらの映画が性差別的だとして批判されたりしているようですが、こういうことにドヌーブらが反発したのは業界人として当然の行動でしょう。



わたしも一方的に禁じられるのはおかしいと思いますが、彼らは「大監督」として権威化され、持ち上げられてきている表現者たちです。ドヌーブらが名を挙げたフランス映画の代表作は、その多くが男性中心的なストーリー・物語・演出で作られています。私はそれでも面白く見てしまう映画ファンですが、同時に作品に含まれている様々な差別・暴力の問題を見過ごしていいとも思いません。権威を一旦棚に上げて、作品の意味を議論する機会を増やすのは、映画や美術を深め、広げるためにも意味のあることだと思います。

 さらに驚いたのは、小説『侍女の物語』の作者マーガレット・アトウッドもme tooに否定的な姿勢を発表したということ。

 ちょうどディストピア小説として関心を持って『侍女の物語』を読みかけたところだったので驚いた。
 ここまでくると、世代対立という要素が目立ってきますね。ドヌーブやアトウッドさんらの世代は、現在より性役割意識が強固な時代に自己形成した方々だから、映画や文学などの世界で成功するにはその男性中心的ルールの中で頑張らなければならなかったから、逆に女性に厳しくなる方も多い。
 もちろんアトウッドさんが問題にしている大学教員の解雇などについては、事情は様々で、常に処分が正しいわけではありませんが、かといってひとつのケースをMeToo批判に結びつけるのはどうなのか、ちょっと残念なような・・・。誰かが自分に起こった何かにNoということがどれだけ大変なことか、どうして見守ってくれないのでしょうか。対等な関係だったらいえるでしょうが、職場や学校などの上下関係で作られた組織の中で声を上げるのは並大抵ではありません。映画や美術などのフリーで活動する世界であっても、逆に人間関係・人脈が重要になる業界ですから、もっと声を上げにくいとも言えるかもしれません。

 翻って日本では大きな動きにはなっていないといわれていますが、伊藤詩織さんの『Black Box』はたくさん売れているようですし、共感する女性は多いはずです。私も読みましたが、被害の事実が克明に描かれていて、訴えるまでの葛藤に心を打たれました。



 ハリウッドのような目立つ動きにならなくても、ずっと地道にセクハラや性差別に対して声を上げようとしている女性たち、支援する男性たちはいます。対岸の火事として見るのではなく、じわじわと、#MeTooに共感するひとびとの小さな努力が、日本を変えていければと思います。








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# by anti-phallus | 2018-02-14 14:27 | Comments(0)

立て看と吉田寮問題から学内管理強化を考える

下記のようなシンポジウムが企画されています。
「学内管理強化」に反対するものですが、わたしはこれはここ10年くらいの大学の締め付けの流れの中に位置付けられるものだと思います。

大学法人化以降、管理強化はどんどんひどくなっており、大学は今やネオリベの最先端になっています。
学生の学費負担、授業負担は大きくなり、教員の仕事はあらゆる面で増加されています。学内の意思決定過程はトップダウン。企業以上に「経営の論理」を言われる現状です。今や「大学の自治」など夢のまた夢ではないでしょうか。
それなのに未だに世間では「大学の先生は遊んで暮らしている」という神話があり、センター試験での大学教員の「落ち度」が過剰に報道され、処分されています。嗚呼・・・・。

下記サイトで署名も募集していますのでどうぞご覧ください。


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# by anti-phallus | 2018-02-07 16:09 | イベントの案内 | Comments(0)

なぜ私はフェミニストではないのか:ジェッサ・クリスピンのフェミニスト宣言を読む ラディカルになるべき時

とても面白い英語記事があったのでシェアします。



本の書評ですが、この評自体が今のフェミニズムと社会を鮮やかに浮かび上がらせるものになっていると思います。
最近、フェミニズムに関してやや新しい(かのような)スタイルで語るパターンがあって、「やわらかい」とか「ソフト」とか「楽しい」とか良さげなキーワードで、「これまでのフェミニズムとは違うもの」を売りにする語り口が増えています。男性を攻撃しない、とかおしゃれやファッションを軽く楽しむ、とかの語りが付随します。これは誰かが何かを主張していると言うよりは、なんとなく「フェミが流行ってるらしい」とにおわせるようなやり方です。そしてそのフェミというものが何を意味しているのかはよくわからないまま。

例えばディオールが高いTシャツに「WE SHOULD ALL BE FEMINISTS」と書いたとか、追っかけでGUも「I am a feminist」と書いた安いTシャツを売った、とかは分かりやすい例。(ブランド産業の問題性についてはナオミ・クラインをとりあえず読みましょう)(そういうTシャツを着ることを私は全く否定しませんが、ブランドやファスト・ファッションのマーケティングに乗せられているだけではないかという疑問ぐらいは忘れないようにしましょう。Tシャツを着たからといって性差別の現実は変わりません。メーカーや小売店にわたしたちのお金が入っただけです)

私はこういうのを見るたびに胃もたれのような感覚を覚えていました。世の中の性差別構造はほとんど変わっていないのに、なんかそれを批判しちゃいけないのかな?と。ですがこういうことを言うとそれこそ「やわらか系」の誰かに陰口を言われそうだし、まあそれはいいとしてもフェミニズムに水を差すことになりやしないかと心配だしで、面倒。

アメリカでも似たような状況があるようで、というかむしろ日本のマスコミがアメリカの真似をしているわけで、そういう状況への危機感をはっきり打ち出してくれている本です。

ここでも出てくるように、フェミニストのセレブ、というポジショニングなどもう本当にうんざりさせられるわけです。フェミニズムとはすべての女性のためのものであるはずなのです。女性の中に序列をつけ、トップの人たちを選び出して賞賛するなんて、フェミニズムではないのです。ところが、セレブの持つアクセサリーの一つのようにフェミニズムを語るスタイルが出てきています。こういう語りはフェミニズムの力を奪い、わたしたちの力も盗みます。

文中のアンドレア・ドウォーキンとは有名なフェミニストの著作家ですが、彼女たちのようなラディカル・フェミニストは日本では最近あまり触れられることも減りました。ドウォーキンのよく知られたフレーズに、「すべてのセックスはレイプである」というものがあります。聞いた人は引いてしまうでしょうが、セックスや恋愛をほめたたえる言葉とイメージばかり溢れている中では、いちどこのフレーズを噛みしめる必要があると思います。知人のフェミニストはこの視点を、「一度必要な絶望」だと言っていました。絶望から始まるものがあるということですね。

それから面白いのが、ツイッターの中の「怒りのフェミニズム」について指摘しているところ。近年、ツイッター上で誰かが性差別的な発言をすると大勢が批判し、またそれをマスメディアが報道する、という循環パターンが生まれています。それ自体は必要な仕事かもしれませんが、長くやっていると疲れてしまいますね。それが本当に私たちにとって一番必要なことなのか、著者は問いかけています。

あらぬ方向に流されてしまいがちなわたしたちを、本来の道に呼び戻してくれるような気がします。


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なぜ私はフェミニストではないのか:ジェッサ・クリスピンのフェミニスト宣言を読む ラディカルになるべき時

フェミニズムはかつて、社会の変容やロマンスへの挑戦、生きるための新しい方法を意味していた。今や、無難なものにイメージを変えられてしまっているとクリスピンは論じる。


スザンヌ・ムーア
2017.2.15


ジェッサ・クリスピンはフェミニズムに問題を感じている。それがあまりにも牙を抜かれてしまったので、彼女は同一化(identify)できないのだ。クリスピンは牙をもっているし、それを見せることを恐れていないから。彼女は、一部の人々のように、「フェミニスト」のラベルが不快で、ぼさぼさ髪の男嫌いを思い起こさせるから拒否するのではない。まったく逆だ。フェミニズムは陳腐なものにイメージを変えられてしまっていると彼女はいう。フェミニズムの普遍化はある種の牙抜きのようなものだ。フェミニズムを無意味なものにしてしまっている。

フェミニストが与えなければならない、女性は賢く付き合いやすい存在だという安心感は、クリスピンにとって、問題含みだ。「それはつまり、私は無害で、牙を抜かれてるの、襲って(fuck)ちょうだいと言っているようなもの。だから私はフェミニストのラベルを拒否することにした」。

アメリカ人の編集者であり批評家であるクリスピンは、自分のエンパワメントとしてフェミニズムを批判し、その真のラディカルな可能性を再発見することを決意した。彼女は、女性雑誌やライフスタイルを謳うサプリメント剤に好まれる「自分へのご褒美」フェミニズムに反対する。そこにはまた、ラディカリズムとは本当はどのようなものかについての重要な問題がある。近頃では、たくさんの「セックス・ポジティブ」な歌姫はただの男性への快楽提供者のように見える。この崖っぷちのフェミニズムのほとんどは女性の生の基盤についてまったく何も語らない。わたしたちがポリガミーについて話せる時になぜ年金について語っているのか?

ポップ・カルチャーのなかに自分をフェミニストと認めるセレブがあふれている時代に、大事なことは、主流と周縁の関係性そのものであるとクリスピンは主張する。「主流の人々は、自分のためのラディカルな空間を主張したがるが、同時に、ラディカルな人が行う活動を否定する」。このようなことが生じるために、アンドレア・ドウォーキンやシュラミス・ファイアストーン、ジャーメイン・グレアのようなラディカルな人々の否定が行われる。若い女性の、これら「フェミナチス」を非難したいという母殺しの欲求は、今でも不快な人物として残されているドウォーキンをしばしば中心に置いている。一体これはどういうことだろうか。クリスピンは、ローリー・ペニーがドウォーキンの信念体系について書いたものを、「私が支持しているフェミニズムに全く場所を与えていない」と挙げている。

これは何を意味しているのだろうか。ドウォーキンの仕事は最終的に、権力とその意味するところに関するものであり、それが深く不快である理由は、私たちの最も親密な瞬間の中にさえ、権力関係が存在していることを示しているからだ。ラディカルな変化は恐ろしい。ドウォーキンのような人物に体現される時、女性たちは自分はこの種のフェミニストではないという行列に並ぼうとする。革命は遠くに行ってしまったと言う人々はフェミニズムをもっとユーザー・フレンドリーにするためにそうしていると言うのだろう。だがそのユーザーとは誰のことだろうか?

ラディカリズムから自助グループへの移行は、確かに脱政治化である。かつて生きるための新たな方法を構想した運動は、個人的な目標としてのエンパワメントを伴う自己啓発コースに変わった。フェミニズムが本当に女性をより幸福にしたいと考え、私たちにより良い仕事と結婚とオーガズムを与えたいと考えるなら、「宗旨替えは必要ない」とクリスピンは恐れずに言う。本書の真の刺激は、権力とそれをどのように女性が使うかについて彼女が語る箇所で感じられる。私たちがより多くのカネを得れば得るほど、カネの力で家父長制による困難を解決できるようになる。平等とは男性が生きるように生きることだという考えはラディカルではない。わたしたちは価値体系をリセットし、その全体を解体しなければならない。

これは、女性が、女性に対する抑圧において共犯者となっているのではないかという気まずい疑問を生みだす。それは、たくさんの白人女性がトランプに投票している今やタイミングの良い問いだ。だが、女性にとって、核家族を離れて、男性たちに同一化しないようになるようなどんな動機づけがあるというのだろうか?フェミニズムがオルタナティブな仕組みを提示しているわけでもない。支配的なロマンチックな文化の外部で生きたいと欲する女性に対して何があるのだろうか?これこそがやるべきことなのだ、生きるための新しい共同の方法を創造すること。これについて男性がどう考えるかということにクリスピンは関心を持っていない。もし彼らが反対すれば、「どこか他でやりなさい、男性は私の問題ではないから」。

だがもちろん、クリスピンは男性の非人間化も認めない。例えば彼女は、女性の安全への祈りは、あまりに多くの男性、特に黒人男性を刑務所に入れる十分な理由になるのだろうかと疑問をもつ。

このような考えがいくつも本書にほとばしっていて、さらに論じられる必要がある。だが彼女は常にはっきりしている。オンラインにまず存在している「怒りのフェミニズム」について、彼女は新鮮な空気を入れようとする。そういった怒りの全ては何を達成するのだろうか?わたしたちは「ツイッターおやじ(twitter bros)」にいくら時間とエネルギーを費やすのだろうか?ミソジニー(女性嫌悪)は個人どうしで闘ってはいけないのだ。

挑むところどこでも、彼女はクリシェを明るみに出し、本当に重要なものーーーーーーそれはつまりもちろん平等ではなく自由ーーーーーを私たちの手に取り戻させようと試みる。権力のある地位に女性を増やしても、彼女たちがそのシステムに挑戦しないのならば不十分だ。美や承認の定義を広げるだけでは足りない。むしろ、恋愛は私たちの生の中心的な特徴から降格されなければならない。

クリスピンはより良いものを築くためにそれを想像する必要を語っている。自分に夢中になるものとして、新しいライフスタイルへの追加オプションとして、フェミニズムはわたしたちをつかんでいる、・・どこに行こうとしているのか?わたしたちは今どこにいるのだろうか?止まってみよう。どれだけ素早く後退してしまえるのか見極めよう。フェミニズムはいつそんなに小さいものになってしまったのか?いつから、礼儀正しく安全な、よく売れるものになったのだろうか。クリスピンはわたしたちに大きく、恐ろしいほど大きく考えるよう促すことでこれら全てを爆破してしまう。













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# by anti-phallus | 2018-01-19 17:25 | フェミニズム | Comments(0)

セクハラ #MeToo 

 ここのところ気になっているセクハラの告発の動きについて書きます。
 アメリカの映画界や音楽界等で著名な俳優やアーティストなどがセクハラ被害について告発したことにも影響されて、日本でも声が上がっているという件。
 とりあえずニューズウイーク日本の記事を。


 この後、(日本の)有名ブロガーなども告発して、動きが広がっています。

 この動きをみていていろんなことを考えさせられます。今回特徴的なのは、やはり、被害者が顕名で告発していることでしょう。セクハラという言葉が社会に広まり出した時代、90年代初めには、ほとんどが匿名でした。私が個人的にも記憶に大きく残っているのは、京大矢野事件です。当時京都大学東南アジア研究センター所長で、ノーベル賞選考にも関連していた矢野暢氏が、複数の女性職員や研究者にレイプを含むセクシュアル・ハラスメントを繰り返していたということで、大きな問題になりました。ある被害者の方は裁判も起こしましたが、「甲野乙子」という名前を使われていました。この裁判(被害者の勝訴で終わった)については本(甲野乙子さん著)も出ています。私は大学に入学したての頃だったので「やっぱり大学といえどもこういうことはあるんだよな」みたいな気持ちで、納得とがっかり感と両方あるような心境で受け止めていました。

 その頃と比べると、ここ数年になって著名人を含む被害者が名前を出して告発するようになったことについては、ある程度「前進」したといえるでしょう。被害者が匿名でないと声をあげられない状況はあまりに酷いから。被害者は何も悪いことをしていないはずなのに、名前をあげられないということは、名前を出すことで否定的な反応、不利益しか想像できないからですね。告発することが社会的な死を含み持ってしまうという場合があるということ。それと比べると、被害者が名前を出して告発する、それをメディアが否定的ではない形で報道することができるというのは被害者を尊重する社会的意識が育ってきているということを意味しています。ですが、それでも被害者にとって顕名の告発は大きな「リスク」を抱えることでもあります。告発すると、加害者からの攻撃、周囲からのバッシング、ネット上のバッシングに囲まれることになるからです。これは今も変わっていない。
 
 被害者バッシングというのは男性も女性もやることで、その論理の主要なものに「有名になりたいだけだろう」というものがあります。被害の告発をして社会的な注目が集まることを目的としているのだろうという受け止め方。実はこの論理はセクハラの事実の有無に関わらず持たれうる。たとえセクハラが事実だったとしても目立つために告発したんだと受け止められれば、告発は無効にされてしまう。これは恐ろしい論理なのですが、それだけ私たちは「社会的な注目を集める」ことの欲望を自明視しているのだなと思うとまた怖くなります。「ひとは社会的な注目を集めるためならなんでもやる」という前提でなければ成立しない論理ですからね。ネット社会のなかでおおぜいのひとが自撮りしてSNSにアップする、それによってセルフ・プロデュースしてキャリアアップを追求するということが増えている今だからなおさら、こういう受け止め方は説得力を持ってしまいますね。

たまたま最近読んでいた内田春菊さんのエッセイ本で、「昔上京したての頃、肉体関係を持てばチャンスをくれるという話があるならどんどん持っちゃうと思ってたけどそんな話はなかった」という趣旨のことが書いてあった。内田さんはこういうことを書けるからすごいポジションにいるんだけど、多くの女性は、こういう欲求をもっていることすら口に出せないと思います。物書きのような特別な職業でなくても、普通の会社勤めであっても、「認められたい」「キャリアアップしたい」ということをはっきり口に出せる女性は多くないと思います。

仕事に打ち込んでいたら、周りに評価されたいと思うのは当然のことだし、男性なら難なくそれを表現できるし周りも期待するのに、女性となるとそういう願いを持つことは恥ずかしいことのように見られる。代わりに、「良いお母さんになりたい」「良い妻になりたい」というのはおおっぴらにいえることですね。

いつの間にか若干話がずれましたが(汗)、ともかくセクハラの告発に対して足を引っ張る心理には、こういう女性に社会的上昇を許さない意識が背景にあるように思います。

セクハラそれ自体が、仕事を続けたい、働きたいという女性の気持ちを利用して行われるし。仕事を続けたければ、多少の嫌なことには目をつぶらなくちゃ、となりますよね。セクハラの背後には、こういう仕事とジェンダーをめぐる複雑な意識が横たわっています。セクハラの解決には、仕事とジェンダーの複雑な絡みつきをなくす必要があります。

社会的上昇、承認を求める欲望をめぐる私たちの葛藤の深さと、そこにあるジェンダーの不平等。こういうものから解放されるのが本当のフェミニズムなんだろうと思います。












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# by anti-phallus | 2017-12-29 21:46 | Comments(0)

福島・放射能・原発etcのこと

 ずっと気にかかっていたことがあります。気にかかる、どころか心の深いところに重石のようになっている、という方が正確な表現なんですが。何かと言うと、なんと名付けていいかすら分からないような感じで、つまりは福島の原発事故のこと、放射能のこと、避難者のことなど。2011年の3・11以来、自分の中の何かが止まったようになっていて、それは考えだすとあまりに重いので、ふたをしていました。でもそうもしていられないので、ちょっとずつ頑張って書くことにしたいと思います。

 放射能や原発のことがほとんどタブーとなっている現状ですが、このようななかでも貴重な仕事をしているひとはたくさんいます。まずは毎日新聞の記者の日野行介さんの本、『原発棄民 フクシマ5年後の真実』(毎日新聞出版、2016年)と『フクシマ6年後 消されゆく被害』(尾松亮と共著、人文書院、2017年)をお勧めします。事故後、福島と周辺の多くの住民が関東や関西以西に避難しました。彼女、彼らは「自主避難者」と呼ばれます。自主避難者に対する政府の政策について報じられています。世間では「たくさん金をもらって」という冷たい視線もあるようですが、じっさいにはそんなことはなく、唯一あった住宅支援も切られました。政府は「帰還」をほとんど一つだけ選択可能なものとして進めていますが、現地はまだ放射能の線量の高いところも多く、そもそも政府が帰還の基準としている「年間20ミリシーベルト」は、事故前の基準「年間1ミリシーベルト以下」を大幅に上回るものです。こんな政策で、子供を育てる責任のある人々が納得できるでしょうか。この本では、このような当事者無視の政策がどのようにして審議・決定・実行されたのか調べられています。2冊目は、それらの政策の中で引用される「チェルノブイリの例」がいかに歪められて用いられているか立証しています。著者が直接訪問するチェルノブイリ被災地のレポートでは、日本とはまったく違う住民支援の例が伝えられています。
 日野さんのインタビューがこちらで読めます。

 それから、マスコミでは避難者の問題が一部ではあるけれど心あるジャーナリストや研究者によって主張されているのに対して、放射能汚染や被曝の問題はそうではないように感じます。放射能汚染、被曝の問題は、事故直後はかなり広範に認識されていたように思うけど、現在ではほとんど口にされないのではないでしょうか。でも本当に、もう安全だと言い切れるひとはどのくらいいるのでしょうか?どうも私は、この問題がタブーになってきているように感じられて仕方ないのです。
 結局、避難した方々が帰れない理由の多くは、「被曝のリスク」です。放射能、放射性物質の怖さはあくまで「リスク」でしか考えられないこと。放射能が引き起こすガンや白血病、その他の疾病は放射能以外の原因でも生じるもの、あるいはそもそも原因をはっきり特定しにくい病気なわけで、一定程度の放射能を被曝したらこのくらいの確率でガン等の病気になりやすいよ、という形でしか理解できない。微細な形で、かつ全体的な形で人体に影響を及ぼすもの。だからこそ、できる限りの安全を期すために細心の注意を払われなければならないのに、今の日本ではこの不安を語ることすら憚られる雰囲気になっていないでしょうか。
 ですから専門家ではない私たちが調べようとすると、ネットや一部の本しかない。ネットではやたらと不安を煽られるようなサイトもあったりして怖いです。
 データとして信頼度の高いものを挙げておきます。

市民放射能測定データサイト みんなのデータサイト 

東洋経済オンラインサイト掲載 2015年のアエラの記事 


これらを見れば、東日本の広い範囲にわたって汚染が存在していること、特に人口の多い関東地方も無視していいレベルではないことが分かるでしょう。だから、避難者を棄民する政策は避難者だけの問題ではないのです。汚染に対して対策もとらずタブー化して、危険な地域に戻そうとする。食品を通じた内部被曝のリスクも考えれば、日本全体(さらには国外にも)の問題なのです。


最後に、私はこの問題は子どもと女性に対する暴力でもあると思っているのです。放射能のリスクは特に女性と子どもにとって大きい。身体的なレベルでも、また、子育ての責任をまかされているという意味でも女性にとって特に大きな問題なのです。避難者の多くは女性と子どもです。国は彼女たちを見捨てようとしている。これが、フェミニズムの課題でなくて何でしょうか。










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# by anti-phallus | 2017-11-23 15:46 | 原発/震災 | Comments(0)

2017年衆院選挙結果を受けて 小池百合子と山尾志桜里と

今回の選挙にはかなり心を振り回されてしまった。前原誠司氏が民進党を希望の党に合流させたところから、驚いた。民進党はいちおう戦後左翼を代表する大政党だった社会党の後継だったはず。それがこんな簡単に選挙戦略のために解体されていいのか、というのが率直に疑問だった。案の定、結局は希望の党は失速した。前原氏の政治的責任は重い。この政治状況に良い面があるとしたら、政策的にごちゃごちゃだった民進党が一掃され、ある程度路線の明確な立憲民主党ができたことだ。

立憲民主が躍り出て、少し希望が見えるものの、与党の「3分の2」超獲得という結果についてどう考えたらよいだろうか。いくつか気にかかること、けれどもあまり世間では論じられていないように見えることがあるので書いてみたい。

希望の党騒ぎをどう評価したらよいか。希望の党とはほぼ小池百合子を意味しているわけだが、私はこの騒ぎが、今のマスコミ、ひいては日本社会の女性への扱いを象徴しているように感じられて仕方ない。ちょっと目立つと一斉に注目し、ちやほやするが、必ず何かスキャンダルなり事件なりマイナスな出来事が起きて、そうすると手のひらを返したように叩く。山尾志桜里議員、少し前の小保方晴子さん、もっと前の辻元清美、みなそうではないだろうか。最初の頃の、チヤホヤぶりも、その女性の実際の「実力」や「実績」を公正に評価しているようにも感じられない。「女性なのに(すごい)」という男性中心的な視線が感じられる。それが一旦ケチがつくと、同じことを男性がやったときに想定される以上の制裁が行われていないだろうか。

ただ、小池氏はそういうマスコミのバイアスも承知の上で行動しているようにも見える。何らかの政治的駆け引きの結果の行動であろうから、小池氏は単純にマスコミのジェンダーバイアスから損をしたとはいえない。
私は小池氏をもちろん支持していない。きちんとした政治的見識がある政治家とは考えられない。とくに安全保障政策や憲法改正問題への姿勢において評価できない。だが同時に、マスメディアの報道ぶりにも疑問を感じる。そういうアンビバレントな印象を、彼女を見ていると抱いてしまい、居心地が悪い。小池氏の政治的立場をよく理解せずに、彼女の女性という性別ゆえに期待をしている女性有権者や若い人たちの存在を考えると、全く悲しくなる。この社会が女性に対してバイアスを課しているゆえに、多くの女性が「強い女性」に見える小池氏に期待をし、小池氏やその周辺はその期待を利用するが、彼女/彼らの政治がその期待に応えることはおそらく絶対にない。どうしたら多くの人は眼が覚めるのか・・・。

マスコミと政治の男性中心性で最も損失を受けたのが山尾志桜里氏だろう。「不倫疑惑」というが、「不倫」というのは結婚制度への忠誠があるからこそ成立する概念で、わたしの「反婚」の立場からは意味のない概念である(笑)。あるとしたら、当事者を傷つけないようにできるだけ関係性を一つ一つ尊重した方がいいという信念から、どうジャッジできるかということのみである。そう考えると、山尾さんの私的な関係性を問えるのはその当事者たちのみであるから、そのことを国政という政治の場面に持ち出す必要性はゼロである。安倍首相が森友・加計学園問題で批判されてもいまだ無傷でいるのと比べて、山尾氏への制裁はあまりに過剰で異様なほどだ。ただし誤解のないように書いておけば、ハラスメント等は別問題だ。例えばクリントン元大統領のセクハラ問題があったが、あれは被害者の告発があり問題化したものである。ハラスメントとは権力関係のある中での性的な力の行使だから、いわゆる「不倫」というものとは次元が異なる。

歴史的に見れば、男性には婚外の性関係が奨励されるが女性には貞節や夫への忠誠を求める時代が長かった。現在日本では法的にその意味での男女の差が解消されたとはいえ、社会的には男性のそれより女性のそれに対するほうが視線は冷たい。
保育園の問題で注目を集めていた山尾さん。保育園の問題とはすなわち女性の問題である。保育園が不足していて、利用できずにまず困るのは女性である。そのような女性たちのニーズを受けて、注目されていた山尾氏が、「不倫」疑惑という男性中心的な問題化で政治的に追い詰められるとは、なんとも皮肉というか、逆によくできたお話のようにも見える。山尾氏を追い詰めた週刊誌は、常に女性の(半)ヌードグラビアを載せているような媒体だ。男性中心社会からのリベンジのような。

とはいえ選挙では辛勝したことは、本当に「お疲れ様」と言いたい。これからも彼女にはこの疑惑の語りがついてまわるのだろうけど、そういう「傷」を負ってこそ、頑張って欲しい、いろんな「傷」を受けている女性のために。

ちなみに瀬戸内寂聴さんが、この疑惑について「絶対クロ」だとした上で、どうのこうのという論評を新聞で発表していたが、このようになんでもスキャンダル化+(ヘテロ)ロマン化して発言しようとする層にはもういい加減紙面を提供するのを「自粛」して欲しいものである(笑)。(追記:あれは山尾応援論だという説を聞きましたが、だとしても、冒頭、山尾さんの容貌についてどうのこうのと書いていて、政治家を容貌のみで評価している時点でもうアウトでは?なんか女優のことでも書いてるのかと思った・・。飲み屋の談義じゃないんだから。こういうところが日本の新聞のジェンダー意識の低さを示しています)

そして最後に残る問題は、あいかわらずの自民党へのマジョリティの依存である。自民党に投票している人々がいちばん気にしているのは「経済」や「景気」であろう。自民党が「経済」に強いというのは幻想である。自民党が強いのは、「景気」をよくしたと見せかけて、エリート大企業へ利益を誘導するマジック戦略である。自分たちの生活をよくしたいのならば、「人権」や「公正」を優先する政治にしないといけないのに。

世の中が不安定化し縮小していると感じられると、権力のあるマッチョな存在に救いを求めてしまいがちだ。国の軍事力を解禁させようとするのはその象徴である。だがそれでは権力の不均衡が再生産されるだけ。不均衡のあるところ、必ず状況は暴力的になり、社会問題は拡大する。少しでも不均衡を是正させようとする政治が最終的に安定を保証するのである。ああ、もう少し政治リテラシーが向上しないと・・・。































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# by anti-phallus | 2017-10-27 13:54 | つれづれ | Comments(0)

ナンシー・フレイザー「資本主義におけるケアの危機」

ナンシー・フレイザー(Nancy Fraser)のインタビュー記事(2016)を翻訳しました。原文はここです。



「ケアの危機」とは現在私たちが直面している構造的な問題です。ケアを代表とする家事や子育て、介護などの「社会的再生産」がどんどん民営化・商品化され、私たちの生活が切り縮められている状況のことをいいます。このインタビューでは、その歴史的背景の説明や様々な大事な論点の解説があります。ケアといえば今は子育てや介護という私たち個人が家庭で日々直面する営みが議論されますが、それにとどまらず、公的な教育費の削減や福祉・医療の民営化なども大きな問題です。もちろんアメリカや欧米だけでなく日本も、というより日本は特に深刻に直面している課題です。

要約すると、近代史は、19世紀の自由資本主義→20世紀半ばからの国家統治型資本主義→現在のネオリベラル資本主義、という3段階に分けられます。それぞれの段階で社会的再生産・ケアに対する国家のスタンスは違い、自由資本主義では放任(野放し)で民衆任せ、国家統治型資本主義(いわゆる福祉国家の時代)には家族賃金をモデル(理想)化して社会設計、ネオリベラル下では私的領域までをもさらなる商品化、という流れになります。このなかで福祉国家時代の家族賃金というのは良さそうに見えますが、性別分業を基軸としたものなので、「女性の従属」をも意味するのです。フェミニズムはこのジェンダー化された家族賃金モデルを批判してきたのですが、そこでネオリベラルの「二人稼ぎ手モデル」に足をすくわれた、というのが現在私たちが抱える矛盾をなしています。

従来からのフレイザーのフェミニズム論を、より歴史的・構造的に学ぶことができます。このフェミニズム批判を、単なるバックラッシュのようにではなく、より良質で開かれたものを求める過程の中で理解して欲しいと思います。例えば、安倍政権が進める女性活躍政策や、それを支持するフェミニズムは、私たちの指針にも救いにもならないということです。インタビューの中で、次のように言っているのを読むと目が覚めるような思いがします。

「ちなみに、ネオリベラル・フェミニストはフェミニストです。否定はできません。ですがそのフェミニズムの要素には、フェミニストの発想が単純化され、切り縮められ、市場フレンドリーな用語で再解釈されているのに気づきます。例えば、女性の従属を、才能ある女性が上昇するのを妨げる差別として考えるようなときに。そのような思考は完全にヒエラルキー的な企業の虚像を正当化します。それは、女性の大部分の利益に対して、いやむしろ世界中の全ての人々の利益に対して基本的に敵対する世界観を正当化します。」

ここまで明確に指摘できるフェミニストは少ないでしょう。
企業社会の中で女性が昇進するのは「女性活躍」の目標とされています。最近よく、女性管理職の数がどうのこうのいわれていますね。そのなかで、女性の昇進が本当に性差別の解消になるのか、疑問を持つ人は多いでしょう。ですが多くのひとはフレイザーのようにここまではっきり批判も出来ないでしょう。この批判でフレイザーに違和感を感じる人も多いでしょう。けれど、わたしはフレイザーを支持します。女性が昇進することは、個人レベルでは本人が望むのであれば良いことですし、応援したくなる時もあると思います。ですが、それがフェミニズムの最優先事項であるとはわたしにはいえません。やはりフェミニズムは、ある恵まれた女性(のみ)を応援するものではなく、あくまで女性の間の望ましいつながりを構想するもの、できるだけ多く、すべての女性を尊重するものだと思うからです。またそもそも、企業社会という場がどれだけ女性に良いものをもたらすか、例えば地位の高い女性であろうとそこに居続けることは大きな犠牲を求めるだろうと思うからです。それは男性にとっても本当は同じことです。ですがたいていの場合、企業社会で働き生活することしかできませんから、みなそうして頑張っています。そういう現実があるからこそ、そうではない世界を最終的に求めることに意味があるのです。

社会的再生産の重要性を理解しない左翼やマルクス主義への批判もあります。ここが古い左翼(新しいのも?)とフェミニズムが袂を分つ分岐点です。

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ナンシー・フレイザーはニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチの哲学と政治学の教授であり、今日最も尊敬される批判理論家の一人である。新しい著作、『Fortunes of Feminism(フェミニズムの明暗:国家統治型資本主義から新自由主義の危機へ)』でフレイザーはリベラル・フェミニズムの困惑させられる資本主義への収束と、フェミニズムが過酷な搾取のシステムのためにうわべだけの自由を提供しようとするやり方と闘っている。資本主義批判と、根本的に異なるフェミニズムのビジョンを発展させるために、彼女はジェンダーの公正はどのように平等な社会のためのあらゆる闘争の核心に置かれるべきかということを示している。最近、フレイザーは「ケアの危機」と呼ぶ状況に言及している。それを冠した彼女の論文は『New Left Review』100号で発表されている。

◆社会的再生産とは?

サラ・レオナルド:社会的再生産とは何でしょうか、また、それはなぜあなたのフェミニスト分析の中心にあるのでしょうか?

フレイザー:社会的再生産とは、社会的な関係性の創造と維持に関連しています。このひとつの側面は、世代間のつながり、例えば出産、子育てや高齢者の介護などに関連しています。他の面では、友人や家族、近所付き合いやコミュニティなどの水平なつながりの維持に関連しています。これらの種類の活動は社会にとって絶対的に本質的なものです。それは感情的であると同時に物質的で、社会的な共同を支える「社会的接着剤」を与えます。それなしには、どのような社会的な組織も、経済も政治も文化も、存在できないでしょう。歴史的に、社会的再生産はジェンダー化されています。そのための責任の大部分は、男性もいつも一部を演じはしますが、女性に割り当てられます。
資本主義の成立はこのジェンダーの分割を強化しました、社会的再生産から経済的生産をくり抜き、それを二つの分離されたものとして扱い、二つの異なる制度に位置付け、二つの異なる方法で調整することによって。生産は工場と会社へ置き換えられ、そこではそれは「経済的」であり賃金によって報われると見なされました。再生産は後景に追いやられ、新しい私的な家庭内の領域に格下げされ、そこではそれはセンチメンタルに自然化され、金銭ではなく「愛」や「徳」のために行われるとされました。少なくとも理論上はこのようにいえます。実際には、社会的再生産は決して完全に私的な家庭内の境界内に置かれることはなく、地域や公的な施設や市民社会にも配置されていました。にもかかわらず、社会的再生産からの経済的生産のジェンダー的分離は、資本主義社会における女性の従属の主要な制度的な基礎を構成しているのです。したがってフェミニズムにとって、これ以上に中心的な問題はないのです。

レオナルド:あなたの分析によれば、私たちはケアの危機に突入しています。それは何を意味していて、私たちはどのようにしてここに至ってしまったのでしょうか?

フレイザー:資本主義社会では、社会的再生産のために可能な能力は貨幣価値には一致しません。それは当然のこととされ、無料で全く入手可能な「贈り物」と扱われ、注意を払われたり補充されたりすることはありません。経済的生産が、より一般的には社会が依存している社会的つながりを持続するための十分なエネルギーが常に存在するだろうと考えられています。これは、資本主義社会において自然が、欲しいだけ手にすることができ、要らなくなればどれだけでも廃棄することのできる無限の貯蔵庫として扱われるやり方によく似ています。じっさいには、自然も社会的再生産能力も無限ではありません。両方とも極限まで拡張されはします。自然の場合、多くの人々が既にこのことを理解しています。そして私たちは「ケア」の場合にも同じように理解し始めているのです。社会が社会的再生産のための公的支援を一斉に取りやめ、その主要な提供者を何時間もの厳しい賃労働へ追いやる時、それが依存している社会的能力自体を枯渇させます。これがわたしたちの今日の状況そのものです。現在の資本主義の金融化された形式は、組織的に、社会的絆を持続する私たちの能力を消費しています、自分の尻尾を食べる虎のように。その結果が「ケアの危機」であり、現在の環境の危機と全く同じように深刻で組織的であり、あらゆる場合においてつながっているのです。

私たちがどのようにしてここに到達したのかを理解するために、資本主義のこの形式を以前の形式に対比させたいと思います。資本主義の歴史が、異なる蓄積体制の連続から形成されているというのは共通の思考です、例えば自由資本主義、国家統治型(あるいは社会民主主義的)資本主義、ネオリベラル金融資本主義など、研究者はたいてい、国家と市場が相互に関係する特有の方法の観点からこれらの体制を識別します。ですが彼(女)らは同等に重要な、生産と再生産の間の関係を無視してしまいます。その関係は資本主義社会の典型的な特徴であり、私たちの分析の中心に属しています。社会的再生産がそのそれぞれの局面でどのように組織化されるかに注目することで、資本主義の歴史を理解するのに大いに役に立ちます、あらゆる時代でどれだけ多くの「ケア・ワーク」が商品化されているか、というように。国家あるいは共同の供給によってどれだけ支援されているのだろうか?世帯や地域、市民社会にどれだけ多くが割り振られているのか?

これに基づいて、19世紀のいわゆる自由資本主義から20世紀半ばの国家統治型体制、そして現在の金融資本主義へと歴史的軌跡を跡付けることができます。つまり、自由資本主義は社会的再生産を私有化し、国家統治型資本主義は部分的に社会化し、金融資本主義はますます商品化しようとしています。それぞれの場合において、社会的再生産の特有の組織はジェンダーと家族の理想の特徴的な組み合わせとともに進みます。「分離した領域」という自由資本主義のビジョンから、「家族賃金」の社会民主主義的モデル、「二人稼ぎ手家族」というネオリベラルの金融化された規範へと。説明しましょう。

自由資本主義の場合はかなり明瞭です。経営者が女性や子どもを含む新たにプロレタリアート化された人々を無理やり工場や鉱山へ押し込めていた時、国家は主として傍観を決め込んでいました。結果は、社会的再生産の危機であり、民衆の反発や「保護法制」を求める運動を誘発しました。しかしそのような政策は問題を解決できようもなく、その結末は、労働者階級と農民共同体を自力でやっていくよう放置することでした。にもかかわらず、この資本主義の形式は文化的に生産的でした。社会的再生産を私的な家族内の女性の領域と再配置し、「分離された領域」「無情な世界の中の安息地」「家の中の天使」といった新しいブルジョワ的な家内性の想像物を発明しました。それはたいていの人々からそれらの理想を実現するために必要な条件を奪うものなのに。危機に苦しめられ、自由体制は20世紀に資本主義社会の新しい国家統治型の変形に取って代わられました。この局面では、大量生産と大量消費に基づいて、社会的再生産は部分的に、国家と「社会福祉」の組織的支援を通して社会化されました。そして、ますます古くなった「分離した領域」のモデルは、より新しくより「近代的な」「家族賃金」の規範に取って代わられました。労働運動の強力な支持を得たその規範によれば、産業に従事する男性労働者は、妻を子供と家庭に専念させられるように、その家族を養うだけの賃金を払われるべきだという規範です。再び、限られた特権層の少数派のみがこの理想を達成しました。だが、それは非常に多くの人々の心を動かしました、少なくとも資本主義の中核たる富める北大西洋諸国では。植民地とポスト植民地は、グローバル・サウスの継続する略奪のままにおかれ、これらの協定から除外されました。またアメリカ合衆国では、人種の不均衡が埋め込まれていて、家庭内と農業の労働者は社会保障と他の形の公的援助から除外されていました。またもちろん、家族賃金は女性の従属と異性愛規範(heteronormativity)を制度化しました。したがって、国家統治型資本主義は黄金の時代などではありませんし、私たちの現状とはかなり異なっています。

もちろん今日、家族賃金の理想は絶えました。それは一方では(1パーセントの人々でない限り)一人の稼ぎでは家族を扶養できなくなった実質賃金の縮小の犠牲となりました。そして他方では、家族賃金に埋め込まれた女性の依存の思想を脱正当化したフェミニズムの成功の代償でもあります。ワン・ツー・パンチの結果、私たちは今「二人稼ぎ手家族」という新しい規範を手にしています。良さそうではないですか、あなたがシングルではないとしたら?しかしながら、これも、家族賃金のように、ごまかしなのです。それは、今や世帯を維持するに必要とされる長時間の賃労働の急増を神秘化し、もしその世帯が子供や高齢者や病気や障害を持っていてフルタイムの賃労働者として機能しない人を含んでいたら、事態はより悪化します。またもし一人親家庭の場合、それ以上に深刻です。今やこれに加えて、その二人稼ぎ手モデルは国家の援助の削減の時期に促進されています。労働時間の増大の必要性と公的サービスの削減の間で、金融資本主義体制は社会的絆を維持する私たちの能力を体系的に枯渇させようとしています。この資本主義の形式は、私たちの「ケアする」力を極限まで拡張しようとします。この「ケアの危機」は構造的に理解される必要があります。現在の状況下では、それは偶然でも付随的でもなく、資本主義に内在する社会的再生産の危機に向かう傾向の表れなのです。ですが、それは現在の金融資本主義の体制ではとりわけ先鋭化された形態をとるでしょう。

◆ケアの危機とフェミニズム
レオナルド:この危機におけるフェミニズムの役割についてもっとお話ししていただけますか。フェミニストは必死に頑張る二人稼ぎ手家庭を目標とはしていませんでした。

フレイザー:ええもちろん。ですがフェミニズムがこれらすべてにおいて果たしたことについては深刻で悩ましい問題があります。フェミニストは家族賃金の理想を女性の従属の制度化として拒否しましたし、それはその通りです。しかしわたしたちは、製造業の再配置が経済的にその理想をつぶしたときにそうしたのです。他の世界では、フェミニズムと産業の変化は互いに強化したりしないかもしれませんが、この世界ではそうなのです。結果として、決してフェミニズム運動がその経済的変化を引き起こしたわけではないけれど、わたしたちはその正当化を知らぬ間に提供するはめになってしまいました。わたしたちは他者のアジェンダに、魅力やイデオロギー的な安定剤を提供してしまったのです。

けれども一方で、このアジェンダに完全に乘っている、1%を代表するネオリベラル・フェミニストが現実に存在していることを覚えておきましょう。あえて言わせてもらえば、わたしたちはそのうちの一人を合衆国の大統領として選出するところでした。ちなみに、ネオリベラル・フェミニストはフェミニストです。否定はできません。ですがそのフェミニズムの要素には、フェミニストの発想が単純化され、切り縮められ、市場フレンドリーな用語で再解釈されているのに気づきます。例えば、女性の従属を、才能ある女性が上昇するのを妨げる差別として考えるようなときに。そのような思考は完全にヒエラルキー的な企業の虚像を正当化します。それは、女性の大部分の利益に対して、いやむしろ世界中の全ての人々の利益に対して基本的に敵対する世界観を正当化します。そしてフェミニズムのこのバージョンはネオリベラリズムの略奪へ解放的な見せかけを提供します。

レオナルド:私たちの金融経済においてケア・ワークの分配がどのように女性同士を争わせているか詳しく説明できますか?

フレイザー:もちろんです。今、ケア・ワークの二元化された構造があります。家事の支援を単に支払うことで入手できる人々と、第一のグループのための有給のケア・ワークに、しばしば非常に低い賃金と実質何の保護もない状態で従事することでいっぱいで自らの家族のケアをする余力もない人々に。わたしたちはこのセクターで生まれている権利と生活賃金のための闘いを目にしています。したがって明確に、これはお互いの利害の直接的な対立です。わたしはいつも、シェリル・サンドバーグの「リーン・イン」の発想は皮肉だと思っています。彼女のリーダーシップが企業の重役室でリーン・イン(乗り出す)することを思い描けるのは、薄給のケア・ワーカー達が彼女のトイレや家を掃除し、子どものオムツを替え、年老いた両親の世話をするのに頼っていられる限りなのですから。

そしてここで人種について触れなければいけません。このような仕事をしているのは結局、主に有色の移民女性、アフリカ系アメリカ人女性、ラテン系女性なのです。ニューヨークで中流階級の住む地域の公園に行きさえすれば、すぐに分かります。いわゆる「開発」戦略が、女性をこの目的のために富裕な国や地域に移民することを促進することである国があります。例えばフィリピンは、海外にいる家事労働者からの送金に依存しています。そしてこれは国家が組織した労働の交換であり、国家の開発戦略です。問題の国家は構造調整に従属してきました。その国は債務を背負っており、資金がなく、国際通貨を必要としていて、女性をこの仕事のために送り出す以外に道がありません。彼女達は子どもと家族をおいて他の貧しい人々にケアしてもらうほかない状態で。ところで私はケア・ワークは決して有給の仕事とされるべきでないなどと言いたいのではありません。それがどのように支払われ、組織され、誰によってかで全く大きな違いがあるということです。

◆社会的再生産と社会運動・社会主義の可能性
レオナルド:あなたが指摘したような問題に関してその根元に達するような方法で組織化している具体的な活動はありますか?

フレイザー:驚くほど多くの組織や活動があります。とても創造的でエネルギーに溢れています。ですが拡散したままで、社会的再生産の組織を変えるカウンター・ヘゲモニーの試みのレベルまでは到達していません。労働時間の短縮や無条件のベーシック・インカム、公的な子育て支援、移民家事労働者や営利の医療施設や病院、子育て支援センターのケア労働者の権利のためにともに闘うなら、そして特にグローバル・サウスの安全な水や住居、環境汚染への闘いも付け加えるなら、私の意見では、結局は社会的再生産を組織する新しい方法が必要だということになるのです。

社会的再生産のための闘いはほぼどこにでも存在します。それはその名前を名乗りはしません。けれどももしこれらの闘争がこのような方法で自らを理解するようになれば、社会変革のための広い運動においてともにつながり得る強力な基礎となるでしょう。また現在のケアの危機の構造的基礎が再生産を生産に従属させようとする資本主義に内在的な動因にあることを理解すれば、そのとき状況は本当に面白くなるでしょう。

レオナルド:若いアメリカ人の間で社会主義が関心を高めていることを受けて、社会的再生産の闘いを社会主義への闘いに関連づけますか?

フレイザー:もちろんです。私は自分自身をバーニー・サンダースと同様に、民主的社会主義者と呼んでいますが、それがいったい何を意味するのか分からないことを率直に認めざるを得ない時代に生きています。わたしたちは、それが権威主義的な統制経済や共産主義の一党独裁モデルを意味するものではないことを知っています。社会民主主義より、より深く強力で平等主義的なものを意味しています。搾取や流用、抽出が全くトランスナショナルな世界において、国民国家に限定されません。言い換えれば、私たちはそうではないものは全て知っていますが、肯定的にプログラムを定義するのが困難な時代にいるのです。私が主張したい一つのことは、社会的再生産を再想像することは、21世紀に望ましいと主張できる社会主義のあらゆる形式にとって中心にあらねばならないということです。再生産と生産の区別は今日どのように再発明されるべきでしょうか。また二人稼ぎ手家庭は何に代えられるのでしょうか。社会主義の歴史を見ると、マルクスとエンゲルスが拒否したことで知られる古いユートピア社会主義ですら、私が社会的再生産と呼んでいるものに大きな焦点を当てているのは興味深いことです。家族と共同体の生活の組織化などのことに。それは私たちにとっては有効でないという意味でユートピア的ですが、近代の産業社会主義の歴史においても難しい問題でありました。マルクスの社会主義と非マルクスの産業社会主義ではこの問題はやってきては見えなくなります。ほとんどの場合、それは工業化を組織し生産を計画する問題に対して二次的なものとして扱われてきました。ですがもし生産と再生産の二者関係の一方のみを強調するなら、他方は戻ってきて、予期せぬ、すべての企図を台無しにするようなやり方で仕返しをするでしょう。

レオナルド:あなたが社会生活や家族について提起した問いの多くは、やはりユートピア的で、1960年代の残骸のようですし、社会主義者のプログラムに必ずしも中心的ではないように見えます。にもかかわらず、あなたは我々がまさに危機の地点にいると主張し、それらの問題が中心であるべきだと言っています。社会的再生産の挑戦は誰もの毎日の経験にとって非常に基本的なのに、現在の社会主義のリバイバルの中で欠如しているのは驚くべきことですね。

フレイザー:それには強く同意します。この社会的再生産の危機の深刻さのなかでも、左翼がこれに目を向けないのは、悪い意味でユートピア的でしょう。製造業をなんとかして取り戻せるという考えは、これも悪い意味でユートピア的です。すべての成人を、第一にケアの責任、共同体への参加や社会的コミットメントの責任のあるものとして想定する社会を築けるという考えは違います。それはユートピア的ではありません。人間の生活が本当になんであるかに基づいたビジョンです。

レオナルド:これらすべてにおいて、テクノロジーに積極的な役割を見出しますか?それとも機械化された家事労働はより「リーン・イン」につながるだけでしょうか?グーグルで卵子の凍結保存が話題を呼び、それは子どもを持つ前に女性がより長く働くことを可能にするといわれています。多くの工業労働は機械化されるべきと考えられているのですから、ケア・ワークも同様なのでしょうか?それともそうするにはあまりにも親密すぎるでしょうか?

フレイザー:私はラッダイトではありませんからね。夜読書するための電気を使え、遠方のあなたとスカイプができ、その他もろもろのことに深く感謝しています。卵子凍結や搾乳機械のような、これまで批判的に書いてきたテクノロジーに対しても反対しているわけではありません。問題は文脈なのです。どのように生み出され、誰によって誰の利益のために使われているのか。それらのものの入手が合法的な選択となる文脈を容易に想像することができます。最悪の、あるいはわずかな選択肢の中で極めて制限された選択をした誰かを責めるつもりは全くありません。
社会的つながりを持続することを志向する活動は、無視できない個人的な側面を持っているとも考えます。それは定義上、個人的で、間主観的なコミュニケーションを含み、ある場合には身体的な接触も含みます。そしてケアの完全な機械化の思想には妨げとなります。ですがやはり、あらゆるものの完全な自動化を思い描けるということには疑問を持たざるをえません、もしそれがすべての人間の貢献を除去することを意味するならば。

レオナルド:ええ、ある意味では私たちは時間について話しているのですから。私たちはケアのようなものを時間を節約するために機械化します、時間がないという理由で。結局、時間がたっぷりある場合にしか、何を機械化したいか本当にはわからないでしょう。
フレイザー:私も洗濯物を全て手で洗いたくはないですし、自分の時間をわざわざ費やしたくはないことがたくさんあります。それ以外のことにより時間をかけたいのです、例えばこのような対話にね。

(小見出しは訳者による)







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# by anti-phallus | 2017-09-13 15:49 | フェミニズム | Comments(0)

諦めが生む女性専用車両

 このところ、学生に授業への感想等を書かせると、「女性専用車両」を批判するものが増えてきています。とはいっても授業で「女性専用車両」については全く触れていないのに、です。ジェンダー一般の話をしたのに対して、「昔は男尊女卑だったかもしれないが、今は女尊男卑で・・その代表例が女性専用車両だ」という流れで書いてきます。
 なんだかまるでジェンダー論やフェミニズムが女性専用車両を作ったかのような言われ方なので、ひそかに腹を立てていました(笑)。で、女性専用車両について何か書きたいと思っているなか、名古屋市議会宛てに、女性専用車両に反対する何者かが爆発物を送ったというニュースがあった(名古屋市の地下鉄は女性車両を導入している)り、ネット上で女性車両に反対する会があったりと、世間ではかなり注目されているのを実感。

 そして2日前にはこんなニュースも。




 イギリスで女性専用車両をめぐって政治家間で論争が起こり、女性議員が反対しているということですが、日本でこの問題が政治家レベルでこれだけ大きな論争になることはおそらくないだろう、ということがまずポイント。日本の政治は私たちの日常的な生活空間を公論の対象とすることは少ないですからね、特にジェンダーがらみなんて。
 それからイギリスの女性議員が反対している理由が、女性専用車両は性犯罪の容認につながるということのようですが、このもっともな意見は日本でどれだけ理解されるでしょうか。
 私の感触では、女性専用車両が性犯罪の防止のためだということすら十分認識されていないように思います。いや、というよりは、女性専用車両を設置している鉄道会社が本当に痴漢や性犯罪に対して本腰を入れて取り組んでいるのか、ということですね。鉄道会社が性犯罪防止や軽減に力を入れたければもっと様々な手段が可能なはずです。警備員を定期的に車両内に巡回させるとか、主要駅ホームに被害申し立てを受け付ける窓口を設置するとか、ポスター掲示やアナウンス等の啓発を増やすとか。そういうことをした上での専用車両ならまだ分かるのだけど、そうではなくてポンと専用車両だけ設置されると、お手軽な方法でアリバイ的にやってるのかなと感じられてしまう。

 そもそも鉄道会社を含む日本社会全体が性犯罪の問題に対してどれだけ真剣に考えているのか疑わしい。確かに以前よりは敏感になったかもしれない。だが、痴漢といえば、被害者の立場よりもむしろ痴漢冤罪のニュースのほうが多いかのよう。被害がどれだけ多くて日常化しているか、また被害を受けるとどれだけの傷を与えるか、ということが理解されないまま、男性が女性に被害を申し立てられると無実なのにすぐ加害者に仕立てられる、というイメージばかりが広がっているのではないでしょうか。
 女性専用車両をめぐって、男性専用車両も設置するべきだという声を聞きますが、男性専用車両に賛成する意見に、冤罪被害を防ぐため、というものがあります。これなど見ると、本当に心が寒くなる。この日本は、被害をなくす、また、被害者を支える、という気持ちよりも、「自分が無事でいる」「事件に関わらない」という意識の方が圧倒的に強い空間だということなのです。このような主張が浸透している社会が、本当に性犯罪の問題を重視し、厳しい態度でのぞもうとするわけがない。だから、多くの被害者は声をあげられないのです。

 個人的な経験を書くと、昔、田舎から出てきて東京の大学を受験する朝(満員電車などその日が初めて)に、痴漢にあいました・・。やはりものすごいショックでした。その時のことも踏まえて考えると、痴漢にあった時に、声をあげられたとして、どれくらいのひとが協力してくれるのかな、という不安があるということ。その時は声など上げられず、なんとか逃げましたが。加害をしないという教育や啓発はもちろんですが、声をあげた被害者に協力する、支えるという教育や政策、取り組みも必要。

 また、性別で分離することへの違和感を持つ人が少ない、ということもいえる。私は最終的な地点では女性であろうと男性であろうと性別で分離する車両には反対です。とても気持ち悪い。確かに女性専用車両は居心地いいです。女性の方が動作がソフトな人が多いし、なんとなく静かです(とはいえわたしは女性専用車両に乗った回数は少ないので分からない)。性暴力の被害にあった(性自認に大きな違和感のない)女性、あるいは男性からの性暴力を恐れる女性にとっては、女性専用車両はシェルターになります。だけど同時に、女性専用車両は男性か女性かどちらを選んだら良いか迷う人への想像力をもちません。性暴力の加害者のほとんどが男性であるとはいえ、加害者の100%が男性ではないし、男性の全てが加害者では当然ない。前半の意味合いを選択して、後半の事実を切り捨てる。そのことによって性に関するマイノリティの存在を捨象してしまう。日本社会がどれだけ日常的に性別分離を行なっているか、分離に違和感をなくさせられているかがわかります。
 ですが、わたしは更衣室やトイレは男女別で分けていいと思うし、すべて男女混合にされたらつらい。ただし同時に性別不問の個室的な選択肢も用意する方が望ましいと思うけれど。更衣室やトイレが全て個室になればベストですがそれは現実的にすぐには無理でしょう。

 というように性別分離はごく限られた条件下で許されるもので、鉄道という限りなくパブリックな空間では行われるべきではないと思います。でも日本では女性専用車両はネット上では反対の主張が目立つものの、一般的には乗客に支持されているからこそ、鉄道会社も維持しているのでしょう。ですがこれは、鉄道会社を含む日本社会全体が性犯罪に甘いことへの裏返しではないでしょうか。性犯罪について真面目に議論したくない、取り組みたくないという社会の意識が、被害者を含む女性客に、専用車両を支持させているのではないでしょうか。どうせ痴漢は無くならないのだから、当面自分は女性専用車両に乗って自衛するしかない、というような。諦めが女性専用車両を生んでいるのでは?

 このようななかでネット上で女性専用車両は「男性への差別」「女性の特権だ」という声を聞くと、痴漢の問題からずれて、女性へのバッシングにも見えてきます。なぜ女性専用車両が女性の特権なのでしょうか?女性は常に男性の横にいて、性犯罪のリスクに耐えなければならない、ということでしょうか。性犯罪から逃れることが女性の特権??わたしなどは、女性専用車両があるせいで、それ以外の車両に乗って痴漢にあったら自己責任だといわれるのではないかと怖いです。

いつまでも痴漢や性犯罪の加害者へは注目が集まらない、どのようにしたら加害を減らせるのか、被害者を支えられるのかという議論にはならない。痴漢、性暴力と闘うという認識ではなく、男女という性別で管理、比較競争しようとする社会の意識。
全く悲しい現実が見えてきます。















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# by anti-phallus | 2017-08-31 18:33 | フェミニズム | Comments(0)

アイヌのこと

北海道の歴史に興味が湧き、いくつかの点から勉強している。その中でもアイヌの存在は大きい。
今までアイヌについては自分から詳しい勉強をしたことがなく、正確な知識もなかった。ところが北海道の歴史について知る中で、不思議な感覚を味わっている。

沖縄の近代史を勉強して、日本国家の暴力性を学んだ。だが北海道の近代史からは沖縄に対して発動されたのとは異なる暴力性が見て取れる。
沖縄の日本併合、「琉球処分」はあくまでも集権化された琉球王国の「処分」(侵略)だった。一方アイヌは、当時集権化された国家を作っていなかった。アイヌは多くのコタン(集落)に分かれ、それぞれがリーダーをもって生活していた。それが長期にわたる松前藩、江戸幕府からの搾取との戦いの中で弱体化してゆき、明治政府の同化政策で言語や文化を奪われていった。

先日、白老のアイヌ民族博物館においてあった新聞のスクラップブックを見たら、北海道新聞が頻繁にアイヌに関する記事を載せているのに驚いた。それは、道内各地でのアイヌ関連の企画や施策、アイヌ当事者のインタビューなどである。わたしはこれまで新聞でアイヌ関連の報道に触れたことはあまりなかった。北海道新聞の全てを見たわけではないので分からないが、どうも北海道に住んでいるのとそうでないのとでは、アイヌに関する理解度が大きく異なってくるのではないかと想像される。
ここ最近は、ドイツの学術団体が日本にアイヌの遺骨を返還したという報道が新聞のトップニュースになったが、これも、何のことだかよくわからない人が大半だろう。

道外では、「アイヌ民族は滅亡した」というイメージを持っている人が多いのではないだろうか。そこでは差別の対象としてすら意識されていないかもしれない。だが、学んでいくにつれて、このイメージのもつ政治性に気づかされる。現実には、アイヌの血を引くということで葛藤し、悩み、差別を受けている人々がいる。その事実すらも、「アイヌは滅亡した」という多くの人が持つイメージは消失させる。これがナショナリズムの暴力性でなくて何だろう。

また驚いたことの一つに、白老にあるアイヌ民族博物館が来年閉館するという。この博物館は地域の人々が運営している。白老はアイヌの人々が多く住む地域で、戦後、当事者によるアイヌ観光(?)で賑わったらしい。当時の写真を見たら、明るく当事者と観光客が集合写真に写っていて、何とも言えない気分になった。そして小学校に「アイヌの子供がいるか」といって忍び込んでくる者もいたらしく、そういうことを憂いてこの博物館が作られたと博物館のボランティアの方から伺った。施設内にはカフェがあってアイヌ料理も食べられたり、アイヌ伝統の音楽と舞踊を見学できたりする。それが、2020年に国立博物館と公園がオープンするにあたり閉館をやむなくするらしい。2020年というのはオリンピック開催に合わせたものらしく、なんとも唐突な企画だ。この計画を道外の人はどれだけ知っているのか疑問だし、日本政府は今までアイヌに対してどれだけの取り組みをしてきたのだろうか。日本のマジョリティがアイヌについてほとんど知識のない状態は、第一には政府の責任がある。敗戦による大日本帝国解体後も政府は「日本には外国人はいない、要らない」という態度で十分な政策を行っていない。「日本に先住民はいない」と長年言い放ってきた。この無策によって、アイヌの当事者は言語や文化を継承できず、アイヌ語をしゃべられない人が大半だという。

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博物館のボランティアの方のお話では、この国立施設の構想には、教育に関するものが欠けているという。外向けの、参加型展示やら野外ミュージアムなどばかりで、当事者たちが当事者のためにする視点がない。
政府はハコモノ行政を繰り返すのはやめて、アイヌ当事者が文化を継承しアイデンティティを尊重するための教育や、その他の市民への啓発・教育政策から始めるべきではないだろうか。博物館等を作りたいなら、すでに北海道各地に小さいながら地域や当事者の記念館・博物館等はいくつかあるのだから、それらの活動を支援することだってできるはずである。


アイヌ文化の継承は、当事者にとって必要なだけではなく、非当事者にとっても価値がある。今の日本社会が見失っている精神性をアイヌ文化は教えてくれる。自然に対する価値観、個人と家族や共同体との関係性、生死の意味・・。わたしはまだ知り始めたばかりだが、それでもハッとさせられることがとても多い。近代化により周縁化させられた文化や生き方、価値観を取り戻すことは、わたしたちがどのように生きるべきか、生きたいかを考えるために豊かな示唆を与えてくれる。






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# by anti-phallus | 2017-08-07 17:59 | その他 | Comments(0)