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菊地夏野のブログ。こけしネコ。


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ナンシー・フレイザー、コロナ下でのインタビュー「お互いをケアすることは本質的な仕事である」

 ナンシー・フレイザーがこの4月に発表したインタビュー記事を訳しました。ソーシャル・ディスタンス下でコロナとケアについて論じています。これまでフレイザーが論じてきた社会的再生産論をもとに、現在のコロナ危機をどのようにとらえるかがメインのテーマです。
 原文はこちら。




 コロナ禍が巻き起こって、知識人や思想家からどのような社会批評や分析が語られるのか見てきましたが、まずは監視の危険性に警鐘が鳴らされました。各国政府がグローバル大企業とともにコロナを利用して市民を統制し監視を進めるのではないかという不安があるからです。同時に監視の危険に自由を対峙するのでは、感染リスクの高い脆弱な人々を守れない、という批判も生まれました。弱い人々こそ管理により安全の恩恵を得るからです。その結論として、ケアの価値を再発見すべきだという論調があります。

 ですがそれを読んでも、どうも相変わらず男性知識人がケアを称揚しているようにしか見えず、気分が乗りませんでした。ケアは女性的なものとして称揚されますが、実際の負担は女性に課され、安価あるいは無償で担わされます。単にケアの価値を観念的に言うのではなく、実際の社会的配置、経済的意味を含む政治として分析しなくては何も変わりません。

 今世界がこんなにもネオリベラル化していなければ、医療機関が十分に公的援助を得ていれば、ひとびとがみな公的健康保険を得ていれば、また社会が経済より人命と健康を優先する体制であれば、コロナによる被害の規模も大きく変わったでしょう。ケアは単にケアのみではなく、社会全体の構造の中で考えなくてはいけないのです。

 また、フェミニズムの論者がコロナについて論じる時、家庭内の女性の負担が増えたことをのみ強調する傾向もあります。わたしはそれも物足りなく感じていました。ケアは家庭内のみではなく、社会のあらゆるところで、女性たちによって営まれています。そのこと全体を論じなければ、相変わらずの家庭と会社の性別二元論を乗り越えられません。

 フレイザーは、コロナ禍を、このようなケアを軽視して利用するネオリベラリズム、資本主義を見直し、変革する機会として考え直そうと呼びかけています。ロックダウンはされなくても、いまだコロナに生活を制限されている日本の私たちにとっても、あるいはアメリカと違って国民皆保険が(まだ)ある日本だからこそ、読む価値があると思います。


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お互いをケアすることは本質的な仕事である

コロナウィルスが私たちにケアの価値を示しているとき、理論家ナンシー・フレイザーはより社会主義的なフェミニズムの未来を想像するよう求める

2020年4月7日

2016年、ドナルド・トランプの選挙の数ヶ月前、ニュー・スクールの哲学と政治学の教授であり著名な批判理論家ナンシー・フレイザーは、この国は「ケアの危機」に直面していると論じた。ケア・ワークは、フレイザーは「社会的再生産」としてより広く定義しているが、子育てや友人や家族への気遣いから、コミュニティを共同させる社会的つながりの維持まであらゆることを含んでいる。フレイザーは、私たちすべてはそのようなケアに毎日頼っている事実にもかかわらず、私たちの資本主義社会はこのような種類の仕事を低く評価し、そのために少ししか支払わなかったり、当然のことと見なしたりして、後にそれをますます困難にしていると論じている。

感染爆発下で、ケアワークの本質的な性質はより明白にされた。もう私たちのビルに来られなくなった子守や清掃業者によって影で行なわれていたその仕事の価値は、今突然、それなしで生きるよう試みるときになって明白になった。公教育制度からスーパーマーケットまで、私たちが普通は「ケア」と定義しないインフラは今やそのようなものであることが明らかだ。今までは存在にも気づかなかった、見知らぬ者同士の間での相互の助け合いのようなつながりが今や私たちの生命線(ライフライン)だ。だがフレイザーの視点では、私たちはこのシステムがいかにそのような仕事を軽視しているかもまたわかる、それが教員や家事労働者の不安定な条件であれ、エッセンシャル・ワーカーたちがすぐに仕事を行えるための普遍的な子育て支援の欠如であれ。

VICEは社会的孤立の中バーモントの自宅でスーパーの配達を待っているフレイザーに電話した。コロナウィルスがやって来る前から、私たちはこのケアの危機の中にいたが、フレイザーはこの感染爆発を、私たちの資本主義社会の過ちを照らし出す「またたくフラッシュ」のようだと言った。ケア労働の新しい可視性、この現在の瞬間から学べること、また彼女がコロナウィルス以後のより社会主義的なフェミニズムの未来に可能性を見出しているかどうかということについても語り合った。


-------あなたは私たちが長い間「ケアの危機」の中にいると論じてきました。その危機と、この感染症がそれを強化する方法について語ってもらえませんか。

以前私が言ったことは、資本主義社会において、無償だったり、しばしば見えにくいケア経済のすべての側面に対して深いバイアスが存在しているということです。資本、それは我々の社会における巨大な権力の中心であり、その絶対的に必要なケア労働に支払うのを避けようとすることをそのDNAに装備しているようなものです。それはその活動の果実を自由に享受しようとします、例えば誕生し、育てられ、教育を受けた労働者を。それは、例えば労働者が翌日会社に戻る前に休息し補給する家庭生活のそのすべての利益を、支払うことなく欲します。資本主義の歴史における階級闘争の大きな側面はケア労働をめぐるものであり、誰がそれに支払うかということでした。

私が言いたいのは、私たちの近年の資本主義の形式、多くの人々がネオリベラル資本主義と呼ぶものは、コロナ以前からの、この種のケアの危機の「パーフェクトストーム(最悪の事態)」だということです。一方で、それは女性たちを、若い未婚女性だけではなく全ての女性たちを、強力に支払われる労働力へ動員します。同時に、金融セクターの全ては、政府に、彼女・彼らが遠回しに緊縮と呼ぶ方法を設定するために社会的支出を削減するよう大きな圧力をかけます。

そのため今や、女性はより多くの時間を賃労働に捧げることを期待されている一方で、政府の支出は、ひょっとしたらたるみを引き締めるだろう社会的支援をますます減らしています。さらに、純利潤の倍増にもかかわらず実質賃金が下降していることを付け加えることができます。それはあらゆる世帯が、世帯を養うための同等の収入を得るだけのためにより長時間の賃労働を求められることを意味しています。これは正念場だともいえます。このような状況下で誰が支払われないケア労働を供給するのでしょうか?私たちはコロナよりずっと以前から社会的再生産セクター全体の大きな苦境に立っています。


---------では現在の展開をどのように見ていますか?

ある意味コロナは、私たちが負う莫大なコストを示しています、社会的再生産の支払われない費用を。それは少なくとも何十年間も蓄積されています。公共の健康のインフラへの投資の減少についての問いも含めて、何十年間も関心も費用も注がれませんでした。そのことが今現在、とても重大なのです。危機が頂点に達しつつあり、今や爆発しそうです。

既にコロナ以前からケアの危機に直面しているのは、社会的再生産へのこの不十分な投資と、利潤志向のセクターへのより多くのエネルギーと資源と人間の能力の傾注のためです。ネオリベラリズムの時代におけるコロナウィルスは、社会主義フェミニズムによる社会の再組織化のための絶対的な責務を示す教訓です。それは災害資本主義という考え方に新しい意味合いを与えます。この災害は外部から来たもので、資本主義はそれをうまく取り扱えないということではないのです。それは災害そのものです。


---------資本主義下におけるケア労働はその不可視性により定義されます。ですが、コロナウィルスはあらゆる者を社会的に孤立させるため、子どもは学校から家に送られ、家事労働者は仕事に来ず、家族は家にいなければならない。今やすべての人々がケアの義務に向き合わなければなりません。この感染爆発を、ケア労働がこれまでになく可視化される時だと思いますか?

そう思います。あるいは少なくとも大部分はそうでしょう。人々の生活の中身や、家庭をやりくりしているこれらの条件に注目させるでしょう。理論上は今家にいる人々はケア労働の家庭での前線のための時間があります。ですが他方では、すべての物を消毒したり、在宅教育や、普通は家にいない子どもたちの相手をするといった全くの新しい負担があります。多くの人々は在宅で仕事をし、なんとかやりくりしています。さらに、普段なら24時間共に過ごしはしない人々と制限された空間にいることを含む、誰もがさらされているストレスのレベル、それとこれもケア労働の一部である心配事を加えることができます。

ケア労働の他の側面は、このような家庭内の家族に関わる事柄にのみ定義すべきではないということです。公共の健康のシステム全体もまたケアの一部です。スポットライトは、それが過少投資によって悪化することが許されてきたこととその方法に当てられています。したがって、私はケア労働を、洗濯などだけではなく、広く教育、健康、普段は家庭外で公的な雇用者によって行われていたすべての機能を含めて定義します。

健康の領域は、私たちが健康の支援について狭く考えていたという意味で、全く新しい種類の可視性を集めています。誰が健康保険を持っていて誰が持っていないのか、誰が病院に行けて誰が行けないのか、誰が中絶にアクセスできて誰ができないのか、私たちは考え続けています。けれども私たちが今目にしているのは、インフラ面であり、それは病院やクリニック、個人の防護装置、換気装置を含みます。これらすべてはケアを可能にする物質的なインフラの部分ですので、普段ケアを行うと考えられている人々ではなく、サプライチェーン(供給網)が動くよう維持しているすべての人々のことです。

ケアが可視化されただけではありません。私たちは、生産と再生産があまりに絡まり合っているため、この物質的なインフラなしには私たちはケアできないことを目にしつつあるのだと私は考えています。そして、それが利潤向け生産システムに基づいて組織されている程度まで、あらゆる種類の巨大な不合理性があり、それはケアの必要性に関してサプライチェーンの崩壊の原因となります。それが私がこれらすべてのことから得た最も重要な洞察です。特に私たち社会主義フェミニストは、ケアの重要性についていつもいやになるほど指摘してきました。あなたの言ったことは正しい、確かにそれは明白になりました。ですが私はこのことの他の側面を目にしていると考えます。生産システムがケア労働に依存しているのではなく、ケア労働が生産システムに依存しているのです。この瞬間に、そのことが、これら全てが資本主義の利潤志向システム下で展開するという意味で鍵となる障害であり不合理性です。


---------そしてそれはヘルスケアを超えていますね。

その通りです。食料システムを回転させ、汚染されないように維持することや、誰がエッセンシャル・ワーカーで誰がそうでないのか、こういったこと全てが本当に、社会主義フェミニズムの分析を必要としています。


---------いくつかの州では、現在、スーパーマーケットの労働者をエッセンシャルな職員として、彼女・彼らに無料の子育て支援を提供し始めています。彼女・彼らの仕事が突然価値あるものとみなされたとき、その子育て支援やヘルスケアのような彼女・彼らへのケアの必要性も同様に認められたのです。これらのことから、資本主義下でケアが機能するあり方について何が言えるでしょうか?

ここには多くの学ばれるべき教訓があり、特定のケースというよりも広く応用することができます。スーパーの労働者に関する特定の例をあげてくれました。コロナウィルスの条件下では誰もが、なぜ彼女・彼らの仕事がそれほど不可欠であり、彼女・彼らがその仕事を行えるように子育てなどを含むどんなことでもしなくてはいけないことを理解しています。このフラッシュの中で明らかになったことです。すべての理解を照らし出しています。けれど鍵となる問いは、どのようにこの照らし出した灯りを広く用いるかということです。

この最悪の状況を克服した後、私たちはどうすべきでしょうか?学んだことを理解し何か重要な社会的変化につなげられるでしょうか?なぜ私たちは不可欠でない仕事を人々にさせているのかということです。そもそもなぜ私たちは不可欠でない仕事をしているのか、なぜ休暇を取らないのでしょうか?なぜ人々が行うすべてのことが不可欠であるように構想されていないのでしょうか、さらになぜ子どものケアは全員一律に入手可能な明らかなこととして当然視されているのでしょうか?これらはあなたが学べるレッスンであり、またもちろんこれらの異端でスキャンダラスでラディカルな考えを抱いた多数の左翼があちこちでしばしの間、存在しました。そのグループに、バーニー・サンダースを入れましょう。これらの人々は今、より多くの聴衆を得ています。危機に関するひとつのことは、人々に箱の外部を考えさせることです。有害で役に立たないことが余りに明らかな古いブロマイドを頼りにしてはいけません。だからこのような時代には、とてもラディカルな考えにより多く耳が傾けられるのです。すごいことです。そして、私たちすべてがその機会に応え、共に考え、新しい社会、別の側から生まれる新しい方法のためのある種のビジョンを発展させるよう挑戦することが重要です。これが進むべき道であると、より広い層に納得してもらう戦略が必要です。


---------新しい理解に関していえば、ある人々は核家族ではなく、隣人や友人、他人からの相互の援助に頼っています。これはケアを、必ずしも家族の単位に結びつけられる必要のない、市場の測定基準を超えて価値のあるものとして再定義できる局面と言えるのでしょうか?

コロナウィルスより前も、その間も、おそらくその後も、現実にはケアは決して私的な家庭の壁の中には限定されませんでした。それは決して家族の状況に独占されませんでした。しかし頭の中で、ひとびとはいつも家庭、母親、主婦に結びつけて考えています。また私は、このことがもう一つのフラッシュだと、コロナウィルスが空を明るくしそのことを示しているようだと思っています。それはまさに私たちに、近くにいる人々に頼るよう求めています。それは窓越しにでも、関係性を築くことを可能にしました、私の食料を運んでくれるこの女性のように。

このような相互依存のネットワークは、じっさいに、人々に運命が一緒に結ばれているように、よりつながりを感じさせることができます。ソーシャル・ディスタンスはそのためのある種のテストなのかとあなたは聞きました。すべての人々のケアを同時にすることなしには、あなたがいかに自分や家族の健康をケアできないか分かるでしょう。繰り返しましょう、公共の健康と個人の健康の間のつながりは全て、普通の日常生活では明らかにならないやり方で明るみに照らし出されました。それがパンデミック(感染爆発)の本質です。

この衝撃はより広い連帯に向けられていますが、他方でこの種のサバイバリズムも目にします。カリフォルニアではなくニューヨークがどのようにこのような換気装置を得ることができるか考えなければいけません。このことは個人的な、より小さなレベルでもあります。トイレットペーパーやマスクをどのように確保するか。両方のことが同時に進行しています。そこでの問いは、どうやって、現れ、それを強調するより良い衝撃を引き出せるかということです。私たちは、それがどこに導くのか、なぜ制限的で自己防衛的な生存方法は不合理なのか示す必要があるのです。


















by anti-phallus | 2020-10-21 15:29 | フェミニズム