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杉田水脈発言の問題性をどう考えるべきか

 前エントリで書いたBBC番組「Japan's Secret Shame(日本の秘められた真実)」を見ました。伊藤詩織さんの気持ちに寄り添って、かつドキュメンタリーとしての詳細な調査もそなえた良い番組でした。最後のあたりで詩織さんと別の被害に遭われた方が語っているところでは、力をもらいました。
 そのなかで杉田水脈議員が事件について詩織さんを批判している問題の場面ですが、「伊藤さんには女の落ち度がある」と確かに言っていました。「女性が働いていれば嫌な人にも声をかけられる、それをきっちり断るのもスキルのうち」「自分もそういうことは山ほどあるが、それはそういうものかなって」そして、「日本の司法が山口さんを訴えないという判断をしたのだから、それを疑うというのは司法を疑うということ」「司法に対する侮辱」「日本の警察は世界一優秀」「伊藤さんが嘘の主張をしたために、山口さんに抗議が殺到した。男性の方が被害を被っている」と言っていて、この人は本当に権力が好きなんだなと痛感しました。司法が全く間違いを犯さないという信念をどうやってもてるのでしょうか。司法といえども人間のやること。間違いを犯さない人間がどこにいるでしょうか。

 しかし、こうして問題となってニュースにもなって改めて発言を見るとひどさが分かりやすいけれど、何度も考えていると、どうしても、日常的によく出会う発言に見えてきてしまいます。授業で性暴力を取り上げると、受講者からかえってくる反応に必ずこういうものがあるのです。

 新潮45の寄稿でも、「もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレズビアンだったりしても、私自身は気にせず付き合えます。職場でも仕事さえできれば問題ありません」とあります。杉田議員は、このように自らは「差別していない」というポーズをとりながら、「生産性のないLGBTカップルに社会的支援を行うのはおかしい」としています。そもそも「LGBTカップルへの社会的支援」が具体的に何を意味しているのか不明です。同性パートナーシップを承認する条例等のことを言っているのでしょうか。「LGBTカップルに税金を使う」ことに反対をしていますが、カップルの証明書の発行に要する紙代や印刷代のことでしょうか。だとするとずいぶんセコい話に聞こえますが・・。それともその業務を扱う公務員の人件費のことでしょうか。わざわざ同性カップルの証明書発行にだけ臨時であれ公務員を雇う自治体はあまり想像できませんが・・。それ以前の前提として、同性パートナーシップの条例はあくまで同性のカップル対象のものですから、トランスジェンダーのカテゴリーとは直接関係ない話ですし(戸籍変更してないトランスで、同性愛者の場合は別ですが)。
 政策論だというのなら現状をきちんと把握してからすべきですね。

 それはともかく、杉田議員のようにLGBTと生産性を結びつける議論は、LGBTの権利を擁護しようとする文脈でも使われます。「能力の高い、生産性の高いLGBTを企業は高く評価すべきだ」という言い方ですね。ダイバーシティ(多様性)という言葉と結びつけて語られます。前述のくだりから想像するに、杉田議員はおそらくこの論理には賛成するんじゃないかと思いますが、今回の杉田発言を問題視した人々はどうなのでしょうか。「子どもの生産つまり再生産ができないからLGBT支援は不要」という論理に反対する人でも、「企業等で利益を上げるという意味での生産性」によってLGBTを評価する、という論理には賛成する人も一定程度いますよね。
 そしてこれは女性についてもいえることです。ずっとこのブログで論じてきていることですが、「能力の高い女性を正当に評価すべき」という論理がフェミニズムの内部にある程度根付いているわけですが、その論理では行けるところまでしか行けない。その「能力」を決めているのはそもそも誰なのか、どういう根拠に基づいて決められた「能力」なのかということまで考えないと自由には届きません。


 問題は私たちがいかに杉田的な論理から自由になるか、ということなのだと思います。生産性で人を評価し、処遇に差をつける社会があり、生産性を基準に作られている社会がある。そのことを認めた上で、そうでないものをどうやって作っていくかを考えないと、単に杉田発言を批判してもアリバイにしか見えません。運動内部であっても、当事者に序列がつけられ、生産性を強要されることはあります。杉田的な論理を自分たちの内部にあるものとして批判しないといけないのでしょう。

 そして、この発言をしたのが女性政治家だということにも注意すべき。近年ジェンダー論(海妻径子さんら)で議論されている女性保守政治家の台頭の問題です。保守の男性政治家同様に、さらにはそれ以上に過激な右寄りの攻撃性を表現する女性たち。これがジェンダー秩序の変容の基本的な一要素であり、単なる「男女平等」を示す指標と単純化してはならないこと。再生産を強要される女性という立場に立ってあえて再生産能力によって社会的支援の必要性を決定しようとすることの不気味さと、あるいはそれゆえの訴求力。男性がそれを言うより批判しにくくなります。今回それを言った杉田さんがまだ政治家としての権力がそこまで大きくないからいいようなものの、もっと人気のあるポピュラーな女性政治家が同じことを言ったら世論はどう反応するのでしょうか。


 最後に、前にも触れた優生保護法下の強制不妊手術等について「優生手術に対して謝罪を求める会」らが開催した集会で採択されたアピールが良かったので、掲載しておきます。

**************************************

2018.7.28 優生保護法に私たちはどう向き合うのか? 集会宣言

1. 国は優生保護法の人権侵害に早急な謝罪と補償を
優生保護法は、多くの人々の人権を侵害し、法改正から22年たった現在も、さまざまな影響を及ぼしています。
優生思想に基づく不妊手術(卵管や精管の結紮、切除)と人工妊娠中絶によって、さらに、法が認めた手術に違反して行われた子宮や卵巣、睾丸の摘出等によって、性と生殖に関する自己決定権や尊厳を否定された人々がいます。その当事者たちは、今も大きな苦しみを抱えています。
優生保護法によって、障害をもつ人への差別が正当化され社会に深く浸透しました。「不良な子孫」と決めつけられた人の「性と生殖の健康/権利」は、現在も奪われたままです。障害に対する否定的なイメージが強調され、障害者は不幸、障害は避けなければいけないという圧力は強まってさえいます。
国は優生保護法によって人権を侵害されたすべての人、とりわけ、第3条、第4条、第12条、第14条によって不妊手術や人工妊娠中絶を強制・強要された被害者に対して、心からの謝罪と補償を早急におこなうべきです。
2. 国は優生保護法による人権侵害の全容について調査検証を
20年以上、国が実態調査に取り組まなかったために、すでに多くの資料が捨てられてしまいました。国は直ちに、第三者的な調査・検証委員会を設けるべきです。
優生保護法による人権侵害の全容を明らかにする調査においては、法が定めた手術とともに、子宮摘出など同法の範囲を逸脱した行為も対象としてください。
3. 国は優生保護法への反省にもとづき、差別を解消する施策を
優生保護法による被害を風化させず、二度と繰り返さないために、市民、とくに医療従事者、教育・福祉関係者等が優生保護法の問題点を知り、差別解消に向けて学ぶ必要があります。
障害があってもなくても、誰もが、産むか産まないか、子どもをもつかもたないかを自分で決められること、どんな選択もサポートされ、性的指向やセクシュアリティも尊重されること、生まれる子に障害があってもなくても、育てる上で格差や差別がないこと……これらを実現する施策が求められます。

私たちは以上のことを強く求めます。

2018年7月28日
「優生保護法に私たちはどう向き合うのか?」集会参加者
























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# by anti-phallus | 2018-08-07 17:12 | つれづれ | Comments(0)

権力の言語としての杉田水脈発言:ナショナリズムと性・生殖

 杉田水脈という自民党の議員の発言が問題になっている。おととい金曜には東京で大きな抗議行動が行われ、大阪や全国各地でも同様の動きがあった。
 この騒ぎは伊藤詩織さんのセクハラ被害に関連したもので、イギリスのBBCがそれについて放映した中で杉田議員はセカンドレイプ発言(セクハラにあうのは女の落ち度論)をしたようだ。この番組はまだ見れていないのだけど、そもそもBBCはなんで杉田議員など出したのかよく分からないのだけど、なんとかして見てみたい。
 そして批判がさらに大きくなったのは、雑誌「新潮45」のなかで、朝日新聞バッシング特集があり、杉田さんの投稿が載っていて、そのなかで「LGBTは生産性がないから社会的支援をするのはおかしい」と発言していたことだ。

 「生産性」という言葉がキーワードになって、多くの人が怒っている。
 このこと自体はとても嬉しいというかほっとした。ただ、この批判が一過性のものにならないように、ということを感じている。
 おそらく杉田議員の言っていることは、二面性があって、ゴリゴリの右翼でない限り、「これはちょっとおかしいんじゃないの」と感じることのできる過激な主張だ。だが同時に、どこか否定しきれない強さがある。それは、社会の現実の一面に根ざした強さである。その強さが、杉田氏の主張を批判することをためらわせるため、杉田氏はここまでやってこれたのだろう。

 そもそも今回の抗議行動で若干驚いてしまったのは、「生産性」という言葉にこれほど多くの人が怒ることができる、ということだった。というのは、朝日新聞で右派の藤岡信勝氏が「生産性という言葉は単なる政策論の言葉で、杉田氏独自のものではない」と擁護してたけど、確かにその通りで、「生産性」は戦後ずっと普通に使われてきた言葉だ、特に経済論議で。もちろん今回の文脈は「LGBTは子どもを作れない(これ自体間違っているのだけど)」という意味で使われているので、一般企業で使われる生産性の意味とは異なる。ジェンダー論的にはこれは「再生産」といわれるもので、普通に商品やサービスを作り出すことが「生産」、子どもの出産や労働者の心身を休息させまた働けるようにすること(家事や子育て・介護など)は「再生産」という。
 おそらく、多くの人が怒ったのは、労働現場で限りなく「生産性」を求められ疲弊している現在、その言葉がひとびとの「私的な」性生活(再生産の領域)にまで適用され、ある種の生き方が排除されるべきだと杉田氏が主張していることだろう。


 わたしは、近年、杉田氏的な生産領域、再生産領域共に「生産性」を求める風潮、思考が高まっていると感じていたので、今回の抗議行動の広がりに少し驚くと共に、安心している。
 例えば先日、ジェンダーの授業で、年金3号の問題を取り上げた時に、女子学生が、「子どもを産んだ女性には国が金を払って当然と男子が言っていた」とショックを受けていた。
 多分この発言をした男子学生の主張は、出産した女性に報酬、というものなので、杉田氏とは少しだけ違う。杉田氏の論は「国民は国のために生きて当然」というものなので、出産も国民として当然の義務、と考えるだろうから、お金を払うべきだとはいわないだろう。何しろ杉田氏は保育所の設置に反対しているらしい。産むだけ産ませといて後は知らん、自力で育てろ、とはさすがにわたしもびっくりしたが・・。とはいえ、出産を国民の、女性の義務的な行為として捉えている点ではこの男子学生も杉田氏も共通の立場だ。

 そして、この二者の発想は何も特殊なものではない。人々の性や生殖は最終的には国のためにあるという考えはナショナリズムの中心にある論理だ。それを分かりやすく教えてくれるのが、今問題になっている優生保護法下での強制不妊手術である。戦後、1996年まで存在した優生保護法下で、障害者を始め「生殖や子育ての能力がない」と判断された人々(杉田氏的には「生産性のない人々」)は、強制的に、あるいはギリギリの同意で、強制不妊手術をされた(昨年来、マスコミで連日報じられているから知らない人は調べて下さい)。しかも当時、「不幸な子どもを産まない運動」が国と自治体によって展開されたというから本当に恐ろしい。国が個人の「幸福」や「不幸」を定義して、存在自体を左右してよいとされている・・。これは戦前のことではなく、戦後の1960~70年代のことである。
 例えば下記記事。







 この性と生殖のナショナリズムを実践した優生保護法が1990年代に廃止されたというのは重要な点だ。1990年代はジェンダーとセクシュアリティに関して新しい動きが出た時代である。しかしその後、ネオリベラリズムが全面展開されていき、「性と生殖に関する自由」(リプロダクティブ・フリーダムという国際的な女性運動の用語)の理念は忘れられ、少子化危機があおられ、労働現場でのぎりぎりまでの労働者の酷使の恒常化とともに、少子高齢化社会を救うのは女性が子どもを産むこと、という認識が増大している。優生保護法はなくなったけど、中絶を犯罪とする刑法堕胎罪については議論にも上らず、「卵活」「妊活」と称して「自己決定」の名の下に新たな優生思想が広がっている。

 繰り返しになるが、杉田議員の発言は特殊なものではない、おそらく自民党や維新系の政治家はほとんどが本音では肯定するだろう。ただし彼らは表立っては言わない。公言してしまったら彼らの嫌う「朝日新聞」らリベラル系に叩かれて、政治的にマイナスだから。杉田議員の主張は「権力志向の男性の本音」なのだ。往往にして、女性は男性的な「本音と建前を使い分ける政治」に慣れていない。だから男性の本音を公言してくれる女性を彼らはもてはやす。その代表が杉田氏を絶賛しているという安倍首相だ。杉田氏と同様の国家観・政治観を持っていながら決してストレートには出さない安倍首相。彼のこのずるさが政治生命を延ばしている。そして彼・彼女らの「権力の言語」が私たちの社会をむしばんでいる。
 今回の発言のように、普通はおおっぴらには言いにくいけど社会の一部に根付いている差別的発想は、繰り返し繰り返し、違うと言っていかないとなくならない。LGBTは子どもを生まないから社会に貢献しない、女性は子どもを生まなくてはいけない、障害者は人に迷惑をかけるからおとなしくすべき等々弱者を攻撃し、お互いに縛りあい、「国家」という幻想だけが輝く社会になってしまう。

 「生産性」は国が決めるものではないし、私たちは「生産性」のために生きているのではない。しかし、権力の言語は常に間隙を縫って社会を支配しようとするし、私たちはそれへの批判をせまられる。杉田議員の問題は一議員の問題ではない。私たちの現在の政治、経済、あるいはもっと長いスパンで批判されるべき歴史全体への問いがはだかっている。






















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# by anti-phallus | 2018-07-29 11:16 | クィア/LGBT | Comments(0)

日本はもう男女平等になったのか?

 最近、ポストフェミニズム論ということで書いている。先日来、逃げ恥というドラマをテーマに分析したものを発表してきている。なぜポストフェミニズム研究をしているかというと、院生時代からやっている「慰安婦」問題や戦争と性暴力の問題では言いにくいものが広がっていると感じたからだ。
 過去の性暴力の問題だと、現在の性差別の存在について直接指摘しづらい。基本的に皆、「昔の差別の問題」に今どう向き合うか、という姿勢で考えている。そして、戦争がらみの問題なら「マクロな政治の問題」だから下手なことを言えない、という感じで、建前的に立派なことを言いたがる。
 だが、性差別や性暴力は本当に昔のことなのだろうか?そんなわけがない。財務省の副次官が典型的なセクハラ発言をしていたことが明らかになっても、政治的に大した影響もなく忘れられようとしているし、男女の賃金格差はいまだ2倍もの大きさだ。
 ところが、逃げ恥批判やポストフェミニズムの発表をしていると、「もう若い世代の男性はセクハラ発言などしない」と言ってくるひとがいる。また、論文にもした「女子力」アンケートを発表したら「これは愛知だけの結果で、東京ではこんな保守的な結果にはならない」と言われたこともある。どれも階層の高い若手男性研究者から言われたことだが、一方で、同席した女性若手研究者は、後でこっそりとわたしに打ち明けてくる。自分が女性であることで抑圧的な発言をされること、バイト先で女性性を強要されること、結婚や子育ての圧力に苦しんでいること・・。
 おそらく、女性差別などない、というテーゼは、年齢や世代を問わず男性の立場にいると信じたい願望なのだろう。その陰で女性たちは我慢している。20代前半の就職したての女性から聞いたのは、普段、同世代も含めた男性を立てるようにとても気を使っていること、そして男性たちは全然それに気づいていないこと。
 現代の特徴は、このような性差別的な状況に対して集合的に異議申し立てしにくいことだ。男性の多くは女性差別はもう終わった、特に若い世代は差別意識はない、と思っているし、また、女性でもそう思っている人も多い。
 先日、結婚や出産でも退職しない女性労働者の割合が増えた、という報道があったが、そういった変化も男女平等の証拠とされる。だが本当にそうだろうか?単に、女性も働かないと経済的に苦しくなったからではないだろうか?女性労働者の正社員率はどんどん減っている。今や過半数は非正規である。どうしてこちらの事実はマスコミはクローズアップしないのだろうか。

 みな女性は自由になったという幻想を信じたがっている。現実の差別に気づくのは精神的につらいことだから。差別はどこか遠いところ、自分とは直接関係ないところにあると思っていた方が楽だから。だが、その幻想の大きさに触れれば触れるほど、私は怖くなる。それだけ現実が厳しいことを示しているから。幻想の大きさの陰で苦しむひとがどんどん増えるから。
 「差別は終わった」と考えている男性にも、目を覚ましてほしい。そう考えている限り、世界の半面、いやごく一部しか見えないのだし、自分の中の何かをも抑圧しているのだから。









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# by anti-phallus | 2018-07-08 12:18 | つれづれ | Comments(0)

ノーベル文学賞と財務省セクハラと

 #MeTooの展開が止まらず、今日の新聞ではアカデミー賞の選考委員会関係者のレイプ疑惑により今年の文学賞見送りと報じている。朝日も中日も「ハルキスト『寂しい』」などというタイトルを記事につけていてげっそりだが、「女性に優しい」を売りにしている村上春樹のファンならばこのアカデミーの決断を誉めたたえるべきではないかと思うが違うらしい。まあ春樹氏はそのイメージとは裏腹に、実際の作品ではホモフォビアははなはだしいし、結局は男性主人公がいかに「素敵な女性」とセックスするかが目標となっている作品が多いので、個人的には春樹ファンはセクハラの告発など関心薄いだろうなとも思う。
 ノーベル文学賞など権威中の権威で、権威の裏にはハラスメントや抑圧、暴力はつきものだからこれはなるべくしてなった事態だ。権威に憧れる人々は、それが何の犠牲の上に成り立っているのか振り返るべきだろう。
 同じ紙面に、麻生財務相が「セクハラ罪ない」として福田財務事務次官の辞任について「役所に迷惑をかけたとか品位を傷つけたとかいろんな表現があるが、(そういう理由で)処分した」と述べたという記事も載っている。この発言は、麻生氏はこの段でも福田氏の言い分を聞かないといけないと主張していることと併せて、福田氏への減給処分はセクハラそのものを理由とするのではない、というニュアンスを伝えている。
 こんなにもレベルの低い政治家を財務相という重要な省のトップに置き続ける首相には驚きである。
 こういうひとには、女性の人権という概念はまったくありえないのだろう。セクハラの背景には、職場や社会的な場で、女性を対等な人格ではなく「性の対象」とみる意識がある。こういう人は基本的に職場や社会は「男のもの」だと思っているから、そこに出現する女性の存在は見えないか、見えても「職場の花」「癒し」などどいう二次的な存在としか感知できない。
 性差別は他の差別と比べると特殊で、非常にわかりにくい。例えば人種的あるいは民族的マイノリティへの差別の場合、基本的にその形は排除や攻撃になる。在日コリアンへのヘイトスピーチやアメリカにおける黒人差別などがそう。そういう場合、集団対集団(日本人対コリアン、白人対黒人)という形になるので、排他性も見えやすい。だが女性差別の場合はそうではない。「自分はフェミニスト」などと自称している男性が、セクハラを繰り返す、ということがよくあるわけである。(自分の気に入りの)女性にちやほやし、甘やかす男性が、ある時には手のひらを返して女性を攻撃する、ということがある。これがヘテロセクシズムの恐ろしさ、わかりにくさ。
 麻生氏のような人物にとっては、政治は「選ばれた男性の素晴らしき世界」なのだから、仲間への批判など、とくに女性からの抗議など許されないのだろう。「国に尽くす男性」にとって女性をからかって気晴らしをするのは「目くじらをたてるほどのことではない」と考えているのではないだろうか。こういうひとは「自分たち男性は国のためみんなのために苦労しているのだから女に尽くされるのは当然」だと思っている。
 セクハラを告発した女性記者にとっては財務省の責任者に呼ばれ会食する機会は、自分の記者としての腕が試される大事なチャンスだったろう。多少嫌な思いをしてもがんばって「ネタ」をとらねばと思っただろう。それが、実際行ってみたら自分が呼ばれたのはそのようなものではなく、やはり「女をバカにして気晴らしをする」ためだったと知り、どれだけ愕然としたか想像に難くない。「自分が女性である限り、いくら頑張ってもこういう目にあう」と絶望したのではないか。こういう場合、「軽くかわして気にせず次につなげる」と考える女性も確かにいる。(そうすることも彼女の選択だからそれ自体が悪くはない。だが積もり積もればそういう選択は彼女自身を抑圧していくだろう。)だが彼女はそうする道を選ばず、抗議する道を選んだ。これは明確なフェミニズムですね。告発がどれだけ上手くいっても、傷を負わない告発者はいない。どれだけかの程度で必ず嫌な思いはする。それを分かった上で告発するのは、自分と同じ嫌な思いを他の女性、男性にさせたくないから。伊藤詩織さんも「妹に同じ目に遭わせたくないから告発した」と書いている。
 セクハラ、といわれると遠く感じるひともいるだろうが、「軽い差別」なら誰でも経験しているのではないか。職場で、同じ発言をしても女性である自分が言うのと男性が言うのでは周囲の反応が違ったり。「モノを言う女性」に対して日本社会はとにかく厳しい。「モノを言う男性」にすら肯定的ではないが、男性ならばある程度の条件をクリアすれば「できる男性」として優遇されていくが、女性の場合意思表示をすると男社会は徹底的に潰す。みんなそれを知っているから女性たちは主張するのを控える(これは日本に女性管理職や政治家が増えない主因ですね)し、男性を「立てる」。多くの男性は「立てられている」「気を遣われている」のに慣れっこで、改めて気付きもしないだろう。こんなでは人権意識など育ちようもない。
 「#MeToo」に注目が当たるせいでテレビでも取り上げられたりしているが、その報道ぶりは玉石混交で「玉」は少ない。昨日など某N◯Kで、あるワンフレーズで有名になった教育関係者(なんで彼があれだけ持ち上げられているのかも私にはさっぱりわからないのだが)をゲストに呼んでセクハラについてトークさせていたがあまりにひどいので脱力した。女性ゲストが真っ当なことを言っているのに対してその教育評論家?はまるで自分が責められているかのように怯えた態度で、最後には「私の目標は目の前で向かい合って仕事している女性をいかに隣に引っ張ってくるかでしたが云々」「距離が近い方がいい人もいれば遠いのがいいという人もいる」とか茫漠としたことを言ってその話は終わってしまった。セクハラの話になるとこのように妙に防御的になる男性がいるが、こういうひとに公共の電波を分け与えるのはやめてほしい。そういう資源は被害者など当事者の女性に与えてほしいと思ったのである(群ようこ風)。










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# by anti-phallus | 2018-05-05 14:57 | フェミニズム | Comments(0)

2018年の3月11日に

今年の3.11には地元でデモに参加できました。
2011以来、3月11日になるとどうもウツになって、1日の終わりには「無事過ぎたか・・」と妙な安堵感を感じるというのを経験してきました。自分にとってあの日以来世界が大きく変わったように思います。あれから7年間、自分はどう過ごしてきたのか考えてみると、最初の何年間かはなんとか仕事と生活をこなしてきたという感じでしょうか。事故の直後はもうてんやわんやで、連絡の取れなくなった家族の心配や、事故がどうなるのか分からず無我夢中でした。でも名古屋や関西のひとびと(の多く)はそれほどいつもと変わらないようで、4月には普通に大学の授業も始まるし、東北出身の自分との差を感じる時期でした。

菅元首相の脱(正確には減)原発宣言は嬉しい出来事でした。その後はどんどんそれを裏切る政治の流れの中で、自分の仕事も忙しくなり、震災と原発のことに向き合えない罪悪感が募るばかりでした。最近やっと心を決して少しでもできることをしようとしています。向き合うのはしんどいと感じてきましたが、逆に向き合ってしまえば心は軽くなるものですね。まあ元気のないときは向き合ってもつらいだけだからやめたほうがいいですけどね。

向き合うといってもとりあえず調べてるだけですが、これがけっこう大変です。福島原発が今どうなっているかということも公表されていないからよく分からないし、放射能汚染の実態も同じ。というか、私が一番怖いのは、この何も公表されていない、という感覚なんですね。大規模な原発事故は、世界でチェルノブイリに続く2回目で未知の領域ですから、誰も分かっていないわけです。放射能が人体にどういう影響を及ぼすのか、明確なデータはありません。ですがだからこそ、この事故の影響を最大限漏らさず正確に調べ続け、対策を練り続けることが必要なはずなのに、政府や関連学者は「影響は小さい」と繰り返して調査すらもう終わらせようとしている様子。

「国家規模」の隠蔽工作、というと大げさで嫌ですがそれに近い状況になってきているような・・・。




2016年時点のもので、動植物への被曝の影響を、チェルノブイリと比較しながら紹介しています。人間への影響は分からないとしていますが、動植物にこんなに影響が出ているのに、人間に対して無害だということはあり得ないでしょう。
こういう番組を見ることすらとても怖い。だから多くの人々は目を背けてしまうでしょう。でも完全に逃げることはできないでしょう。

被曝を語るときによく言われるのが子どもを守る、というスローガンです。ですが、守られるべきは本当には子どもだけではないでしょう。被曝は全ての生き物にとって有害です。大人だろうと誰であろうと。ただ、影響が出やすいのが子どもだから、子どもをとくに守ろうとするのは間違っていません。当然のことです。ですがそれを聞くたびに、違和感があり・・。わたしたちは、自分自身の問題として被曝を拒否すべきなのではないでしょうか。私たち自身が危ないのです。年寄りなら被曝を引き受けるべきだという議論がありますが、それは暴論ではないでしょうか、私たち自身の問題として被曝を拒否しなければ、子どもも守れないのではないかと思うのです。

フクシマの事故後、他の国の動きを見ると、ドイツが脱原発へ向かったり、ベトナムが日本からの原発輸入を断ったりしているものの、チェルノイブイリを経験したロシアなど旧ソ連諸国がやめるどころかさらに原発拡大を進めていることを知ると、恐ろしくなります。一人ひとりの健康や安全よりも、国と大企業の権力と利益のほうが優先される現実。


この規模の大きい原発という問題に立ち向かうにはあまりに無力感を感じる。でも生きていく以上、自分で納得のいくことをしないと辛いのも事実。どうなるのか分かりませんが、考えることだけは少なくともしていこうと思います。







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# by anti-phallus | 2018-04-12 17:00 | 原発/震災 | Comments(0)

#MeToo

#MeTooの動きから目を離せない。アメリカ映画界から始まった動きが各界に広がっている。政界に関する報道もあります(朝日の記事)。

 アリッサ・ミラノ始めハリウッドの有名女優がそろって参加しているから、日本の若い人々にもそれなりの大きなインパクトがあるものでしょう。しかもカトリーヌ・ドヌーブやブリジッド・バルドーら往年のフランス・スターまで参戦した。まあドヌーブやBBと言っても今や知る人しか知らないかもしれないけど、わたしはなぜか高校・学生時代少しフランス映画にはまっていた(当時目新しかったBSチャンネルでしょっちゅう放映されてた)ので、なつかしかった。ドヌーブらはMeTooの運動に対して反対したのですが、その後、批判を受けてセクハラ被害者に対して謝罪したようです。ドヌーブとしては、性暴力・性被害は当然良くないが、映画を始め表現に対する魔女狩りのような規制には反対だ、と自分の立場を明確にしました。




 というわけで、この米仏の論争は、セクハラ・性暴力自体については良くないことは当然だという共通理解がある程度できたけど、映画や美術界における性表現や「ジェンダー問題」についてはまだ争点となっているようです。例えば、女性の裸が描かれた絵をイギリスの美術館が撤去したという件などがよく報じられています。



 こちらの映画や美術に関する問題については、日本の反応を見ても撤去に否定的なものが多いようです。ですが、美術作品といえば女性の裸のオンパレードなのは誰でも知っていることで、そこにどのようなジェンダーをめぐるポリティクスが働いているか、考えてみることは大切。美術館だけでなく街ですらたまにおかれている彫像などにも女性の裸は展示されています。これをどう考えるか。一切撤去すべきなのか?だとするとわたしたちの美術・芸術の歴史はその多くがお蔵入りすることでしょう。それとも、この歴史を素材に、新たな、別な視線にもとづいた美術作品を発掘したり、創造したりという方向に向かうのか、議論の行き着く結論はひとつではありません。
 上記のイギリスの例は、国や行政などの一方的な命令によるものでもなさそうですし、美術館側が問題提起として行った一時的な措置のようですから、議論のきっかけとして歓迎すべきではないかと思います。
 映画の方を見ると、ルイス・ブニュエル、大島渚、ナボコフらの映画が性差別的だとして批判されたりしているようですが、こういうことにドヌーブらが反発したのは業界人として当然の行動でしょう。



わたしも一方的に禁じられるのはおかしいと思いますが、彼らは「大監督」として権威化され、持ち上げられてきている表現者たちです。ドヌーブらが名を挙げたフランス映画の代表作は、その多くが男性中心的なストーリー・物語・演出で作られています。私はそれでも面白く見てしまう映画ファンですが、同時に作品に含まれている様々な差別・暴力の問題を見過ごしていいとも思いません。権威を一旦棚に上げて、作品の意味を議論する機会を増やすのは、映画や美術を深め、広げるためにも意味のあることだと思います。

 さらに驚いたのは、小説『侍女の物語』の作者マーガレット・アトウッドもme tooに否定的な姿勢を発表したということ。

 ちょうどディストピア小説として関心を持って『侍女の物語』を読みかけたところだったので驚いた。
 ここまでくると、世代対立という要素が目立ってきますね。ドヌーブやアトウッドさんらの世代は、現在より性役割意識が強固な時代に自己形成した方々だから、映画や文学などの世界で成功するにはその男性中心的ルールの中で頑張らなければならなかったから、逆に女性に厳しくなる方も多い。
 もちろんアトウッドさんが問題にしている大学教員の解雇などについては、事情は様々で、常に処分が正しいわけではありませんが、かといってひとつのケースをMeToo批判に結びつけるのはどうなのか、ちょっと残念なような・・・。誰かが自分に起こった何かにNoということがどれだけ大変なことか、どうして見守ってくれないのでしょうか。対等な関係だったらいえるでしょうが、職場や学校などの上下関係で作られた組織の中で声を上げるのは並大抵ではありません。映画や美術などのフリーで活動する世界であっても、逆に人間関係・人脈が重要になる業界ですから、もっと声を上げにくいとも言えるかもしれません。

 翻って日本では大きな動きにはなっていないといわれていますが、伊藤詩織さんの『Black Box』はたくさん売れているようですし、共感する女性は多いはずです。私も読みましたが、被害の事実が克明に描かれていて、訴えるまでの葛藤に心を打たれました。



 ハリウッドのような目立つ動きにならなくても、ずっと地道にセクハラや性差別に対して声を上げようとしている女性たち、支援する男性たちはいます。対岸の火事として見るのではなく、じわじわと、#MeTooに共感するひとびとの小さな努力が、日本を変えていければと思います。








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# by anti-phallus | 2018-02-14 14:27 | Comments(0)

立て看と吉田寮問題から学内管理強化を考える

下記のようなシンポジウムが企画されています。
「学内管理強化」に反対するものですが、わたしはこれはここ10年くらいの大学の締め付けの流れの中に位置付けられるものだと思います。

大学法人化以降、管理強化はどんどんひどくなっており、大学は今やネオリベの最先端になっています。
学生の学費負担、授業負担は大きくなり、教員の仕事はあらゆる面で増加されています。学内の意思決定過程はトップダウン。企業以上に「経営の論理」を言われる現状です。今や「大学の自治」など夢のまた夢ではないでしょうか。
それなのに未だに世間では「大学の先生は遊んで暮らしている」という神話があり、センター試験での大学教員の「落ち度」が過剰に報道され、処分されています。嗚呼・・・・。

下記サイトで署名も募集していますのでどうぞご覧ください。


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# by anti-phallus | 2018-02-07 16:09 | イベントの案内 | Comments(0)

なぜ私はフェミニストではないのか:ジェッサ・クリスピンのフェミニスト宣言を読む ラディカルになるべき時

とても面白い英語記事があったのでシェアします。



本の書評ですが、この評自体が今のフェミニズムと社会を鮮やかに浮かび上がらせるものになっていると思います。
最近、フェミニズムに関してやや新しい(かのような)スタイルで語るパターンがあって、「やわらかい」とか「ソフト」とか「楽しい」とか良さげなキーワードで、「これまでのフェミニズムとは違うもの」を売りにする語り口が増えています。男性を攻撃しない、とかおしゃれやファッションを軽く楽しむ、とかの語りが付随します。これは誰かが何かを主張していると言うよりは、なんとなく「フェミが流行ってるらしい」とにおわせるようなやり方です。そしてそのフェミというものが何を意味しているのかはよくわからないまま。

例えばディオールが高いTシャツに「WE SHOULD ALL BE FEMINISTS」と書いたとか、追っかけでGUも「I am a feminist」と書いた安いTシャツを売った、とかは分かりやすい例。(ブランド産業の問題性についてはナオミ・クラインをとりあえず読みましょう)(そういうTシャツを着ることを私は全く否定しませんが、ブランドやファスト・ファッションのマーケティングに乗せられているだけではないかという疑問ぐらいは忘れないようにしましょう。Tシャツを着たからといって性差別の現実は変わりません。メーカーや小売店にわたしたちのお金が入っただけです)

私はこういうのを見るたびに胃もたれのような感覚を覚えていました。世の中の性差別構造はほとんど変わっていないのに、なんかそれを批判しちゃいけないのかな?と。ですがこういうことを言うとそれこそ「やわらか系」の誰かに陰口を言われそうだし、まあそれはいいとしてもフェミニズムに水を差すことになりやしないかと心配だしで、面倒。

アメリカでも似たような状況があるようで、というかむしろ日本のマスコミがアメリカの真似をしているわけで、そういう状況への危機感をはっきり打ち出してくれている本です。

ここでも出てくるように、フェミニストのセレブ、というポジショニングなどもう本当にうんざりさせられるわけです。フェミニズムとはすべての女性のためのものであるはずなのです。女性の中に序列をつけ、トップの人たちを選び出して賞賛するなんて、フェミニズムではないのです。ところが、セレブの持つアクセサリーの一つのようにフェミニズムを語るスタイルが出てきています。こういう語りはフェミニズムの力を奪い、わたしたちの力も盗みます。

文中のアンドレア・ドウォーキンとは有名なフェミニストの著作家ですが、彼女たちのようなラディカル・フェミニストは日本では最近あまり触れられることも減りました。ドウォーキンのよく知られたフレーズに、「すべてのセックスはレイプである」というものがあります。聞いた人は引いてしまうでしょうが、セックスや恋愛をほめたたえる言葉とイメージばかり溢れている中では、いちどこのフレーズを噛みしめる必要があると思います。知人のフェミニストはこの視点を、「一度必要な絶望」だと言っていました。絶望から始まるものがあるということですね。

それから面白いのが、ツイッターの中の「怒りのフェミニズム」について指摘しているところ。近年、ツイッター上で誰かが性差別的な発言をすると大勢が批判し、またそれをマスメディアが報道する、という循環パターンが生まれています。それ自体は必要な仕事かもしれませんが、長くやっていると疲れてしまいますね。それが本当に私たちにとって一番必要なことなのか、著者は問いかけています。

あらぬ方向に流されてしまいがちなわたしたちを、本来の道に呼び戻してくれるような気がします。


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なぜ私はフェミニストではないのか:ジェッサ・クリスピンのフェミニスト宣言を読む ラディカルになるべき時

フェミニズムはかつて、社会の変容やロマンスへの挑戦、生きるための新しい方法を意味していた。今や、無難なものにイメージを変えられてしまっているとクリスピンは論じる。


スザンヌ・ムーア
2017.2.15


ジェッサ・クリスピンはフェミニズムに問題を感じている。それがあまりにも牙を抜かれてしまったので、彼女は同一化(identify)できないのだ。クリスピンは牙をもっているし、それを見せることを恐れていないから。彼女は、一部の人々のように、「フェミニスト」のラベルが不快で、ぼさぼさ髪の男嫌いを思い起こさせるから拒否するのではない。まったく逆だ。フェミニズムは陳腐なものにイメージを変えられてしまっていると彼女はいう。フェミニズムの普遍化はある種の牙抜きのようなものだ。フェミニズムを無意味なものにしてしまっている。

フェミニストが与えなければならない、女性は賢く付き合いやすい存在だという安心感は、クリスピンにとって、問題含みだ。「それはつまり、私は無害で、牙を抜かれてるの、襲って(fuck)ちょうだいと言っているようなもの。だから私はフェミニストのラベルを拒否することにした」。

アメリカ人の編集者であり批評家であるクリスピンは、自分のエンパワメントとしてフェミニズムを批判し、その真のラディカルな可能性を再発見することを決意した。彼女は、女性雑誌やライフスタイルを謳うサプリメント剤に好まれる「自分へのご褒美」フェミニズムに反対する。そこにはまた、ラディカリズムとは本当はどのようなものかについての重要な問題がある。近頃では、たくさんの「セックス・ポジティブ」な歌姫はただの男性への快楽提供者のように見える。この崖っぷちのフェミニズムのほとんどは女性の生の基盤についてまったく何も語らない。わたしたちがポリガミーについて話せる時になぜ年金について語っているのか?

ポップ・カルチャーのなかに自分をフェミニストと認めるセレブがあふれている時代に、大事なことは、主流と周縁の関係性そのものであるとクリスピンは主張する。「主流の人々は、自分のためのラディカルな空間を主張したがるが、同時に、ラディカルな人が行う活動を否定する」。このようなことが生じるために、アンドレア・ドウォーキンやシュラミス・ファイアストーン、ジャーメイン・グレアのようなラディカルな人々の否定が行われる。若い女性の、これら「フェミナチス」を非難したいという母殺しの欲求は、今でも不快な人物として残されているドウォーキンをしばしば中心に置いている。一体これはどういうことだろうか。クリスピンは、ローリー・ペニーがドウォーキンの信念体系について書いたものを、「私が支持しているフェミニズムに全く場所を与えていない」と挙げている。

これは何を意味しているのだろうか。ドウォーキンの仕事は最終的に、権力とその意味するところに関するものであり、それが深く不快である理由は、私たちの最も親密な瞬間の中にさえ、権力関係が存在していることを示しているからだ。ラディカルな変化は恐ろしい。ドウォーキンのような人物に体現される時、女性たちは自分はこの種のフェミニストではないという行列に並ぼうとする。革命は遠くに行ってしまったと言う人々はフェミニズムをもっとユーザー・フレンドリーにするためにそうしていると言うのだろう。だがそのユーザーとは誰のことだろうか?

ラディカリズムから自助グループへの移行は、確かに脱政治化である。かつて生きるための新たな方法を構想した運動は、個人的な目標としてのエンパワメントを伴う自己啓発コースに変わった。フェミニズムが本当に女性をより幸福にしたいと考え、私たちにより良い仕事と結婚とオーガズムを与えたいと考えるなら、「宗旨替えは必要ない」とクリスピンは恐れずに言う。本書の真の刺激は、権力とそれをどのように女性が使うかについて彼女が語る箇所で感じられる。私たちがより多くのカネを得れば得るほど、カネの力で家父長制による困難を解決できるようになる。平等とは男性が生きるように生きることだという考えはラディカルではない。わたしたちは価値体系をリセットし、その全体を解体しなければならない。

これは、女性が、女性に対する抑圧において共犯者となっているのではないかという気まずい疑問を生みだす。それは、たくさんの白人女性がトランプに投票している今やタイミングの良い問いだ。だが、女性にとって、核家族を離れて、男性たちに同一化しないようになるようなどんな動機づけがあるというのだろうか?フェミニズムがオルタナティブな仕組みを提示しているわけでもない。支配的なロマンチックな文化の外部で生きたいと欲する女性に対して何があるのだろうか?これこそがやるべきことなのだ、生きるための新しい共同の方法を創造すること。これについて男性がどう考えるかということにクリスピンは関心を持っていない。もし彼らが反対すれば、「どこか他でやりなさい、男性は私の問題ではないから」。

だがもちろん、クリスピンは男性の非人間化も認めない。例えば彼女は、女性の安全への祈りは、あまりに多くの男性、特に黒人男性を刑務所に入れる十分な理由になるのだろうかと疑問をもつ。

このような考えがいくつも本書にほとばしっていて、さらに論じられる必要がある。だが彼女は常にはっきりしている。オンラインにまず存在している「怒りのフェミニズム」について、彼女は新鮮な空気を入れようとする。そういった怒りの全ては何を達成するのだろうか?わたしたちは「ツイッターおやじ(twitter bros)」にいくら時間とエネルギーを費やすのだろうか?ミソジニー(女性嫌悪)は個人どうしで闘ってはいけないのだ。

挑むところどこでも、彼女はクリシェを明るみに出し、本当に重要なものーーーーーーそれはつまりもちろん平等ではなく自由ーーーーーを私たちの手に取り戻させようと試みる。権力のある地位に女性を増やしても、彼女たちがそのシステムに挑戦しないのならば不十分だ。美や承認の定義を広げるだけでは足りない。むしろ、恋愛は私たちの生の中心的な特徴から降格されなければならない。

クリスピンはより良いものを築くためにそれを想像する必要を語っている。自分に夢中になるものとして、新しいライフスタイルへの追加オプションとして、フェミニズムはわたしたちをつかんでいる、・・どこに行こうとしているのか?わたしたちは今どこにいるのだろうか?止まってみよう。どれだけ素早く後退してしまえるのか見極めよう。フェミニズムはいつそんなに小さいものになってしまったのか?いつから、礼儀正しく安全な、よく売れるものになったのだろうか。クリスピンはわたしたちに大きく、恐ろしいほど大きく考えるよう促すことでこれら全てを爆破してしまう。













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# by anti-phallus | 2018-01-19 17:25 | フェミニズム | Comments(0)

セクハラ #MeToo 

 ここのところ気になっているセクハラの告発の動きについて書きます。
 アメリカの映画界や音楽界等で著名な俳優やアーティストなどがセクハラ被害について告発したことにも影響されて、日本でも声が上がっているという件。
 とりあえずニューズウイーク日本の記事を。


 この後、(日本の)有名ブロガーなども告発して、動きが広がっています。

 この動きをみていていろんなことを考えさせられます。今回特徴的なのは、やはり、被害者が顕名で告発していることでしょう。セクハラという言葉が社会に広まり出した時代、90年代初めには、ほとんどが匿名でした。私が個人的にも記憶に大きく残っているのは、京大矢野事件です。当時京都大学東南アジア研究センター所長で、ノーベル賞選考にも関連していた矢野暢氏が、複数の女性職員や研究者にレイプを含むセクシュアル・ハラスメントを繰り返していたということで、大きな問題になりました。ある被害者の方は裁判も起こしましたが、「甲野乙子」という名前を使われていました。この裁判(被害者の勝訴で終わった)については本(甲野乙子さん著)も出ています。私は大学に入学したての頃だったので「やっぱり大学といえどもこういうことはあるんだよな」みたいな気持ちで、納得とがっかり感と両方あるような心境で受け止めていました。

 その頃と比べると、ここ数年になって著名人を含む被害者が名前を出して告発するようになったことについては、ある程度「前進」したといえるでしょう。被害者が匿名でないと声をあげられない状況はあまりに酷いから。被害者は何も悪いことをしていないはずなのに、名前をあげられないということは、名前を出すことで否定的な反応、不利益しか想像できないからですね。告発することが社会的な死を含み持ってしまうという場合があるということ。それと比べると、被害者が名前を出して告発する、それをメディアが否定的ではない形で報道することができるというのは被害者を尊重する社会的意識が育ってきているということを意味しています。ですが、それでも被害者にとって顕名の告発は大きな「リスク」を抱えることでもあります。告発すると、加害者からの攻撃、周囲からのバッシング、ネット上のバッシングに囲まれることになるからです。これは今も変わっていない。
 
 被害者バッシングというのは男性も女性もやることで、その論理の主要なものに「有名になりたいだけだろう」というものがあります。被害の告発をして社会的な注目が集まることを目的としているのだろうという受け止め方。実はこの論理はセクハラの事実の有無に関わらず持たれうる。たとえセクハラが事実だったとしても目立つために告発したんだと受け止められれば、告発は無効にされてしまう。これは恐ろしい論理なのですが、それだけ私たちは「社会的な注目を集める」ことの欲望を自明視しているのだなと思うとまた怖くなります。「ひとは社会的な注目を集めるためならなんでもやる」という前提でなければ成立しない論理ですからね。ネット社会のなかでおおぜいのひとが自撮りしてSNSにアップする、それによってセルフ・プロデュースしてキャリアアップを追求するということが増えている今だからなおさら、こういう受け止め方は説得力を持ってしまいますね。

たまたま最近読んでいた内田春菊さんのエッセイ本で、「昔上京したての頃、肉体関係を持てばチャンスをくれるという話があるならどんどん持っちゃうと思ってたけどそんな話はなかった」という趣旨のことが書いてあった。内田さんはこういうことを書けるからすごいポジションにいるんだけど、多くの女性は、こういう欲求をもっていることすら口に出せないと思います。物書きのような特別な職業でなくても、普通の会社勤めであっても、「認められたい」「キャリアアップしたい」ということをはっきり口に出せる女性は多くないと思います。

仕事に打ち込んでいたら、周りに評価されたいと思うのは当然のことだし、男性なら難なくそれを表現できるし周りも期待するのに、女性となるとそういう願いを持つことは恥ずかしいことのように見られる。代わりに、「良いお母さんになりたい」「良い妻になりたい」というのはおおっぴらにいえることですね。

いつの間にか若干話がずれましたが(汗)、ともかくセクハラの告発に対して足を引っ張る心理には、こういう女性に社会的上昇を許さない意識が背景にあるように思います。

セクハラそれ自体が、仕事を続けたい、働きたいという女性の気持ちを利用して行われるし。仕事を続けたければ、多少の嫌なことには目をつぶらなくちゃ、となりますよね。セクハラの背後には、こういう仕事とジェンダーをめぐる複雑な意識が横たわっています。セクハラの解決には、仕事とジェンダーの複雑な絡みつきをなくす必要があります。

社会的上昇、承認を求める欲望をめぐる私たちの葛藤の深さと、そこにあるジェンダーの不平等。こういうものから解放されるのが本当のフェミニズムなんだろうと思います。












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# by anti-phallus | 2017-12-29 21:46 | Comments(0)

福島・放射能・原発etcのこと

 ずっと気にかかっていたことがあります。気にかかる、どころか心の深いところに重石のようになっている、という方が正確な表現なんですが。何かと言うと、なんと名付けていいかすら分からないような感じで、つまりは福島の原発事故のこと、放射能のこと、避難者のことなど。2011年の3・11以来、自分の中の何かが止まったようになっていて、それは考えだすとあまりに重いので、ふたをしていました。でもそうもしていられないので、ちょっとずつ頑張って書くことにしたいと思います。

 放射能や原発のことがほとんどタブーとなっている現状ですが、このようななかでも貴重な仕事をしているひとはたくさんいます。まずは毎日新聞の記者の日野行介さんの本、『原発棄民 フクシマ5年後の真実』(毎日新聞出版、2016年)と『フクシマ6年後 消されゆく被害』(尾松亮と共著、人文書院、2017年)をお勧めします。事故後、福島と周辺の多くの住民が関東や関西以西に避難しました。彼女、彼らは「自主避難者」と呼ばれます。自主避難者に対する政府の政策について報じられています。世間では「たくさん金をもらって」という冷たい視線もあるようですが、じっさいにはそんなことはなく、唯一あった住宅支援も切られました。政府は「帰還」をほとんど一つだけ選択可能なものとして進めていますが、現地はまだ放射能の線量の高いところも多く、そもそも政府が帰還の基準としている「年間20ミリシーベルト」は、事故前の基準「年間1ミリシーベルト以下」を大幅に上回るものです。こんな政策で、子供を育てる責任のある人々が納得できるでしょうか。この本では、このような当事者無視の政策がどのようにして審議・決定・実行されたのか調べられています。2冊目は、それらの政策の中で引用される「チェルノブイリの例」がいかに歪められて用いられているか立証しています。著者が直接訪問するチェルノブイリ被災地のレポートでは、日本とはまったく違う住民支援の例が伝えられています。
 日野さんのインタビューがこちらで読めます。

 それから、マスコミでは避難者の問題が一部ではあるけれど心あるジャーナリストや研究者によって主張されているのに対して、放射能汚染や被曝の問題はそうではないように感じます。放射能汚染、被曝の問題は、事故直後はかなり広範に認識されていたように思うけど、現在ではほとんど口にされないのではないでしょうか。でも本当に、もう安全だと言い切れるひとはどのくらいいるのでしょうか?どうも私は、この問題がタブーになってきているように感じられて仕方ないのです。
 結局、避難した方々が帰れない理由の多くは、「被曝のリスク」です。放射能、放射性物質の怖さはあくまで「リスク」でしか考えられないこと。放射能が引き起こすガンや白血病、その他の疾病は放射能以外の原因でも生じるもの、あるいはそもそも原因をはっきり特定しにくい病気なわけで、一定程度の放射能を被曝したらこのくらいの確率でガン等の病気になりやすいよ、という形でしか理解できない。微細な形で、かつ全体的な形で人体に影響を及ぼすもの。だからこそ、できる限りの安全を期すために細心の注意を払われなければならないのに、今の日本ではこの不安を語ることすら憚られる雰囲気になっていないでしょうか。
 ですから専門家ではない私たちが調べようとすると、ネットや一部の本しかない。ネットではやたらと不安を煽られるようなサイトもあったりして怖いです。
 データとして信頼度の高いものを挙げておきます。

市民放射能測定データサイト みんなのデータサイト 

東洋経済オンラインサイト掲載 2015年のアエラの記事 


これらを見れば、東日本の広い範囲にわたって汚染が存在していること、特に人口の多い関東地方も無視していいレベルではないことが分かるでしょう。だから、避難者を棄民する政策は避難者だけの問題ではないのです。汚染に対して対策もとらずタブー化して、危険な地域に戻そうとする。食品を通じた内部被曝のリスクも考えれば、日本全体(さらには国外にも)の問題なのです。


最後に、私はこの問題は子どもと女性に対する暴力でもあると思っているのです。放射能のリスクは特に女性と子どもにとって大きい。身体的なレベルでも、また、子育ての責任をまかされているという意味でも女性にとって特に大きな問題なのです。避難者の多くは女性と子どもです。国は彼女たちを見捨てようとしている。これが、フェミニズムの課題でなくて何でしょうか。










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# by anti-phallus | 2017-11-23 15:46 | 原発/震災 | Comments(0)