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ナオミ・クライン「終末論ファシズムの台頭」抄訳公開
ナオミ・クラインの新しい記事(ガーディアンに掲載)を抄訳しました。一応全文訳したつもりですが、わたしは翻訳家でもなく、こういったテーマの研究者でもないのでおそらくたくさん誤訳等あるものと思いますので、「抄訳」とします。
ナオミ・クラインは国際的に著名なジャーナリストでありアクティヴィストです。日本語に翻訳されている著作も多数あり、『ブランドなんか、いらない』から最近では『ショック・ドクトリン』が話題になりました。主にグローバルな格差や環境破壊/気候破壊、戦争等の多岐にわたる問題に取り組んでいます。
この記事はトランプ米大統領の2期目にあたって世界中が震撼している中で、その背後にある動きを考察し、その思想と危険性、抵抗のための展望を論じたものです。タイトルにある「終末論ファシズム」は「end times fascism」で直訳すると「終末ファシズム」のほうがよいかもしれませんが、それがある種の思想に基づいていることを明示したく「終末論ファシズム」としてみました。
書かれていることは日本ではあまり報道されていないトランプ政権や関係者の様々な企みと行動で、読みながら私自身恐怖に駆られました。ですが、程度や形を変えて日本でも行われていることではないでしょうか。例えば重要なキーワードの一つである「備蓄主義(preppism)」ですが、日本でも「老後には2000万円必要」(2019金融庁)と発表され、さらにいくつになっても投資で資産を形成して生活することを国が政策として後押し(NISAやiDeCo)する時代となり、とにかく先を見据え死ぬまで稼いで備えるよう強いられています。一方で年金制度はどんどん削減され、福祉や社会保障は縮むばかりなのも同じです。
クラインは当然ながらパレスチナ問題についても重要視しており、イスラエル政府やトランプらがパレスティナを殲滅しようとしているのは、その土地に新たな都市国家を建設して規制や課税から自由なハイテクデジタル産業を展開して利潤を得ることを狙っているからだと指摘しています。そう考えれば、パレスチナへの暴力がなぜ今に至るまで続いているのかその一つの理由がわかるでしょう。
日本ではトランプに関して関税の問題が報道されるくらいでその政治の本質やねらい、全体像について知れるソースが非常に限られています。今世界がどう動いているのかどんな問題があるのか考える機会と手段が失われています。その原因の一つは批判的なメディアやジャーナリズム、学問や研究、表現がつぶされているからです。
このような恐ろしい動きに対して立ち向かうのが「強い運動の構築」というのではどうにも弱い印象があったのですが、訳していくにつれて実感が湧き、希望を感じられるようになりました。
ぜひ多くの方に読んでいただき、世界観を新たにして、希望を感じてもらいたいと思います。
重要語として「bunker」という語があり直訳すると「地下壕、シェルター、燃料庫」などですが、訳しづらかったので「バンカー」としてあります。
誤訳等あればtwitter/Xのほうにご連絡ください。
()は原文通り、[]内および小見出しは訳者による補足です。
※雑誌『世界』に同じクラインの記事の翻訳が掲載されました。中村峻太郎さんによる訳です。どうぞご覧ください。中村さんから拙訳に関してアドバイスをいただき、一部修正しました。
+++++++++++++++++
終末論ファシズムの台頭
ナオミ・クライン&アストラ・テイラー
極右の統治イデオロギーは、怪物のような優越主義者のサバイバル至上主義になっている。わたしたちのやるべきことは、それを止めるために十分な強い運動を築くことだ。
○超富裕層の「企業都市国家」運動
企業都市国家の運動は運を頼みにすることはできない。何年にもわたって、その運動は極端な考えを推し進めてきた。課税を嫌う富裕層は、公海上の人工島に作られる新しい国家(「海上都市国家」)であれ、あるいはホンジュラス島にある西地中海スパと組み合わされた輝かしいゲーテッド・コミュニテイである私有都市プロスペラのようなビジネス志向の「自由都市」であれ、自らのハイテク領地をスタートアップさせるべきだという考えだ。
だが強力な投資資本家ピーター・ティールとマーク・アンドリーセンに後押しされながらも、その過激なリバタリアンの夢は難航を続けている。現実にはたいていの自尊心の高い富裕な人々は水上に浮かんだ石油採掘装置の上には住みたくないことが明らかになった、例えそれが税金の軽減を意味しようとも。またプロスペラは休日や誰かの「アップグレード」にはふさわしいかもしれないが、その超国家的地位は現在法廷で係争中である。
今や突然に、このかつては異端だった企業分離論者のネットワークは、自らがグローバルな権力の行き止まりのドアを叩いていることに気づいたのだ。
運命が変わるサインは、2023年に選挙運動中のドナルド・トランプがどこからともなく突然、連邦政府の土地に10の「自由都市」を建設するためのコンテストを開催することを約束したときに現れた。そのさいは、毎日のように発されるとんでもない発言の洪水に流されて、観測気球は飛ばなかった。しかしながら、新しい政権が開始すると、予備国家の建設者たちは集中的なロビー活動を行い、トランプの公約を実現する決定をしようとした。
「DCのエネルギーは完全にエレクトリック[電撃的]だ」プロスペラの運営責任者トレイ・ゴフは最近、キャピタル・ヒル[連邦議事堂のある丘]を訪れた後に語った。企業都市国家群を可能にする立法は今年度終わりまでに完了しなければならないと彼は主張する。
政治哲学者のアルバート・ハーシュマンの著作を誤読して、ゴフやティール、投資家で作家のバラジ・スリニヴァサンらを含む一群は、彼らが「非常口(exit)」と呼ぶものを擁護している。それは、金持ちはとりわけ税金や重荷となる規制などの市民権の義務から逃れる権利を持つという原則だ。帝国の古い野心と特権を再組織化して再生することで、彼らは政府を分離し世界を分割して、超富裕層のみに支配され、私的な傭兵に守られ、AIロボットに奉仕され、暗号通貨で資金形成する超資本主義的で民主主義から自由な天国にすることを夢見ている。
○軍事化した要塞国家「バンカー」
「アメリカ・ファースト」の旗を上げた陣営で選ばれたトランプが、億万長者の帝王たちに支配される統治領域のビジョンを支援するのは矛盾すると思われるかもしれない。MAGAの代弁者で誇れる愛国者でポピュリストのスティーブ・バノンと、彼が国民国家はもちろん「人間のことなどかけらも気にしない」「テクノ封建主義者」と攻撃したトランプ派の億万長者たちとの間ではたくさんの派手な炎上戦争が起こされた。さらにトランプの愚かな一時凌ぎの同盟の内部ではもちろん対立が存在し、直近では関税をめぐって頂点に達した。だが。底にあるビジョンは初めに登場したときほど相容れないものではないかもしれないのだ。
スタートアップ国家の派遣団は明らかにショックと恐怖と破壊に印づけられた未来を予見している。彼らのハイテクな私的領域は、選ばれた少数者があらゆる贅沢と人間の有効活用のための機会を利用できるようにデザインされ、ますます残酷化する未来に彼らとその子どもたちに利益を与える、ほとんど要塞化された脱出船だ。つまり、世界で最も権力ある人々は、世界の終わりに向けて準備しているのだ、彼ら自身が急いで早めている終わりに向けて。
それは、イタリアからイスラエル、オーストラリアから合衆国などの世界的に右傾化した要塞国家のより大量生産ビジョンからそう遠くない。止まない危機の中で、これらの国々の公然化した優越主義運動は、その比較的富裕な国々を軍事化したバンカーと位置付けている。これらのバンカーは残酷にも望まれない人を追放し投獄することを決定し(マヌス島からグアンタナモ湾までの超国家的な流刑地への無期限の監禁を必要とするとしても)、また容赦無く彼らが将来の危機を乗り切るために必要とみなした土地や資源(水やエネルギー、重要鉱物)を暴力的に要求する。
興味深いことに、これまで世俗的だったシリコンバレーのエリートたちが突然救世主を見出したその時代に、これら二つのビジョンーーープライオリティ・パスを持つ企業国家と大量生産のバンカー国家ーーーが聖書による「携挙」のキリスト教原理主義的解釈と多くの共通点をもっているのは注目に値することだ。携挙の時信心深い者は天国の黄金の街へ昇ることが許され、その下の地上では愚か者たちが終末論的な最終決戦に耐えなければならない。
○終末論ファシズムの特異性
歴史における決定的な瞬間に向き合いたいならば、我々はこれまで見たことのない敵に直面しているという事実を考慮に入れる必要がある。我々は終末論ファシズムに直面しているのだ。
ムッソリーニ下にあった子供時代を回想しながら、作家で哲学者のウンベルト・エーコは、ファシズムは典型的な「アルマゲドン・コンプレックス」を持っていると著名なエッセイで述べている。それは最終大戦争で敵を征服することへの執着である。しかし、1930年代から40年代のヨーロッパのファシズムは、展望も持っていた。仲間たちには、平和で牧歌的で浄化される黄金の時代が流血戦の後に到来するというビジョンだ。それは今日では存在しない。
現在の極右運動は、気候破壊から核戦争、急増する不平等と規制されないAIまで現存している危機の時代を生きながら、財政的イデオロギー的にそれらの脅威を深めることに関与するばかりで、希望ある未来への信頼できるビジョンを欠いている。平均的な有権者は、非人間化された他者の極大化された集団に対する支配のサディスティックな喜びと、過ぎ去った過去の混ぜ合わせを供給されるだけだ。
そしてわたしたちはトランプ政権が、このような扇情的な目的のためにのみデザインされた、現実のあるいはAIが生成したプロパガンダの大流出に献身するのを目にしている。国外追放用飛行機に積み込まれる震える移民たちの映像にセットされた、手錠と鎖のがたつく音を、ホワイトハウスの公式XアカウントはASMRと指定した。ASMRとは、神経システムを鎮静化するために作られた音楽のことである。同じアカウントは、コロンビア大学のパレスチナ支援キャンプで活動していた、合衆国の永住者マフマド・カリルが勾留されたというニュースをシェアし、「シャローム、マフマド」という嬉しそうな言葉を添えた。あるいは、国土安全保障長官クリスティ・ノエミのサディズム的な写真の数々、アメリカとメキシコの国境で馬に乗る姿、エルサルバドルの混み合った監獄の前、アリゾナで移民に機関銃を突きつける姿。
現在の増大する災害の時代における極右の統治イデオロギーは、野獣のようなサバイバル至上主義になっている。
それは確かに邪悪で恐ろしいものだ。しかし、それは抵抗のための力強い可能性も示している。この規模で未来がないことに賭けるということは、言い換えればあなたのバンカーをあてにすることは、最も基本的なレベルで、お互いへの、愛する子どもへの、また故郷である地球を分ち合うあらゆる生命に対する義務を裏切ることである。これは根本において大量虐殺的であり、この世界の奇跡や美しさに対して反逆する信念体系である。右派がアルマゲドン・コンプレックスにどれだけ屈服しているかということをより多くの人々が理解すれば、人々は全てが危機にさらされていることに気づき、立ち上がるだろうことを私たちは信じている。
私たちの敵は、私たちが非常事態の時代に入りつつあることをよく知っているが、致命的な自作の妄想を抱くことによってのみ応答している。彼らはさまざまなバンカー化された安全の排他的な幻想を買い込んで、地球が干上がるままに任せることを選んでいる。われわれの仕事は、これらの錯乱した裏切り者を止めるために十分政治的で強いだけでなく同じくらいスピリチュアルな広く深い運動を築くことだ。たくさんの差異と分断を越え、おたがいに対して、さらにこの奇跡的な唯一の地球に対してしっかりとしたコミットメントに根づいた運動を。
そう遠くない昔、長く待ち望んだ携挙への興奮とともに大惨事のサインを歓迎したのは、主に宗教原理主義者たちだった。トランプは、イスラエルの殲滅的な領土拡張の暴力を、非合法の虐殺ではなく、メシアが戻ってきて、信者が天国に達する形に聖地が近づく証拠だとみなす幾人かのキリスト教シオニストを含む過激な権威に同意する人々に向けた危険なポストを投稿している。
トランプの新しい駐イスラエル大使であるマイク・ハッカビーは、ビート・ヘグセス国防長官同様、キリスト教シオニズムに強いつながりを持っている。ノエミと、今や行政管理予算局を率いる「プロジェクト2025」の建築者であるラッセル・ボートは、ともにキリスト教ナショナリズムの頑固な擁護者である。ゲイであり、派手なライフスタイルで悪名高いティールでさえ、遅れてきた反キリストの到来に眉をひそめているそうだ(彼はグレタ・トゥーンベリについてそう考えている。後述)
しかし、終末論ファシストになるには、聖書の文献学者になる必要はないし、宗教的になる必要さえないだろう。今日ではたくさんの権力を持った世俗的な人々が、ほとんど同一の脚本に従った未来のビジョンを信じている。それは我々の世界はその重みで崩壊し、選ばれた少数者だけが様々な種類の方舟やバンカーやゲートで囲まれた「自由都市」の中で生き延び栄えると言うものだ。2019年に書かれた「レフト・ビハインド:未来主義フェティシスト、地球の準備と放棄」という論文でコミュニケーション学者のサラ・T・ロバーツとメル・ホーガンは、「加速主義者の想像においては、未来とはハームリダクションや限界あるいは復元ではなく、むしろゲームの終盤戦へと駆り立てる政治のことである」と述べている。
PayPalでティールとともに劇的に富を増大させたイーロン・マスクは、この内破的な精神を具体化している。彼は、夜間飛行の脅威を目にし、その真っ黒な空間を彼自身の宇宙ゴミで埋める機会を見た唯一の人物である。彼は気候危機とAIの危険を警告して評判を磨いたが、彼とそのいわゆる「効率化省」の手下は今や、環境の規制だけでなく規制当局全体を削ることで、それらと同様のそしてさらに多くの危険を促進することに時間を費やし、連邦職員をチャットボットに置き換えるという結末に向かっている。
宇宙空間、それはマスクに特異な強迫観念だが、宇宙空間が手招きしているときに、誰が機能する国民国家を必要とするだろうか?マスクにとって、火星は人間の文明の生き残りにとって鍵となる世俗的な方舟になった。それはおそらく意識をアップロードして、人工的な総合知性に取り替えることで。部分的にマスクをインスパイアしたらしいSF火星三部作の著者であるキム・スタンレー・ロビンソンは火星を植民地化する億万長者のファンタジーの危険について批判を隠さない。彼は「地球を大破してそれでも良いのだという幻想を作り出したのは、モラルの崩壊に過ぎません。それは全く事実ではありません」と言う。
肉体の世界から脱出することを望む宗教的な終末論者たちと同じように、マスクを人間性から多惑星に駆り立てるものは、我々の唯一の故郷の多種類の生命の素晴らしさに感謝することができない彼の特性によって可能になっている。彼は、明らかに自分を取り囲む様々な豊かなものに興味を示さず、また地球が多様にさえずり続けることができるように保障することにも関心を持たず、その莫大な財産を、多くの人々やロボットが2つの不毛な星(干上がった地球と地球化された火星)のサバイバルに苦しむような未来を生み出すために使おうとしている。確かに、旧約聖書の不思議な導きにより、マスクとそのお仲間のIT億万長者たちは、神のような権力を横領しながらも、方舟を作るだけでは満足しようとしない。彼らは血を流すためにベストを尽くしているようだ。今日の右派のリーダーとその富裕な仲間たちは、破局やショック・ドクトリン、惨禍資本主義を利用するだけでなく、同時にそれらに向けて扇動し計画しているのである。
○MAGAと備蓄主義と国境強化
MAGAの基盤になっているものは何だろうか?必ずしもすべての者が携挙の存在を熱心に信じるほど充分信心深くはないし、またたいていの者はもちろんロケット船どころか「自由都市」のどこかに入るための現金も持ち合わせてはいない。恐れるなかれ。終末論ファシズムは、レベルの低い歩兵たちにも手の届く、よりお手頃な方舟とバンカーを約束している。
MAGAの第一の宣伝メディアである、スティーブ・バノンのpodcastに耳をすませば、あなたは単一のメッセージの集中放火を浴びるだろう。世界は地獄に向かっている、不信心者が囲いを破り、最終戦争が近づいている、準備を怠るな。バノンが彼のスポンサーの商品を売り付けようとするときに、特に備えよというメッセージは唱えられる。Birch Gold[投資会社名]を買うように、バノンはリスナーに伝える。それは債務超過のアメリカ経済は破滅に向かっており、銀行は信用できないからだ。My Patriot Supplyから調理済み食品を買って蓄えなさい。レーザー誘導式の家庭用機器を使ってトレーニングを精緻化しなさい。最後にあなたが求めるのが災害時における政府の存在だと、彼はリスナーに思い出させる。(しかし次のことは語られない。今やDOGEボーイズたちが政府を部分的に売り払っている最中だということは。)
もちろんバノンは単に聴衆に自分自身のバンカーを作るよう促しているだけではない。彼は合衆国自体をバンカーとするビジョンを推進していて、そこでは移民関税局の職員が通りや職場や大学で忍び寄り、アメリカの政策と利害の敵となる人々を消失させるものだ。バンカーとされる国は、MAGAのアジェンダと終末論ファシズムの核心に位置する。そのロジックにおいては、最初の仕事は国境を強化し、国内外のすべての敵を除去することだ。この愚かな仕事は今トランプ政権によって実行されており、外国人敵国法により、何百ものベネズエラ人移民をエルサルバドルの巨大刑務所として悪名高い「Cecot」に強制送還することが最高裁によって可能とされている。そこでは、囚人たちは、髪を刈られ、100人が1つの独房に詰め込まれ、むき出しの寝台に並べられ、その国の秘密好きのキリスト教シオニストであるナジブ・ブケレ首相によって3年前に初めて宣言された「例外状態」という市民権剥奪の状態に置かれている。
ブケレは、政権が司法のブラックホールに落としこみたい合衆国市民のために有料サービス方式の提供を申し出てている。トランプはその案について尋ねられて「気に入っているよ」と最近答えた。すべてが売り物となり、司法手続きも適用されない空間である「自由都市」の幻想から論理的に推論すれば、CECOTが最高であることに不思議はない。私たちはこのようなサディズムについてもっと検討すべきだ。移民関税局の現局長であるトッド・リオンはぞっとするほど率直な口調で、2025年の国境警備エキスポにおいて、このような国外退去に関して「人間を商品にするAmazon Primeのような」よりビジネス志向のアプローチを期待したいと語った。
バンカーとされた国の国境を取り締まることが、終末論ファシズムの1つめの仕事ならば、同じように2つめの仕事も重要であろう。それは合衆国政府が、保護すべき市民たちがこれからの厳しい時代を乗り越えるために必要とするであろうすべての資源を要求することだ。おそらくそれはパナマ運河であり、あるいはグリーンランドの溶けかかっている航路、ウクライナの重要鉱物、カナダの新鮮な水であろう。これは旧式の帝国主義ではなく、国家レベルでの超大規模な備えとして考えるべきだ。民主主義や神の言葉を広めるという古い植民地時代の見せかけは消え去った。トランプは貪欲に地球をスキャンし、文明の崩壊に向けて備蓄している。
このバンカー的精神は、J・D・ヴァンスのカトリック神学への論争的な進出を説明するのを助ける。政治的キャリアの多くを第一の準備魔であるティールに負っている副大統領は、FOXニュースに、中世のキリスト教の概念であるオルド・アモーリス(「愛の秩序」あるいは「慈善の秩序」)によれば、愛はバンカーの外部にいる人々に負うのではないと説明した。「あなたは家族を愛している。そして隣人を愛し、そしてコミュニティーを愛し、そしてあなたの国の仲間である市民を愛するのだ。そしてさらにその後に、あなたは残りの世界に目を向け優先できる」(あるいは、トランプ政権の外交政策が示唆するように)。言い換えれば、私たちは私たちのバンカーの外側にいる誰にも何も負っていないのだ。
○金銭崇拝の新たな千年王国主義
これは継続する右傾化の傾向に基づいており、おぞましい排除の正当化は民族国家中心主義の下ではほとんど新しいものではないが、そのような政府における強力な終末論の圧力はこれまで直面したことがなかった。ポスト冷戦の時代に「歴史の終わり」が跋扈したが、真の意味で終末期に入っているという信念にすぐに取って代わられてしまった。DOGEは経済的な「効率性」の看板に身を包み、マスクの手下たちは、オーギュスト・ピノチェトの独裁体制のために経済的なショック療法を設計した、若い合衆国育ちの「シカゴボーイズ」の記憶を呼び起こすが、これは単にネオリベラリズムと新保守主義の古い結婚ではない。これは、官僚主義を打ち破り、人間をチャットボットに置き換えて「無駄、詐欺、乱用」を削減する必要があると主張するーーーーなぜなら、官僚機構こそがトランプに抵抗する悪魔が隠れている場所だからーーーー、金銭崇拝の新たな千年王国論だ。ここでハイテク兄弟が、トランプ政権のヘグセスらとつながりのある超家父長制的キリスト教至上主義者の実在のグループであるテオブロスと合流する。
ファシズムがいつもそうであるように、今日のハルマゲドン・コンプレックスは階級の境界を越え、億万長者とMAGAの基盤を結びつけている。数十年にわたる経済的ストレスの深刻化と、労働者同士を対立させる絶え間ない巧妙なメッセージにより、多くの人々が周囲の環境の崩壊から身を守ることができないと感じているのは当然である(調理済み食品を何ヶ月分買っていても)。しかし、感情的な補償も提供されている。あなたは積極的差別是正措置やDEIの終了を歓声で迎え、大量国外追放を賛美し、トランスジェンダーの人々に対する性別適合ケアの拒否を楽しみ、自分たちの方が自分たちよりよく知っていると思っている教育者や医療従事者を悪者にし、リベラルを名乗る手段化している経済規制や環境規制の廃止を称賛することができる。終末論ファシムは暗く祝祭的な宿命論である。序列化なしに生きることを想像するより、破壊を祝うことが容易だと感じる人々にとっての最終的な逃げ道なのだ。
それは自己強制的な下降スパイラルでもある。国民を病気、危険な食品、災害から守るために設計されたあらゆる構造、さらには災害が近づいていることを国民に知らせるために設計されたあらゆる構造に対するトランプ大統領の激しい攻撃は、上流と下流の両方で備蓄主義(prepperism)の根拠を強化すると同時に、社会と規制国家のこの急速な解体を推進している寡頭政治家による民営化と不当利得の無数の新たな機会を生み出している。
トランプ政権の最初の任期の幕開けに、ニューヨーカー誌は「超富裕層のための終末の日に向けた準備」と表現した現象を調査した。当時、シリコンバレーやウォール街では、より真剣な高級志向のサバイバリストたちが、気候の混乱や社会の崩壊に備えて、特注の地下シェルターを購入したり、ハワイ(そこではマーク・ザッカーバーグは、5,000平方フィートの地下の住居を「小さなシェルター」と控えめに呼んでいる)やニュージーランド(そこではティールは500エーカー近くの土地を購入したが、2022年に地元当局から景観を損ねるとして高級サバイバリスト用住宅を建設する計画を拒否された)などの高台に避難用の家を建てたりしていたことはすでに明らかだった
この千年王国主義は、一握りのシリコンバレーのインテリの流行に縛られており、終末論を活用した信念を全てが前提としている。それによれば、私たちの星はカタストロフに向かっていて、人類のどの部分が救われるべきかについて、厳しい選択を強いられる時が来ているとされる。トランスヒューマニズム(超人間主義)とは、マイナーなヒューマンーマシンの強化から、人間の知性を、まだ幻想的な人工的総合知性へとアップロードする探求まで、すべてを包含する1つのイデオロギーである。効果的利他主義と長期主義もあるが、両者とも長い目で見て最善を尽くすためのコスト・ベネフィットのアプローチのために、今ここで必要な人々を助けるための再分配的アプローチをスキップする。
一見良いように見えるが、これらの思想は危険な人種主義、能力主義、そしてジェンダーバイアスに貫かれている、人類のどの部分が強化され救済される価値があり、そしてどの部分が全体の利益のために犠牲とされるべきかということについて。彼らは、崩壊の根本的な原因について早急に明らかにする必要性についてはっきりと関心を持っていないという共通点も持っている。これはますます多くの人々が避け続けている、合理的で責任ある目標だ。効果的利他主義の代わりに、マー・ア・ラーゴ[トランプの別荘である歴史的建造物]の常連のアンドリーセンたちは、「効率的加速主義」やガードレールなしの「技術開発のデリバレイト・プロパルジオン」を信じている。
同時により暗い哲学が多くの聴衆を見出している。例えば新反動主義的で寡頭制主義者のコーダー、カーティス・ヤーヴィン(ティールのもう1人のお抱え知識人)の暴言や、(マスクも固執している)「西洋人の」赤ん坊の数を増やすことに劇的に執着する「出生主義」運動や、「非常口グル」スリニヴァサンの、企業信奉者と警察が協力してリベラルの街を浄化し、彼らのネットワーク化されたアパルトヘイト国家を作ろうとするサンフランシスコの「テック・シオニスト」ビジョンのように。
AI研究者のティムニット・ゲーブルとエミール・P・トレスが書いているように、「このような一連の流行のイデオロギーは、方法論は新しいかもしれないが、第一世代の優生学者の直系の子孫である」。それは少数の人間の集団が、全体のどの部分が生存を続ける価値があり、どの部分が徐々に廃され、消し去られ、終了される必要があるかについて意思決定するものと常に考えている。それは近年までほとんど注目されていなかった。テスラのキーを手に植え付けるように、人間と機械の融合をすでに実験できるプロスペラのように、これらの知的流行はベイエリアの裕福な用心深いオタクたちの偏った趣味だと見られていた。だがもはやそうではなくなった。
○気候危機とコロナとAIの脅威
近年の3つの物質的事象の進行が、終末論ファシズムの黙示録的主張を加速させている。第一には気候危機だ。いくにんかの著名な人々は、まだ公式には脅威を否定し過小評価しているかもしれないが、上昇する気温と海面に非常に弱い海に面した土地とデータセンターを所有するグローバル・エリートたちは、これまでになく温度上昇をする世界の拡大する危険を熟知している。第二にCOVID-19である。疫学的モデルは、これまでずっとグローバル化された社会が、感染症によって壊滅する可能性を予告してきた。それが実際に到来した時、多くの権力ある人々は、米軍の分析家が「悪影響の時代」と予告していたものに公式にたどり着いたサインだと受け取った。もう予告の段階ではなく現実化しつつある。第3の要因はAIの急速な進化と実用化である。それは機械が、効率的に無慈悲に自らの製作者を攻撃するというSF的な恐怖で長く語られてきた一連の技術である。この恐怖は、これらの技術を発明する人々自身によって最も強力に語られていた。これらの実存する危機の全ては核軍事力同士の高まる緊張のトップに配置されている。
これらのどれ1つとして、パラノイアとして語られるべきではない。私たちの多くは、差し迫る破滅があまりに辛いので、Appleの「サイロ」やHuluの「パラダイス」が映し出すような、様々なバージョンのポスト終末論的バンカーの生活に興じることで、何とかやり過ごそうとしている。イギリスの批評家兼編集者のリチャード・セイモアが近著『災害ナショナリズム』で示すように、「終末論はもはやファンタジーではない。死に至るウィルスから土壌侵食まで、経済的危機から地政学的混乱まで、我々はそのただ中にいるのだから」。
トランプ2.0の経済計画は、化石燃料や武器と、資源を大量に消費する暗号通貨とAI、これらすべての脅威を駆動する産業というフランケンシュタインの怪物である。これらのセクターに関与する誰もが、AIがこの世界を犠牲にすることなく作ることを約束する人工的なミラーワールドを建設する方法などないことを知っている。あらゆる平衡を保つ2つの世界が共に存在するためには、これらのテクノロジーはあまりに多くのエネルギーと重要鉱物、水を消費する。今月、元グーグル幹部のエリック・シュミット氏はそのことを認め、AIの「膨大な」エネルギー需要は今後数年間で3倍になると予測されており、原子力発電が十分な速さで稼働できないため、その多くは化石燃料から供給されるだろうと議会で語った。人類よりも「高次の」知性、つまり放棄された世界の灰の中から立ち上がるデジタルの神を可能にするためには、この惑星を焼き尽くすレベルの消費が必要だと彼は説明した。
○ファシストが恐れるもの
そして彼らは恐れている、彼らが解き放っている現実の脅威についてではなく。それらの絡まりあった業界のリーダーたちが夜も眠れないのは、文明の目覚めの呼びかけを予測するためである。それは手遅れになる前に、それらの不正なセクターを抑制するために真剣に国際的に連携された政府の努力である。彼らの拡大し続ける収益の観点から見ると、終末は崩壊ではなく、規制なのだ。彼らの利益が地球の破壊を前提としているという事実は、権力者の間での「do-gooder[善意の行為者]」の言説が、私たちが共有する人間の権利としてお互いに何かを負っているという考えに対する公然たる軽蔑の表現に取って代わられている理由を説明するのに役立つ。シリコンバレーは、効果的であろうとなかろうと、利他主義を終えた。Metaのマーク・ザッカーバーグは「攻撃性」を称賛する文化を切望している。監視企業パランティア・テクノロジーズのティール氏のビジネスパートナーであるアレックス・カープ氏は、アメリカの優位性と自動兵器システムの利点に疑問を呈する人々の「負け戦」を非難している(カープに莫大な財産をもたらした有利な軍事契約も関連している)。マスクはジョー・ローガンに、共感は「西洋文明の根本的な弱点」だと述べ、ウィスコンシンの最高裁選挙の獲得に失敗した後に「人類はデジタル超知能[superintelligence]の生物学的ブートローダーである可能性が高まっている」とぶちまけた。それは我々人類は彼の所有するAIサービスであるGrokに利益をもたらすもの以外の何物でもないという意味だ(彼は自分は「闇のMaga」だと語った。そしてそれは彼だけではない)。
乾燥し気候ストレスにさらされているスペインでは、データセンターの新規開設停止を求める団体の一つが「Tu Nube Seca Mi Río」と名乗っている。これはスペイン語で「あなたのクラウドが私の川を干上がらせている」という意味だ。その名前はまさにふさわしいし、スペインだけではない。とてつもなくひどい選択が、私たちの目前で私たちの同意なく行われている。人間より機械を、生物よりも無生物を、あらゆるすべてのものより利益を。驚くべき速さで、ビックテックの誇大妄想者は、ネットゼロ[大気中から温室効果ガスを減らす取り組み]の誓約を静かに撤回し、トランプに並んで、この世界の現実の貴重な資源と創造性を、吸血鬼の祭壇であるバーチャル領土に供え物にすることに本気で取り組んでいる。これは最後の大強盗であり、彼らは自らが招いた嵐を乗り切る準備をしている。そして彼らは邪魔するものは罵倒し、破壊しようとするだろう。
ヴァンス副大統領の最近の欧州滞在を考えてみよう。副大統領は、雇用を破壊するAIに関して「安全性について懸念している」として世界の指導者を激しく非難する一方で、ナチスやファシストの言論をオンラインで抑制しないことを要求した。ある箇所で、彼は笑いを期待して余談をしたがそうはならなかった。「もしアメリカの民主主義がグレタ・トゥーンベリの叱責に10年耐えられたら、皆さんはイーロン・マスクを数ヶ月耐えられるでしょう」。
彼の発言は同様にユーモアのない彼のパトロンであるティールのそれを反復している。その億万長者のクリスチャンは、彼の極右政治の神学的基盤に焦点を当てた最近のインタビューで、その疲れを知らない若い気候活動家を反キリストに繰り返しなぞらえている。彼は、その人物が「平和と安全」という誤解を招くメッセージを携えて来ると予言されていたと警告している。「もしグレタが、地球のすべての人々に自転車に乗らせたいなら、おそらくそれは気候変動を解決する方法かもしれません。ですが、それはフライパンの中から火に飛び込むような話です」とティールは唱えた。
なぜトゥーンベリ、なぜ今なのだろう。ひとつには、規制が彼らの超利益を食いつぶすという終末論的な恐怖が明らかにある。ティールによれば、トゥーンベリや他の人々が求める科学に基づいた気候対策は「全体主義国家」によってのみ実行されうる。そしてそれは彼にとっては、気候の破滅よりも、もっと恐ろしい脅威だという(最も恐ろしいことに、そのような条件下での課税は「非常に高い」ものになるだろう)。トゥーンベリーが彼らをおびえさせるのは、他にも何かあるかもしれない。それはこの惑星とそこを故郷と呼ぶたくさんの生命の形への彼女の断固としたコミットメントである。AIに生成されたこの世界のシミュレーションや、生きるに値するものと値しないもののヒエラルキーや、終末論ファシストが売り出している様々な超惑星の脱出ファンタジーへではなく。
彼女がここにいるためにコミットしている一方で、終末論ファシストたちは想像の中だけにせよ、この土地を離れ、豪華なシェルターに落ち着き、あるいはデジタル空間に超越し、あるいは火星に行こうとしている。
トランプの再選の後まもなく、私たちは、私たちの世界を捕らえている死の衝動を両腕で包み込むような音楽を作ろうとしている数少ないミュージシャンの1人である、アノーニにインタビューする機会を得た。権力者の人々のなかで地球を焼き払う意思と女性や彼女のようなトランスの人々の身体的自己決定を否定する動機がどのように結びついているのか聞かれて、彼女は自分のアイルランド系カトリックとして生まれ育った経験から答えた。それは「私たちが演じ、体現している、非常に長く信じられてきた神話です。これは彼らの携挙の頂点なのです。彼らは創造の官能的サイクルから逃亡しようとしています。母からの逃亡なのです」。
○より良い未来の物語
この終末論的狂乱をどのように断ち切れるだろうか?第一に私たちは、すべての国で極右勢力を蝕んできた堕落の深さに向き合うために互いに助け合う必要がある。集中して前進するために、私たちはこの単純な事実をまず、理解しなければいけない。私たちは、単に自由民主主義の前提と約束だけではなく、私たちの共有する世界の生存可能性をも諦めたイデオロギーに直面している、その美しさ、その人々、我々の子供たち、他の生物に関して。私たちが直面している力は、大量の死と結託している。それはこの世界と、その人類と人類以外の住民たちを裏切っている。
第二に私たちは、終末論的語りに対して、厳しい時代を誰1人取り残さずに生き延びるかについてもっと良い物語で反撃する必要がある。終末論ファシズムのゴシックパワーを奪い、我々の共同体的生存のためにすべてを賭ける運動を活性化させる物語で。その物語ではなく、より良い未来の物語を。分離と優越の物語ではなく、相互依存と親密性の物語を。逃亡ではなく、私たちが複雑に拘束されている困難な地球の現実に留まり、忠実であり続ける物語を。
もちろんこのような基本的感情は新しいものではない。それは先住民の宇宙論に中心的なものであり、アニミズムの核心に存在する。過去に遡れば、あらゆる文化や信仰には、この地の神聖さを尊重する独自の伝統があり、遠く離れた約束の地でシオン[エルサレムにあるユダヤ人の聖なる丘]を探す必要はない。東ヨーロッパでは、ファシストとスターリン主義者が全滅する前に、ユダヤ教の社会主義政党の労働党は、「ここにいること」を示すイディッシュ語の概念である「Doikayto」に基づいて組織化された。この無視された歴史について著書を発表する予定のモリー・クラブアップルはDoikaytoについて、「自らを死なせようとするすべての人々に反抗して自分たちの住んでいるところで自由と安全のために闘う」権利として定義している。パレスチナや米国の安全な場所に逃げることを強いられるよりも。おそらく必要なのは、そのような概念の現代的な普遍化である。この特に弱った惑星、これらのもろい体の「ここにいること」の権利への、地球のどこにいても、避け難いショックが私たちを揺り動かす時でさえ、尊厳を持って生きていく権利へのコミットメント。「ここにいること」は移動可能で、ナショナリズムから自由であり、連帯に根付き、先住民の権利に敬意を払い、国境に縛られない。
このような未来は、それ自身の終末論、それ自身の世界の終わりと啓示を必要とするだろう。全く異なる種類の。治安維持の研究者であるロビン・メイナードが述べるように、「地球の惑星としての維持を可能にするためには、この世界のいくつかのバージョンは終了する必要がある」から。
私たちは、終末に直面しているかどうかではなく、終末はどのような形を取るかということについての分岐点に到達している。活動家姉妹のアドリエンヌ・マレーとオータム・ブラウンはこのことについて、彼女たちのぴったりな名前のpodcast、「世界の終わりををどうサバイバルするか」の中で最近触れている。終末論ファシズムがあらゆるところで戦争を仕掛けているこの瞬間には、新しい同盟が不可欠だ。だが、「私たちは全員同じ世界観を持っているか」と尋ねるのではなく、アドリエンヌは次のように私たちに促す。「あなたのハートは鼓動していて生きるつもりがありますか?それならばこちらに来て、向こう側で考えましょう」と。
終末論ファシズムの、常に締め付け窒息させる「秩序ある愛」の集中的サークルと闘う希望を持つためには、地球を愛し、信頼に満ちた、不規則で開放的な運動を築く必要があるだろう。この惑星、その人々、その生き物、そして私たちすべてにとって、生存可能な未来の可能性に対する信頼。ここに対する信頼。あるいは再びアノーニを引用すれば、彼女が今信を置いている女神についてこう述べている。「これ[この地球]が彼女のベストなアイディアだったのではないかと考えたことはありますか?」
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by anti-phallus
| 2025-06-03 14:47
| 仕事
3/2(土)公開研究会
【みんなのためのフェミニズム公開研究会】のご案内
みなさま、お世話になっております。
このたび、以下のように公開研究会を開催いたしますので、ご興味のある方はぜひご参加ください。
また、ご興味のありそうな方にお知らせいただけたら幸甚です。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
~~~~~~~~~
「(ポスト)フェミニズムから教育を考える〜
『教室から編みだすフェミニズム』刊行記念公開研究会
◆日時:2024年3月2日(土)14:00~17:00(予定)
◆場所:東京外国語大学 留学生日本語教育センター棟103教室(府中キャンパス)
◆アクセス:
https://www.tufs.ac.jp/abouttufs/contactus/access.html
◆スケジュール
14:00 開始 趣旨説明(竹田恵子さん)
14:10 虎岩朋加さん 講演「今、教室ではどのような「主体」が生み出されているのか――新自由主義、ポストフェミニズム、フェミニスト・ペダゴジー」
15:00 菊地夏野さん コメント「教育とフェミニズム バックラッシュ・再生産・政治」
15:20 伊藤書佳さん コメント「能力主義と教育とフェミニズム」
15:40 休憩
16:00 虎岩さんリプライ
16:15 質疑応答
17:00 閉会(予定)
※申し込み、参加費不要
※対面のみ
◆趣旨
教育は常にフェミニズムにおいて重要な意味を持ってきた。『教室から編みだすフェミニズム』(2023年、大月書店)はこの教育にまっすぐ向き合い、さまざまな問題を抱えている学校の中でどのようにフェミニズムを育てていくか熟考している。フェミニスト・ペダゴジーを受けた上で、ポストフェミニズム、フーコー、ベル・フックス、情動理論等を駆使して練られた問いをともに考えるきっかけとしたい。
※当日、書籍販売あります※
◆登壇者プロフィール
虎岩朋加:愛知東邦大学。専攻は教育哲学。「自己検閲からの自由」を念頭にフェミニズム教育を構想してきた。主著に『教室から編みだすフェミニズム』(2023年、大月書店)。
菊地夏野:名古屋市立大学。専攻は社会学、ジェンダー/セクシュアリティ研究。マイノリティ女性と共に生きるためのフェミニズムの構想を目指す。主著に『日本のポストフェミニズム』(大月書店)他。
伊藤書佳:「不登校・ひきこもりについて当事者と語りあう いけふくろうの会」世話人。日本社会臨床学会運営委員長。教育の暴力性や能力主義について考えてきた。共著に『自立へ追い立てられる社会』(インパクト出版会)など。
問い合わせ:minnfemi@gmail.com
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by anti-phallus
| 2024-02-15 15:27
| イベントの案内
『やまゆり園事件』を読んで
神奈川新聞取材班『やまゆり園』(幻冬舎)を読んだ。この事件に関してとりあえず読みやすそうなものからということで手に取っただけだったが、思ったより良い本だった。
ただ最初の、犯行を具体的に説明している部分は痛々しくとても辛かった。数日落ち込んだので、不安のある人はそこは読まないほうがいいかもしれない。次に、加害者植松の生い立ちや知人友人の発言が取り上げられる。印象的だったのは、植松の思想的背景とでもいうか(あれをいわゆる「思想」と言ってはいけないが)、影響を受けたものとして、トランプがあったということ。「移民を排斥するトランプだったら自分のことを認めてくれる、評価してくれるはず」と思い込んでいたらしい。トランプは障害者差別に関してはとくに報道されていないが、植松はそのように考えた。
一方、障害者差別というとナチズムの優生思想がよく取り上げられるわけだが、植松はナチスについてはそれほど知らなかったようだ。ここは重要な点だと思う。一般に、「障害者差別=優生思想=ナチス」というイメージがあるわけだがそれは必ずしも万能ではないということだ。「優生思想」という言葉は難しく、素人が聞くと遠い問題に見えてしまう。だがそうではなく、過去だけではなく現在にこそ障害者差別、障害者ヘイトが渦巻いていると考えなくてはいけない。
ヘイトクライムというと地位や収入、学歴がなく孤立して人間関係のない人物を想像してしまうわけだけど、植松はそうではなく、友人知人も、恋人もある程度いて、既に以前からこのヘイトクライムについて予告を繰り返していたということは重くみなければいけない。しかも、事件の数ヶ月前には措置入院されていた。犯行を予告する手紙を衆院議長に届けたため、危険視されて相模原市から緊急措置入院されている。しかし、入院中もその主張に対して病院側から特に明確な反対はなかったと捉えていて、自分の主張の正当性の確信を深めたという。
彼の生い立ち全般を読んでいて感じるのは、外部の影響を受けやすい人物ということだ。ゲームやアニメの影響で犯行を構成し、トランプの言動に心酔し、園に就職後も最初は明るく抱負を述べているが、すぐに考えを変えている。イラスト、漫画など彼の描いた作品も、「社会の裏表を暴く」ような趣旨のものが多いが、その「裏表」の認識も浅く表面的である。というのは彼の主張とは、「世間は差別はダメと言っているけどそれは建前で、実際には皆、意思疎通のできない障害者は死んでもいいと思っている」というものだが、確かに世の中には裏表はいっぱいあるけれども、裏表は多種多様だ。必ずしも偏見と差別だけでこの社会ができあがっているわけでもない。差別と偏見はあるけれども、それを乗り越えようという試みも豊富に、無数にある。この社会はその矛盾の中にある。植松はそこの複雑さと苦しみを見ようとせず、単純化し、そこに自分の存在を賭けようとしたように見える。
彼の父親は教員だったようだが、教員の中には規範が強く一方的・指示的なタイプがいる。彼の父がどうだったかはほとんど情報がなくわからないのだが、父親への反発があったのだろうか。
彼のもう一つの特徴は、総理や政治家に認められたいという思いがあったことだ。誰しもそれぞれに、誰かに認められたいと思うわけだけれど、それを誰に想定するかというところで違いがあり、そのひとの個性や特徴が出る。やはり自分の尊敬している人に認められたいと思うわけで、それが植松の場合首相や米大統領だった。それはおそらく、現在政治的トップだからというのに加えて、当時のトランプや安倍は自身と共通する主張や価値観をもっているものと彼には思えたからだろう。そういう意味でも、政府はこの事件に対して責任があるし、ともかく明確により強く、2度とこのような事件が起きないようリーダーシップを発揮するべきなのだけれどもしていない。植松のようなタイプの人々は、とにかく「上に従う」というところがあるから、責任ある立場からこの事件、この問題について積極的にメッセージを発信しなければいけない。だが逆に、そのような差別的な主張を発信する政治家が人気を得る時代に今はある。
この事件は「生産性を優先する社会」に一因があったといわれる。「生産性」というのは内容のない言葉で、イメージで使われている。「効率性」や「経済成長」などと同じ意味合いがあるが、「生産性」が言われる中で同時にブルシット・ジョブのように意味のない書類作りが増えていることは真剣に考えられたりはしない。
本書の後半は、植松の主張に対抗するという意味も込めて、障害者の生活の実態や支援の様子についてリポートされている。記者がじっさいに障害者の生活や通学に触れて戸惑いながらもその意義を実感してく様子が窺える。新聞記者というものは大概エリートなので、障害者の暮らしに触れることは少ないだろう。そんなエリートの彼女彼らが考えを変えていく様子は興味深い。
わたしにも障害のある家族がいるが、福祉はとにかく薄い。だから親がいる場合は、とてつもない苦労をして生活している。それを植松は「家族が大変だから心失者(彼の造語)はいない方がいい」と導く。どうして彼がそんな判断を下せるのか、その根拠は全くないにも関わらず。当然そうではなく、誰しも生きる権利は持っているのであり、社会はそれを支える義務がある。同時に、その支える作業は、支える側にとっても大きな喜びとなり得る。
植松の論理は、金儲けや地位・キャリアのアップが人間の喜びであり価値であるとするものだ。そういう人もいる。そういうときもある。だが、それは一過性のものであり、単純な欲求の充足に過ぎない。本当の意味で人の生を充実させ、満足を得させるのは、人と人の関わりだと私は思う。自己の枠に囚われている人間だからこそ、誰かと通じ合った、触れ合ったと思える瞬間が喜びとなりその人を生かしていく。それは言葉によるコミュニケーションにとどまらず、動物や植物との関わりも含まれる。なんでもいい。そういう一瞬の喜びを尊重する社会にするために、能力の優劣に関わらず、誰もが安心して暮らせる制度設計をしなければいけない。
しかし、本書後半で障害者の教育が制限されている現状が問題提起されていてそれはもちろん大問題なんだけれども、同時に、健常者たちは成績によって輪切りにされ、もっともっとと点数を上げる教育ばかり受けさせられているこの日本、マジョリティの側をも同時に問うていかないとどうにもならないなあと、問題の大きさに途方も無い感じを持つ。
それから最後に一つ。本書の帯に植松の顔写真が載せられているのだけれどこれはどうなのだろう。私はみて正直、なんとも言えない不快感をもらった。これは必要だったのだろうか。
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by anti-phallus
| 2023-11-21 13:54
映画の感想
最近、ひさびさに映画を見ました。「福田村事件」と「月」です。どちらも実際に起きた事件をもとに作られた劇映画で、「福田村事件」は1932年関東大震災から5日後に起きた行商人9人への虐殺事件で、「月」は2016年に起きた神奈川県の知的障害者施設での「やまゆり園事件」をモデルにしています。
「福田村事件」の方は、ジェンダー観に問題があるように感じましたが、それ以外はおおむね良い映画だと思いました。ジェンダー観というのは、女性の登場人物が妙に男性に媚びる行動を取るものが多く、また婚姻外の性が多く描かれていたことです。もちろん女性には多様な人がいますので、男性が好きな人、そうでない人がいます。ですが本作中では、自ら女性の「性的魅力」とされるものを用いて男性を「誘う」ような女性が多く、ちょっと気持ち悪くなりました。また、当時の村落ではもちろん結婚外の恋愛、性があったでしょうが、やけにそれだけクローズアップされて、そのことで村落内の人間関係が大きく影響されているような印象を与える構成でした。そしてそのことについて深く考えさせる構成でもないので、作り手がどのような意図でこういう構成をしたのか分からず、単にエンターティメントとして性愛を使っているのかとさえ思わされました。そのような女性キャラクターと一線を画する女性も登場していて、若い女性記者なのですが彼女も元気がいいばかりで内面性には乏しく、空回り感がありました。そこはポストフェミニズム風でした。
以上のことをおいて考えれば、「福田村事件」は難しい歴史的テーマを、現代の人々にも通じるようにわかりやすく提示していて、最後の「朝鮮人なら殺してもいいんか」という叫びは多くの人の心に突き刺さる力を持っていたと思います。
次に「月」を見たのですがこちらは評価がより難しくて、今でもどう考えるべきか悩んでいます。2016年7月にこの事件が起きたときは私は母の介護があり、仕事の合間を縫って実家に帰っていたので余裕が全くない時期でした。事件が起きたのは知っていましたが調べたり深く考えたりすることができませんでした。そのままになってしまっていて、今回この映画を機に改めて考えようとして観に行きました。
この映画は、犯行を行った植松と同僚の若い女性・陽子、主人公である作家の洋子と夫という4人が軸となっています。そのことによって、植松の優生思想、障害者を排除する思想と、作家やクリエイターである他の3人の創作への想いとがクロスして問われる構成です。植松以外の3人はもちろんフィクションで、実在しませんが、この構成を通して監督はこの事件をより広く「わたしたちの問題」として考えさせようとしたようです。そのことによって確かにこの作品は、単なる特殊な差別者の殺人、ではなくより広い現代社会の抱える「闇」から生まれたものとして感じえる余地を広げています。
ただし、わたしがどうしても感じてしまうのは、この関連付けに対する疑問です。植松があのような犯行に至ったことと、洋子ら作家たちが悩んでいる「表現の虚実」はどこまで対比可能なものなのでしょうか。表現についての葛藤は、洋子が植松との対話の際に見せる壮絶な演技からよく伝わりました。あそこは圧巻のシーンです。物を描いたり表現しようとしても、結局編集者や出版社、メディアの都合で歪められ、商品化され、「いいたかったこと」は消えていく。自分自身ですら当初の表現への情熱は薄れ、「人気」「評価」「承認」を得るためにやっているのではないかという欺瞞への疑いに苦しめられる。
洋子はその対話をきっかけに自分を問い直し、創作活動を再開していく。しかし植松の犯行は止められない。
確かに、植松の犯行は洋子らが悩むような「承認欲求」と関連しているのだろう。だがそれだけではもちろん片付けられない。そこの暴力性に真っ直ぐ焦点を当てても良かったのではないだろうか。
あと気になったのは、「福田村事件」同様、「性」の扱いで、植松の恋人である障害女性のシャワーのシーンが短く挿入されていた。前後の文脈と切り離されたシーンでどういう意味なのか分からず戸惑った。それと、施設に収容されている男性が自慰行為らしいことをしているシーンの撮り方が、スキャンダラスというか、あえて奇異に見せる演出のように感じられた。
「障害者の性」は最もタブーとされる領域で、障害者の人権と深く関わっている。その点について十分思考と配慮がなされていないように感じられて残念な点だ。
以上のような疑問は感じたけれども、これだけ考えさせられるというのは十分成功した作品なのだろう。これにとどまらず、さまざまに考えさせるきっかけを増やすことで、このような事件の問題性を共有し、二度と起こさない努力が続けられなければならない。
そして最後に、両作品とも、事件に関するマイノリティ当事者の視点ーーーー前者は朝鮮人、後者は障害者ーーーーーが中心に置かれてはいなかったことをどう考えるべきかも残されている。
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by anti-phallus
| 2023-11-07 20:33
| シネマレビュー
ジャニーズ性暴力問題について
現在問題化しているジャニーズ性暴力問題について書きたい。この問題は現在進行中であり、次々に被害者が名乗りで、ジャニーズ側の対応もあり、またそれ以外の動きも目まぐるしく大きい。できるだけ報道をチェックするようにしているが、私は芸能界には全く疎く、初耳のことが多い。被害者の証言を聞くと衝撃が大きく、揺り動かされる。何を言えるのかわからないが、頭の整理のためにも現時点で考えることを書いておきたい。
なおメディア上ではこの件は「性加害・性被害」と語られているが、わたしはフェミニズムの運動が発見した言葉として「性暴力」という言葉を用いることにする。
1 権力構造
問題が明らかになるにつれてわかってきたことは、ジャニー喜多川の権力の大きさだろう。全国から履歴書を送る子どもたちに直接電話をかけて、呼び寄せる。子どもたち少年たちは「スターになる夢」のために参入する。そこで性暴力を受けるが、親にも周囲にも言えず抱え込む。
典型的な性暴力、セクハラの構図だ。ある種のセクハラは、性暴力と引き換えに「エサ」を与える。「#MeToo」で明らかになったハリウッドの女優たちの場合もそうだ。権力を持つプロデューサーの性暴力を甘受する代わりに、役を提示され有名になることを保証される。私はこの構図はものすごい暴力性を持っていると思う。女優になりたい、アイドルになりたいというのはそのひとが自分の表現によって他人から承認を得て何らかの価値づけを得たいということだろう。あるいはそれと少し違って、何かを伝えたい、それによって社会に何らかのインパクトを与えたいということかもしれない。どちらにしてもその人の生を賭けた強烈な欲求であり意思である。一方、性暴力というものは、支配の行為であり、加害者から「お前は何の価値もない存在だ、俺の性欲解消の道具でしかない」といわれること。
ジャニーズJr.の少年たちのようにジャニーから性暴力を受け続けながらダンスのレッスンを受け、デビューに向けて努力することは、自分が引き裂かれるような経験だろう。常に自分の価値を貶められながら、舞台ではそれを隠して自分の魅力を表現しなければいけない。それは、自分を自分で傷つけ、ボロボロにし、空っぽにしていく行為ではないだろうか。そしてそれは被害者たち自身が選んでやったのではなく、まさにそれこそが加害者ジャニーの望んだことだ。自分の権力によって少年たちを傷だらけにし、空っぽにすること。それによって自分の存在価値を確認する。怪物のようなものだ。だけど怪物は珍しくない。
性暴力は性行為ではない、支配の行為である。被害者は自責する。逃げなかった自分、逆らえなかった自分を自責する。それを想像すると本当に辛い。
今日本のメディア上で多数の被害経験が躍っている。これは90年代の「慰安婦」問題が報道されていた以来のことではないか。私は主にYouTubeのあるチャンネルで被害者インタビューを聞いているが、そのなかで気に掛かったことがあるので書いておきたい。
このチャンネルは、声を上げた被害者のほとんど全員をゲストにして被害を含めたインタビューを行なっている。貴重なインタビューだと思ったので私も毎回聞いていたが、何度も聞くうちに記者の態度に疑問を感じるようになってきた。それは、ゲストの、被害のごく具体的な詳細部分を聞く時に、細かい点を突っ込み、「他の被害者の方はそういう時こうこうだったと話していましたがどうでしたか」というように、他の被害証言と比較するような質問を多発する態度である。性暴力の被害を語るというのは多大なエネルギーを要するもので、自分を奮い立たせながら義務感で語るものだ。そのような辛い作業を行なっている時に、その人も知らないような他人の具体的な性暴力の詳細を突きつけられ比較されるのは二重三重の負担を強いるものだと思う。それが被害者と記者だけのクローズドな環境でのことならまた別だが、リアルで実況中継されている中で聞くのは、拒否もしにくく相当圧力がかかる。そういったことへの想像力がこの記者には根本的に欠けているように見える。
他にも「ジャニーズ出身者には独身の人が多いがそれは被害と関係があるのでは」「ジャニーズ出身者にドラッグの使用が多いが性被害と関係があるのでは」など憶測と偏見に満ちた発言もある。「○○さんは被害者の中でも逃げられた方だと思います」とか被害者をジャッジするような発言も耳を疑った。
この記者は政治家への厳しく批判的な取材態度で名を挙げた方でありその意味の功績はあると思う。だが別件で取材対象者の訴えに耳を貸していないようだし、被害当事者に接するには不向きなのではないか。どうしてもしかたないのなら、今すぐにでも性暴力の専門家(医者、カウンセラー、研究者等)の研修を受けてから取材に当たって欲しい。そうでないと視聴者も辛い。番組のコメント欄に書いたが、私のコメントだけ「いいね」をつけてもらえず無視されているのでここに記した。
3 男性被害者であること
またこの記者に限らず、今回の性暴力報道は本当に適切になされているだろうか。今回は男性による男性への性暴力である。この事件を過度に「おぞましく、気持ち悪い」と報道しているものも目にするが、そこには男性同性愛への差別意識があると言わざるを得ない。この事件の報道が同性愛差別を惹起しないように配慮した報道はほとんどない。
そもそもこんなに長い間この問題が放置されてきた理由のひとつには、同性間性暴力であることがある。80年代の告発者たちの手記には「こんなことをいっても馬鹿にされ、自分が変態扱いされるだけ」という記述が多々ある。同性間であろうと異性間であろうと性暴力に代わりないのに、同性間となると嫌悪しまともに扱わない。被害者まで嫌悪する。
上記番組中でも、被害者が「ジャニーさんのせいでそっちの道に走る人も多いと聞いた。そうなっちゃえば逆に楽だよって」という発言があった。真偽もわからず、確実なのは同性愛への偏見のみの発言である。ただ被害者が回想としてそのままそのような発言をしてしまうのは仕方ないだろう。そこを責めるつもりは私はない。問題なのは、聞いていた記者二人ともなんのフォローもなく流したことだ。この発言を、自分のセクシュアリティについて悩んでいる人が聞いたらどうだろうか。やっぱり同性愛はこういうふうに言われるのだろうと思うのではないだろうか。ひとことでも何かフォローがほしかった。
昔から今に続く日本社会のホモフォビアが被害者たちを追い詰めていたのだ。
今回メディアの責任を問う声もあるが、その責任の中にはこのホモフォビア報道の問題も含められるべきだ。主に、ジャニーズ事務所にスタジオを提供していたことやジャニーズタレントを優遇したことなどが問われているが、そこに止まらず、性暴力や同性愛差別に甘く、さらには進んでホモフォビックな番組作りをしてきたことの責任を問う必要がある。
その上で、上記のチャンネルもそうだが、こんなに性暴力の内容の詳細が配慮なしに報道されているのは、男性間の性暴力だからではないかという点を見直して欲しい。被害者が女性であったらこんなに詳細に取材され報道されないのではないか。そこには「女性にはまずいが、男性だったら聞いてもいいだろう」という判断があるように思える。
性暴力の報道をするのに、被害の詳細がどこまで必要か?少なくとも今回、報道関係者はこの点をどれだけ真剣に考えているか?被害者たちのなんとかしたいという思い、告発への意思に甘えているのではないか?
4 テレビとエンタティメント産業 視聴者、オーディエンス、ファンであること
わたしはあまりテレビを見ないし、テレビに出るような芸能人もよく知らないので、今回の事件をきっかけにこの面を考え出した。ジャニーズといえば、小中学生の頃クラスで話題になっていたのでメンバーの誰が好きかそれぞれ表明するような雰囲気の中で誰かを選んで言っていたような記憶がある。それくらいの軽さだったが、逆に言えばこんな疎い人間でもそれだけのコミットをする、させられるだけの力をジャニーズは持っていたということである。ある意味、少女たちを異性愛主義に招く作用があるといっていいかもしれない。ジャニーズは「若さ、可愛さ、かっこよさ、さわやかさ」を売っていたわけで、その裏側で深刻な性暴力が行われていたとは、私がこの事件を知った時最初に思ったことはそれだった。ずっとだまされていたような気持ちになった。ここは他で詳論したほうがいいだろうが、ジャニーズはある意味「平和な戦後日本」を飾る一コマだったように思う。その背後に性暴力とは、なんとも見事な戦後日本論が書けてしまう。
そしてジャニーズには大勢のファンがいる。だが被害者の服部吉次さんの話を聞いていると、ジャニーズのようなアイドルのファンになることの意味を考えさせられる。服部さんは「本当に自分と向き合った者だけが人の心をうち、社会を変える表現ができる」「その意味でジャニーズや今の日本のテレビのエンターティメントはだめだ」という趣旨の話をしている。その通りだろう。わたしも子どもの頃ジャニーズの音楽や表現を良いと思ったわけではなく、テレビでよく放映され、クラスで話題になっているから認識しだだけだ。好きなミュージシャンや俳優らは別にいた。
(服部さんは若い頃アングラ演劇の活動をされていた役者さんだが、60-70年代のアングラ運動がこの国の芸術を支えてきたと言っていた。わたしはその時代のカウンターカルチャーの意味を改めて発見することの必要性を最近確信しているが、ここでも痛感した。)
だがおそらく、マスの目や耳に流れてくる音楽や表現の多くは同じだろう。作品や人物の価値とは関係なく、金の力、組織や業界の力で商品化され人々の手元に届く。それは消毒され、綺麗にされ、ピカピカに輝いているが、限りなくそれだけのもの。それが資本主義である。
そのようなアイドルのファンであることはどんな経験なのだろう。少なくとも、彼らが受けている被害を無視し、笑顔を強制するようなファンであることだけはやめてほしい。
5 戦後日本と性暴力
ジャニーズの問題がこれだけ長く隠蔽されてきたことを思う度に、続いて思い出すのが「慰安婦」問題である。「慰安婦」問題が起きたのは戦時中であり、ジャニーズは(ジャニーズ事務所に限って言えば)70年代以降だけど、「慰安婦」問題は戦後ずっと沈黙下におかれ、90年代に告発があったけれど今に至るまで正式には解決していない。
「慰安婦」問題がまだ解決されていないと言うことはやはり、ジャニーズのような大規模な性暴力事件が秘匿されることとイコールなのだ。この社会は、性暴力に向き合っていない。多くの被害者は沈黙を強いられ続けている。権力をもつ男性や組織、国家のために女性や子どもが犠牲になるのは当然なのだ。むしろそれこそが力の証なのだろう。絶望と共にそう思うが、同時に、今回被害者たちが声を挙げ、謝罪と補償を求めているのを聞くと、変わる可能性はあるのかもしれないとも思える。感謝とともに応援したい。
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by anti-phallus
| 2023-09-06 13:08
| その他

