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『教育と愛国』とポジティブ・アクション

映画「教育と愛国」アンコール上映をすべりこみで観ることができた。視点のしっかりした作品だと思った。というのは、「慰安婦」問題を基軸にした構成だったから。政治によって教育現場がどのように歪められつつあるかを撮ったものだが、実はそれは「慰安婦」問題をめぐって生じた変化である。90年代に被害者が告発を行い、運動が形成され、その結果の一つとして教科書に「慰安婦」が記述されるようになった。そのことを問題視した右派の活動家、学者、政治家が起動したのが、今に至る右傾化のきっかけだ。だがこの大きな構図が語られることはあまり多くない。それはこの問題がメディア上でタブーになっていることと、詳細を理解している者が少ないからである。

この監督はその歴史を理解し、初心者にもわかりやすく提示している。同種のドキュメンタリー映画「主戦場」が演出に凝り、やや誇張し過ぎという批判もあったことに比べ、こちらは丁寧に描いているのでとっつきやすいだろう。(それにしても右派の学者の発言の無内容さは、「主戦場」と共通していて興味深かった)
私個人としては知っていることが多かったので発見というよりは確認した感覚なのだが、映画から少しずれて、映画館に掲示されていた監督のインタビュー記事のほうで気になることがあった。

朝日新聞の記事で、2022年5月19日づけ。監督は、橋下大阪元府知事が府立学校の私学助成削減について2008年に女子高校生と討論会を行った時のことに触れていた。経済的に困窮し削減に反対する女子高校生らに府知事は激しく反論し、「あなたが政治家になってそういう活動をやってください」と言ったという。(しかも松井大阪市長はこのことを「女子高生を泣かせた」とネタにしていたという)

もちろん監督は橋下氏のこういう態度を批判していたのだが、私はそれだけでなく、最近議論することの多い女性のポジティブ・アクションを連想した。このところ増えているメディアの女性管理職や政治家を増やせ報道について、私は以前から批判的な発言をして(させられて?)いる。ポジティブ・アクションそのものに反対しているわけではないのだが、どうにも今の語られ方に違和感がある。その違和感の一つがこれだ。

橋下氏は、自分の政策に反対する高校生に意図を説明し説得を尽くそうとするのではなく、政治家になれと言った。これはどういうことかというと、政治家になれば好きなことができるのだということだろう。自分のように努力して「上り詰めて」権力を持てば、好きなことができるんだぞと。逆に言えば、そうでなければ思いが通らなくても仕方ない、ということだろう。

しかし、本当にそうだろうか?政治家は権力者だから、反対する市民に対して説明責任もなく、反対者の考えを尊重する必要はないのだろうか?もちろんそうではない。政治家だから、権力者だからこそ、反対者や弱者の意見を聞かなくてはいけない。それが民主主義だろう。だが橋下のような政治家が人気を得て、マスメディアに頻出する、それが今の時代である。

この時代の主流の雰囲気の中で、女性管理職や政治家を増やせというメディアのキャンペーンがある。普段中立を装うメディアはこのテーマに限って不思議と主張を明確にし、紙面で訴える。だがこれがメディアの役割なのだろうか。何度もいうがポジティブ・アクション自体は悪いことでない。活動している人々にも共感する。私が違和感があるのは、数あるジェンダーイシューの中でこれだけ取り上げられることである。

例えば前から思っていることだが、重要なイシューの一つ、男女の賃金格差についてきちんと勉強しているメディアは少ない。最近の政策もあって賃金格差の報道は少し出てきたが、報じられるのはほとんどが正社員の男女の格差。メディアは正社員だけ取り上げて男女差を言っているが、女性労働者の過半数は非正規。正規・非正規を問わない男女差はより大きい。男女差を言いたいならば、非正規を含めて取り上げるべきだ。この問題はとても分かりやすいし、少なくとも女性管理職や政治家増やせキャンペーンと同等なくらい報道されていいはず。管理職や政治家はどうしたって少数のエリートの話。非正規の問題の方がより広範な影響を持つともいえる。譲って言えば、賃金格差など重要なジェンダーイシューに取り組める政治家を増やせと、ジェンダーについて主張したいなら主張してほしい。

他にもたくさん報道されるべきジェンダーの問題はある。女性管理職や政治家が増えればそういった地道なジェンダーの問題も進展するはず、といいたいのだろうが、政治家の支援者や一般市民ならともかく、メディアがそういうスタンスを取るのは私には筋違いのように思える。特定の政党を支持してはいけないというのがメディアの不文律だというが、その不文律自体疑問がつくし、政党に偏らない代わりに女性を増やせと言っているように見えるけど、どうにもバランスが悪いように感じる。そんな単純なところに落ち着くのではなく、メディア自身が様々なジェンダーの問題を勉強し、多様な方向からアプローチしてほしい。それに刺激を得て、市民もあるいは政治家も企業も変わっていく。政治家任せ、管理職任せの報道は根本から間違っている。それは、男性中心のピラミッドを肯定し、女性もピラミッドを登れ登れと煽っているように見える。

橋下氏のエピソードに戻ると、女子高校生(このカテゴリー自体問題含み)は高校生のままで、意見を主張し、聞かれ、政策に反映させる権利がある。政治家にならなくても管理職にならなくても普通の女性のままでよい。彼女たちがそのままで平等に認められ、権利を行使できる社会が目指すべき社会である。





# by anti-phallus | 2022-08-20 17:49 | シネマレビュー

時事論評

この2月に始まったロシアによるウクライナ侵攻によって何かが始まったような直観がある。何かが明らかになったのだが、それを覆い隠すイデオロギーにより歪められた形で人々に伝わっている。それも含めて、新しい枠組みが形成されたように感じる。それは何だろうか。

フレイザーが以前から指摘している「保守反動対進歩的なネオリベラリズム」がその大部分を説明してくれる。当ブログでも紹介したが、その構図は「トランプ主義対アメリカ民主党的勢力」と解するのがわかりやすいだろう。このフレイザーの論の核心は、問題がわかりやすいトランプイズムについてよりも、それに抗するように見える民主党勢力を「進歩的なネオリベラリズム」と断じているところにある。フレイザーの批判はむしろこちらの勢力に向けて注力されている。数十年間にわたって経済を金融化させ、労働者の生活を悪化させたネオリベラリズムの大きな担い手として民主党に代表されるリベラル勢力を批判している。彼女・彼らの政治こそがトランプを生み出したと。もちろん大方のリベラル系メディアや知識人もそこを軽く指摘する。だがフレイザーの論の重要さは、そこをソフトに匂わせるにとどまらず、むしろ、そのようにトランプ的なものを批判するかのようにふるまうリベラル勢力の狡猾さを正面から問い直すところにある。またそれは、そのリベラル勢力がフェミニズムを旗印に掲げる時代に入り、まさにヒラリー・クリントンに代表されたからでもある。フレイザーはフェミニズムの簒奪に対しても闘っているのである。

 さてこの構図は、2016年のトランプ大統領当選のさいにアメリカ合衆国内の政治問題として明らかになったのであったが、今回のウクライナ侵攻で、その次元が拡大した点に注意を払う必要がある。プーチンはトランプと親交があったことに表現されているように、両者とも独裁的政治家である。少なくともトランプは今のところ4年の任期で退任したわけだが、プーチンは長期(2000年-2008年、2012年-現在)にわたって大統領を務めている。その独裁的保守反動政治家が他国を侵攻しているわけだが、前述の図式から考えると、「進歩的なネオリベラリズム」に該当するのは、ウクライナのゼレンスキー大統領も含まれるが、より適切には、大規模支援を行っているアメリカをはじめとするNATO勢力全体だろう。つまりまず、アメリカ一国内の動きに見えたものが、現在では国家レベルで世界全体を巻き込んで展開されているのである。

実は、この構図はトランプ出現よりずっと前から起きていたと考えることができるし、そう考えることが重要である。私の記憶には、2001年9月11日のいわゆる「同時多発テロ」とその報復としてのアフガニスタン侵攻、さらに2003年のイラク戦争がまだ生々しく残っている。アルカイダやタリバン、イラクのフセイン大統領らは、反米的で、危険な存在とされ、アメリカから攻撃されたが、その攻撃の大きな目的は、アメリカの大企業の市場開拓であったことは、当時現地で取材した安田純平さんのレポートからも明らかである。イラクでフセイン像が破壊され、すぐにできたのはコカコーラの工場だったという。また、タリバンらの「テロ」組織やイスラム指導者を批判する際にまず使われたのは彼らの「女性差別」的「後進性」だった。つまり「保守反動的な政治家対進歩的なネオリベラリズム」の構図はこの時期においても妥当である。ただし、この時期にはあくまで個別の「テロ」組織やイラクという小国が標的とされていたことが現在とは違う。また、当時、特にイラク戦争開戦前夜には世界的に反戦運動が巻き起こり、日本でも大きなデモが「ピースウォーク」などの形で巻き起こったことも現在とは違う。

今回の事態を考える上で決定的に重要なのは、NATOが冷戦崩壊以来一貫して拡大してきたこと、東西ドイツ統一交渉時にソ連側にアメリカが「東方不拡大」を約束したにもかかわらず無視されてきたことであろう。ウクライナまでNATOに加盟することはロシアにとっては大きな脅威だ。プーチンは言論弾圧、LGBT否定に見られるように「保守反動」ぶりがわかりやすいので、さきの図式の第1項にふさわしいだろう。だが問題は、第2項をどう捉えるかだと思われる。フレイザーは「Progressive Neoliberalism」としていたのだが、「保守反動的な政治対ネオリベラリズム経済」としたほうがわかりやすいように思われる。

そもそも一般的には、近年の国際世界を論じるときに「権威主義対民主主義」という捉え方がよく聞かれる。しかしフレイザーの指摘を踏まえても、アメリカの政治や外交は「民主主義」と一言でいうにはあまりにも問題が大きすぎる。国内であれだけ大きな貧困を抱え、公的健康保険も育児休暇もないような国である。アメリカ的なるものを相対化するためにも「民主主義」とするよりフレイザーのように「ネオリベラリズム」、より明確に「ネオリベラル経済」としたほうがいいように思える。それは、アメリカの民主党の政治の一部にある良質なもの、例えば伝統的に差別への厳しい姿勢だったり、バイデンが打ち出す奨学金免除政策だったりを救い出す意味もある。フレイザーの批判は、そういったリベラルな政策により、より実質的な資本主義の問題や戦争政策が隠蔽されることに向けられているのだが、そこは切り分ける必要もあるだろう。それは、フェミニズムやクィアに関心を向けるひとびとを「ネオリベラリズム」に動員させないためでもある。もちろんネオリベラリズムは単なる経済現象を超えて、文化や政治、私たち個々の主体形成にまで作用する。だがその核心はやはり、無限の資本増殖とそれによる破壊活動にあることを明示したほうが良いと考える。

つまり、ウクライナ侵攻は、「保守反動の政治家対ネオリベラル経済」の構図が世界全体で展開される時代の開始を告げているということだ。1990年代から少しずつ準備され浸透してきた構図が誰の目にも明らかになった。この世界の困難は、プーチンのようなわかりやすい「悪」に対峙するのに、その対峙の拠点がアメリカやNATOのような立場しかないように見える点だ。今日本のマスコミが作り出しているのもこの認識である。アメリカもそんなに良いわけでもないけれどプーチンのような絶対悪よりは数倍マシだからアメリカを支持しようという論理である。この認識によって、アメリカ的なものに代表されるグローバル資本主義の問題性は隠蔽される。グローバル資本主義は戦争資本主義でもあるから、したがって日本の軍事強化は加速され、ひとびとは動員される。これは、スピヴァクらポストコロニアル・フェミニストが批判してきた「ダブル・セッション」である。リージョナルでローカルな「暴力」と、グローバルな資本主義の共犯関係、敵対しているかのように見せながら両者絡み合って女性の主体性を抑圧していく。こうして世界は密かに「男性化」し、暴力が構造化されていく。

さて次に考えるべきは、どのように抵抗と変革の政治を呼び起こすかであるが、アメリカに次いでわかりやすいのがフランスだ。フランスの政治はポピュリズムが明確に表現されている。フェミニズム的なレトリックも駆使するマリーヌ・ルペンが伸びて注目されていたが、その後左派のジャン=リュック・メランションが勢いを得て、先月の下院選でもマクロン派に次ぐ勢いで、ルペンの国民連合より多く議席を得た。ネオリベ支持のマクロン政治の下で、不満を抱える庶民の意識をルペンの右派ポピュリズムが利用して力を得る時期が続いていたが、ここにきてメランション率いる左派ポピュリズムがやっと芽を出した。
現代では近代政治の基本をなしていた政党政治が機能しなくなっている。政党が頼る組織勢力(職場・組合、各種業界、宗教、地域・・)が弱体化し、政治そのものへの不信感が極大化している。自分の生活や生を、政治によって変えられると思えない。そもそも社会の中に自分がいるという感覚が持てない。自分の価値観や信念、政治意識と政党がつながらない。そんなひとびとの気持ちにひびくのが、ポピュリスト政治家のパフォーマンスだ。他の政治家とは異なるように見える信念を持ち、個性を表し、マスではない一人一人に訴えかける。強烈な演説とパフォーマンスにひとびとは魅かれる。

これは、この数十年間でグローバル化が進み、政治の利益構造が1国内で閉じずに、大きな国際的利権構造に拡大されたこととも関係しているだろう。大企業の活動は国境を超えているわけだから、同時に利害関係者も1国内で完結せずに世界中の地域に分散される。それなのに政党政治は一つの国単位で作られ、選挙も1国単位で行われる矛盾。ある意味、選挙がリアリティを失っているわけだ。それを表しているのが左派の「1%の富裕層と99%のわたしたち」という言葉である。このパーセンテージは国境を超えた世界全体で考えられている。

人々のダイレクトな熱情を平等と自由の理念へ向けて発揮しようとする左派ポピュリストの登場にいくぶんかは期待をかけるしかないと思われる。しかし、日本ではフランスやアメリカのようなわかりやすい政治対決はもちろん見えてこない。もともと保守的な政治基盤の中の自民党長期支配の末、自民党はより右傾化した。しかし「右傾化」という言葉を日本のマスメディアは使わないため、右に寄った軸が自明視され、小泉や安倍など自民党政治家の一部はポピュリスト的手法を使いながら人気を得た。フランスやアメリカのようにネオリベ政党と保守あるいは右派政党がきちんと二分化せずに、自民党の中に包摂されているのである。これが自民党のずるさであり強さである。維新という右派の応援団まで登場し、右傾化は止まらないようだ。日本のこの現状を「平和ボケ」という言葉で批判する人もいるが(青木理さんなど)、そんな生易しいものではなく、支配の強さを示していると考えるべきだ。

れいわ新撰組のような左派ポピュリズムはメディアからもかなり強力に排除されている。この先どこまで伸びるかは不透明である。
フェミニズムに絞れば、別稿でも論じたが、政治の右傾化に手を貸すような現象が続いていて頭が痛い。例えばAV新法の混乱があるが、ポルノグラフィーやセックスワークに関するフェミニズムの議論の蓄積は参照されず、「性表現=悪」の規制主義が唯一のフェミニズムとみなされている。新法は一部で話題になったため、フェミニズムにほとんど見識のない他分野の専門家も取り上げることがあるが、そのさいには「規制主義=女性の味方=リベラル」の図式で論じられていて勉強不足にも全く気付かれていない。

悩ましい状況だが、ウクライナ侵攻についてロシアのフェミニストが反戦声明を出した。
このような小さい声だけれども多くの人々の目を覚まし、希望を与える動きもある。この動きをつないていくことを大事にしたい。



# by anti-phallus | 2022-07-04 15:33 | つれづれ

ポーランド女性たちのストライキの力

お久しぶりです。面白い記事を翻訳してもらったので掲載します。
タイトル通り、ポーランドのウィメンズ・ストライキの情報です。
「99%のためのフェミニズム」の関係で調べていたところ、この記事が引っかかりました。
ウィメンズ・ストライキについて日本語での情報はほとんどありません。
この筆者は面白い人で、「3.11」の調査を行って本(英語)を出版しています。
(誰か翻訳して!!)

これを読み出して以降、ロシア政府のウクライナへの侵攻が本格化し、
にわかに日本のメディアに東欧の情報が溢れ出しました。
情報が増えるのはもちろん良いことですが、その多くは表面的なものばかりのように
感じるのは私だけでしょうか。
単純にプーチンを、ロシアを悪者化することで戦争は終結に向かうのでしょうか。
それどころか、日本の政治家は、戦争に乗じて軍事の必要性を求める世論作りに
利用してはいないでしょうか。
ロシアとウクライナの戦況報道ばかりで、国内の政治ニュースはかき消されています。
参院選前だというのに。

このポーランドのウィメンズ・ストライキは、中絶が完全に禁止されたことに
反対するものです。
90年代の資本主義経済へ移行の混乱の中、教会の勢力が強まり、女性の権利は
せばめられました。
他の東欧諸国同様、ポーランドも(ウクライナも)急速な市場化とそれに伴う社会の矛盾の激化、
格差の拡大に苦しみ、そのなかで右派ポピュリズムが躍進しています。
右派ポピュリズムはトランプに代表されるように、中絶の権利など女性の権利を
抑圧します。

長めの文章で、決して読みやすくはないので、訳出には苦労しました。しかも原文はポーランド語。
(翻訳は尾髙温さんにお願いいたしました。私の方で一部修正しました。)
ですがじっくり読んでいただけると、現地の空気感が伝わるはずです。

中絶を犯罪化する刑法堕胎罪があることも知られていない日本で、
このような運動を理解することの難しさもかみしめつつ。

英語はこちら。





★★★★★★★★★★★★★★★★

ポーランド女性たちのストライキの力
By Katarzyna Boni   2021年4月21日



2021年3月8日の「国際女性デー」。赤い口紅で顔に稲妻を描いた私は、バックパックに魔法瓶を入れ、自分の権利を要求するために街頭へと出た。この日、「国際女性デー」の伝統的なプレゼントである家父長制的カーネーションとストッキングをもらう代わりに、私はワルシャワ環状交差点に6時間立ち続け、気温が氷点下まで下がるなか、警察の警戒線の中に閉じ込められた。そこに集まった総勢200人程の平和的な抗議者たちは皆、中絶禁止法撤廃に向け、市民の主導権を示すための署名を集めていた。警官の数は私たちの人数を大幅に上回っており、2000人くらいだったという人もいた。警官たちは私たちの集会が違法だと、拡声器を通して私たちに伝え続けてきた。私たちは彼らをマカレナ・ダンスの波で溺れさせてやった。数人の女性たちは警官たちの面前に憲法の写しをヒラヒラとかざして、平和的な抗議の権利が列挙されたページを見せた。時々、警官は明白な理由もなく、群衆から女性を引っぱり出し、彼女を地面に引きずっていった。私は自分を取り囲む警官の目を見て、こう叫んだ、「恥を知れ!」


つい6か月前なら、私は自分の意志で警察の警戒線の中に身を置くなんてことはなかっただろう。しかし、その時以来、多くのことが変わったのだ。

その判決は、2020年10月22日(木)の午後早くに言い渡された。憲法裁判所の15人の裁判官で構成された委員会は、胎児に重度の障がいがある場合の人工妊娠中絶を違憲とする判決を下した。

その日、私は全身が痛んだ——私は思った、おそらくそれは、ダンスと判決によるものだろうと。

私が女友だちたちと一緒にワルシャワから東へ、森の近くの別荘に向かっている間、女性たちは憲法裁判所の建物の前に集まっていた。そこから数キロ、彼女たちは「法と正義党(PiS)」の議長であり、ポーランドで最も権力を持つ政治家であるヤロスワフ・カチンスキの家まで「くたばれ(Fuck Off)」と書かれた横断幕を掲げて行進した。

友人たちと私は週末を一緒に祝うことになっていた。だが私たちは乾杯するどころではなかった。ニュースをノンストップでチェックした。私たちは別荘に着いた翌朝、警察がワルシャワで抗議をする人々に対して催涙ガスを使用したという記事を読んだ。

全身がカッと熱くなった。

ポーランド全土で、女性たちが憲法裁判所の判決に対して抗議の行進をした。彼女たちは金曜日、土曜日、そして日曜日も行進し続けた。COVIDの行動制限下でも散歩は許されていたため、彼女たちは「散歩」をしたのだ。主に「全ポーランド女性ストライキ」の傘下で、何百もの自発的な直接行動があった——「草の根の、怒りに燃えた女性たちの独立した社会運動」だ。これまで女性たちがそんなことをしたことのなかった小さな都市や町にまでこの抗議の行進は広まった。


ワルシャワの聖十字教会で土曜日、ミサの間に女性が祭壇に上り、「私の身体は私が決める」と書かれた紙を広げた。男たちは彼女の手を引っ張り、教会から追い出した。彼女の口を塞ぐ者や、「黙れ、アバズレ」と叫ぶ者もいた。森の黄金色の日差しの中で、私たちは自称「教会の警備員」たちが別の抗議をする人を階段に押し付けている映像を見た。束の間の一大事を誇りに思う男たちや女たち、つまりこのキリストの兵士たちは、「私たちは教会を冒涜させません」と叫んでいた。警察は突っ立って見ているだけであった。

私の体は燃え続けていた。まるで紛争地帯にいるように。

月曜日、私はワルシャワに戻った。そして通りや環状交差点を「散歩」する女性たちに合流した。私は神経質になっていた。なぜならポーランドは1日12,000人もの新規感染者を出すコロナ第二波の真っ最中であったし、そこには警察がいたからだ。夏の選挙キャンペーンの間、アンジェイ・ドゥダ大統領率いるポーランドの政治家たちは、「LGBT」は現代の人々を表すのではなく、イデオロギー(空論)だと主張した。

その「イデオロギー」が人間の姿を証明するために街頭を襲った時、警察は活動家を残酷に逮捕し、さらにその活動家たちを警察署から警察署へと転々とさせ、弁護士たちを煙に巻いた。今ではそれは、道路を歩く「イデオロギー」ではなく、母親であり、祖母であり、娘であり、姉妹、妻であった。おそらくそれが警察がより慎重になっていた理由であろう。警察は脇に立ち、拡声器を通してコロナ感染の危険性について声明を発表した。私たちは抗議運動の新しい讃歌となったEric Prydzの “Call on Me” に合わせて街頭で踊った。この曲のリズムが ”Fuck off PiS(くたばれ「法と正義党(PiS)」!)”というフレーズと完全に一致していると気づいた人がいた——それは韻を踏んでさえいた。路面電車は停止し、ビートに合わせて警笛を鳴らした。

フロントガラスやボンネットに稲妻マークを描いたタクシードライバーたちが通りを封鎖し、私たちに加わった。もはやそれは中絶禁止法のことだけではなかった。それは、私たちすべての尊厳に関わることだったのだ。

数日後、私は街頭に戻った。太陽が熱く照りつける中、私は片手で自転車を押しながら、もう片方の手で赤い稲妻マークを描いた白い横断幕を掲げた。稲妻マークは2016年以来、ポーランド女性たちの抗議の象徴となっている。人々はベランダに出て拍手を送り、シーツに描いた稲妻マークを窓から吊り下げた。このシンボルは私たちが通過した店先にも飾られていた。私たちは陶酔しながら国会議事堂まで行進した。私たちは怒りに燃えると同時に歓喜し、そして強かった。

その夜私は帰宅すると、嗅覚を失っていることに気づいた。

憲法裁判所が判決を下してから1週間後となる金曜日、「全ポーランド女性ストライキ」はワルシャワでの大規模な抗議運動を宣言した。10万人が首都の通りを行進した。しかしながら私にはCOVID陽性の検査結果が出ていたため、できることといえば、窓辺から稲妻マークを掲げ、スマホでソーシャルメディアの様子を見ることだけだった。


私は毎日ぐっすりと眠った。熱に浮かされた夢の中でさまざまなイメージが交錯した。ヤロスワフ・カチンスキが「中絶禁止法への抗議運動の目的は、ポーランドを破壊し、国家の歴史を終わらせることだ」と全国演説をする姿、——カチンスキの胴体と腕、彼の言葉や考え方(協会とニヒリズムのどちらを選ぶかが問題だと彼は言う)、何百もの都市や町から43万人もの人々が通りや教会の前に「散歩」に出る姿、警棒で抗議者を殴打する警官たちの姿、教会の入口やバス停留所にスプレー書きされた「国境なき中絶」組織へのアクセス番号が消された姿、右翼民兵が人々を群衆から引きずり出して乱闘する姿、ジャーナリストや身分証明書を掲げる女性国会議員の顔に催涙スプレーが吹きつけられる姿、そして「キリストの肉体と共にある」と高々と掲げられた段ボールのスローガンなど。私の体は「棺桶」ではない。肝臓結石を妊娠予定日まで抱え続けてみなさい。もしミサの侍者が妊娠したら、中絶は聖餐式となるだろう。政府は妊娠ではなく、終末を与えることになるであろう。

50年前、若い女性たちは中絶するためにスウェーデンからポーランドに来ていたものだ。共産主義の下で、その手の手続には大きな制限がなかったのだ。しかしながら現在、ポーランドでは世界で最も厳しい中絶禁止法が施行された。2020年まで、下記の3つの場合に限って中絶は許可されていた。母親である女性に命の危険がある場合、胎児に重篤な障害がみとめられる場合、妊娠がレイプの結果であった場合だ。過去30年間、人口4000万人の国で、合法的な中絶の数は年間1000件にとどまっている(法律の短期的な緩和のおかげで、1997年には一時的に約3000件に急上昇したが)。もちろんそれは政府による統計だけの数だ。毎年15万人のポーランド女性がシステム外で中絶をしていると推定される。どうしてこんなことに至るのか?

90年代初頭、私たちの若い民主主義は共産主義から資本主義への急速な移行をしようとしたため、すべてが変わった。当時、政治家と教会は不文律の妥協案を打ち出した。政治エリートたちは、家族、セクシュアリティ、道徳の問題はカトリック教会によって決定されることに同意した。その一方で、教会の役割は民主主義への移行に不満を抱く人々を落ち着かせ、最悪のナショナリストたちの衝動を抑制するというものだ。この取り決めへの責任を示すために、1993年に中道政権は中絶法を変更した。中絶に関する国民投票を支持する200万近い請願署名は、政治家たちにとっては司教職の支持を得ることより重要ではないと証明された。権力バランスにおける教会の支配をどの政権もひっくり返すことができなかった、1997年に選出された左翼政府でさえも。女性の身体に関する政治家たちの取引は無意味だった。ともかく、2015年に「法と正義党(PiS)」が選挙で選ばれたとき、保守派は権力を握った。私たちの身体をコントロールしたいというナショナリストたちの欲望がさらに強く引き起こされた。10月22日の憲法裁判所の判決が意味することは、公式にポーランドでは、中絶は事実上すべてなくなるということだ。

女性たちは、抗議運動での主な叫びとなった「くたばれ!(Fuck Off!)」の掛け声で、これに答えた。しかし多くの人々にとってこれは問題だった。メディアのコメンテーターや非常に賢明な紳士たちは、女性たちがこの下品さで抗議運動を弱体化させていると説明した。彼らは団結させるのではなく分断していた。さあ前に進んで革命を起こしなさい、だけど政治的な戦略を持ってやった方がよい、という人たちもいた。1789年のパリの路上の群衆を誰が覚えているだろう? 人々はロベスピエールのことは覚えている! 人々はダントンのことも覚えている! 政治家たちは記憶に残った、男たちは記憶に残った、だから私たち女たちは政治に食い込んでいこうとする方がよいのだ、あれやこれやに「くたばれ(Fuck Off)」と言っているだけでなく。とても失礼なこと以外を。

最初、「くたばれ(Fuck Off)」が私の耳に不快に聞こえ、舌にもつんとする響きを持っていたことを認める。2015年から断続的にデモに参加していたが、2015年に「法と正義党(PiS)」が裁判所を取り込もうとポーランドの権力分立に反対するクーデターを起こしたとき、私は概して傍観していた。私は群衆の中にいるような感覚や、ある種の政治的な表現に従わなければならないという感覚が好きではない。しかし、「くたばれ(fuck off)」が喉元に引っかかったとき、その理由を自問自答し始めた。私は教授の母と政治家の父を持つリベラルな家庭で育った。両親は伝統的な性別役割を嘲笑し、自分自身の人生について決定することが基本的な人権であると信じていた。それでも、自分の思考を点検してみると、家父長制が私の奥深くに宿っていることに気づいたのだ。「そんなに気難しくなるな。礼儀正しくしていろ。あまり多くを求めすぎるな。男性たちはもっと賢いのだから、問題を起こすな」

私が(2015年に)独立した司法機関を守るために抗議したときは、抽象的なものを擁護する「身体」だった。だが、(2020年)10月以来、私は思想を守っているだけでなく、私自身の身体を守っているのだ。

判決が下されてから3ヶ月後の2021年1月22日、憲法裁判所はその見解を完全に公表した。同日、政府が「Journal of Laws」誌にそれを掲載したことによって、法が施行された。多くの法律専門家は2020年10月の判決は法的拘束力がないと主張した。「法と正義党(PiS)」がポーランド憲法に違反して自分たちの党の支持者で裁判所のメンバーを固めたからという理由だ。しかし、それが何を変えるというのだ? 現状といえば、政府は現在、ポーランドの女性たちに病気の赤ちゃんを出産することを強いている。スーツを着た男たちは、こうすれば少なくとも赤ちゃんが死ぬ前に洗礼を施すことができると言っている。そして女性たちは泣くための特別な部屋を手に入れるだろう。なんて素晴らしい政府を私たちは持っているんだろう。

その1月の日、全国各地で抗議行動が起こった。私は街の外の山の中にいて、稲妻マークを雪の中に描いていた。抗議運動は数日続いた。そして再び静寂を取り戻した。しかし、3月8日の国際女性デーには、別のデモが行われた。私はそこにいるべきだとわかっていた。その夜、警察の非常線が私の周囲に近づいてきたので——防弾チョッキを着た4列の男たち——私は恐怖を感じた。それは原始的で、身体的なものだった。私は逃げ出したかったが、そのまま硬直してしまった。私が独立した司法機関を守るために抗議したとき、私は抽象的なものを守る「身体」であった。それは義務感によって行進したものだけれど、確信はなかった。中絶禁止法に抗議することは、違うと感じた。(判決の下った)10月以来、私は思想を守るというよりも、自分自身を守っているという気になった。私たちは踊り、叫び、自分達の身体について決める権利について激怒している。警察の非常線の中で、私は「恥を知れ!」と叫んだ。「くたばれ!」と叫んだ。私は警官の目を見ていた。恐怖は消えた。私にとって「くたばれ!(Fuck Off)」の言葉は、もう問題ではない。

秋の街頭に出た数百万人の女性たちは、今では数百人しか残っていない。多くの人が私たちに何が問題なのだと聞いてくる。今のところそれを示すものが何もないもう一つのロマンティックな蜂起は、ポーランドの伝統の一種で言うところの、賢明にうなずく「口髭を生やした叔父さん」か。彼らは私たちにアドバイスを与えるけれど、「くたばれ!」と言われることを恐れている。その言葉は彼らの感受性を傷つけるのだ。彼らはすでに大きな変化が起こっていることを見ることができない。現在、ポーランドの女性たちは、妊娠12週までの合法的な中絶に完全にアクセスできるよう求めている。この立場は、ポーランド市民の66%の支持を得ている。「法と正義党(PiS)」はうっかり、他の政党にこの問題に関しての立場を取るように強制した。非常に中道的な反対派でさえ——聖職者との独自のダンスに閉じ込められており——「困難な生活条件」(それが意味するものは何でも)の場合、最大12週間の間の中絶を支持するようになった。非常に賢明な紳士たちは結論に至った:「O K、煽動者たちよ」と。

非公式で無党派のイニシアティブである「全ポーランド女性ストライキ」は憲法評議会を組織した。その指導者たち、というよりコーディネーターたちは、街頭からの叫びを集め、それを13の要求としてまとめた。それらは教育に対する女性の権利から環境保護主義にまで及んでいる。私たちは合法的な中絶へのアクセスを望んでいるだけでなく、独立した司法機関、世俗的な政府、そして完全な人権も望んでいる。いわゆる憲法裁判所の判決は消え失せる(fuck off)べきだし、いわゆる憲法裁判所自体も消え失せる(fuck off)べきだ、そして政府も消え失せる(fuck off)べきだ。

800人の人たちが、これらの要求をどのように実行するかについて話し合うために協力すると志願した。意見は誰でも参加できるウェブサイトに投稿された。協議の結果はどうなるのだろうか? おそらく報告書、対話、新しい社会契約となるだろう。女性のストライキは、「口髭を生やした叔父さん」のよいアドバイスがあるけれども、政党になりたいわけではない。それが政治に影響を与えることができないという意味ではない。その勢いは多くのポーランド人が把握していないことを浮き彫りにする。政治家には、私たちの生活がどのように見えるかを決定できる権威はなく、政治家は国を運営するために私たちに雇われている人々だということを。私たちは4年に1回の投票の時だけでなく、毎日、私たちの国がどのように見えるかを積極的に決定する機会をつかむことができるのだ。

私はこれがリアルタイムに起こるのを見ている。ポーランドの都市で警察の非常線に封じ込められた人々の多くは、17,18,19歳の年代だった。彼女たちは群衆から乱暴に引っ張られて逮捕された。ポーランド中の教会前で抗議している10代の若者たちは、司祭たちに罵倒された。「お母さんたちに謝りなさい、母親たちは君たちを見捨てなかった」と。若者たちはFacebookのプロフィール写真に稲妻のアイコンを載せていることで成績を下げられる可能性があること、また抗議運動を支持した教師たちが下品な行動のために教育大臣によって罰せられる可能性があることに気づいている。

それでも、彼女たちは通りに出て、非常線と攻撃を乗り切る準備をした。彼女たちは防寒のためにサーマルのブランケットと温かいお茶を持参している。催涙ガスから身を守るためのゴーグルも。彼女たちはチョークで歩道に「くたばれ『法と正義党(PiS)』」と走り書きする。

最新の世論調査によると、18歳から24歳までの人々の30%が左翼的な見方をしているという。これは1年前の2倍の数字だ。著述家で人権活動家のアニエスカ・グラフは昨年(2020年)11月にこう書いている。「彼女たちは、まるで『妥協』という言葉を聞いたことがないかのように行動している・・・彼女たちにとって、ヨハネ・パウロ2世は、歴史上の人物であり、聖人ではないのだ」

人生で初めて街頭に足を踏み入れたすべての年代の女性たちがいる、小さな町の中央市場で稲妻マークの横断幕を持って一人で立っているのではないかと怯えながら。しかし、彼女たちは決して一人ではなかった。ここ数か月で変わったのは私だけではない。いわゆる妥協は終わったのだ。そして、まだ現状を支持している人々に向かって私は言うことができる、思いやりを持って「くたばれ(fuck off)」と。




Katarzyna Boniはワルシャワとアジアを拠点にする著述家。津波と福島の原発事故後の日本のトラウマを克服するストーリーを伝える著書「Ganbare!: Workshops of Dying」は、今年(2021年)後半にアメリカで出版される予定。
(Photo credit: Dominika Płońska)



# by anti-phallus | 2022-05-06 14:28 | フェミニズム

女性議員増やせキャンペーンについて

 標記の件についてずっともやもやしている。言うべきかどうか悩んでいるけど、結局取材を受けて話していたりするので(笑)、ここできちんと書いて整理しておきたい。
 このところ女性議員を増やせキャンペーンを張っているマスメディアが多い。特に朝日新聞は、今回の衆院選は多様性が大きな争点だとしている。はじめに言っておくが、わたしは「クオータ制」や「パリテ」などの女性の割合を半数に近くする、または一方の性に偏らないようにするという制度には賛成である。よくいわれるように、「人口の半分は女性なのだから」政治家の大多数を男性が占めている現状は大きな問題であり、義務的にでも変えることになんら問題はない。

 クオータ制に反対する人は「性別にかかわりなく能力のある人が政治家になればいい」というが、「能力」という言葉ほどあやしいものはない。今の世の中、本当に能力で選ばれているだろうか?自分の会社、組織を見渡せばそうとは言えない事例ばかりではないだろうか。そもそも能力とは何なのかということは本当に難しい問いだ。ひとによって、見方によって、同じ一つのポストでも大きく異なってくる。「能力」という言葉を使いたい場合には、かなり厳密に定義して、その場合に何が求められているか見定めて慎重に使う必要がある。私は周りで「能力」という言葉が使われる時には決して信じない。たいていの場合、単にその人の好みや利害が合う場合に使われる言葉に過ぎないから。それに、能力という言葉は競争とセットで存在するもので、能力には多寡があるからそれによって人を序列化していいという論理を伴っている。差別を覆い隠したり正当化するためにとても便利な言葉だ。そのようなテキトーな能力主義に社会がどっぷり使っているからいつまでも日本の政治は変わらない。

 その上で、かといって、今のメディアのように、ただ女性を増やせばいいとも思わない。わたしが違和感を感じるのは例えば、衆院選の朝日の特集で、「政策決定 女性が増えれば」という名古屋版の記事(2021/10/8)。お定まりの世界経済フォーラムのジェンダーギャップ・ランキングで始まり、女性議員を増やせばジェンダー平等、マイノリティの人権などが尊重されるという内容。東海3県ただ一人の女性市長のインタビューも載る。この三重・鈴鹿市長は「あえて女性であることを意識して仕事してきた」「避難所で女性のプライバシーを守るようにした」などと言い、女性であることを前面に出しながら、最後は下記のようにいう。

「自民党総裁選では女性が2人出て議論が広がりました。衆院選でも「女性だからこう言わないと」ということはない。いろいろな経験や考え方で選挙を戦い、幅広い議論をしてもらえば、日本がちょっと変わる選挙になるのではないでしょうか。」

 ほとんど何も意味していないような発言だが、この、自民党総裁選については本記事の冒頭でも触れられている。野田聖子氏と高市早苗氏の立候補で候補者が男女半々となったことである。もちろん岸田が勝ったわけだがその過程で高市が注目された。高市といえばタカ派として知られる政治家だ。
 女性であればどのような政治家でも良いのだろうか?わたしは最近、政治家のジェンダーバランスを平等にしたいのならば、何のレトリックもなく、単純に数字の平等を目指すべきだと思うようになった。人口比に合わせて半分、さらに女性がマイノリティという意味合いも含めて最低半分。これなら分かる。加えて、障害者や、アイヌ・沖縄の人々など様々なマイノリティの枠も作るべきだ。それはその数合わせ自体が平等のためだからだ。淡々とやるべきである。間接民主制なのだから当然のことである。
 しかしそこに、「多様性の推進」だの「生きやすい社会」(この記事)など余計なレトリックをつけてはいけない。そういうレトリックをつけたいなら、そういう政治的方向性の女性政治家のみを推すべきである。高市など自民党の女性政治家など含めるのは単なる嘘だ。新聞はフェイクニュースを流してはいけない。

 記事には、女性リーダーには多様性を尊重し共感力のある人が多いというコメントも紹介されている。これには、イギリスのサッチャーや韓国のパククネなど独裁型の女性リーダーは無視するのかという反論がすぐ思い付くだろう。女性だからといって一元化し、「共感力」などという女性の伝統的(とされる)役割をもてはやす、これこそが女性差別でなくて何だろう。

 メディアはジェンダーが重要なテーマだと考えるならば、単に政治家や企業管理職に女性を増やせと曖昧なイメージで唱えるのではなく、女性差別とは何なのか、どのような課題があるのか勉強してほしい。自民党のような女性を安く、あるいはただで働かせ、それが日本の伝統だという価値観と政策で出来上がっている政党に女性が増えることがジェンダー平等であるかのような報道はやめて、ジェンダーに関するあらゆる課題、女性労働・非正規差別、医療福祉軽視から始まって、安全保障や環境・気候変動、エネルギー問題もジェンダーが深く関わっている。そこをきちんと考えることなく安易に数を増やすのがすばらしいことだとしているから、右派タカ派まで女であればいいかのような風潮が醸成されている。これはフェミニズムの誤用・悪用だ。女性は政争の道具ではない。女性議員を増やしたいとメディアが思うならば、最も抵抗している自民党をきちんと批判すれば良い。そこを忖度して曖昧にしているからおかしなことになる。

 議員になっていなくても女性はすでに様々なところで政治に関わっている。メディアは女性に命令するのではなく、応援だけすれば良い。応援する時にも、上の方にいるエリート女性の提灯記事ではなく、社会の底辺で悩んでいる女性、注目されないけれども重要な活動をしている女性、そういう女性たちに目を向けるのが本当のジャーナリズムではないだろうか。













# by anti-phallus | 2021-10-22 14:21

映画「君は永遠にそいつらより若い」

 久々の投稿。やっと時間ができました。またすぐ忙しくなる予感だけど。
 津村記久子原作の映画化。小説は結構良かったです。気に入った小説の映画化ってあまり観たくないのですが誘われていく。全体的にはまあまあ原作に忠実で、悪くなかった。ただひとつ、主人公を演った佐久間の演技がひどくて、棒読み感がずっと消えず。周りの俳優の優れた演技に支えられて、なんとか救われていた印象。プロデユーサーさん、キャスティングはきちんとしてください!顔で選ばないでほしい・・。(すべての佐久間ファンを敵に回した瞬間。)

 原作に忠実だった分、その異同が気になってしまうのだけれど、映画ではバイト先の後輩が悩んで、主人公に体の一部を露出するシーンがしつこく描かれていた。あれはなんでしょうか・・・?原作ではあれほど強調されていなかったと思う。「レズビアン的」要素とバランスをとるために強調したのかもしれないが、あれは確実にセクハラだったと思う。

 それから、私は原作の「ぬるい感」と「切迫感」が好きだった。主人公のだらだらした、津村独特の文体が良かったのだが、当然映画ではそれは少なく、代わりに主人公以外のキャラの存在感が増していて、そのせいでいわゆる「青春群像劇」のようになっていた。群像劇映画は一般に観客受けが良いからいいのかもしれないけど、小説好きのわたしのような者には・・・という感じ。

 ただ、観て少し時間を置いてから考えると、一番思い出されるのがホミネの部屋の高さ。スコーンと抜けていて、階段を結構上らないといけなくて、いつも青空とともにあるかのよう。あの部屋は、文学や映画、芸術の伝統的なテーマ、「若者の死」を象徴していた。ある種の若者は、上を目指して、登りつめて、ある瞬間に墜落する。わたしもこれまでいくつかその墜落の隣にあった。親しい人との別れは、相手の年齢にかかわらず当然辛いものだけど、それが自分より若い人のものだと独特の、身を切られるようなショックがある。あの部屋の空気感は、小説では得られない強さがあって、ベタかもしれないけど良かった。

 そして、それと対になって思い出されるのが、イノギの部屋の地面ぽさ。とても居心地が良さそうで、暗くて、広かった。あんな家に住みたいと思った。イノギは帽子と相まって、まるでゴブリンのような可愛さ。主人公は、あの部屋を訪れて、もぐって、自分を取り戻す。

 ホミネはある部分で主人公の代わり身だ。同じ志をもっているけど、ホミネは警察に捕まり、主人公は社会的キャリアを獲得する。社会に関わりたい、困っている子を救いたいという思いが半分では成功し、もう半分では犯罪化される。この危うさがこの映画のテーマなのだろうか。

 そもそも原作では京都が舞台だったのが、映画では東京に変えられている。京都の「ゆるゆる」でアングラな空気感がなくなってしまった分、映画では小豆島や和歌山といった地域との距離感をうまく使っていた。主人公は船で「平行移動」してイノギに会いに行く。


 児童虐待という社会問題に対して、個人や社会がどのように介入できるのか。おそらく社会が変わらないと(社会的再生産領域が根本的に再編されないと)本質的な解決はないのだが、ゆがんだボロボロの社会の中でがんばるホリガイ。いろんな内外の圧力と背中合わせ。いちおうは応援せざるをえない。でもそれはやっぱりイノギといっしょにあってほしいな。











# by anti-phallus | 2021-09-20 11:29 | シネマレビュー