菊地夏野のブログ。こけしネコ。


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#MeTooへの誤解

 色々な人と話をしてて、#MeTooへの誤解というか反発というかが存在しているように感じる。それはフェミへの誤解や反発とも通じているようだ。
 元ネタとしてよく触れられるのが下記。

 社会学者その他を肩書きにしている鈴木涼美さんという方だが、これは、かなり言いかたを選びながら書いているような、なかなか分かりにくい文章ではある。おそらくその主張(のようなもの)は下記から分かるかな。


オンナだって一枚岩ではないのだ。男並みに実力とロイヤルティーで働きたい女性、女なりに活躍したい女性、女ならではの活躍をしたい女性。そんな中、女の武器などなかったことにして、勉学や労働に勤しみ、あたかも乳も足の付け根もついていないかのように振る舞い、かといって女性らしい美しさを失わない、きれいで清廉潔白な女性はどんどん発言の場が広がり、汚いものが駆除されて働きやすい時代が間近に迫っているのかもしれない。

 しかし、清廉潔白でもきれいでもない女たちは、つるし上げられるバブルおやじたちを横目に、ちょっと本音でも漏らせば、おじさんに向けられている矛先がすぐにでも自分の眉間を目指しそうな、嫌な緊張感のもとにいる。


 鈴木さんは、「女性活躍社会」のもとでこういうタイプの女性は生きづらくなっているということと、だからといって女性差別がなくなることを望んでいないわけではない、ということを言っている。
 どうもこの文章が、#MeToo運動を批判する文脈で紹介されることが多い。それで「え?」と思ったのと、それからもしかしたらこういう受け止めかたって実は多いんじゃないかと思うのである。例えば学生たちの中で、#MeTooやフェミをどう受け止めたらいいのか分からず、ついこういう言い方で否定的に考えてしまう子がそれなりの割合でいる気がする。

 この視点が決して#MeTooやフェミなどの性暴力反対の運動と矛盾するものではないことを理解してもらわないといけないと私は思う。
 男性中心社会に対して、女性は色んなスタンス、色んな方法で生き延びようとしているわけで、それは鈴木さんの書いている通り。公的なルールに則り、学校では成績を上げて、職場では成果や評価を上げてがんばるタイプもいれば、女性性を利用して生き延びようとする人もいる。また両方の方法を使おうとする人もいるし、あるいは全く違う道を選ぶ人もいるだろう。ちなみにわたしなどは、ジェンダー論とかフェミなどどいうある意味女性にやりやすい道を歩んできたから、ある意味女性性を利用したといわれるかもしれない(それほど楽な道でもないが笑)。ジェンダーから無縁に生きられる人はほとんどいないので、それが現実です。良いとか悪いとか言われることではない。

 それが、まるでフェミは真面目な優等生タイプの女性以外は認めていないように思っている人がいるが、それは違います。逆に、田中美津さんのリブ宣言などは、好きな男性に媚びてしまう自分も受け止めようとするところから始まっている(『いのちの女たちへ』参照)。あまり知られていないですよね、こういうこと。私はフェミのこういうところが本当に素晴らしいと思うのだけど。

 そもそも、セクハラという概念は、自分が嫌なことは嫌と言っていい、という発想から生まれているので、女性が女性性を利用する行為は本人が納得しているなら悪いことでもなんでもなく、セクハラとは次元が違う。#MeTooがそういう女性のあり方を否定しているというのは誤解だろう。そういう傾向があるとしたら、それはむしろ#MeTooを受け止める社会のほうが、被害者に「清廉な被害者モデル」を期待する問題だろう。
 フェミニズムは決してそういうものではない、はず。そういうフェミニストがいるかもしれないと不安だが・・・。

※ついでに、鈴木さんのブログの冒頭の「未開地の部族」とか「原始人」という言葉はひどすぎるので、社会学者を名乗るのならばちょっとまずいのではないかなと一応思ったことを付け加えておきます。













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# by anti-phallus | 2018-12-08 20:38 | フェミニズム | Comments(0)

日程変更!【イベント】セックスワーカーに連帯するフェミニズムへ

台風のため日程変更になりました!


【日本女性学研究会11月例会】
「セックスワーカーに連帯するフェミニズムへ」

・日時:11月23日(金・祝)13:30(13:00開場)〜16:30
・場所:ドーンセンタードーンセンター 大会議室3(4階)

・日時:9月30日(日) 14:00(13:30開場)~16:40
・場所:「エル・おおさか」会議室・南101(南館10階)

・趣旨説明:菊地夏野
・お話:要友紀子
・参加費:800円(日本女性学研究会会員は無料)
 当日お支払いください。申し込みは不要です。

《今、セックスワークについてどのように考えるべきか》
 売買春/セックスワークをめぐる状況は、近年多様化しています。当事者の声や運動も可視化されるようになりました。フェミニズムや女性運動ではこれまで様々な議論がありましたが、現状を受けて改めて今、セックスワークについてどのように捉えるべきか考え、対話する時間を設けたいと思います。ぜひご参加ください。

★プロフィール★
☆要友紀子(かなめ・ゆきこ)
 セックスワーカーとして働く人たちが安全・健康に働けることを目指して活動しているグループSWASH(Sex Work and Sexual Health)の代表として長年活動を継続。著書に『風俗嬢意識調査 126人の職業意識』(共著、ポット出版、2005)、9月発売『当事者視点で考えるセックスワーク・スタディーズ』(SWASH編、日本評論社)など。

☆菊地夏野(きくち・なつの)
 第3波フェミニズムの視点からセックスワークを含めジェンダー・セクシュアリティについて研究。ネット公開論文に「セックス・ワーク概念の理論的射程」あり。名古屋市立大学教員。

主催:日本女性学研究会
http://www.jca.apc.org/wssj/





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# by anti-phallus | 2018-09-29 06:41 | イベントの案内 | Comments(0)

粉(と液体)ミルクを奨励するのが男女共同参画?

 下記のような声明をNOW(アメリカで最大の女性団体の一つ)が出していました。代表の方はこんな感じ。

f0210120_11334192.jpg

 内容は「ドナルド・トランプが母乳育児を脅かしている そして母親の健康を企業の利権に売り飛ばそうとしている」というものです。面白かったので訳してみました。

********************************

ドナルド・トランプが母乳育児を脅かしている そして母親の健康を企業の利権に売り飛ばそうとしている

NOW代表トニ・ヴァン・ペルトによる声明

ドナルド・トランプが世界の舞台に登場した時、世界は震え上がった。今年の早い時期にトランプ政権が、母乳育児を奨励し、代用品の誤った商品化を縮小しようとする決議を弱体化、あるいは破棄するようWHOに圧力をかけているというニュースが報じられ、トランプ大統領のヨーロッパ周遊は不安を持って迎えられた。

何人かの担当者によればWHOで、トランプ代表団は、母乳育児への支援を肯定する言葉を削除することに失敗して以来、その表現を導入しようと考えている他国を脅し、圧力を与えるようになったという。『ニューヨーク・タイムズ』によれば下記の通りである。

露骨なアメリカ人:エクアドルが主導権を手放さなければ、ワシントンは貿易制裁を発動させ、必要な軍事援助を撤回するだろう。エクアドル政府はやむなく直ちに従った。

イギリスの健康政策担当者は会議で、「ゆすりに近いことが起きた。アメリカは、世界を人質にとり、子どもと若者の健康を守る最善の方法のために40年近くにわたって形成された合意をひっくり返そうとしている」と語った。

だがそれがドナルド・トランプのやり方である。彼は人質グループのリーダーのようなものだ。

それが国境上にいる子どもであれ母親の胸に抱かれる子どもであれ、ドナルド・トランプは外交政策を、自らのビジネスの利益を拡大し、より多くの富を彼の友人と財政的投資者につぎ込むための手段と見ている。強力な粉ミルク産業はドナルド・トランプをつかまえた−−−合衆国の多数の政治家と官庁に影響を与えることができるように。

ドナルド・トランプは粉ミルク産業と談合した疑いがある。彼らはまた、女性と子どもを傷つける人種的不平等のシステムを永続化させている。有色の女性はこの国において最も脆弱な集団のひとつだから、彼女たちが実際に母乳で育てることを不可能にする要素の標的とされやすい。

WHOと米国小児科学会は、幼児には生後6週間は母乳以外のものを与えないことを奨励している。ドナルド・トランプは科学を尊重せず、公衆衛生に価値をおいていないのかもしれないが、我々は違う。NOWは、合衆国政府が母乳が子どもにとって最善であることを証明した長年の調査研究を無視するのをやめるよう要求することを女性たちに呼びかけたい。

*********************************

 母乳育児をフェミニズム団体が守ろうとしているなんて奇妙に思われるかもしれませんが、保守系が「子どもは母乳で育てるべきだ!」と言っているのとは違うレベルで、母親にとっても子どもにとってもナチュラルな食生活(?)がいちばんいいのです。
 日本は食の安全性についてあまりに意識が低いですが、添加物や化学調味料、農薬等の危険性は知れば知るほど怖いものです(探せば文献はたくさんあります)。きちんと規制すべき厚生労働省が全くの無知怠慢ですからわたしたちは世界レベルで見ても非常にやばい状態に置かれています。私はフェミニズムも食の問題にもっと取り組むべきだと考えています。
 この声明はトランプの粉ミルク産業とのつながりを批判していますが、これをみて、なるほどネオリベ政治家はこういうふうに見えにくいやり方で女性やこどもの体を危険にさらしていくのかとすごく感じ入りました。
 粉ミルクは、一見忙しい女性にとって便利なものに思えますが、長い目で見れば決して体に優しいものではありません。もちろん私は絶対母乳で育てるべきだなんて思いませんから、母乳か粉ミルクか選ぶのはまずその母親に権利がありますし多様な方法が提供されるべきですが、トランプは、母乳育児は自分にとって何の儲けももたらさないので、粉ミルク育児を増やして儲けようとしているだけですね。
 ヒラリーだったらどうかと考えれば‥まあトランプほど業界利権のために直進はしないかも知れませんね。

 とこういうふうに考えていたところ、日本の男女共同参画局のメルマガに、こんな文が‥

*********************************
《内閣府 男女共同参画局から》

●「乳児用液体ミルクについて」ウェブサイトページを開設しました

 乳児用液体ミルクは、液状の人工乳を容器に密封したものであり、常温で長期間の保存が可能な製品です。そのまま飲むことができ授乳時の調乳の手間を省くことができることから、乳児用粉ミルクに比べ、授乳者の負担軽減や安全面で、利点があると考えられています。
 平成30年8月8日、乳児用液体ミルクを国内で製造・販売するための安全基準や表示許可基準が定められ、事業者がこれらの基準に適合した乳児用液体ミルクを国内で製造・販売することが可能となりました。
 
※内閣府男女局HP「乳児用液体ミルクについて」 はこちらからご覧ください
 http://www.gender.go.jp/policy/saigai/milk.html

********************************

 該当ページは「乳児用液体ミルクの普及に向けた取組」として忙しい家庭や災害時に便利だから許可したみたいに書いてあります。液体ミルクなんて本当に安全かちゃんと調べているのか疑問だし、何よりこれって「男女共同参画政策」になるのか?という問題です。
 忙しい母親や災害時のために行政がすべきなのは、子どもがいても安心して働ける環境や法の整備と災害対策ではないでしょうか。
 まあこんなのは些事としてするっと見逃されていくのでしょうが、何の議論もなく「ミルクって便利!」という気分だけ押し流すって違うのではないでしょうか。今の日本の女性政策は女性も男性同様ギリギリまで働かせて、子育て介護もやってもらう、ということになってしまっていて、母乳でゆっくり子どもを育てるよりも、粉ミルクでさっと授乳は済ませてもらってすぐ仕事に戻ってもらった方が経済界的にはいいのかもしれませんね。
 トランプの場合のように業界との癒着はないのでしょうか。
 日本ではほとんど議論されていないようですが下記の記事がありました。


 上記の最後にあったように、第3世界への影響が心配です。相変わらずトランプの尻馬に乗る日本政府。男女共同参画もバカにされたものです。











































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# by anti-phallus | 2018-09-16 12:06 | フェミニズム | Comments(0)

#MeTooとウィメンズ・マーチをどう理解するか

 アメリカのフェミニズムについてしばらく考えていて、#MeTooとウィメンズ・マーチについてネット上の文章をいくつか読んでみました。
 どちらの運動もともに、近年のこれまでの運動にない広がりとインパクトをもっています。2011年のオキュパイ運動(「ウォール街を占拠せよ」)なども新鮮でしたが、それ以上の規模を持っているように見えます。いくつか紹介しながら考えていきたいと思います。
 まずはウイメンズ・マーチの共同代表のタミカ・マロリーさんのインタビューです。



 このインタビューが面白いのは、活動家ならではの現実的な観察力とポジティブな希望が感じられるところでした。1月21日のマーチを成功させた第一人者はドナルド・トランプだと言っています(笑)。全米の人々が、トランプが大統領となったことにショックを受け、驚いて集まってきたと。そしてタミカはリーダーとして、ひとびとに、トランプの登場によって初めて抑圧が始まったわけではないことを理解してもらう必要があると言っています。トランプを歴史的コンテクストに位置付けて理解する必要があると。また、ヒラリーが落選したことに衝撃を受けてマーチに参加した人々も多いと言っています。
 おそらく、この点、ヒラリーではなくトランプが当選してしまったことをどう考えるか、というのが、#MeTooとマーチの関係を考える上でも一番重要な論点のひとつとなりそうです。

 そして、その論点とも関連して、タミカが強調しているのが「intersectionality 交差性」です。この運動の中で「交差性」が常に議論されたのでこの言葉は「sexy word」になったそう。例えば、「リプロダクティブ・ジャスティス(性と生殖の公正)の問題に関心をもっているひとには、この日には気候変動の問題や人種的公正の問題にも関心を持つように働きかけられました。ウィメンズ・マーチと言っても、当然ながら簡単に参加者全てが一致できるわけではない。トランプの当選に危機感を持って参加したという点は共通しても、トランプのどのような政策に問題を感じたのかというところで違いが生じたりする。とはいえそれでも、女性を掲げる行動に、あれだけの大人数が集まったということ、この時代に、そこにわたしは大きな渦のようなものを感じます。女性間の差異が言われ、交差性がキーワードになっている中でもやはり、わたしたちは「女性」の置かれた立場に問題を感じ、フェミニズムに希望をもたずにはいられないのではないでしょうか。

 タミカは運動におけるアカデミズムとしてのフェミニズムの役割について尋ねられ、下記のように言っています(拙訳)。


アカデミズムができることを理解するためには、フェミニズムがコミュニティにとって何を意味しているかを理解できなければいけません。黒人の女性は主流のフェミニズム運動の中で、必ずしも安心感を得られません。白人の女性のフェミニズムのなかで、有色の人々、有色の女性の問題が中心に置かれていると感じることは決してありません。賃金の平等の問題、職場における性差別などの問題に戻れば、わたしたちはそれよりも、自分の子どもたちが警察に撃たれて殺されないかということに不安を感じます。・・・てすから、黒人の女性はウイメンズ・マーチに必ずしもいるべきであるとは感じられないのです。・・・アカデミックなコミュニティの役割は、フェミニズムの意味を、とりわけ中部等地域の高齢の白人女性に教えることです。


 フェミニズムをめぐって、コミュニティが断絶していること、人種や世代、地域によって断絶していることが指摘されています。そしてそれをつなぐ役割がフェミニズムに期待されています。
 これは、単にウィメンズ・マーチの内部あるいはフェミニズムの内部の問題であるだけではなく、アメリカ全体の問題として理解することが重要です。ヒラリー・クリントンが当選できなかった理由は色々指摘されているものの、トランプの人種差別性に対して白人が向き合うことができなかったこと、女性差別性に対して男性のみならず女性も十分に批判できなかった、その批判の受け皿にヒラリーが十分になりきれなかったことでしょう。
 人種差別と性差別に対して、最も弱い立場に置かれるのが有色の女性です。
 黒人女性が#MeTooに参加しない理由をとてもわかりやすく書いているのが下記です。


 このように、白人女性と黒人女性の間にズレがあるからといって、マーチや#MeTooが白人女性の運動に過ぎないとは言い切れないわけで、タミカも非白人ですし、よく言われているように#MeTooの提唱者はタラナ・バーク(Tarana Burke)という黒人の女性です。
 問題は、社会の断絶を、トランプのような差別主義者が利用していることです。そして、それに対抗できる選択肢が十分に形成されていないことです。
 下記は、ヒラリーについて書かれた本の書評のようなエッセイですが、面白かったのは、アメリカのフェミニズムが「母殺し」を続けている、と嘆いている点で、その結果若い女性たちからヒラリーが支持されなかったとしています。



 投票率を調査した報道を見ると、確かに、若い世代のトランプ支持率は低く、またヒラリー支持率も高くなく、若い世代の一定層はサンダース支持に回ったのです。若い世代がフェミニズムを支持していないわけではないことは、#MeTooとウィメンズ・マーチを見ていればわかるわけで、トランプの性差別に怒っている若い世代がヒラリーを支持しきれなかったことがトランプ勝利の大きな一因となっているわけです。
 ここで、ナンシー・フレイザーが提起しているフェミニズムとネオリベラリズムの結びつきを考える必要が出てきます。ネオリベラリズムでひどい目に遭っているのは中高年層よりは若年僧です(一部のセレブは別として)。ヒラリーは、マイノリティを含んだ全ての女性の利益を代表するというよりは、一部のエリート層の女性(および男性)を代表していると見られているのです。

 こう考えてくるとどんどんこんがらかってくるのですが、結局、#MeTooとウィメンズ・マーチの盛り上がりにもかかわらず、トランプを批判する人々の適切な受け皿がないという、今の日本の政治にもつながる壁にぶつかって動けなくなるのです。安倍一強政治に飽きて、嫌になっている人々は多いにもかかわらず、それを打破するに足る適切な政党や政治家が見当たらない、という悪循環。
 二つの大きな運動に大勢の女性が関わる基盤がありながら、その基盤はトランプを撃退できなかった。二つの大きな運動をつなぐ現実の政治的選択肢が存在しない。サンダースといえども、性差別の問題についてはどれだけ期待できるか不明感があります。
 言い換えれば、女性の利害が政治に反映されていない、ということです。女性が生活の中でぶつかる社会的・経済的問題を汲みあげる政治システムが不在であるということ。

 セクハラはある意味分かりやすい問題なので、「階級や人種を超えた女性の連帯」が実現しやすいテーマであるかのように語られます。下記は、日本でも知られている詩人レベッカ・ソルニットの寄稿です。「マンスプレイニング」という言葉を作った人です。




 このようにソルニットは#MeTooに最大限の賛辞を送っています。

 次に下記は、労働問題に詳しいジャーナリストSarah Jaffe が#MeTooを論じたものですが、慎重に#MeTooを評価し、これが単なる意識改革や個人攻撃にとどまらず、どうしたらシステムを変える力を持てるか考えています。
 このひとは、トリクルダウン・フェミニズムを批判していますが、#MeTooは、有名なハリウッドの女優の関与によってマスコミが注目するようになったものの、無名の女性労働者達も立ち上がっていること、これまで十分セクハラに取り組んでこなかった労働組合も行動していることなどから#MeTooを大きな可能性を秘めているものと期待しています。「有名で権力ある女性達が下からのリーダーシップを受け入れつつある」と。



 少し引用します。


もちろん、「タイムズ・アップ」のサイトは「リーン・イン」を信頼できるパートナーとしてリンクしている。そのようなトップダウンや「働け働け」イデオロギーから離れようとする進歩はまだ不完全だ。
だがこれはフェミニズムの大転換を感じる始まりだ、大統領にもうちょっとで就けそうな裕福な女性からではなく、個人的でもありとても馴染み深くもあるいくつもの理由から女性から女性に広がっている怒りのさざ波から始まるのだ。


 最後に、スーザン・ファルーディの文章を紹介します。ファルーディは『バックラッシュ』の著書で日本でもジェンダー論をかじった人なら誰でも知っているでしょう。私はこれが一番面白かったのですが、マスメディアが#MeTooをもてはやす一方で、トランプ大統領の女性を抑圧するさまざまな政策がどんどん実行されていることに警鐘を鳴らしています。


 ファルーディが女性運動の歴史を紐解いて論じているように、セクハラはある意味「とりあげやすい」問題でもあるので注目されやすいですが、セクハラの背景にある性差別的な社会システムの問題にまで広げて考える必要があります。
 トランプ当選をきっかけに逆説的に、フェミニズムが活性化されたことはとても嬉しいですね。ただ、セクハラを本当になくす、減らすためには、女性の労働環境を何倍も良くしないといけないし、それにはものすごい変化が必要です。Sarah Jaffe が指摘したように、フェミニズム内の変化も必要なわけで、遠い道のりですが、決して手放してはならない目標だと思います。




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# by anti-phallus | 2018-08-28 14:05 | フェミニズム | Comments(0)

杉田水脈発言の問題性をどう考えるべきか

 前エントリで書いたBBC番組「Japan's Secret Shame(日本の秘められた真実)」を見ました。伊藤詩織さんの気持ちに寄り添って、かつドキュメンタリーとしての詳細な調査もそなえた良い番組でした。最後のあたりで詩織さんと別の被害に遭われた方が語っているところでは、力をもらいました。
 そのなかで杉田水脈議員が事件について詩織さんを批判している問題の場面ですが、「伊藤さんには女の落ち度がある」と確かに言っていました。「女性が働いていれば嫌な人にも声をかけられる、それをきっちり断るのもスキルのうち」「自分もそういうことは山ほどあるが、それはそういうものかなって」そして、「日本の司法が山口さんを訴えないという判断をしたのだから、それを疑うというのは司法を疑うということ」「司法に対する侮辱」「日本の警察は世界一優秀」「伊藤さんが嘘の主張をしたために、山口さんに抗議が殺到した。男性の方が被害を被っている」と言っていて、この人は本当に権力が好きなんだなと痛感しました。司法が全く間違いを犯さないという信念をどうやってもてるのでしょうか。司法といえども人間のやること。間違いを犯さない人間がどこにいるでしょうか。

 しかし、こうして問題となってニュースにもなって改めて発言を見るとひどさが分かりやすいけれど、何度も考えていると、どうしても、日常的によく出会う発言に見えてきてしまいます。授業で性暴力を取り上げると、受講者からかえってくる反応に必ずこういうものがあるのです。

 新潮45の寄稿でも、「もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレズビアンだったりしても、私自身は気にせず付き合えます。職場でも仕事さえできれば問題ありません」とあります。杉田議員は、このように自らは「差別していない」というポーズをとりながら、「生産性のないLGBTカップルに社会的支援を行うのはおかしい」としています。そもそも「LGBTカップルへの社会的支援」が具体的に何を意味しているのか不明です。同性パートナーシップを承認する条例等のことを言っているのでしょうか。「LGBTカップルに税金を使う」ことに反対をしていますが、カップルの証明書の発行に要する紙代や印刷代のことでしょうか。だとするとずいぶんセコい話に聞こえますが・・。それともその業務を扱う公務員の人件費のことでしょうか。わざわざ同性カップルの証明書発行にだけ臨時であれ公務員を雇う自治体はあまり想像できませんが・・。それ以前の前提として、同性パートナーシップの条例はあくまで同性のカップル対象のものですから、トランスジェンダーのカテゴリーとは直接関係ない話ですし(戸籍変更してないトランスで、同性愛者の場合は別ですが)。
 政策論だというのなら現状をきちんと把握してからすべきですね。

 それはともかく、杉田議員のようにLGBTと生産性を結びつける議論は、LGBTの権利を擁護しようとする文脈でも使われます。「能力の高い、生産性の高いLGBTを企業は高く評価すべきだ」という言い方ですね。ダイバーシティ(多様性)という言葉と結びつけて語られます。前述のくだりから想像するに、杉田議員はおそらくこの論理には賛成するんじゃないかと思いますが、今回の杉田発言を問題視した人々はどうなのでしょうか。「子どもの生産つまり再生産ができないからLGBT支援は不要」という論理に反対する人でも、「企業等で利益を上げるという意味での生産性」によってLGBTを評価する、という論理には賛成する人も一定程度いますよね。
 そしてこれは女性についてもいえることです。ずっとこのブログで論じてきていることですが、「能力の高い女性を正当に評価すべき」という論理がフェミニズムの内部にある程度根付いているわけですが、その論理では行けるところまでしか行けない。その「能力」を決めているのはそもそも誰なのか、どういう根拠に基づいて決められた「能力」なのかということまで考えないと自由には届きません。


 問題は私たちがいかに杉田的な論理から自由になるか、ということなのだと思います。生産性で人を評価し、処遇に差をつける社会があり、生産性を基準に作られている社会がある。そのことを認めた上で、そうでないものをどうやって作っていくかを考えないと、単に杉田発言を批判してもアリバイにしか見えません。運動内部であっても、当事者に序列がつけられ、生産性を強要されることはあります。杉田的な論理を自分たちの内部にあるものとして批判しないといけないのでしょう。

 そして、この発言をしたのが女性政治家だということにも注意すべき。近年ジェンダー論(海妻径子さんら)で議論されている女性保守政治家の台頭の問題です。保守の男性政治家同様に、さらにはそれ以上に過激な右寄りの攻撃性を表現する女性たち。これがジェンダー秩序の変容の基本的な一要素であり、単なる「男女平等」を示す指標と単純化してはならないこと。再生産を強要される女性という立場に立ってあえて再生産能力によって社会的支援の必要性を決定しようとすることの不気味さと、あるいはそれゆえの訴求力。男性がそれを言うより批判しにくくなります。今回それを言った杉田さんがまだ政治家としての権力がそこまで大きくないからいいようなものの、もっと人気のあるポピュラーな女性政治家が同じことを言ったら世論はどう反応するのでしょうか。


 最後に、前にも触れた優生保護法下の強制不妊手術等について「優生手術に対して謝罪を求める会」らが開催した集会で採択されたアピールが良かったので、掲載しておきます。

**************************************

2018.7.28 優生保護法に私たちはどう向き合うのか? 集会宣言

1. 国は優生保護法の人権侵害に早急な謝罪と補償を
優生保護法は、多くの人々の人権を侵害し、法改正から22年たった現在も、さまざまな影響を及ぼしています。
優生思想に基づく不妊手術(卵管や精管の結紮、切除)と人工妊娠中絶によって、さらに、法が認めた手術に違反して行われた子宮や卵巣、睾丸の摘出等によって、性と生殖に関する自己決定権や尊厳を否定された人々がいます。その当事者たちは、今も大きな苦しみを抱えています。
優生保護法によって、障害をもつ人への差別が正当化され社会に深く浸透しました。「不良な子孫」と決めつけられた人の「性と生殖の健康/権利」は、現在も奪われたままです。障害に対する否定的なイメージが強調され、障害者は不幸、障害は避けなければいけないという圧力は強まってさえいます。
国は優生保護法によって人権を侵害されたすべての人、とりわけ、第3条、第4条、第12条、第14条によって不妊手術や人工妊娠中絶を強制・強要された被害者に対して、心からの謝罪と補償を早急におこなうべきです。
2. 国は優生保護法による人権侵害の全容について調査検証を
20年以上、国が実態調査に取り組まなかったために、すでに多くの資料が捨てられてしまいました。国は直ちに、第三者的な調査・検証委員会を設けるべきです。
優生保護法による人権侵害の全容を明らかにする調査においては、法が定めた手術とともに、子宮摘出など同法の範囲を逸脱した行為も対象としてください。
3. 国は優生保護法への反省にもとづき、差別を解消する施策を
優生保護法による被害を風化させず、二度と繰り返さないために、市民、とくに医療従事者、教育・福祉関係者等が優生保護法の問題点を知り、差別解消に向けて学ぶ必要があります。
障害があってもなくても、誰もが、産むか産まないか、子どもをもつかもたないかを自分で決められること、どんな選択もサポートされ、性的指向やセクシュアリティも尊重されること、生まれる子に障害があってもなくても、育てる上で格差や差別がないこと……これらを実現する施策が求められます。

私たちは以上のことを強く求めます。

2018年7月28日
「優生保護法に私たちはどう向き合うのか?」集会参加者
























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# by anti-phallus | 2018-08-07 17:12 | つれづれ | Comments(0)

権力の言語としての杉田水脈発言:ナショナリズムと性・生殖

 杉田水脈という自民党の議員の発言が問題になっている。おととい金曜には東京で大きな抗議行動が行われ、大阪や全国各地でも同様の動きがあった。
 この騒ぎは伊藤詩織さんのセクハラ被害に関連したもので、イギリスのBBCがそれについて放映した中で杉田議員はセカンドレイプ発言(セクハラにあうのは女の落ち度論)をしたようだ。この番組はまだ見れていないのだけど、そもそもBBCはなんで杉田議員など出したのかよく分からないのだけど、なんとかして見てみたい。
 そして批判がさらに大きくなったのは、雑誌「新潮45」のなかで、朝日新聞バッシング特集があり、杉田さんの投稿が載っていて、そのなかで「LGBTは生産性がないから社会的支援をするのはおかしい」と発言していたことだ。

 「生産性」という言葉がキーワードになって、多くの人が怒っている。
 このこと自体はとても嬉しいというかほっとした。ただ、この批判が一過性のものにならないように、ということを感じている。
 おそらく杉田議員の言っていることは、二面性があって、ゴリゴリの右翼でない限り、「これはちょっとおかしいんじゃないの」と感じることのできる過激な主張だ。だが同時に、どこか否定しきれない強さがある。それは、社会の現実の一面に根ざした強さである。その強さが、杉田氏の主張を批判することをためらわせるため、杉田氏はここまでやってこれたのだろう。

 そもそも今回の抗議行動で若干驚いてしまったのは、「生産性」という言葉にこれほど多くの人が怒ることができる、ということだった。というのは、朝日新聞で右派の藤岡信勝氏が「生産性という言葉は単なる政策論の言葉で、杉田氏独自のものではない」と擁護してたけど、確かにその通りで、「生産性」は戦後ずっと普通に使われてきた言葉だ、特に経済論議で。もちろん今回の文脈は「LGBTは子どもを作れない(これ自体間違っているのだけど)」という意味で使われているので、一般企業で使われる生産性の意味とは異なる。ジェンダー論的にはこれは「再生産」といわれるもので、普通に商品やサービスを作り出すことが「生産」、子どもの出産や労働者の心身を休息させまた働けるようにすること(家事や子育て・介護など)は「再生産」という。
 おそらく、多くの人が怒ったのは、労働現場で限りなく「生産性」を求められ疲弊している現在、その言葉がひとびとの「私的な」性生活(再生産の領域)にまで適用され、ある種の生き方が排除されるべきだと杉田氏が主張していることだろう。


 わたしは、近年、杉田氏的な生産領域、再生産領域共に「生産性」を求める風潮、思考が高まっていると感じていたので、今回の抗議行動の広がりに少し驚くと共に、安心している。
 例えば先日、ジェンダーの授業で、年金3号の問題を取り上げた時に、女子学生が、「子どもを産んだ女性には国が金を払って当然と男子が言っていた」とショックを受けていた。
 多分この発言をした男子学生の主張は、出産した女性に報酬、というものなので、杉田氏とは少しだけ違う。杉田氏の論は「国民は国のために生きて当然」というものなので、出産も国民として当然の義務、と考えるだろうから、お金を払うべきだとはいわないだろう。何しろ杉田氏は保育所の設置に反対しているらしい。産むだけ産ませといて後は知らん、自力で育てろ、とはさすがにわたしもびっくりしたが・・。とはいえ、出産を国民の、女性の義務的な行為として捉えている点ではこの男子学生も杉田氏も共通の立場だ。

 そして、この二者の発想は何も特殊なものではない。人々の性や生殖は最終的には国のためにあるという考えはナショナリズムの中心にある論理だ。それを分かりやすく教えてくれるのが、今問題になっている優生保護法下での強制不妊手術である。戦後、1996年まで存在した優生保護法下で、障害者を始め「生殖や子育ての能力がない」と判断された人々(杉田氏的には「生産性のない人々」)は、強制的に、あるいはギリギリの同意で、強制不妊手術をされた(昨年来、マスコミで連日報じられているから知らない人は調べて下さい)。しかも当時、「不幸な子どもを産まない運動」が国と自治体によって展開されたというから本当に恐ろしい。国が個人の「幸福」や「不幸」を定義して、存在自体を左右してよいとされている・・。これは戦前のことではなく、戦後の1960~70年代のことである。
 例えば下記記事。







 この性と生殖のナショナリズムを実践した優生保護法が1990年代に廃止されたというのは重要な点だ。1990年代はジェンダーとセクシュアリティに関して新しい動きが出た時代である。しかしその後、ネオリベラリズムが全面展開されていき、「性と生殖に関する自由」(リプロダクティブ・フリーダムという国際的な女性運動の用語)の理念は忘れられ、少子化危機があおられ、労働現場でのぎりぎりまでの労働者の酷使の恒常化とともに、少子高齢化社会を救うのは女性が子どもを産むこと、という認識が増大している。優生保護法はなくなったけど、中絶を犯罪とする刑法堕胎罪については議論にも上らず、「卵活」「妊活」と称して「自己決定」の名の下に新たな優生思想が広がっている。

 繰り返しになるが、杉田議員の発言は特殊なものではない、おそらく自民党や維新系の政治家はほとんどが本音では肯定するだろう。ただし彼らは表立っては言わない。公言してしまったら彼らの嫌う「朝日新聞」らリベラル系に叩かれて、政治的にマイナスだから。杉田議員の主張は「権力志向の男性の本音」なのだ。往往にして、女性は男性的な「本音と建前を使い分ける政治」に慣れていない。だから男性の本音を公言してくれる女性を彼らはもてはやす。その代表が杉田氏を絶賛しているという安倍首相だ。杉田氏と同様の国家観・政治観を持っていながら決してストレートには出さない安倍首相。彼のこのずるさが政治生命を延ばしている。そして彼・彼女らの「権力の言語」が私たちの社会をむしばんでいる。
 今回の発言のように、普通はおおっぴらには言いにくいけど社会の一部に根付いている差別的発想は、繰り返し繰り返し、違うと言っていかないとなくならない。LGBTは子どもを生まないから社会に貢献しない、女性は子どもを生まなくてはいけない、障害者は人に迷惑をかけるからおとなしくすべき等々弱者を攻撃し、お互いに縛りあい、「国家」という幻想だけが輝く社会になってしまう。

 「生産性」は国が決めるものではないし、私たちは「生産性」のために生きているのではない。しかし、権力の言語は常に間隙を縫って社会を支配しようとするし、私たちはそれへの批判をせまられる。杉田議員の問題は一議員の問題ではない。私たちの現在の政治、経済、あるいはもっと長いスパンで批判されるべき歴史全体への問いがはだかっている。






















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# by anti-phallus | 2018-07-29 11:16 | クィア/LGBT | Comments(0)

日本はもう男女平等になったのか?

 最近、ポストフェミニズム論ということで書いている。先日来、逃げ恥というドラマをテーマに分析したものを発表してきている。なぜポストフェミニズム研究をしているかというと、院生時代からやっている「慰安婦」問題や戦争と性暴力の問題では言いにくいものが広がっていると感じたからだ。
 過去の性暴力の問題だと、現在の性差別の存在について直接指摘しづらい。基本的に皆、「昔の差別の問題」に今どう向き合うか、という姿勢で考えている。そして、戦争がらみの問題なら「マクロな政治の問題」だから下手なことを言えない、という感じで、建前的に立派なことを言いたがる。
 だが、性差別や性暴力は本当に昔のことなのだろうか?そんなわけがない。財務省の副次官が典型的なセクハラ発言をしていたことが明らかになっても、政治的に大した影響もなく忘れられようとしているし、男女の賃金格差はいまだ2倍もの大きさだ。
 ところが、逃げ恥批判やポストフェミニズムの発表をしていると、「もう若い世代の男性はセクハラ発言などしない」と言ってくるひとがいる。また、論文にもした「女子力」アンケートを発表したら「これは愛知だけの結果で、東京ではこんな保守的な結果にはならない」と言われたこともある。どれも階層の高い若手男性研究者から言われたことだが、一方で、同席した女性若手研究者は、後でこっそりとわたしに打ち明けてくる。自分が女性であることで抑圧的な発言をされること、バイト先で女性性を強要されること、結婚や子育ての圧力に苦しんでいること・・。
 おそらく、女性差別などない、というテーゼは、年齢や世代を問わず男性の立場にいると信じたい願望なのだろう。その陰で女性たちは我慢している。20代前半の就職したての女性から聞いたのは、普段、同世代も含めた男性を立てるようにとても気を使っていること、そして男性たちは全然それに気づいていないこと。
 現代の特徴は、このような性差別的な状況に対して集合的に異議申し立てしにくいことだ。男性の多くは女性差別はもう終わった、特に若い世代は差別意識はない、と思っているし、また、女性でもそう思っている人も多い。
 先日、結婚や出産でも退職しない女性労働者の割合が増えた、という報道があったが、そういった変化も男女平等の証拠とされる。だが本当にそうだろうか?単に、女性も働かないと経済的に苦しくなったからではないだろうか?女性労働者の正社員率はどんどん減っている。今や過半数は非正規である。どうしてこちらの事実はマスコミはクローズアップしないのだろうか。

 みな女性は自由になったという幻想を信じたがっている。現実の差別に気づくのは精神的につらいことだから。差別はどこか遠いところ、自分とは直接関係ないところにあると思っていた方が楽だから。だが、その幻想の大きさに触れれば触れるほど、私は怖くなる。それだけ現実が厳しいことを示しているから。幻想の大きさの陰で苦しむひとがどんどん増えるから。
 「差別は終わった」と考えている男性にも、目を覚ましてほしい。そう考えている限り、世界の半面、いやごく一部しか見えないのだし、自分の中の何かをも抑圧しているのだから。









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# by anti-phallus | 2018-07-08 12:18 | つれづれ | Comments(0)

ノーベル文学賞と財務省セクハラと

 #MeTooの展開が止まらず、今日の新聞ではアカデミー賞の選考委員会関係者のレイプ疑惑により今年の文学賞見送りと報じている。朝日も中日も「ハルキスト『寂しい』」などというタイトルを記事につけていてげっそりだが、「女性に優しい」を売りにしている村上春樹のファンならばこのアカデミーの決断を誉めたたえるべきではないかと思うが違うらしい。まあ春樹氏はそのイメージとは裏腹に、実際の作品ではホモフォビアははなはだしいし、結局は男性主人公がいかに「素敵な女性」とセックスするかが目標となっている作品が多いので、個人的には春樹ファンはセクハラの告発など関心薄いだろうなとも思う。
 ノーベル文学賞など権威中の権威で、権威の裏にはハラスメントや抑圧、暴力はつきものだからこれはなるべくしてなった事態だ。権威に憧れる人々は、それが何の犠牲の上に成り立っているのか振り返るべきだろう。
 同じ紙面に、麻生財務相が「セクハラ罪ない」として福田財務事務次官の辞任について「役所に迷惑をかけたとか品位を傷つけたとかいろんな表現があるが、(そういう理由で)処分した」と述べたという記事も載っている。この発言は、麻生氏はこの段でも福田氏の言い分を聞かないといけないと主張していることと併せて、福田氏への減給処分はセクハラそのものを理由とするのではない、というニュアンスを伝えている。
 こんなにもレベルの低い政治家を財務相という重要な省のトップに置き続ける首相には驚きである。
 こういうひとには、女性の人権という概念はまったくありえないのだろう。セクハラの背景には、職場や社会的な場で、女性を対等な人格ではなく「性の対象」とみる意識がある。こういう人は基本的に職場や社会は「男のもの」だと思っているから、そこに出現する女性の存在は見えないか、見えても「職場の花」「癒し」などどいう二次的な存在としか感知できない。
 性差別は他の差別と比べると特殊で、非常にわかりにくい。例えば人種的あるいは民族的マイノリティへの差別の場合、基本的にその形は排除や攻撃になる。在日コリアンへのヘイトスピーチやアメリカにおける黒人差別などがそう。そういう場合、集団対集団(日本人対コリアン、白人対黒人)という形になるので、排他性も見えやすい。だが女性差別の場合はそうではない。「自分はフェミニスト」などと自称している男性が、セクハラを繰り返す、ということがよくあるわけである。(自分の気に入りの)女性にちやほやし、甘やかす男性が、ある時には手のひらを返して女性を攻撃する、ということがある。これがヘテロセクシズムの恐ろしさ、わかりにくさ。
 麻生氏のような人物にとっては、政治は「選ばれた男性の素晴らしき世界」なのだから、仲間への批判など、とくに女性からの抗議など許されないのだろう。「国に尽くす男性」にとって女性をからかって気晴らしをするのは「目くじらをたてるほどのことではない」と考えているのではないだろうか。こういうひとは「自分たち男性は国のためみんなのために苦労しているのだから女に尽くされるのは当然」だと思っている。
 セクハラを告発した女性記者にとっては財務省の責任者に呼ばれ会食する機会は、自分の記者としての腕が試される大事なチャンスだったろう。多少嫌な思いをしてもがんばって「ネタ」をとらねばと思っただろう。それが、実際行ってみたら自分が呼ばれたのはそのようなものではなく、やはり「女をバカにして気晴らしをする」ためだったと知り、どれだけ愕然としたか想像に難くない。「自分が女性である限り、いくら頑張ってもこういう目にあう」と絶望したのではないか。こういう場合、「軽くかわして気にせず次につなげる」と考える女性も確かにいる。(そうすることも彼女の選択だからそれ自体が悪くはない。だが積もり積もればそういう選択は彼女自身を抑圧していくだろう。)だが彼女はそうする道を選ばず、抗議する道を選んだ。これは明確なフェミニズムですね。告発がどれだけ上手くいっても、傷を負わない告発者はいない。どれだけかの程度で必ず嫌な思いはする。それを分かった上で告発するのは、自分と同じ嫌な思いを他の女性、男性にさせたくないから。伊藤詩織さんも「妹に同じ目に遭わせたくないから告発した」と書いている。
 セクハラ、といわれると遠く感じるひともいるだろうが、「軽い差別」なら誰でも経験しているのではないか。職場で、同じ発言をしても女性である自分が言うのと男性が言うのでは周囲の反応が違ったり。「モノを言う女性」に対して日本社会はとにかく厳しい。「モノを言う男性」にすら肯定的ではないが、男性ならばある程度の条件をクリアすれば「できる男性」として優遇されていくが、女性の場合意思表示をすると男社会は徹底的に潰す。みんなそれを知っているから女性たちは主張するのを控える(これは日本に女性管理職や政治家が増えない主因ですね)し、男性を「立てる」。多くの男性は「立てられている」「気を遣われている」のに慣れっこで、改めて気付きもしないだろう。こんなでは人権意識など育ちようもない。
 「#MeToo」に注目が当たるせいでテレビでも取り上げられたりしているが、その報道ぶりは玉石混交で「玉」は少ない。昨日など某N◯Kで、あるワンフレーズで有名になった教育関係者(なんで彼があれだけ持ち上げられているのかも私にはさっぱりわからないのだが)をゲストに呼んでセクハラについてトークさせていたがあまりにひどいので脱力した。女性ゲストが真っ当なことを言っているのに対してその教育評論家?はまるで自分が責められているかのように怯えた態度で、最後には「私の目標は目の前で向かい合って仕事している女性をいかに隣に引っ張ってくるかでしたが云々」「距離が近い方がいい人もいれば遠いのがいいという人もいる」とか茫漠としたことを言ってその話は終わってしまった。セクハラの話になるとこのように妙に防御的になる男性がいるが、こういうひとに公共の電波を分け与えるのはやめてほしい。そういう資源は被害者など当事者の女性に与えてほしいと思ったのである(群ようこ風)。










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# by anti-phallus | 2018-05-05 14:57 | フェミニズム | Comments(0)

2018年の3月11日に

今年の3.11には地元でデモに参加できました。
2011以来、3月11日になるとどうもウツになって、1日の終わりには「無事過ぎたか・・」と妙な安堵感を感じるというのを経験してきました。自分にとってあの日以来世界が大きく変わったように思います。あれから7年間、自分はどう過ごしてきたのか考えてみると、最初の何年間かはなんとか仕事と生活をこなしてきたという感じでしょうか。事故の直後はもうてんやわんやで、連絡の取れなくなった家族の心配や、事故がどうなるのか分からず無我夢中でした。でも名古屋や関西のひとびと(の多く)はそれほどいつもと変わらないようで、4月には普通に大学の授業も始まるし、東北出身の自分との差を感じる時期でした。

菅元首相の脱(正確には減)原発宣言は嬉しい出来事でした。その後はどんどんそれを裏切る政治の流れの中で、自分の仕事も忙しくなり、震災と原発のことに向き合えない罪悪感が募るばかりでした。最近やっと心を決して少しでもできることをしようとしています。向き合うのはしんどいと感じてきましたが、逆に向き合ってしまえば心は軽くなるものですね。まあ元気のないときは向き合ってもつらいだけだからやめたほうがいいですけどね。

向き合うといってもとりあえず調べてるだけですが、これがけっこう大変です。福島原発が今どうなっているかということも公表されていないからよく分からないし、放射能汚染の実態も同じ。というか、私が一番怖いのは、この何も公表されていない、という感覚なんですね。大規模な原発事故は、世界でチェルノブイリに続く2回目で未知の領域ですから、誰も分かっていないわけです。放射能が人体にどういう影響を及ぼすのか、明確なデータはありません。ですがだからこそ、この事故の影響を最大限漏らさず正確に調べ続け、対策を練り続けることが必要なはずなのに、政府や関連学者は「影響は小さい」と繰り返して調査すらもう終わらせようとしている様子。

「国家規模」の隠蔽工作、というと大げさで嫌ですがそれに近い状況になってきているような・・・。




2016年時点のもので、動植物への被曝の影響を、チェルノブイリと比較しながら紹介しています。人間への影響は分からないとしていますが、動植物にこんなに影響が出ているのに、人間に対して無害だということはあり得ないでしょう。
こういう番組を見ることすらとても怖い。だから多くの人々は目を背けてしまうでしょう。でも完全に逃げることはできないでしょう。

被曝を語るときによく言われるのが子どもを守る、というスローガンです。ですが、守られるべきは本当には子どもだけではないでしょう。被曝は全ての生き物にとって有害です。大人だろうと誰であろうと。ただ、影響が出やすいのが子どもだから、子どもをとくに守ろうとするのは間違っていません。当然のことです。ですがそれを聞くたびに、違和感があり・・。わたしたちは、自分自身の問題として被曝を拒否すべきなのではないでしょうか。私たち自身が危ないのです。年寄りなら被曝を引き受けるべきだという議論がありますが、それは暴論ではないでしょうか、私たち自身の問題として被曝を拒否しなければ、子どもも守れないのではないかと思うのです。

フクシマの事故後、他の国の動きを見ると、ドイツが脱原発へ向かったり、ベトナムが日本からの原発輸入を断ったりしているものの、チェルノイブイリを経験したロシアなど旧ソ連諸国がやめるどころかさらに原発拡大を進めていることを知ると、恐ろしくなります。一人ひとりの健康や安全よりも、国と大企業の権力と利益のほうが優先される現実。


この規模の大きい原発という問題に立ち向かうにはあまりに無力感を感じる。でも生きていく以上、自分で納得のいくことをしないと辛いのも事実。どうなるのか分かりませんが、考えることだけは少なくともしていこうと思います。







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# by anti-phallus | 2018-04-12 17:00 | 原発/震災 | Comments(0)

#MeToo

#MeTooの動きから目を離せない。アメリカ映画界から始まった動きが各界に広がっている。政界に関する報道もあります(朝日の記事)。

 アリッサ・ミラノ始めハリウッドの有名女優がそろって参加しているから、日本の若い人々にもそれなりの大きなインパクトがあるものでしょう。しかもカトリーヌ・ドヌーブやブリジッド・バルドーら往年のフランス・スターまで参戦した。まあドヌーブやBBと言っても今や知る人しか知らないかもしれないけど、わたしはなぜか高校・学生時代少しフランス映画にはまっていた(当時目新しかったBSチャンネルでしょっちゅう放映されてた)ので、なつかしかった。ドヌーブらはMeTooの運動に対して反対したのですが、その後、批判を受けてセクハラ被害者に対して謝罪したようです。ドヌーブとしては、性暴力・性被害は当然良くないが、映画を始め表現に対する魔女狩りのような規制には反対だ、と自分の立場を明確にしました。




 というわけで、この米仏の論争は、セクハラ・性暴力自体については良くないことは当然だという共通理解がある程度できたけど、映画や美術界における性表現や「ジェンダー問題」についてはまだ争点となっているようです。例えば、女性の裸が描かれた絵をイギリスの美術館が撤去したという件などがよく報じられています。



 こちらの映画や美術に関する問題については、日本の反応を見ても撤去に否定的なものが多いようです。ですが、美術作品といえば女性の裸のオンパレードなのは誰でも知っていることで、そこにどのようなジェンダーをめぐるポリティクスが働いているか、考えてみることは大切。美術館だけでなく街ですらたまにおかれている彫像などにも女性の裸は展示されています。これをどう考えるか。一切撤去すべきなのか?だとするとわたしたちの美術・芸術の歴史はその多くがお蔵入りすることでしょう。それとも、この歴史を素材に、新たな、別な視線にもとづいた美術作品を発掘したり、創造したりという方向に向かうのか、議論の行き着く結論はひとつではありません。
 上記のイギリスの例は、国や行政などの一方的な命令によるものでもなさそうですし、美術館側が問題提起として行った一時的な措置のようですから、議論のきっかけとして歓迎すべきではないかと思います。
 映画の方を見ると、ルイス・ブニュエル、大島渚、ナボコフらの映画が性差別的だとして批判されたりしているようですが、こういうことにドヌーブらが反発したのは業界人として当然の行動でしょう。



わたしも一方的に禁じられるのはおかしいと思いますが、彼らは「大監督」として権威化され、持ち上げられてきている表現者たちです。ドヌーブらが名を挙げたフランス映画の代表作は、その多くが男性中心的なストーリー・物語・演出で作られています。私はそれでも面白く見てしまう映画ファンですが、同時に作品に含まれている様々な差別・暴力の問題を見過ごしていいとも思いません。権威を一旦棚に上げて、作品の意味を議論する機会を増やすのは、映画や美術を深め、広げるためにも意味のあることだと思います。

 さらに驚いたのは、小説『侍女の物語』の作者マーガレット・アトウッドもme tooに否定的な姿勢を発表したということ。

 ちょうどディストピア小説として関心を持って『侍女の物語』を読みかけたところだったので驚いた。
 ここまでくると、世代対立という要素が目立ってきますね。ドヌーブやアトウッドさんらの世代は、現在より性役割意識が強固な時代に自己形成した方々だから、映画や文学などの世界で成功するにはその男性中心的ルールの中で頑張らなければならなかったから、逆に女性に厳しくなる方も多い。
 もちろんアトウッドさんが問題にしている大学教員の解雇などについては、事情は様々で、常に処分が正しいわけではありませんが、かといってひとつのケースをMeToo批判に結びつけるのはどうなのか、ちょっと残念なような・・・。誰かが自分に起こった何かにNoということがどれだけ大変なことか、どうして見守ってくれないのでしょうか。対等な関係だったらいえるでしょうが、職場や学校などの上下関係で作られた組織の中で声を上げるのは並大抵ではありません。映画や美術などのフリーで活動する世界であっても、逆に人間関係・人脈が重要になる業界ですから、もっと声を上げにくいとも言えるかもしれません。

 翻って日本では大きな動きにはなっていないといわれていますが、伊藤詩織さんの『Black Box』はたくさん売れているようですし、共感する女性は多いはずです。私も読みましたが、被害の事実が克明に描かれていて、訴えるまでの葛藤に心を打たれました。



 ハリウッドのような目立つ動きにならなくても、ずっと地道にセクハラや性差別に対して声を上げようとしている女性たち、支援する男性たちはいます。対岸の火事として見るのではなく、じわじわと、#MeTooに共感するひとびとの小さな努力が、日本を変えていければと思います。








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# by anti-phallus | 2018-02-14 14:27 | Comments(0)