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菊地夏野のブログ。こけしネコ。


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3/2(土)公開研究会

【みんなのためのフェミニズム公開研究会】のご案内

みなさま、お世話になっております。
このたび、以下のように公開研究会を開催いたしますので、ご興味のある方はぜひご参加ください。
また、ご興味のありそうな方にお知らせいただけたら幸甚です。
どうぞ、よろしくお願いいたします。

~~~~~~~~~

「(ポスト)フェミニズムから教育を考える〜
『教室から編みだすフェミニズム』刊行記念公開研究会


◆日時:2024年3月2日(土)14:00~17:00(予定)
◆場所:東京外国語大学  留学生日本語教育センター棟103教室(府中キャンパス)

◆アクセス:
https://www.tufs.ac.jp/abouttufs/contactus/access.html


◆スケジュール
14:00 開始 趣旨説明(竹田恵子さん)
14:10 虎岩朋加さん 講演「今、教室ではどのような「主体」が生み出されているのか――新自由主義、ポストフェミニズム、フェミニスト・ペダゴジー」
15:00 菊地夏野さん コメント「教育とフェミニズム バックラッシュ・再生産・政治」
15:20 伊藤書佳さん コメント「能力主義と教育とフェミニズム」

15:40 休憩

16:00 虎岩さんリプライ
16:15 質疑応答
17:00 閉会(予定)

※申し込み、参加費不要
※対面のみ


◆趣旨
教育は常にフェミニズムにおいて重要な意味を持ってきた。『教室から編みだすフェミニズム』(2023年、大月書店)はこの教育にまっすぐ向き合い、さまざまな問題を抱えている学校の中でどのようにフェミニズムを育てていくか熟考している。フェミニスト・ペダゴジーを受けた上で、ポストフェミニズム、フーコー、ベル・フックス、情動理論等を駆使して練られた問いをともに考えるきっかけとしたい。
※当日、書籍販売あります※


◆登壇者プロフィール
虎岩朋加:愛知東邦大学。専攻は教育哲学。「自己検閲からの自由」を念頭にフェミニズム教育を構想してきた。主著に『教室から編みだすフェミニズム』(2023年、大月書店)。

菊地夏野:名古屋市立大学。専攻は社会学、ジェンダー/セクシュアリティ研究。マイノリティ女性と共に生きるためのフェミニズムの構想を目指す。主著に『日本のポストフェミニズム』(大月書店)他。

伊藤書佳:「不登校・ひきこもりについて当事者と語りあう いけふくろうの会」世話人。日本社会臨床学会運営委員長。教育の暴力性や能力主義について考えてきた。共著に『自立へ追い立てられる社会』(インパクト出版会)など。


問い合わせ:minnfemi@gmail.com



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# by anti-phallus | 2024-02-15 15:27 | イベントの案内

『やまゆり園事件』を読んで

 神奈川新聞取材班『やまゆり園』(幻冬舎)を読んだ。この事件に関してとりあえず読みやすそうなものからということで手に取っただけだったが、思ったより良い本だった。
 ただ最初の、犯行を具体的に説明している部分は痛々しくとても辛かった。数日落ち込んだので、不安のある人はそこは読まないほうがいいかもしれない。次に、加害者植松の生い立ちや知人友人の発言が取り上げられる。印象的だったのは、植松の思想的背景とでもいうか(あれをいわゆる「思想」と言ってはいけないが)、影響を受けたものとして、トランプがあったということ。「移民を排斥するトランプだったら自分のことを認めてくれる、評価してくれるはず」と思い込んでいたらしい。トランプは障害者差別に関してはとくに報道されていないが、植松はそのように考えた。
 一方、障害者差別というとナチズムの優生思想がよく取り上げられるわけだが、植松はナチスについてはそれほど知らなかったようだ。ここは重要な点だと思う。一般に、「障害者差別=優生思想=ナチス」というイメージがあるわけだがそれは必ずしも万能ではないということだ。「優生思想」という言葉は難しく、素人が聞くと遠い問題に見えてしまう。だがそうではなく、過去だけではなく現在にこそ障害者差別、障害者ヘイトが渦巻いていると考えなくてはいけない。
 ヘイトクライムというと地位や収入、学歴がなく孤立して人間関係のない人物を想像してしまうわけだけど、植松はそうではなく、友人知人も、恋人もある程度いて、既に以前からこのヘイトクライムについて予告を繰り返していたということは重くみなければいけない。しかも、事件の数ヶ月前には措置入院されていた。犯行を予告する手紙を衆院議長に届けたため、危険視されて相模原市から緊急措置入院されている。しかし、入院中もその主張に対して病院側から特に明確な反対はなかったと捉えていて、自分の主張の正当性の確信を深めたという。
 彼の生い立ち全般を読んでいて感じるのは、外部の影響を受けやすい人物ということだ。ゲームやアニメの影響で犯行を構成し、トランプの言動に心酔し、園に就職後も最初は明るく抱負を述べているが、すぐに考えを変えている。イラスト、漫画など彼の描いた作品も、「社会の裏表を暴く」ような趣旨のものが多いが、その「裏表」の認識も浅く表面的である。というのは彼の主張とは、「世間は差別はダメと言っているけどそれは建前で、実際には皆、意思疎通のできない障害者は死んでもいいと思っている」というものだが、確かに世の中には裏表はいっぱいあるけれども、裏表は多種多様だ。必ずしも偏見と差別だけでこの社会ができあがっているわけでもない。差別と偏見はあるけれども、それを乗り越えようという試みも豊富に、無数にある。この社会はその矛盾の中にある。植松はそこの複雑さと苦しみを見ようとせず、単純化し、そこに自分の存在を賭けようとしたように見える。
 彼の父親は教員だったようだが、教員の中には規範が強く一方的・指示的なタイプがいる。彼の父がどうだったかはほとんど情報がなくわからないのだが、父親への反発があったのだろうか。
 彼のもう一つの特徴は、総理や政治家に認められたいという思いがあったことだ。誰しもそれぞれに、誰かに認められたいと思うわけだけれど、それを誰に想定するかというところで違いがあり、そのひとの個性や特徴が出る。やはり自分の尊敬している人に認められたいと思うわけで、それが植松の場合首相や米大統領だった。それはおそらく、現在政治的トップだからというのに加えて、当時のトランプや安倍は自身と共通する主張や価値観をもっているものと彼には思えたからだろう。そういう意味でも、政府はこの事件に対して責任があるし、ともかく明確により強く、2度とこのような事件が起きないようリーダーシップを発揮するべきなのだけれどもしていない。植松のようなタイプの人々は、とにかく「上に従う」というところがあるから、責任ある立場からこの事件、この問題について積極的にメッセージを発信しなければいけない。だが逆に、そのような差別的な主張を発信する政治家が人気を得る時代に今はある。
 この事件は「生産性を優先する社会」に一因があったといわれる。「生産性」というのは内容のない言葉で、イメージで使われている。「効率性」や「経済成長」などと同じ意味合いがあるが、「生産性」が言われる中で同時にブルシット・ジョブのように意味のない書類作りが増えていることは真剣に考えられたりはしない。
 本書の後半は、植松の主張に対抗するという意味も込めて、障害者の生活の実態や支援の様子についてリポートされている。記者がじっさいに障害者の生活や通学に触れて戸惑いながらもその意義を実感してく様子が窺える。新聞記者というものは大概エリートなので、障害者の暮らしに触れることは少ないだろう。そんなエリートの彼女彼らが考えを変えていく様子は興味深い。
 わたしにも障害のある家族がいるが、福祉はとにかく薄い。だから親がいる場合は、とてつもない苦労をして生活している。それを植松は「家族が大変だから心失者(彼の造語)はいない方がいい」と導く。どうして彼がそんな判断を下せるのか、その根拠は全くないにも関わらず。当然そうではなく、誰しも生きる権利は持っているのであり、社会はそれを支える義務がある。同時に、その支える作業は、支える側にとっても大きな喜びとなり得る。
 植松の論理は、金儲けや地位・キャリアのアップが人間の喜びであり価値であるとするものだ。そういう人もいる。そういうときもある。だが、それは一過性のものであり、単純な欲求の充足に過ぎない。本当の意味で人の生を充実させ、満足を得させるのは、人と人の関わりだと私は思う。自己の枠に囚われている人間だからこそ、誰かと通じ合った、触れ合ったと思える瞬間が喜びとなりその人を生かしていく。それは言葉によるコミュニケーションにとどまらず、動物や植物との関わりも含まれる。なんでもいい。そういう一瞬の喜びを尊重する社会にするために、能力の優劣に関わらず、誰もが安心して暮らせる制度設計をしなければいけない。
 しかし、本書後半で障害者の教育が制限されている現状が問題提起されていてそれはもちろん大問題なんだけれども、同時に、健常者たちは成績によって輪切りにされ、もっともっとと点数を上げる教育ばかり受けさせられているこの日本、マジョリティの側をも同時に問うていかないとどうにもならないなあと、問題の大きさに途方も無い感じを持つ。
 それから最後に一つ。本書の帯に植松の顔写真が載せられているのだけれどこれはどうなのだろう。私はみて正直、なんとも言えない不快感をもらった。これは必要だったのだろうか。






















# by anti-phallus | 2023-11-21 13:54

映画の感想

最近、ひさびさに映画を見ました。「福田村事件」と「月」です。どちらも実際に起きた事件をもとに作られた劇映画で、「福田村事件」は1932年関東大震災から5日後に起きた行商人9人への虐殺事件で、「月」は2016年に起きた神奈川県の知的障害者施設での「やまゆり園事件」をモデルにしています。

「福田村事件」の方は、ジェンダー観に問題があるように感じましたが、それ以外はおおむね良い映画だと思いました。ジェンダー観というのは、女性の登場人物が妙に男性に媚びる行動を取るものが多く、また婚姻外の性が多く描かれていたことです。もちろん女性には多様な人がいますので、男性が好きな人、そうでない人がいます。ですが本作中では、自ら女性の「性的魅力」とされるものを用いて男性を「誘う」ような女性が多く、ちょっと気持ち悪くなりました。また、当時の村落ではもちろん結婚外の恋愛、性があったでしょうが、やけにそれだけクローズアップされて、そのことで村落内の人間関係が大きく影響されているような印象を与える構成でした。そしてそのことについて深く考えさせる構成でもないので、作り手がどのような意図でこういう構成をしたのか分からず、単にエンターティメントとして性愛を使っているのかとさえ思わされました。そのような女性キャラクターと一線を画する女性も登場していて、若い女性記者なのですが彼女も元気がいいばかりで内面性には乏しく、空回り感がありました。そこはポストフェミニズム風でした。

以上のことをおいて考えれば、「福田村事件」は難しい歴史的テーマを、現代の人々にも通じるようにわかりやすく提示していて、最後の「朝鮮人なら殺してもいいんか」という叫びは多くの人の心に突き刺さる力を持っていたと思います。

次に「月」を見たのですがこちらは評価がより難しくて、今でもどう考えるべきか悩んでいます。2016年7月にこの事件が起きたときは私は母の介護があり、仕事の合間を縫って実家に帰っていたので余裕が全くない時期でした。事件が起きたのは知っていましたが調べたり深く考えたりすることができませんでした。そのままになってしまっていて、今回この映画を機に改めて考えようとして観に行きました。

この映画は、犯行を行った植松と同僚の若い女性・陽子、主人公である作家の洋子と夫という4人が軸となっています。そのことによって、植松の優生思想、障害者を排除する思想と、作家やクリエイターである他の3人の創作への想いとがクロスして問われる構成です。植松以外の3人はもちろんフィクションで、実在しませんが、この構成を通して監督はこの事件をより広く「わたしたちの問題」として考えさせようとしたようです。そのことによって確かにこの作品は、単なる特殊な差別者の殺人、ではなくより広い現代社会の抱える「闇」から生まれたものとして感じえる余地を広げています。

ただし、わたしがどうしても感じてしまうのは、この関連付けに対する疑問です。植松があのような犯行に至ったことと、洋子ら作家たちが悩んでいる「表現の虚実」はどこまで対比可能なものなのでしょうか。表現についての葛藤は、洋子が植松との対話の際に見せる壮絶な演技からよく伝わりました。あそこは圧巻のシーンです。物を描いたり表現しようとしても、結局編集者や出版社、メディアの都合で歪められ、商品化され、「いいたかったこと」は消えていく。自分自身ですら当初の表現への情熱は薄れ、「人気」「評価」「承認」を得るためにやっているのではないかという欺瞞への疑いに苦しめられる。
洋子はその対話をきっかけに自分を問い直し、創作活動を再開していく。しかし植松の犯行は止められない。

確かに、植松の犯行は洋子らが悩むような「承認欲求」と関連しているのだろう。だがそれだけではもちろん片付けられない。そこの暴力性に真っ直ぐ焦点を当てても良かったのではないだろうか。

あと気になったのは、「福田村事件」同様、「性」の扱いで、植松の恋人である障害女性のシャワーのシーンが短く挿入されていた。前後の文脈と切り離されたシーンでどういう意味なのか分からず戸惑った。それと、施設に収容されている男性が自慰行為らしいことをしているシーンの撮り方が、スキャンダラスというか、あえて奇異に見せる演出のように感じられた。
「障害者の性」は最もタブーとされる領域で、障害者の人権と深く関わっている。その点について十分思考と配慮がなされていないように感じられて残念な点だ。

以上のような疑問は感じたけれども、これだけ考えさせられるというのは十分成功した作品なのだろう。これにとどまらず、さまざまに考えさせるきっかけを増やすことで、このような事件の問題性を共有し、二度と起こさない努力が続けられなければならない。
そして最後に、両作品とも、事件に関するマイノリティ当事者の視点ーーーー前者は朝鮮人、後者は障害者ーーーーーが中心に置かれてはいなかったことをどう考えるべきかも残されている。

















# by anti-phallus | 2023-11-07 20:33 | シネマレビュー

ジャニーズ性暴力問題について

 現在問題化しているジャニーズ性暴力問題について書きたい。この問題は現在進行中であり、次々に被害者が名乗りで、ジャニーズ側の対応もあり、またそれ以外の動きも目まぐるしく大きい。できるだけ報道をチェックするようにしているが、私は芸能界には全く疎く、初耳のことが多い。被害者の証言を聞くと衝撃が大きく、揺り動かされる。何を言えるのかわからないが、頭の整理のためにも現時点で考えることを書いておきたい。
 なおメディア上ではこの件は「性加害・性被害」と語られているが、わたしはフェミニズムの運動が発見した言葉として「性暴力」という言葉を用いることにする。


1 権力構造

 問題が明らかになるにつれてわかってきたことは、ジャニー喜多川の権力の大きさだろう。全国から履歴書を送る子どもたちに直接電話をかけて、呼び寄せる。子どもたち少年たちは「スターになる夢」のために参入する。そこで性暴力を受けるが、親にも周囲にも言えず抱え込む。
 典型的な性暴力、セクハラの構図だ。ある種のセクハラは、性暴力と引き換えに「エサ」を与える。「#MeToo」で明らかになったハリウッドの女優たちの場合もそうだ。権力を持つプロデューサーの性暴力を甘受する代わりに、役を提示され有名になることを保証される。私はこの構図はものすごい暴力性を持っていると思う。女優になりたい、アイドルになりたいというのはそのひとが自分の表現によって他人から承認を得て何らかの価値づけを得たいということだろう。あるいはそれと少し違って、何かを伝えたい、それによって社会に何らかのインパクトを与えたいということかもしれない。どちらにしてもその人の生を賭けた強烈な欲求であり意思である。一方、性暴力というものは、支配の行為であり、加害者から「お前は何の価値もない存在だ、俺の性欲解消の道具でしかない」といわれること。

 ジャニーズJr.の少年たちのようにジャニーから性暴力を受け続けながらダンスのレッスンを受け、デビューに向けて努力することは、自分が引き裂かれるような経験だろう。常に自分の価値を貶められながら、舞台ではそれを隠して自分の魅力を表現しなければいけない。それは、自分を自分で傷つけ、ボロボロにし、空っぽにしていく行為ではないだろうか。そしてそれは被害者たち自身が選んでやったのではなく、まさにそれこそが加害者ジャニーの望んだことだ。自分の権力によって少年たちを傷だらけにし、空っぽにすること。それによって自分の存在価値を確認する。怪物のようなものだ。だけど怪物は珍しくない。
 性暴力は性行為ではない、支配の行為である。被害者は自責する。逃げなかった自分、逆らえなかった自分を自責する。それを想像すると本当に辛い。


2 性暴力被害の経験を聞くこと

 今日本のメディア上で多数の被害経験が躍っている。これは90年代の「慰安婦」問題が報道されていた以来のことではないか。私は主にYouTubeのあるチャンネルで被害者インタビューを聞いているが、そのなかで気に掛かったことがあるので書いておきたい。
 このチャンネルは、声を上げた被害者のほとんど全員をゲストにして被害を含めたインタビューを行なっている。貴重なインタビューだと思ったので私も毎回聞いていたが、何度も聞くうちに記者の態度に疑問を感じるようになってきた。それは、ゲストの、被害のごく具体的な詳細部分を聞く時に、細かい点を突っ込み、「他の被害者の方はそういう時こうこうだったと話していましたがどうでしたか」というように、他の被害証言と比較するような質問を多発する態度である。性暴力の被害を語るというのは多大なエネルギーを要するもので、自分を奮い立たせながら義務感で語るものだ。そのような辛い作業を行なっている時に、その人も知らないような他人の具体的な性暴力の詳細を突きつけられ比較されるのは二重三重の負担を強いるものだと思う。それが被害者と記者だけのクローズドな環境でのことならまた別だが、リアルで実況中継されている中で聞くのは、拒否もしにくく相当圧力がかかる。そういったことへの想像力がこの記者には根本的に欠けているように見える。
 他にも「ジャニーズ出身者には独身の人が多いがそれは被害と関係があるのでは」「ジャニーズ出身者にドラッグの使用が多いが性被害と関係があるのでは」など憶測と偏見に満ちた発言もある。「○○さんは被害者の中でも逃げられた方だと思います」とか被害者をジャッジするような発言も耳を疑った。

 この記者は政治家への厳しく批判的な取材態度で名を挙げた方でありその意味の功績はあると思う。だが別件で取材対象者の訴えに耳を貸していないようだし、被害当事者に接するには不向きなのではないか。どうしてもしかたないのなら、今すぐにでも性暴力の専門家(医者、カウンセラー、研究者等)の研修を受けてから取材に当たって欲しい。そうでないと視聴者も辛い。番組のコメント欄に書いたが、私のコメントだけ「いいね」をつけてもらえず無視されているのでここに記した。


3 男性被害者であること

 またこの記者に限らず、今回の性暴力報道は本当に適切になされているだろうか。今回は男性による男性への性暴力である。この事件を過度に「おぞましく、気持ち悪い」と報道しているものも目にするが、そこには男性同性愛への差別意識があると言わざるを得ない。この事件の報道が同性愛差別を惹起しないように配慮した報道はほとんどない。
 そもそもこんなに長い間この問題が放置されてきた理由のひとつには、同性間性暴力であることがある。80年代の告発者たちの手記には「こんなことをいっても馬鹿にされ、自分が変態扱いされるだけ」という記述が多々ある。同性間であろうと異性間であろうと性暴力に代わりないのに、同性間となると嫌悪しまともに扱わない。被害者まで嫌悪する。

 上記番組中でも、被害者が「ジャニーさんのせいでそっちの道に走る人も多いと聞いた。そうなっちゃえば逆に楽だよって」という発言があった。真偽もわからず、確実なのは同性愛への偏見のみの発言である。ただ被害者が回想としてそのままそのような発言をしてしまうのは仕方ないだろう。そこを責めるつもりは私はない。問題なのは、聞いていた記者二人ともなんのフォローもなく流したことだ。この発言を、自分のセクシュアリティについて悩んでいる人が聞いたらどうだろうか。やっぱり同性愛はこういうふうに言われるのだろうと思うのではないだろうか。ひとことでも何かフォローがほしかった。

 昔から今に続く日本社会のホモフォビアが被害者たちを追い詰めていたのだ。
 今回メディアの責任を問う声もあるが、その責任の中にはこのホモフォビア報道の問題も含められるべきだ。主に、ジャニーズ事務所にスタジオを提供していたことやジャニーズタレントを優遇したことなどが問われているが、そこに止まらず、性暴力や同性愛差別に甘く、さらには進んでホモフォビックな番組作りをしてきたことの責任を問う必要がある。
 その上で、上記のチャンネルもそうだが、こんなに性暴力の内容の詳細が配慮なしに報道されているのは、男性間の性暴力だからではないかという点を見直して欲しい。被害者が女性であったらこんなに詳細に取材され報道されないのではないか。そこには「女性にはまずいが、男性だったら聞いてもいいだろう」という判断があるように思える。
 性暴力の報道をするのに、被害の詳細がどこまで必要か?少なくとも今回、報道関係者はこの点をどれだけ真剣に考えているか?被害者たちのなんとかしたいという思い、告発への意思に甘えているのではないか?


4 テレビとエンタティメント産業 視聴者、オーディエンス、ファンであること
 
 わたしはあまりテレビを見ないし、テレビに出るような芸能人もよく知らないので、今回の事件をきっかけにこの面を考え出した。ジャニーズといえば、小中学生の頃クラスで話題になっていたのでメンバーの誰が好きかそれぞれ表明するような雰囲気の中で誰かを選んで言っていたような記憶がある。それくらいの軽さだったが、逆に言えばこんな疎い人間でもそれだけのコミットをする、させられるだけの力をジャニーズは持っていたということである。ある意味、少女たちを異性愛主義に招く作用があるといっていいかもしれない。ジャニーズは「若さ、可愛さ、かっこよさ、さわやかさ」を売っていたわけで、その裏側で深刻な性暴力が行われていたとは、私がこの事件を知った時最初に思ったことはそれだった。ずっとだまされていたような気持ちになった。ここは他で詳論したほうがいいだろうが、ジャニーズはある意味「平和な戦後日本」を飾る一コマだったように思う。その背後に性暴力とは、なんとも見事な戦後日本論が書けてしまう。

 そしてジャニーズには大勢のファンがいる。だが被害者の服部吉次さんの話を聞いていると、ジャニーズのようなアイドルのファンになることの意味を考えさせられる。服部さんは「本当に自分と向き合った者だけが人の心をうち、社会を変える表現ができる」「その意味でジャニーズや今の日本のテレビのエンターティメントはだめだ」という趣旨の話をしている。その通りだろう。わたしも子どもの頃ジャニーズの音楽や表現を良いと思ったわけではなく、テレビでよく放映され、クラスで話題になっているから認識しだだけだ。好きなミュージシャンや俳優らは別にいた。
 (服部さんは若い頃アングラ演劇の活動をされていた役者さんだが、60-70年代のアングラ運動がこの国の芸術を支えてきたと言っていた。わたしはその時代のカウンターカルチャーの意味を改めて発見することの必要性を最近確信しているが、ここでも痛感した。)

 だがおそらく、マスの目や耳に流れてくる音楽や表現の多くは同じだろう。作品や人物の価値とは関係なく、金の力、組織や業界の力で商品化され人々の手元に届く。それは消毒され、綺麗にされ、ピカピカに輝いているが、限りなくそれだけのもの。それが資本主義である。
 そのようなアイドルのファンであることはどんな経験なのだろう。少なくとも、彼らが受けている被害を無視し、笑顔を強制するようなファンであることだけはやめてほしい。



5 戦後日本と性暴力


 ジャニーズの問題がこれだけ長く隠蔽されてきたことを思う度に、続いて思い出すのが「慰安婦」問題である。「慰安婦」問題が起きたのは戦時中であり、ジャニーズは(ジャニーズ事務所に限って言えば)70年代以降だけど、「慰安婦」問題は戦後ずっと沈黙下におかれ、90年代に告発があったけれど今に至るまで正式には解決していない。
 「慰安婦」問題がまだ解決されていないと言うことはやはり、ジャニーズのような大規模な性暴力事件が秘匿されることとイコールなのだ。この社会は、性暴力に向き合っていない。多くの被害者は沈黙を強いられ続けている。権力をもつ男性や組織、国家のために女性や子どもが犠牲になるのは当然なのだ。むしろそれこそが力の証なのだろう。絶望と共にそう思うが、同時に、今回被害者たちが声を挙げ、謝罪と補償を求めているのを聞くと、変わる可能性はあるのかもしれないとも思える。感謝とともに応援したい。









# by anti-phallus | 2023-09-06 13:08 | その他

松浦理英子のすごさについて

だいぶご無沙汰してしまっているのですがなかなかゆっくり書く時間が取れず、きちんと書こうと思うと書けないのでとりあえず近況報告代わりに本の感想を書いておきます。
少し前に松浦理英子『ヒカリ文集』を読んで感動し、それをちゃんと書きたかったのですがそのままで、最近江國香織『落下する夕方』を読んで同じテーマのお話だったのでその比較を書きます。

同じテーマというのは、もちろん小説の解釈は多様なので、このテーマだ!と決めつけるわけにはいかないのですが、なぜか最近「不倫」に興味があってtwitterで小林明子「恋に落ちて」について叫んだりしていました。つまり不倫や結婚、三角関係といったことが両作品のテーマだと思うわけです。
それらのテーマを文学的に考察する上で必要な、愛人だったり売春婦という女性の存在は、古来無数の芸術作品によって描かれてきました。私はその女性表象にずっと興味があります。

で、ヒカリ文集のすごさは、ヒカリがまだ生きていることです。江國の残念さは華子を死なせてしまったことです。
これももちろん小説中の死はさまざまに解釈できますが、ですがやはりこのような設定における愛人/売春婦的女性が死ぬことは、彼女の立ち位置への制裁、処罰に読めてしまうわけです。
しかも松浦はヒカリをヘテロに止まらない存在に書きました。レズビアンも普通に出てきます。松浦ですから当たり前って言えば当たり前なんですが。
小説内に「マノン・レスコー」への言及もありますが、松浦は愛人/売春婦を殺す文学の男性中心的歴史に楔を打ち、新しく再生させました。しかも家父長を罰して。
愛人/売春婦の表象はそれに止まらず、結婚制度から自由に生きようとする女性をも意味し得ます。ヒカリが世界のどこかで活動していることは、私たちに希望をくれます。

一方江國は華子をとても素敵に書いてくれましたし、死に方も優しく弔い方も愛に溢れています。ですが、華子の死によってしか自立できなかった梨果は哀れではないでしょうか。たとえしばらくの間素敵な時間を共有できた記憶があるとしても。ここに江國の限界があります。世間に受け入れられる作家の道を選んだ限界。世間とは男性が支配する文壇でもあります。

『ヒカリ文集』のように女性を自由に解放してくれる小説や表現がもっと増えるといいなと思います。








# by anti-phallus | 2023-07-25 11:52 | ブックレビュー