菊地夏野のブログ。こけしネコ。


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『ナゴヤ・ピース・ストーリーズ』出ました

 ここ数年がかりのお仕事、『ナゴヤ・ピース・ストーリーズ』が出ました。

『ナゴヤ・ピース・ストーリーズ ほんとうの平和を地域から』
     平田雅己・菊地夏野編  出版:風媒社  発行年月:2015.10
         税込価格:¥1,944 (本体:¥1,800)

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 その名の通り、名古屋から平和を考えてみたらこんな風になるかなという本です。わたし自身はあまり「平和」という言葉について真面目に考えることはなく、それよりは「暴力」という言葉から考えていく方に慣れています。でも今回、「平和」という言葉が散りばめられているプロジェクトに参加して、なかなか面白かったです。
 10年ぐらい名古屋にいてそれなりに市民運動界隈にも出入りしていたつもりですが、今回一応編者となって、こんなに大事な活動をしている方がいるんだなと驚くこともありました。平和や戦争といっても人によって色んな切り口があるんだなと。

 かなり、勉強になります。普段平和や戦争というと、最近はすっかり「国家」単位で考えるのがデフォルトになってしまっています。基本、戦争的な事柄は国家を守るため、ということで推奨されますので。(まあそこに「愛する人を守るため」という言い訳もくっついたりしますが、それは場面によって使い分けられています。)でも、この本を読めば、国家以前にまず地域があるし、その前に個人があるんだな、戦争や平和にも、と感じられるはずです。というかそこを感じてほしい。

 わたしの一押しは、「地域」から平和を考える、ということに加えて、普通「平和」にはくっつけられない、セクシュアリティの問題や在日外国人、野宿者運動等々周縁的な課題も含めたことです。名古屋辺りの社会運動に関心のある方にもいいです。
 それから、もちろん「慰安婦」問題が真ん中に来ていること。実は「慰安婦」問題も、平和運動や平和問題が語られるときにこぼれ落とされることがあります。多分、この問題がどんどんタブーになってきているからです。あとは、「(女)性の問題は分からない」という人が多いことなどから。でもわたしは「慰安婦」問題は、平和を考えるときに不可欠と思っています。戦争を深いレベルから考えると、「慰安婦」問題は中核にあるのです。書き出すと長くなるので以下省略。
 そして、出版社は地元の良心的な社会派出版社をあえて選びました。こういう会社が世の中を支えていると思います。こういう出版社を応援してあげてください。
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# by anti-phallus | 2015-11-02 09:58 | ブックレビュー | Comments(0)

フェミニズム理論のネオリベラリズム/ポスト植民地主義批判

 10月に群馬で発表することになりました。その要旨を載せておきます。
他の報告の要旨はこちら

 唯物論研究協会って不勉強にしてよく知らないので、どんな会なのかちょっと楽しみです。
 フレイザーやバトラー、スピヴァクを読んで発表できるというのは幸せですね。


******************
唯物論研究協会テーマ別分科会「文化研究の両義性」
「フェミニズム理論のネオリベラリズム/ポスト植民地主義批判
           ナンシー・フレイザーのフェミニズム批判から」

                                        菊地夏野

1 フェミニズムにおける「文化」とそれ以外のもの

 本報告では、フェミニズムの視点から「文化研究」について考えてみたい。
 フェミニズムの歴史において、「文化」は常にといってよいくらいに中心的な位置を占めていた。近代初期において女性運動の大きな課題となったのは、法的な平等、政治的な平等の達成だった。日本でもまた欧米諸国でも、女性は「遅れてきた市民」と処遇され、そのことの是正が喫緊の目標とされた。この運動は、また大衆的な文化の成長とともに、広く女性の支持も得ていった。しかし一方で、「非文化」的なところでのフェミニズムも常に存在していた。政治や法律などの文化的な面での課題を訴えるに止まらず、労働や資本といったより硬質の問題に対して「女性」の立場から抑圧を批判していく運動や思想も確かにあった。
 むしろフェミニズムはそのように相異なり対立も含む思潮が、「女性」の名の下に渾然一体となって集合して構成されていることが力であり、可能性であろう。そのような混淆の中で、「文化」は常に問題含みの鍵となる言葉だった。
 日本社会でフェミニズムが大きな影響力を持っていた時代、論争されたのも「文化」に対する態度だった。当時のフェミニズムに対する「商業主義」という批判は「文化主義」へと読み替えられ、上野千鶴子は大越愛子らのフェミニストを「文化還元主義」として批判した。今はほとんど顧みられることもないこのフェミニズム内部の論争は、現在の日本社会の状況から振り返ると、一定の意味をもって感じられる。
 さらに、上記の論争のモチーフは、英語圏のフェミニズムにおいてより理論的に精緻な形で再演される。それは、今回取り上げるナンシー・フレイザーとジュディス・バトラーの論争から始められた。フレイザーは、フェミニズムやLGBTらの運動が文化的な面での承認にばかり重点化してしまっていると指摘し、それ以外の分配をめぐる政治の再評価と承認と分配の均衡が必要だと論じた。それに対してバトラーはフレイザーの文化と経済の区分が恣意的であると反論したが、論争はいったんそこで止まっている。
 このように、フェミニズム研究は、文化研究を中心としながらも、常にそれに対する内在的な批判をはらみつつ歴史を織り上げてきた。そのせめぎ合いを考えるとき、これを単なる左翼からの女性運動への批判として整理できるだろうか。できないとしたら何が理由だろうか。「文化」対「それ以外」とされた対立軸は何を隠しているのか。これを明らかにするのが本報告の第1の目標である。


2 ネオリベラリズム下のフェミニズム−−−−批判とオルタナティブ

 バトラーとの論争後20年近くを経て、フレイザーはさらに重い批判をフェミニズムに投げかけている。
 各国の公共セクターは縮小し、格差は拡大しながらもそれらに対する怒りは政治的に結実し難い。差別を前面に掲げる言説が跋扈し、オルタナティブを構想すること自体が力を奪われ、まるで全てのものが資本のためにこぞって自発的に動員されていくかのようである。
 フレイザーはこのような新自由主義的変化を嘆くだけでなく、この事態にまさにフェミニズム自身が手を貸してしまったのではないかと問う。フェミニズムはその革新力を失い、逆に体制の構築に加担したというのである。
 もしその批判が正しいとしたら、それはこれまでフェミニズム内で展開されてきた論争とどう関わっているのか。フレイザーのバトラーへの批判は、この事態を予見していて、バトラーの限界が露呈していたといえるのだろうか。
 ネオリベラリズム下で女性にとっての国家と資本のありようは変更され、その結果ジェンダー/セクシュアリティ秩序の再編がなされた。フレイザーやバトラーはこの再編をどのように認識しているか、ポストフェミニズムの議論を参照しながら整理する。
 また、フレイザーやバトラーとは少し違う位相からフェミニズムの抑圧性を批判してきたのがガヤトリ・C・スピヴァクである。スピヴァクの植民地主義批判からのフェミニズム観は、文学教育の可能性を展望する現在の立場のなかにどのように位置づいているのか。
 本報告では第2の目的として、これらフェミニストの現在の議論をネオリベラリズム批判の観点から読み直したい。そして何らかの形で引き出し得る示唆を明らかにしたい。
 分科会のテーマに立ち返っていうと、資本の抑圧を明示しながらも文化を記述するための方法、さらには文化の内部に潜む資本の暴力の跡を直視しながら、同時に抵抗を生み出す文化の可能性をも記述する方法を、フェミニズムの立場から探ることを試みたい。

***************************
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# by anti-phallus | 2015-09-16 16:19 | イベントの案内 | Comments(0)

論文公開

 名古屋は雨続きでうっとうしい天気です。最近家事にはまっているので洗濯物が干しにくくて悲しいです。
 さて先日書いた論文が大学紀要に掲載されました。

「セックス・ワーク概念の理論的射程-フェミニズム理論における売買春と家事労働」

というものです。上記リンクから本文をダウンロードできますので、ご関心のある方に読んでいただければ幸いです。
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# by anti-phallus | 2015-09-03 13:17 | 仕事 | Comments(0)

食のオルタナティブ

 おもしろい食事スタイルを知ったので紹介します。
 甲田光雄先生というお医者さんの提唱した甲田療法というもので、1日2食、玄米菜食スタイルです。知人から聞いたときは2食で栄養大丈夫なの?とかお腹減るんじゃと思いましたが、やってみたら案外大丈夫です。
 この理論では、朝ご飯は抜いて、昼と夜のみ。食べるのは理想は玄米ご飯と青汁、豆腐が基本。午前中は排泄の時間なので水分を多めにとる。
 わたしは厳密に守ってはいないですが、できるだけ近い内容にして、2食にしてます。体調は大丈夫です。3食食べないとだめ、というのは栄養学の間違ったイデオロギーということです。わたしもずっとだまされていました。甲田療法は哲学があって面白いのです。

 あとは添加物や化学調味料などは極力減らすこと。こちらはとくに多くの人に勧めたい。今売られている食品は野菜も含め薬づけ。農薬や添加物について情報を得れば得る程げんなりする。肉も動物たちはかわいそうなくらい抗生物質や薬を投与されている。
 コンビニで売られているサラダに乗っている卵は、ゆで卵のスライスではなくて、チューブのような製品を切ったものと聞いてショックでした。

 おすすめ本紹介。

安部 司 『食品の裏側 みんな大好きな食品添加物』 東洋経済新報社
甲田光雄・赤池キョウコ 『マンガでわかる「西式甲田療法」―一番わかりやすい実践入門書』 マキノ出版


今の食品は、食べ物というより工業製品。。残念ながら。
無農薬・無添加の自然食品を食べていると、既成のものとの味の違いに驚く。野菜は味がとっても濃い。生き生きして力があります。肉も深いおいしさ、加熱しても損なわれない。惣菜なども雑味がなくて安心のおいしさ。価格が高いと思われがちだけど、それほど高くないものも多いです。いちど地域の自然食品スーパーや宅配業者などをお試しを。

 食に関してもフェミニズムの大事なテーマと思っています。
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# by anti-phallus | 2015-08-29 13:49 | その他 | Comments(0)

ろくでなし子さんとフェミニズム

 遅ればせなのですが、ろくでなし子さんの活動への応援的なことを書きたいと思います。わたしが彼女の存在を知ったのは警察に逮捕される前後あたりでした。「ま◎こ」をかたどったアート作品を作っているということで、「え?日本にも今でもそんなことしてるひとがいるんだ〜」的な驚きを感じました。
 わたし自身は、アメリカのフェミニストアートのなかでそういう手法があるのは知っていましたし、日本のリブ運動の中でも「女性の健康」などをテーマにしたグループで同じような女性器への取り組みをされてるのに参加したこともありました。ですが今、しかも同世代で真正面から「ま◎こアート」に挑戦しているひとがいるとは!と感動。
 そして、彼女が逮捕されるなんて、フェミニズムへの弾圧!と考えました。
 ですが、あいかわらずの忙しさでほとんど何も支援できず。(余談ですがこの忙しさは本当に腹立たしい。やりたいことがなかなかできず、政治状況は悪化する一方で鬱々するばかり)そのうち無事?釈放され、活動再開されていて本当に良かったです。

 というところで、また問題は、ろくでなし子さんには色んなかたが応援しているようですが、わたしが思うのはフェミニズムからの応援がもっと必要だ!ということです。というのは、ろくでなし子さんの活動は、フェミニズムそのものだと思うからです。

 日本でま◎こはおとしめられています。本来は女性器は女性にとって大事な身体の要素のひとつであり、セクシュアリティを司るものですし、毎日の身体作用の要でもる子宮や卵巣などとつながってもいる。手や足が大事な身体の要素であるように、性器もひとりひとりが快く生きていくために大事にされるべきものです。
 ですが、まず名前を呼べない。マスメディア上では無論、ネット上でもそうだという指摘も見かけました。「ま◎こ」と書くとブログ停止になるとか?どうなんでしょう。。
 この状態は、女性の身体が他者に奪われているに近い状況を象徴しています。名前を呼べなかったら、ともだちとそれについて楽しく会話することもできないし、それについて正しい情報や知識を得ることもできない。PMSという月経困難症で悩む女性は多いですし、女性器に関する不調や病気にかかることも女性にとってそれほど珍しいことではない。婦人科にかかることでさえ恥ずかしいような空気はある。また、セックスについて話すこともしにくくなる。「ま◎こ」と公的な場面で言う女はさげすまれるから。
 何せそのことをろくでなし子さんの逮捕は余すところなく証明してくれました。

しかも!そういうふうに表の世界で口に出しにくい一方で、ポルノの世界、つまりアダルトビデオや官能小説(いまどきこういうジャンルがどれだけあるのかは知らないが)、アダルト動画、男性週刊誌等々では女性器をにおわせる表現があふれています。コンビニや街角の本屋に行けば、女性は目を背けざるを得ないアダルトコーナーがあちこちにあるのが日本の現状。
 これは何を意味しているか。あまりに日常化していて、誰も反対していないように見えるのでもうあえて考えられもしませんが、実はこれはいわゆる、「女性の身体が男性に支配されている」ということにほかなりません。ここでいう「男性」は個々の男性ひとりひとりではありません。男性中心社会と言えばいいでしょうか。
 女性の身体を特別視して、女性アナウンサーやアイドル,モデル等々のヌードを掲載して儲けている出版社・ビデオ会社、それを買って喜ぶ読者。男性中心的な性意識が資本と結びついて、女性の身体を支配しているのが今の現実です。
 女性の身体は何か「いやらしい」もの、オープンにしてはいけないもののように感じさせられてしまっているのです。
 
 女性の身体は「わいせつ」ではない、それがろくでなし子さんの活動から受け取るメッセージ。その活動、ま◎この表現で大事なポイントは、それが「セックス」とは別の文脈で表現されている点です。女性器は、落書きなどに現れているように、「性交」を意味するように使われることが多いです。性器はもちろん性交にも使われますが、女性の日常生活の中ではそれに止まるものではない。例えば生理や排泄など日々の健康に関わる機能で大活躍しています。もちろん妊娠・出産においても大事な部分。それを、セックス、しかも男性視線的なセックス観でばかり意味付けされている現社会での女性器観に、ろくでなし子さんの活動は挑戦している。これがフェミニズムでなくて何がフェミニズムといえるでしょうか。

 ろくでなし子さんへのフェミニズムからの支持が少ない一因に、「表現の自由」問題があるようです。表現の自由を支持する立場と、差別表現を規制することを重視する立場の対立ですね。わたしは、原則的には表現の自由は守られるべきと考えていますが、現状のポルノ産業のあまりの野放しぶりを看過するのもどうかな〜と迷っています。両者の中間あたりの立場はないものかと思っていますが、ともあれ女性からの性的な表現がもっともっと伸びてくるのが理想。女性が性的な表現をしにくい今の社会。どんどん色んな考えの女性が登場することで、自由派と規制派が対立して硬直してしまっている構図も変えられていくのではないでしょうか。


 最後に、ろくでなし子さんの活動は、「これからフェミニズムってどうなってしまうんだろう〜」とウツウツしているわたしに元気をくれました。フェミニズムはお勉強じゃない、ということを体現している意味でも大事だと思います。

※ある人からのアドバイスにより、検閲でブログ閉鎖されるのを避けるため、残念ながら伏せ字にしました。ああバカらしい。






 
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# by anti-phallus | 2015-07-17 14:41 | フェミニズム | Comments(2)

カルタイで発表します

 もうすぐですが Cultural Typhoon で発表します。前回も触れたポストフェミニズム関連です。

 6/14 日曜日 13:00-14:30
  @関学梅田
  パネル「性の政治のポピュラリティ―ポストフェミニズムとホモノーマティヴィティ」
  Cultural Typhoon2015のサイト→こちら
Panelist 1: 泉谷瞬 (IZUTANI, Shun) 立命館大学
Panelist 2: 菊地夏野 (KIKUCHI, Natsuno) 名古屋市立大学
Panelist 3: 黒岩裕市 (KUROIWA, Yuichi) フェリス女学院大学

 新自由主義体制下の社会においていかなるジェンダーやセクシュアリティのあり方が可視化され、「ポピュラーなもの」を構成しているだろうか。一方、そこで見えなくされ、排除されていくのは何か。本パネルでは、ポストフェミニズムやホモノーマティヴィティの議論を参照しつつ具体的な素材から、現代の日本のポピュラー・カルチャーにおける性の政治のせめぎ合いを検討する。「ポピュラーなもの」がどこに向かいつつあるのか、それはどのように批判的に読解/再読解できるのか明らかにしたい。
 泉谷報告では、2010年に出版された林真理子の人気作『下流の宴』の分析を行う。翌年にはNHKによるドラマ化もされる程に大衆性を持ったこの作品を、世代間ギャップの物語として解釈するのではなく、新自由主義の論理が一貫する構成から、欲望の肯定・自己実現への努力とジェンダーが絡み合う様相を考察する。菊地報告では、近年日本で流通している「女子」という流行語を手がかりに、ジェンダー秩序の再編について検討する。アンケート調査結果から新自由主義はジェンダー・セクシュアリティの領域でどのように立ち上がっているか考察する。黒岩報告は、近年のさまざまなメディアでしばしば見かけられる「女性とゲイ男性の親友」という表象に注目し、そこから新自由主義のもとでの性の政治を再検討するものである。ライフスタイル情報誌に掲載された川上弘美のいくつかの短編を題材に考察する。
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# by anti-phallus | 2015-06-08 14:50 | イベントの案内 | Comments(0)

宣伝・ポストフェミニズム論

 最近書いたものの宣伝をします。

『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」   格差、文化、イスラーム』
越智博美・河野真太郎編、彩流社 2800円+税
出版社HP →ココ

・・という本に、「ポストフェミニズムと日本社会」と題する論文を書きました。

 この本には、全体を通してネオリベラリズムが進行し、フェミニズムが「簒奪」されているかのような現代社会をどうにか切り開こうとする問題意識が通底しています。

 帯より。
「多様性が承認される「自由」な社会。「自由な個人」として不平等な市場に組み込まれるわたしたち。文化か、経済か。承認か、再分配か−−−−−−このジレンマを乗り越えることは可能なのか。
ポスト新自由主義を見すえるジェンダー研究の最前線。」

 私が書いたのは、英米のポストフェミニズムの議論を紹介しながら、それが日本の現状に照らし合わせるとどうなのか、ということです。フレイザーの問題意識とも絡めながら、ネオリベラリズムのジェンダー・パラダイムともいうべきポストフェミニズムを、日本の現実から批判していくことが今最も重要なことのひとつだと思っています。

他にも先鋭的な問題提起が多く収められています。
 どうぞお読みください。


=====================
目次

第一部 承認と再分配の問題とは何か
第一章 承認論とジェンダー論が交叉するところ(藤野 寛)
第二章 フレイザーとバトラーの「再分配/承認」論争(加藤 泰史)
第三章 ポストフェミニズムと日本社会(菊地 夏野)
    —— 女子力・婚活・男女共同参画
第四章 〈分配か承認か〉の手前で(岡野 八代)
    —— ケアの倫理からの再考
第五章 分配的正義から交換的正義へ(中山 徹)
    —— 「我が家の楽園」としてのコミュニズム

第二部 承認、再分配、そして文化
第六章 「貧困との戦い」の行方(越智 博美)
    —— 貧困の文化化とアパラチア
第七章 学習社会とポストフェミニズム(河野 真太郎)
    —— 『リタの教育』における終わりなき成長
第八章 シングルマザーが夢見るユートピア(町田 みどり)
    —— 『時を飛翔する女』における「家族」のオルタナティヴ
第九章 承認の外へ(井上 間従文)
    —— 根間智子と仲宗根香織の写真における「問い」としての沖縄
第十章 フランスの地方美術館による作品収蔵と芸術家の様相(小泉 順也)
    —— 印象派とポスト印象派を中心に

第三部 イスラームと女性
第十一章 イスラームと女性の地位(鵜飼 哲)
     —— まず、知るべきこと
第十二章 現代フランスにおける「スカーフ論争」とは何なのか(森 千香子)
     —— レイシズムと女性の身体をめぐって
第十三章 表象=代表 (representation) 、知識人、教育(中井 亜佐子)
     ——マララ・ユスフザイの国連スピーチを読む

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# by anti-phallus | 2015-05-18 16:01 | 仕事 | Comments(0)

「慰安婦」問題・歴史家声明に思うこと

 今月初め、アメリカの日本研究者ら187人が「日本の歴史家を支持する声明」を発表した件が話題になっている。これは「慰安婦」問題などの解決で、安倍首相の「大胆な行動」に期待を表明したもの(朝日新聞)として、さまざまな反響があるようだ。

 色々な見方ができると思うが、まあまずは、安倍政権はかなり反発を買っているということだろう。声明の内容を見ると、かなり日本の立場に配慮した文面が多い。そのような配慮を持ってしても、このような「異例の」政治的呼びかけをしなければいけない程に、今の日本の政治は危機感を持たれているということだ。

 その上で、どうも報じられ方、論じられ方に違和感があるのは、どうして日本のマスコミは、こういうアメリカの「権威」に弱いんだろうという思いが湧いてしまうからだ。これまで「慰安婦」問題が浮上してから25年間近く、被害女性たちは何度も何度も声を上げ、ずっと運動を続けている。それなのに、とくに近年彼女たちの声を報じるマスコミがどれだけあるだろうか。
 朝日新聞が吉田清治証言問題でバッシングされて以来、その傾向には拍車がかかっている。
 であるのに、こういった権威が声を上げると途端に報道され注目される。歴史学者らが声を上げたのを批判したいのではない。彼女・彼らがこの問題で何らかの立場を発信するだけでも相当の覚悟や準備、苦労があったことだろう。日本のマスコミにしても、こういった「権威」のものでもないと、報道できない、という事情もあるだろう。

 そう推察しながらもやはり、どうしても、本当に問題を解決したいならば、被害女性たちにまず耳を傾けるべきだという原則論を繰り返さざるを得ない。「慰安婦」問題は性暴力の問題だ。もうこの間この本質がすっかり隠蔽されてしまっていて、「国家間の問題」や「民族間の問題」として語られている。この語られ方自体に限界があるのだ。
 被害国・被害地域の女性たちの運動、加害国・日本の女性運動の歴史がある。わたしたちはそれを尊重し、そこから学んで、解決を考えていかなければならない。あまりに当たり前のことなので、もう自分で書くのも情けない感があるのだけど。
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# by anti-phallus | 2015-05-14 21:18 | 日本軍「慰安婦」問題 | Comments(2)

渋谷区同性パートナー証明条例について思うこと

 渋谷区のいわゆる同性パートナーシップ条例の件が大きく取り上げられている。東京レインボーパレードが4/26に開催されたこともあり、盛り上がっている。パレードも渋谷の条例を意識した演出が多かったようだ。

 こんな雰囲気の中で違ったことをいうのはためらわれるが、わたしはこの盛り上がりに危惧している。

 もちろんほかにもこの条例に批判的な声はあるが、それは「同性婚や同性パートナーシップの公認自体には賛成だが、今回の条例は進め方に問題がある」というものだ。条例を推進した議員が、渋谷区の野宿者排除や「ナイキ公園」設立を推進したのと同一人物であるということが指摘されている。また、条例で定められるパートナーシップの認定手続きに高額な費用がかかることや、実質的に認定されることのメリットは小さいことなどが批判されている。ただし、これらの批判にしても「本来の正しい手続きにのっとった同性婚や同性パートナーシップ」であれば賛成、という点は大勢と変わらない。

 いつからみながこんなに結婚制度賛成派になったのだろうか。
 確かに、1歩退いて、結婚制度そのものの賛否ではなく、現状の結婚制度が男女のカップルにのみ認められていて同性カップルに認められないのはおかしい、という点のみに絞って同性婚に賛成しているのかもしれない。しかし、どんな制度であってもすべてのひとに開かれるべきだと、いつどんなときにでもいってよいものだろうか。
 連想されるのは、フェミニズムにおける女性兵士の問題である。長く男性のものであった軍隊に、女性が参入していくことの是非。軍隊とは基本的に殺人のためにある国家組織である。そこに女性も参入して、暴力を行使する権利を認められることが男女平等、あるいはフェミニズムの目標なのだろうか。少なくとも、フェミニズムでは長い議論がある。簡単に結論を出していい問題ではない。

 結婚制度が軍隊とは違って非暴力的なものだとしても、結婚制度と女性差別は切り離せない。いくら法的に見れば男女平等に規定されているからとはいえ、性役割分業を固定化し、公認するのが結婚制度である。女性は、妻・母役割を理由に賃労働では一人前の労働力とは見なされず、安い賃金に甘んじている。職場は家庭責任のない男性労働者を標準化して構成されており、「競争力のない」非男性的労働者はどんどん追い落とされて仕方ないと見なされている。しかも日本では、強い「家意識」や「家族規範」のため、結婚圧力が強く、また「ヨメ」「主人」といった上下関係を色濃くにおわせる役割名が現在でも生きている。結婚制度を利用せずに自由に生きる道はまだまだ険しい。経済的にも、精神的にも。

 そのような息苦しい制度に参入する権利を非異性愛男女にも認めるのがそんなに良いことなのだろうか。
 確かに、結婚制度に賛成なのではなく、同性パートナーシップや同性婚を認めることでLGBTの存在が可視化・公認されることが素晴らしいのだと反論されるかもしれない。だが、LGBTというありかたを否定するのがそもそもの結婚制度なのではないだろうか。男女の非対称なカップルである結婚をすることが「人としての正しいあり方、生き方」とでもいうかのように結婚制度に依存した現在の社会そのものが、それ以外の生き方を周縁化し、否定しているのである。その排他的な制度に参入することで存在を可視化されたと勘違いすることの危うさを、もっともっと自覚するべきではないだろうか。
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# by anti-phallus | 2015-04-30 15:45 | クィア/LGBT | Comments(0)

理解できていないこと

 この間ずっとイスラム国のことを考えていた。去年からその組織についてはネットで調べ出していて、中田考さんの著書を注文したりしていたところだった。
 最初の後藤さん、湯川さんの動画の公開は1/20だった模様。2週間くらい経つのですね。
 なんと言ったらいいのか分からない状況である。多分、わたしが何も知らないからだろう。イラクやシリアの現状について、とくにひとびとの思いについて知らない。パレスチナ問題についてだいたいの構図は頭に入れていて(つもりで)も、なかなかリアルに身を入れて学ぶことは出来ていなかった。

 しかしこの事件の「リアルさ」は何だろう。湯川さんや後藤さんの人間性や経歴についてある程度のことがネットを見ていれば分かってしまって、本人(と思われる)のツイッターやブログも簡単に出てきて、ふたりの「キャラ」について好き嫌いを述べるひとがいて、さらにふたりが拘束され、「殺害」されたとする動画が世界中に公開されている。
 また、「処刑人」といわれる人物についても情報が飛び交っている。

 わたしは、正直、今のこの状況をまだ理解できていない。

 この、暴力が「さらしもの」になっている世界をどうやって捉えたらいいのだろうか?
 もちろんそういった情報や映像、文章を隠すべきだとは思わない。一部の本当に残虐なものを除いて。例えばネットで情報の流通を禁じて、マスコミのみの報道に頼れば、全くほとんど何も分からない、「無知」の立場におかれるだろう。それで満足できるわけがない。

 そしてそもそもの、このような暴力組織を生んでしまったこの世界を、理解できていないというのがいちばん重要なことだ。
 今回の一連の事件の流れの他方で、イラクやシリアでは空爆や戦闘によって多数の人々が殺されているという。
 さらに日本政府は、ますますこの暴力の応酬に参戦していこうとしているようだ。

 「植民地主義」の恐ろしさを、今回は改めて感じることとなった。近代世界はその発端から侵略、征服という暴力によって成り立っていて、その傷跡はずっと残っている。この矛盾が最も大きく現在でも噴出している地域のひとつが中東だろう。
 現地の人々の絶望、諦め、叫び、 先進国に住むイスラム系住民の苦しみ。

 植民地主義から自由になれる者はいないと言わざるを得ないだろう。現在日本で起きている「慰安婦」バッシング、ヘイトスピーチなどの問題もこの次元から捉えられなければならない。
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# by anti-phallus | 2015-02-05 18:05 | つれづれ | Comments(0)