菊地夏野のブログ。こけしネコ。


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渋谷区同性パートナー証明条例について思うこと

 渋谷区のいわゆる同性パートナーシップ条例の件が大きく取り上げられている。東京レインボーパレードが4/26に開催されたこともあり、盛り上がっている。パレードも渋谷の条例を意識した演出が多かったようだ。

 こんな雰囲気の中で違ったことをいうのはためらわれるが、わたしはこの盛り上がりに危惧している。

 もちろんほかにもこの条例に批判的な声はあるが、それは「同性婚や同性パートナーシップの公認自体には賛成だが、今回の条例は進め方に問題がある」というものだ。条例を推進した議員が、渋谷区の野宿者排除や「ナイキ公園」設立を推進したのと同一人物であるということが指摘されている。また、条例で定められるパートナーシップの認定手続きに高額な費用がかかることや、実質的に認定されることのメリットは小さいことなどが批判されている。ただし、これらの批判にしても「本来の正しい手続きにのっとった同性婚や同性パートナーシップ」であれば賛成、という点は大勢と変わらない。

 いつからみながこんなに結婚制度賛成派になったのだろうか。
 確かに、1歩退いて、結婚制度そのものの賛否ではなく、現状の結婚制度が男女のカップルにのみ認められていて同性カップルに認められないのはおかしい、という点のみに絞って同性婚に賛成しているのかもしれない。しかし、どんな制度であってもすべてのひとに開かれるべきだと、いつどんなときにでもいってよいものだろうか。
 連想されるのは、フェミニズムにおける女性兵士の問題である。長く男性のものであった軍隊に、女性が参入していくことの是非。軍隊とは基本的に殺人のためにある国家組織である。そこに女性も参入して、暴力を行使する権利を認められることが男女平等、あるいはフェミニズムの目標なのだろうか。少なくとも、フェミニズムでは長い議論がある。簡単に結論を出していい問題ではない。

 結婚制度が軍隊とは違って非暴力的なものだとしても、結婚制度と女性差別は切り離せない。いくら法的に見れば男女平等に規定されているからとはいえ、性役割分業を固定化し、公認するのが結婚制度である。女性は、妻・母役割を理由に賃労働では一人前の労働力とは見なされず、安い賃金に甘んじている。職場は家庭責任のない男性労働者を標準化して構成されており、「競争力のない」非男性的労働者はどんどん追い落とされて仕方ないと見なされている。しかも日本では、強い「家意識」や「家族規範」のため、結婚圧力が強く、また「ヨメ」「主人」といった上下関係を色濃くにおわせる役割名が現在でも生きている。結婚制度を利用せずに自由に生きる道はまだまだ険しい。経済的にも、精神的にも。

 そのような息苦しい制度に参入する権利を非異性愛男女にも認めるのがそんなに良いことなのだろうか。
 確かに、結婚制度に賛成なのではなく、同性パートナーシップや同性婚を認めることでLGBTの存在が可視化・公認されることが素晴らしいのだと反論されるかもしれない。だが、LGBTというありかたを否定するのがそもそもの結婚制度なのではないだろうか。男女の非対称なカップルである結婚をすることが「人としての正しいあり方、生き方」とでもいうかのように結婚制度に依存した現在の社会そのものが、それ以外の生き方を周縁化し、否定しているのである。その排他的な制度に参入することで存在を可視化されたと勘違いすることの危うさを、もっともっと自覚するべきではないだろうか。
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# by anti-phallus | 2015-04-30 15:45 | クィア/LGBT | Comments(0)

理解できていないこと

 この間ずっとイスラム国のことを考えていた。去年からその組織についてはネットで調べ出していて、中田考さんの著書を注文したりしていたところだった。
 最初の後藤さん、湯川さんの動画の公開は1/20だった模様。2週間くらい経つのですね。
 なんと言ったらいいのか分からない状況である。多分、わたしが何も知らないからだろう。イラクやシリアの現状について、とくにひとびとの思いについて知らない。パレスチナ問題についてだいたいの構図は頭に入れていて(つもりで)も、なかなかリアルに身を入れて学ぶことは出来ていなかった。

 しかしこの事件の「リアルさ」は何だろう。湯川さんや後藤さんの人間性や経歴についてある程度のことがネットを見ていれば分かってしまって、本人(と思われる)のツイッターやブログも簡単に出てきて、ふたりの「キャラ」について好き嫌いを述べるひとがいて、さらにふたりが拘束され、「殺害」されたとする動画が世界中に公開されている。
 また、「処刑人」といわれる人物についても情報が飛び交っている。

 わたしは、正直、今のこの状況をまだ理解できていない。

 この、暴力が「さらしもの」になっている世界をどうやって捉えたらいいのだろうか?
 もちろんそういった情報や映像、文章を隠すべきだとは思わない。一部の本当に残虐なものを除いて。例えばネットで情報の流通を禁じて、マスコミのみの報道に頼れば、全くほとんど何も分からない、「無知」の立場におかれるだろう。それで満足できるわけがない。

 そしてそもそもの、このような暴力組織を生んでしまったこの世界を、理解できていないというのがいちばん重要なことだ。
 今回の一連の事件の流れの他方で、イラクやシリアでは空爆や戦闘によって多数の人々が殺されているという。
 さらに日本政府は、ますますこの暴力の応酬に参戦していこうとしているようだ。

 「植民地主義」の恐ろしさを、今回は改めて感じることとなった。近代世界はその発端から侵略、征服という暴力によって成り立っていて、その傷跡はずっと残っている。この矛盾が最も大きく現在でも噴出している地域のひとつが中東だろう。
 現地の人々の絶望、諦め、叫び、 先進国に住むイスラム系住民の苦しみ。

 植民地主義から自由になれる者はいないと言わざるを得ないだろう。現在日本で起きている「慰安婦」バッシング、ヘイトスピーチなどの問題もこの次元から捉えられなければならない。
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# by anti-phallus | 2015-02-05 18:05 | つれづれ | Comments(0)

松浦理英子『犬身』

 久しぶりに松浦理英子を読んでいる。ずっと前に『ナチュラル・ウーマン』他を読んで以来、最近どうしているのかな〜と思い調べたらいくつか書いていた。
 新しいもののうちそれほどでもなかったものもあったけど、『犬身』は非常に良かった。わたしの犬好きの性(さが)が刺激されたのもあるが、松浦の新境地というか円熟の境地というか、こういう文壇的な手あかのついた言葉を使うのはどうかと思いつつ。

 レズビアン作家というような脚光の浴びせられ方をされた松浦だが、作品をよく読むとそうではないものを表現しようとしていることが分かる。ヘテロセクシュアルでは当然及ばず、かといって女性同士であろうとも得られない世界、そんな存在も確かでないものを求める欲望。たぶんそれは、松浦の一貫したモチーフなのだが、初期作品ではまだゴールに到達していないような感じ。

それが『犬身』を読むとよく分かる。犬と飼い主にしか届かない、高みにある親密性。言葉ではない、身体を直接交わすことによって得られる快楽が、人間同士ではない組み合わせによって成される。ただしこれはやっぱり女性同士の性愛の隣にあるようにわたしには読める。

 これを読んで、自分の中で何かが言語化されたような感覚があって、良い小説というのは言語によってできているににもかかわらず、いつのまにか読者の身体を変容させるのだなと思った。これを読んで確実に良かったと思う。
 今社会に流通しているセクシュアリティのテクストを裏切って、そうではない、でも確かにあるものをテクストによって具現化させる。すごい作業。

 読後生み出されるものは感覚なのだけど、それを実現する手段である言語は、完全に達人のレベルで、一瞬驚くような語彙が多い。ああこういう事柄を言葉にするとこういう表現になるのか、というような新鮮な発見を導く表現もある。言語は身体なんだな〜という嘆息。
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# by anti-phallus | 2015-01-30 17:08 | ブックレビュー | Comments(0)

北原みのり『フェミの嫌われ方』

 『フェミの嫌われ方』を読んだ。

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 この方の本はわたしはまだ案外読んでいない。今まで2冊読んだくらい。
 最近、日本でフェミニズムってどう見られているか論じたものを読みたくて、これを選んだ次第。去年の警察の件も頭にあったのですが。

 読んでみたらタイトルに合うような内容とはちょっと違っていて、著者のフェミへの思いを綴った本だった。著者がどういう経験、どういう思いをして「フェミ」にたどり着いたのかが分かる。
 今の日本の文化のなかで、女性が軽んじられたり甘く見られていることへの違和感や怒りが率直に、素直に書かれていて、共感する人は多いのではないかと思う。確かにこういうストレートなフェミニズムの本って少ないんですよね。

 とくにつんくの『LOVE論』批判が印象に残った。男性の筆による保守的な恋愛論はありふれているものですが、やっぱり批判が少ない。正面切って批判するのはためらわれる力学がある。違和感を持っても、「勝手にして」と無視するのが多くの人の態度だろう。でもこういう言説は根強くはびこって世の中の恋愛秩序、ジェンダー秩序に影響を及ぼしていくからほんとうはあえて恥を忍んで批判しなくちゃいけない。そういう意味でエラいと思う。
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# by anti-phallus | 2015-01-15 19:28 | ブックレビュー | Comments(0)

フェミニズムへの批判

 フレイザーの議論に関連してまず一言書きたいと思います。わたしはこの主張が、現在のジェンダー・セクシュアリティを考える上で非常に重要な内容だと考えており、いくつかのところで紹介してきました。そのなかで思ったことについてです。
 このフレイザーの主張に対して、「フェミニズムを批判するもの」と捉え、否定的に対応された経験が少しありました。それは、ジェンダー・セクシュアリティに関連する研究者からです。
 近年、日本のフェミニズム研究が以前と比べて新しい議論が少なくなってきているのは、この反応に代表されるフェミニズム研究界の問題があると思います。
 まあもちろんこのフレイザーの論考を読んで下さる方の多くは研究界には直接縁のない方も多いでしょうから、こんなことを書くのは野暮なのですが、実は研究界に止まらない重要な問題点を含んでいると思うので書いておきます。

 それは、フェミニズムがひとつの「正義」や「権威」になってしまっているのではないかということです。フレイザーの議論は、フェミニズムがネオリベラリズムと共犯関係になってしまったのではないかという批判であり、それ自体はフェミニズムに対して非常に厳しく反省を迫るものです。しかしお読みいただければ分かるように、フレイザーは自身もその一翼を担ったものとして、自己反省的にあえて振り返っているのです。そしてその反省は、自己反省に止まらず、フェミニズムを歪めて内在化させた現在のネオリベラリズムの本質のありかにもつながるものであり、そういう意味では普遍的な側面をももつからこそ、このフレイザーの議論は多くの人の興味を呼ぶのです。

 では、どうしてこのようなフェミニズム批判がある人々にとっては受け入れがたいのかと考えると、フェミニズムという概念が、既にある、「正しい言説」であったり、「それを身につけている正しいフェミニスト」のものであるという了解が広がっているからではないでしょうか。そのような「正しい思想」「正しいひと」を批判するのは、「それ以外の間違ったもの」「敵」に利するものだからよくない、という認識図式があるように感じます。
 それは、研究界だけではなく、一般にも、勉強していないとフェミニストではないとか、フェミニストは学歴もキャリアも高い人、というイメージは広くあるのではないでしょうか。

 ですが、何人かのフェミニストが論じてきたように、フェミニズムとは「既にあるもの」というよりは、「いまだ言葉になっていないが、確かにどこかにあるような、多くの女性たち、あるいはそれ以外のものたちにも分け持たれている、性差別への怒り」だとわたしは考えています。ですが、世の中は性差別に根づいていますので、そのようなフェミニズムを自覚している人は少ないです。だから、もっとフェミニズムを多くの人に伝えていくことが大事なのです。
 そのために例えば研究はあるのだと思います。そして、今あるフェミニズムが完全ということはありえないのですから、時代に応じて、社会に応じて、フェミニズムは常に刷新されなければいけないでしょう。

 ある意味では、批判され続け、刷新していくことがフェミニズムの命なのです。
 日本のフェミニズムは残念ながら、(自覚的な)担い手の層は高齢化し、力を失っています。そんななかでアベノミクスのようなネオリベラリズムが大展開していますから、とにかく大変残念な状況です。フレイザーの議論は、アメリカ社会を念頭に置いたものですが、日本の状況にもよく当てはまるのは驚くくらいです。
 フェミニズムにとって今は冬、激寒の時代ですが、だからこそ、このようなフェミニズム批判を踏まえて、立て直す時期なのではないでしょうか。
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# by anti-phallus | 2015-01-07 12:08 | フェミニズム | Comments(0)

ナンシー・フレイザー「フェミニズムはどうして資本主義の侍女となってしまったのか」

 アメリカの社会主義フェミニスト、ナンシー・フレイザーの文章を訳したものを紹介します。
 これは「The Guardian」のサイトに寄稿されているものです。2013年10月に掲載されたようです。翻訳に間違いがあるかもしれません。ですが、非常に重要な議論をしています。多くのひとに読んでほしいと思うのでここに紹介します。
できるだけ原文にあたってもらうことをお勧めします。(→ココ

 ただこの主張自体は、以前からフレイザーが論じているもので、ここでは簡略化したものが寄稿されています。日本語に訳された論文もありますので、関心のある人は、CINIIで検索して読むといいと思います。
 なお、掲載にあたっては著者ご本人の承諾をいただきました。ありがとうございます。

※1/6 ご指摘をいただき、第4段落「with the benefit of hindsight」の訳を直しました。
※ほかにも読みやすいようにちょっとずつ直しています。
※1/10 最終段落中の「mantle」ですがコメントをいただいたので「底流」と直してみました。ただ、わたし自身はまだ迷いがあります。様々な問題や運動を覆う傘のようなイメージで「外套」という意味をこめたのかもしれないとも思うのですがどうなのでしょう。


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フェミニズムはどうして資本主義の侍女となってしまったのか−−そしてどのように再生できるか
資本主義の搾取への批判として開始された運動がその最新のネオリベラル局面にとって鍵となる発想を提供するようになってしまった

                            ナンシー・フレイザー

 わたしはフェミニストとして、女性解放のために闘うことで、より良い世界−−より平等で、公正で自由な−−を築いているといつも考えていた。だが最近、フェミニストたちによって開拓されたそのような理想がかなり違った結果をもたらしているのではないかと不安を感じ始めた。とくに、わたしたちの性差別批判が、いまや不平等と搾取の新しい形式のための正当化を供給しているのではないかと。

 運命の意外な展開により、女性解放のための運動は自由市場の社会を築くためのネオリベラルな努力との危険な結びつきに巻き込まれてしまったのではないかとわたしは恐れている。それは、かつてはラディカルな世界観の一部を構成したフェミニストの思考がますます個人主義的な用語によって表現されているさまを説明するだろう。かつてフェミニストがキャリア至上主義を促進する社会を批判したところで、それは今や女性に「がんばる」よう助言する。かつては社会的連帯を優先した運動が今や女性の起業を称揚する。かつては「ケア」や相互依存の価値を発見した世界観がいまや、個人の達成や能力主義を奨励する。

この変化の背後にあるのは、資本主義の性格の変貌だ。戦後の国家管理型資本主義は新しい形式の資本主義−−「組織されない」、グローバルな、ネオリベラリズム−−に道を譲った。第二波フェミニズムは前者への批判として現れたが、後者の侍女になってしまった。

結果論になるが、女性解放運動は同時に異なるふたつの可能な未来を指向していたということが分かる。第一のシナリオでは、ジェンダーの解放が参加型民主主義や社会的連帯と同時に実現する世界を予想した。第二のシナリオでは、新しい形式の自由主義、女性に男性同様の個人的自立のための資源や増大する選択肢、能力主義的達成を認めるようなものを約束した。この意味で第二波フェミニズムは両義的である。ふたつの異なる社会のビジョンのどちらにしても、ふたつの異なる歴史による彫琢に影響された。

フェミニズムの両義性は、近年、第二の個人的自由主義シナリオの観点に結実したように思われる。だがそれはわたしたちがネオリベラルな誘惑の受動的な犠牲者だったからではない。逆に、私たち自身が、みっつの重要な思考をこの展開に貢献したのである。

第1に寄与したのは、わたしたちの「家族賃金」批判だった。男性稼ぎ手と女性家庭責任者(の組み合わせ)という家族の理想は、国家管理型資本主義の中心にあった。この理想に対するフェミニストの批判は、今は「フレキシブル資本主義」の正当化に役立っている。結局、この形式の資本主義は女性の賃労働−−とりわけサービス産業と大規模生産産業における低賃金の仕事、若い単身女性によってのみではなく既婚女性や子どものいる女性によっても従事される、人種化された女性だけではなく、実質的にあらゆる国籍と民族の女性たちによる−−に依存している。女性が世界中の労働市場にあふれてくるにつれて、国家管理型資本主義の家族の理想はふたりの稼ぎ手という、より新しい近代的な規範−−フェミニズムに公認された−−に取って代わられている。

その新しい理想の下にある現実は、低下した賃金レベル、減少する雇用の保障、切り下げられた生活水準、世帯収入に必要な労働時間の急増、ダブルシフト(仕事のかけもち)の悪化−−ふたつどころかしばしば三つや四つのかけもち−−、貧困の悪化、女性が家計責任を持つ世帯での貧困の集中などであることを忘れてはいけない。ネオリベラリズムは女性のエンパワメントの語りを磨くことで、小石を宝石に見せてしまっている。フェミニストの家族賃金批判を搾取の正当化のために利用することで、女性の解放の夢を資本の蓄積のエンジンに結びつけているのだ。

フェミニズムはネオリベラルの精神に第二の貢献もなした。国家管理型資本主義の時期に、わたしたちはちょうど、階級の不平等にばかり傾注して、ドメスティック・バイオレンスや性的搾取、生殖/リプロダクションの抑圧などの「非経済的な」不公正が見えなくなっているような狭い政治的ビジョンを批判した。「経済主義」を批判して「個人的な事柄」を政治化することで、フェミニストはジェンダーの差異という文化的な構築を前提とする地位のヒエラルキーに挑戦できるように政治的課題を広げた。それは文化と経済の両方を横断する正義のための闘争を拡張する結果となるはずだった。だがじっさいには、「ジェンダー・アイデンティティ」のほうにばかり注目し、パンとバターにまつわる事柄を犠牲にする結果となった。より悪いことに、フェミニストは、何よりも社会的平等の記憶を全て抑圧したい、上昇するネオリベラリズムにあまりにぴったりと適合するアイデンティティ・ポリティクスと化してしまった。結果的に、わたしたちは、状況が政治経済の批判について再二重化された注目を必要としているまさにそのときに、文化的な性差別の批判を絶対化してしまった。

最後に、フェミニズムはネオリベラリズムに第3の思考を貢献した。福祉国家的パターナリズムに対する批判である。国家組織型資本主義の時期には明らかに進歩的だったが、その批判はその後、ネオリベラリズムによる「乳母的国家」に対する戦争と、より最近の皮肉なNGOの発想へ収斂した。その実例は、「マイクロクレジット」、グローバルな「南」における貧しい女性たちへの小さい銀行型融資のプログラムである。トップ・ダウンの官僚的な国家政策に対してエンパワーするボトムアップのオルタナティブと位置づけられ、マイクロクレジットは女性の貧困や従属へのフェミニストの処方箋として見なされている。しかしながら見逃されていることは、煩わしい同時発生物である。マイクロクレジットは、国家が貧困と闘うマクロ構造的努力、小規模な融資では代替できない努力を捨て去った時に急成長した。この場合でも、フェミニストの思考はネオリベラリズムに取って代わられた。市民をエンパワーするために国家権力を民主化することをもともと目指していた展望は、今や市場化と国家の削減を正当化するために利用されている。

これら全ての場合において、フェミニズムの両義性は(ネオ)リベラルな個人主義のために分解された。しかし他方で、連帯に向かうシナリオもまだ存在している。現在の危機は、その縫い目をもう一度拾い上げ、女性解放の夢を連帯社会のビジョンに再結合するチャンスを与えている。そのためには、フェミニストはネオリベラリズムとの危険な結合を断ち切り、私たち自身の目的のために三つの「貢献」を再主張する必要がある。

第一に、賃労働を脱中心化し、ケア労働やそれ以外のものを含む賃金化されない活動を尊重する生活様式に影響力をもたせることで、私たちの家族賃金批判とフレキシブルな資本主義の誤ったつながりを切断したい。第二に、男性中心的な文化的価値を前提とする地位秩序を変容させる闘いを、経済的公正のための闘いと統合することによって、私たちの経済主義批判からアイデンティティ・ポリティクスに至る道を崩壊させたい。最後に、公正のために資本を制御することを求められている公的権力を強化する手段として参加型民主主義という底流を再主張することによって、私たちの官僚制批判と自由市場原理主義の間のにせの絆を切断したい。
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# by anti-phallus | 2015-01-05 17:07 | フェミニズム | Comments(2)

ミソジニーの実例

こんなにもくだらない、女性の身体をあげつらったメディアが普通にあふれているのに、女性が女性の性器を表現したら逮捕、起訴する国って、どれだけ女性をバカにしてるのか。これがミソジニー(女性嫌悪)の実例です。あるコンビニで。


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結局この国は、女性が男の「欲望」みたいなものにしたがって可愛くしたり、たまにちょっと「色っぽく」してたりすれば、ご褒美を上げて「守って」やるよってそういう国だっていうことが今回のろくでなし子さんの事件ではよく分かる。

女性がそういう秩序に従わず、ちょっと自分で自分の身体を自律的にコントロールしようとするととたんに権力発動。
あまりに分かりやすい。

これはその他大勢のわたしたち女性への見せしめです。女はこの国の男性中心的秩序に従っておけ、さもなければ・・・という。みな逮捕されたり責められたり白い目で見られたりするのはごめんだから、おとなしくせざるを得ない。
今の日本は女性にとって恐怖と危険で満ちている。
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# by anti-phallus | 2014-12-25 13:24 | つれづれ | Comments(0)

ジェンダー・セクシュアリティの視点からレイシズムを考える

 先日11月23日に、ICU(国際基督教大学)のCGS(ジェンダー研究センター)でシンポジウムがありました。呼んでいただいてパネリストのお仕事をさせていただきました。「対立を語り直す」というタイトルで、下記のようなものでした。
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 終わるまでとても緊張したのですが、振り返ってみるとずいぶんと重要な、深い企画だったと改めて思います。ちょっと驚くくらいに。
 そもそもの企画の発案が、最近のヘイト・スピーチの問題から発しています。街頭で、差別的なスピーチを叫び続ける集団と、それに対する「カウンター」のひとびとによる批判の行動。マスコミでも報じられているのでご存知の方も多いかと思いますが、一体この先どうなるか予断を許さない状況と言っていいでしょう。
 この企画はそのようななか、ヘイト・スピーチ現象を批判するさいに、ジェンダーやセクシュアリティの問題が抜け落ちているのではないかという問題意識から設定されました。
 ヘイト・スピーチがターゲットとしていることのひとつが、「慰安婦」問題を消し去ることですから、この指摘はもっともなことです。単に、ヘイト・スピーチを「レイシズム」と括ってしまうと、性暴力の問題が見えなくなってしまいます。これは非常に大きな問題です。

 企画では鄭暎惠(ちょんよんへ)さんが、ポスト・コロニアル・フェミニズムの可能性を話されて、私も改めてその必要を感じました。
 
 これまで、「慰安婦」問題はこのまま消えていってしまうのだろうかと漠然と不安に思っていましたが、最近の情勢を見るにつけ、おそらく決して消えはしないだろうと思うようになりました。ただし、正確に戦後責任の問題として政治的、社会的に認識されるまでは、幻影のように、ナショナリストが否定しても否定しきれない、亡霊のようにこの日本社会で残存し続けるのではないでしょうか。
 現在起きている「民主主義への嫌悪」。ものを考えるひとびとはこの現状から逃げることはできないでしょう。
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# by anti-phallus | 2014-12-02 18:32 | 仕事 | Comments(0)

虹パレ

 昨日は虹色パレードでした。名古屋で行われるレインボー・パレード。雨が強く降っていて、どのくらい来るかな〜と心配でしたが、行ってみたらけっこう来ていて、主催の方々も安心したことでしょう。名古屋ではこれで3年目。これまでわたしは毎年別の仕事が入り参加できなくて、今回は初参加で嬉しかったです。
 たぶん道行く人々からは、何の催しか分からない人も多かったのでは。雨のせいもあってか、仮装も少なめ、プラカード等も持っている人も少ないし、普通のデモのようにシュプレヒコールみたいなのもないので、何を訴えているのかがぱっと分からないと思うんですよね。
 それといつものことですが、警察が、管理がうるさい・・・マラソンなら通行止めにするというのに、デモやパレードでは自動車優先・・・なんとかならないのでしょうか、この日本社会の人権意識の薄さ。
 デモやパレードは、一般市民にできる数少ない政治的活動。警察や公共機関はそれを尊重すべきなのです。せめてマラソンと同等くらいには尊重してほしい。。

 その後は某クィアーズで法律セミナー。弁護士の方々がセクシュアル・マイノリティーにまつわる諸問題についてレクチャーしてくれました。大盛況で店内はいっぱい。こういうイベントもいいですね〜。
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# by anti-phallus | 2014-11-02 10:21 | クィア/LGBT | Comments(0)

朝日新聞問題???

 朝日新聞が8月に「慰安婦」問題と福島第1原発の吉田調書に関する報道で「誤報?」をしたということでしばらく騒がれていて、朝日は何度もお詫びしたり何だりしていました。
 わたしはあまり新聞というものが好きでないので購読したりやめたり、でもやっぱり教材に使えるからな〜とかいう理由でまただらだら「高いな〜」とか悩みながら購読したりという感じの人間ですが、ちょうどこの夏くらいからまた朝日を取り出していて、そういう騒ぎに遭遇してしまいました。
 それで、一体これは何?と思いながら見ていましたら、だんだん朝日バッシングが高まってきてこっちにもっと驚いたので、研究のために見ておかなきゃ!とか思って保守系雑誌を買ったりしていましたら、だんだんその雰囲気につらくなってきて、うつになっていっていました。。。

 うつになるくらい色々思うことはあって、でもこういうシビアな問題だからもっとちゃんと調べてから発言しなきゃなと思って、忙しさもあり今までブログも書かなかったのですが、でもなんかそういう「調べてから発言しなきゃ」という気分にも問題あるんじゃないかと思い、今書いています。調べてなくても書けるようなことを・・・
 
 何はともあれ、朝日はそこまで叩かれることをしたのか???全くよく分からない。朝日は別に吉田清治さんの証言のみを使って「慰安婦」問題を報じてきたわけではない。朝日のみが吉田証言を使ったわけでもない。
 吉田清治さんの証言というものはもう既に90年代から、「慰安婦」問題を語るなかで使われることが減っていっていました。「慰安婦」問題は、当然ながら吉田さんというただ一人の方の証言で持って提起されたものではありません。他に多数の証言、資料があります。だからこそ問題なのです。
 それを、誤りだと分かった吉田さんの件のみを使って、「慰安婦」問題は虚構だとはやしたてるバッシングの人々の主張こそが虚構であり、謝るべきです。
 わたしは別に朝日を全面支持するわけではありません。とくに二大政党制支持になってから朝日は、面白い記事が減り、一体どこを向いているのか分からない印象を持っています。
 でも今の朝日バッシングは間違っています。保守系雑誌の朝日たたきには異様なものを感じます。あんな雑誌が本屋の店頭に高く積まれている今の日本、真面目にヤバいと感じました。

 朝日がミスったとしたら、吉田証言の誤報を必要以上に大きく取り上げて「慰安婦」問題特集を書いたことと、池上彰さんのコラムを不掲載にしようとしたこと。でも後者のことははっきり謝っていて、池上さん自身もそれを受け入れたようですから、これ以上責める必要はないでしょう。
 おそらく、吉田証言のことを報じたのも、バッシンング派からの勢いに押されたものだと思います。つまり、この騒ぎはそもそもが「慰安婦」問題を消し去りたい側から設定された構図に載ってしまっているのです。

 バッシング派が間違っているのは、ひとを否定して、「国」などという訳の分からない、非人格的な虚構を立ち上げようとしていることです。被害女性たちが、大きな犠牲を払って、辛い経験を証言したことの重みを想像せず、安易に、無垢で完璧な「日本国家」のイメージを守ろうとしていることが間違いですし、わたしが辛いのはそこですね。ほんとうに自分たちの住んでいる社会を良いものにしようと思えば、批判に耳を傾けて、間違いを認めて、変わっていこうとするはずです。そういう努力から逃げて、簡単に大きな、楽な権威にしたがおうとするから、ひとりひとりの痛みを見捨てることになるのです。

 これから一体どうなっていくのか。。ますます混沌としていきそうですが、わたしのように今回の問題でうつになった人は少なくないと思います。そんな方々が絶望せず、生き延びていけるように何ができるのか。。。。。。
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# by anti-phallus | 2014-10-17 23:55 | 日本軍「慰安婦」問題 | Comments(0)