菊地夏野のブログ。こけしネコ。


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国家を歌うのは誰か?+沖縄県知事選

 ここ最近は忙しかったから今週は少しおとなしくしよう。
 バトラーとスピヴァクの『国家を歌うのは誰か?』を読み返している。随所に示唆的な言葉がある。言語のこと、運動のこと。何カ所も書き留めておきたいところを見つける。
 例えば次のところ。

ここで立ち止まって、この発話は、国民のただなかに翻訳という仕事を設定しているのではないかと考えなければなりません。隔絶や裂け目こそが平等の可能性の条件となり、したがって平等は、国民の同質性の拡大や増大にはつながりません。(P44-45 一部省略)

 ここでの隔絶や裂け目は、私が前から使っている分断という言葉に重なる考えによるものだと思う。平等が既にあるものと語ってしまえば、その場の抑圧性はものすごく大きなものになってしまう。だがバトラーにとって、効力のあるエージェンシーは「わたしたち」でしかない。そして、平等でない限り、わたしたちは語り得るものとならない。
 平等と自由は密接につながっている。

 この冒頭で、バトラーはアーレントの公私区分がもつ抑圧性について批判している。そこはアーレントが男性中心主義的思考と訣別できていない側面を象徴的に表しているのだろう。その男性中心主義的思考は人種主義や民族中心主義、階級主義とも連動していることが、古代ギリシアの理想化から見て取れるかもしれない。
 社会領域を公私に分けて、私的世界に暗さや秘匿性をあてがう思考や行動、人間的あり方を、言論だけでなく、実践の中で運動の中で批判するのは相当に難しい。その批判が必然的に関係者の私的領域を他者の目にさらしかねないから。そこまでする必要性を批判者が引き受けられるかどうか。



 沖縄の県知事選結果にがっくりきている人は多い。だが、一つの国家の「国益」とやらをいち地方自治体の首長選で選んでもらうというのはそれ自体暴力的である。
 どうして沖縄の人々ばかりが選択を迫られるのか。自分たちの身近な毎日にとっては迷惑の大きなものが、自分の国家の利権というよりは自分の国家に支配的な影響力を持っている他の国家の利権の拠点となっていて、それを遠くにやるかそのままにするかをなぜか選ばなければならない。本当に選ばなければならない責任をもっているひとびとは遠くから見やるばかり。選択せねばならないことの圧力を「わたしたち」は沖縄に押しつけることをやめなければならない。
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by anti-phallus | 2010-11-30 11:52 | フェミニズム | Comments(0)

クィア学会日本語要件について個人的見解

 今年のクィア学会総会で問題になったことの一つに、大会報告・学会誌投稿における日本語要件があった。これは規約レベルではなく、報告や投稿の申し込み時の条件レベルのものだが、第1期幹事会のころから幹事会判断で付されたものらしく、現在まで生きている。これが、一部会員から批判を受け、幹事の越権行為だから謝罪せよという声まであった。それに対して代表幹事から一部不十分な決定だったと認める言葉もあったものの、同時に日本語要件の必要性を主張する論が現・旧幹事から二・三発された。最終的には幹事会で持ち帰って再議論することになった。
 わたしは現在幹事だが、総会では書記を任じられていたので発言には自制的になっていた。この議論の際も発言の必要は感じたのだけど、次々に手が挙がるような状況で気後れもして手控えた。
 総会の後も友人たちとの会話の中でこの問題についてたくさんの話をしたし、現在までツイッター上でも様々な人が論じている。そんななかでは他の問題とも絡んで混乱したやり取りになっているところもあり、わたしとしては少し心配になっている。
 現幹事としてのあせりもあるし、この議論の運びようによってはクィア学会の印象も大きく変わりうるんじゃないだろうかなどと憶測している。
 そこで、現幹事という慎重になるべき立場であり、またわたしの在任している限りではこの問題について幹事会できちんと話し合ったことはない中でためらいもあるが、私個人の見解を書いておきたいと思う。だけど、これはあくまでも個人的見解であり、幹事会の見解とは違うことをここに明記しておく。


 結論から言えば日本語要件は撤回した方がいい。
 要件を付した側からいえば、クィア研究における英語中心主義の現状があり、日本語要件がないと英語話者の報告や投稿が中心になり、日本語話者が周縁化される恐れがあるという。これは、研究に携わるものとしては心配して当然のことであり、アカデミズムにおける英語中心主義はほとんど疑問に付されることなく、例えばジェンダー研究でも自明になっていることを考えると、重視すべき点である。
 だが一方で、この論点から日本語要件を課してしまうと、日英だけではない問題が生じる。世界には日英以外のたくさんの言語があり、アジアだけでも数えきれない言語が存在する。また、日本社会においても日本語をネィティブとしない話者はたくさん暮らしている。わたしの関わっているフィリピン人コミュニティでは、日本語の簡単な会話はできるけれど読み書きはできない女性たちが多い。彼女たちは英語はある程度できるが、もちろんタガログ語(フィリピノ語)がいちばん便利であり、同じフィリピン人でも出身地によってだいぶ言葉が違う。名古屋に多数存在するブラジル人・ペルー人は日本語の話せない、読めない人たちが多い。総会で例示された在日のひとびとやアイヌ人の存在も大きい。ちなみに名古屋にはアイヌ出身者の会もあり活発に活動しており、決して遠い過去の存在ではないことに注意しておきたい。
 このような立場から見れば、日本語というのは日本社会におけるマジョリティ言語であり、彼女・彼らは日本人が英語圏で感じるのと同じように、常に周縁化されているのだ。彼女・彼らからすれば、クィア学会における日本語要件は、日本語や英語というエリート言語、帝国主義的言語のネイティブたちが自分たちの存在は勝手に忘却して上の方で覇権争いをしているに過ぎない、と見えてもおかしくない。
 また、この日本社会は、近代を通じてアジアの他社会に自らの言語を押し付け、日本語を広めようとし、あげくの果てに日本語以外の言語をつぶそうとした歴史をもっている。沖縄しかり、朝鮮半島然りである。そのときの日本側の認識が、欧米に対して自国の独立を保持し、アジアの覇者となるという欲望だった。言語は、そのような帝国主義的欲望の重要な武器となり得るのだ。
 英語が覇権を持っている現状に対して日本語のみ使用させるという手段で対抗しようとするのは、どうしてもこの日本の歴史と重なってこざるを得ない。戦前の沖縄で、学校で子どもたちが沖縄語を使うと「方言札」というものを掲げさせられて罰されたという史実はわたしの頭を離れない。
 確かに、一般社会と違って、研究者レベルでいえばクィア学会に参加し得る層では日本語か英語はしゃべれる人ばかりだろうから、他のマイノリティ言語のことは考慮しなくていいのではないかという気分もあるだろう。だがそれを認めてしまえば、そもそもの学会趣旨である、アカデミズムに閉じない、研究とコミュニティ・運動の開かれた関係性への志向は失われてしまうだろう。

 問題の背景について述べたが、日本語要件を正当化する側は、おそらく多少はこのような背景についても知らない訳ではない。だが、彼女・彼らの考えの中には、もしそのようなマイノリティ言語を使うことを認めてしまえば、通訳などの措置が必要になるが、学会の財政的・人的限界がありそこまではとても措置できず、措置できない以上そのまま認めるのは逆に無責任だという判断がある。
 これについては、まず、それらの措置があくまでも日本語話者のための措置を想定しているのであればそこにも日本語中心主義は忍び込んでいるということがいえる。次に、マイノリティ言語を用いることを望んだ人が、そのような措置を必ず求めるかどうかは分からないのに勝手に忖度しているということがひとつ。最後に、どうしてそもそも幹事会が勝手にそこまで判断し、決定し得るのかということ。
 実は、このことがあるレベルでの問題の核心だろう。言語については様々に物理的制約がある。すぐに理想的な状況を実現しようとしても無理だ。だが、そういう判断を、どのような形で誰が行ったのかということが問題なのだ。
 言語の問題はこれだけ大きい。総会でひとつ批判の声が上がっただけで、今に至るまで各所で論じられているほどに。にもかかわらず、幹事会は総会にかけることなく日本語要件を課してしまった。
 仮に総会にかけて、日本語要件を課すべきだという総意が得られたのならば、たとえ問題含みであったとしてもそれは現在のクィア学会の認識状況を表しているのであり、幹事会にはそしりを受けるところはない。その手続きを得ることなく重要な問題について決定し、執行してしまったのだから、よくなかっただろう。
 ただ、当時の幹事会がそのような判断になったのは、学会設立の大変な中で幹事として責任をもって対処しようとしたことの結果であり、それ自体が糾弾や謝罪要求の対象になるとは思わない。学会設立というなかなか立ち向かえないことに関わり、時間とエネルギーを費やしてくれたおかげで今この場-------クィア学会を中心とした言説空間・ネットワーク------があるのであり、このような議論ができている。それは誰も否定できない功績だ。
 日本語要件に戻れば、これを撤回したとしてどうしたらいいかといえば、大会報告については以下のようなオプションあるいはその組み合わせが考えられるだろう。

 1全く規制しないし、通訳等の措置もとらない
 2英語の報告は認めない
 3マイノリティ言語については通訳等の措置を報告者個人の責任で用意してもらうことをお願いする、あるいは課する
 4英語について3同様の措置とする

 学会誌については査読の負担があるので、もう少し慎重に取り扱い、当面は日本語のみとしても仕方ないかもしれないが、それについても一考したほうがいいだろう。

 どちらにしても、総会で会員の判断にゆだねることが最も大事だと思う。ここまでわたしの、言語についての見解を述べたが、この見解に基づいて学会が行うべきだとは思っていない。一会員として意見を述べたのであり、学会では、総会やその他の機会を通じて多くの会員によって決定されるべきだと思う。
 幹事会はそのための条件、会員が十分討議できる場・回路を用意するのが仕事だろう。
 私は今まで、ジェンダー・セクシュアリティ研究や運動と、人種主義・植民地主義に関する運動や研究の両方にいて、双方の交流が少ないことに問題を感じてきた。どちらも日本社会/グローバル社会の核心にある問題なのに、それぞればらばらで、交流が少ない。このふたつの運動・研究がもっと混じり合えば非常に大きな可能性が生み出されるのに、と歯がゆく思ってきた。
 幹事として、今回の課題に協力できれば、今までの歯痒さを少し乗り越えられるかもしれないと思うと、とても嬉しい。
 ジェンダー化された異性愛中心主義社会の中で名付けられない存在に生の可能性を与えたのがクィア・スタディーズだったはず。言語の植民地主義のなかで周縁化される存在に、可能性を与えようと努力することも、課題の一つのはずだと私は思いたい。
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by anti-phallus | 2010-11-25 11:24 | 仕事 | Comments(0)

クィア学会第3回大会感想/訂正版

 今年のクィア学会は考えさせられることが多かった。裏方としてプレッシャーは高かったけど、それに見合う収穫も多かった。
 総会の審議について参加者みな揺れに揺れたように思う。参加してくれた全員に感謝と敬意の気持ちを送りたい。
 でも、建前ではなく、こういうふうに学会の運営、ひいては学問・研究のあり方について揺れが起こりうる場、揺れを共有できる場というのはすごく貴重だと思う。その揺れの形がひとそれぞれで、今はだれとも共振していないように感じていたとしても。
 わたしは完全に正しい人はいないと思う。だから、誰かの意見が正しいように思えたとしてもそれにおびえる必要はないと思う。こう書くのは、周りの友人たちが正しさと、それを実現できない自分たちに不安を感じているように思えるから。
 誰しも正しさだけでは生きていけないから、正しさを振りかざされると怯え、反発する。でもそんな怯えは必要ない。必要なのは正しいことではなく、今の自分たちの限界を認め、理想に向けて可能なことを行うこと。必要なのは他人の過ちを責めたり自分の正しさを認めさせることではなく、わたしたちみなが限界を持ち、だけれども理想を共有できることを分かっていくこと。
 わたしが心配なのは、不安に駆られた友人たちが、正しさに反発して、抑圧的な方向性を選んでしまうこと。
 こういう状況の中でわたしに何ができるのか、しばらく考えていきたい。
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by anti-phallus | 2010-11-24 00:22 | 仕事 | Comments(2)

『70年代』つづき

  著者インタビューから、気に入った言葉を引用します。

  その頃は検閲がありました。私たちには、75年に砂糖農園で働く季節労働者を主題にした映画『サカダ』をつくり、そのフィルムを軍隊に破棄されてしまった経験があります。けれど私が小説や文章を書くときには、検閲などないのだと言い聞かせて、何でも書きたいことを書くようにしています。検閲するのは政府の勝手だけれど、自分自身でまず検閲し手加減して書いたりしてはならないからです。もちろんあとで検閲を受けることになりますけれど、自分自身で検閲してしまうのは大きな過ちだと思っています。『70年代』を書いたときのことで私が言っておきたいのは、これを書いているあいだ私は検閲のことだとか、軍隊に逮捕されるかもしれないとか一切考えなかったということです。実際に逮捕などされませんでしたけれどね。この小説を書いて私が証明したのは、一番の敵は「おびえ」なのだということ、「ためらい」なのだということです。たとえ検閲があっても、作家自身は自由でなければならず、毅然としていなければいけないのです。そのことが証明できたのです。
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by anti-phallus | 2010-11-12 17:42 | ブックレビュー | Comments(0)

フィリピンの女性文学『七〇年代』

 最近はやっと時間ができて、元気も出てきた。
 元気の出る小説としてお薦めの本、ルアールハティ・バウティスタ『七〇年代』(めこん)。
 1970年代フィリピンの社会を女性主人公の言葉から活写した作品。中流階級の「普通の母親」だった主人公が、家庭生活の変化や時代の空気の中で少しずつ変わっていく過程が描かれている。
 面白いのは、主人公のアマンダの心の中の葛藤が、ベティ・フリーダンが書いたようなアメリカ中流階級の専業主婦の女性のものと酷似しているところ。可愛い子どもと頼もしい夫に囲まれ、彼らのために生きることで満ち足りているはずが、いつのまにか心の空洞を感じるようになっていく。彼女は「人間らしさ」を求めるようになっていくが、その心の変化の一因ともなっているのが当時活発であった左翼運動だ。
 フィリピンの労働者は結局のところアメリカ資本のために収奪される社会構造になっていて、庶民の貧困はいつまでも変わらない。フィリピン政府はこの収奪構造を変えようとはしない。これを変えようと多くの若者が運動に入っていき、アマンダの息子もそうだった。
 アマンダは初めはとまどい苦悩するが、徐々に活動家たちの理想を理解するようになっていく。と同時に夫との関係性も変化していく。

 運動をやや美化しすぎな感もあるが、普段なかなかフィリピン社会の実情に触れられない日本の読者には衝撃を与えうると思う。また、民衆の貧困についてはマスメディアもある程度報道することがあるが、その貧困に対して闘っている人々の存在については黙殺している。
 日本とはあまりに違う社会。今、国内で問題化されている貧困を、このようなアジア諸国、周辺化されている国々の下層のひとびとの貧困とつなげて考えてほしい。最近の私は、その視点がない日本の貧困論に、いらだちを感じてしまってしょうがない。『蟹工船』が話題になるなら、この本も、この本こそ是非読まれて欲しい。
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by anti-phallus | 2010-11-10 17:11 | ブックレビュー | Comments(0)

クィア学会研究大会11月20-21日@名古屋・中京大学

 みなさん是非来てください!シンポも面白いと思います。
 わたしは受付でばたばたしている予定です。
 懇親会では名古屋めしも出る模様です。味噌煮込みうどんも、手羽先も天むすも(出るか分からないけど)、意外においしいですよ。学会に出て、名駅の地下街で食べて帰ってください。

++++++++++++++++++++++++++++++++++
●クィア学会第3回研究大会のお知らせ●(転送・転載歓迎)

2010年11月20、21日に中京大学にて、
クィア学会第3回研究大会が開催されます。
どうぞふるってご参加ください。


開催地:中京大学名古屋キャンパス(最寄駅:地下鉄名城線・鶴舞線八事)
開催日時:2010年11月20日(土)− 21日(日)

プログラム:
11月20日(土)
 10 : 00 開場 映画上映会(主催:関西クィア映画祭実行委員会)
 12 : 00 大会受付開始
 13 : 00 − 16 : 00 シンポジウム 「社会制度から/への介入 — 過去、現在
、未来—」(詳細は★★を参照)
 16 : 15 − 17 : 45 総会(会員のみ)
 18 : 00 − 20 : 00 懇親会(学内・ぺぺヌーヴォ)

11月21日(日)
 10 : 00 − 12 : 20 分科会(第1,2,3自由報告部会、第1パネル部会)
 13 : 20 − 16 : 15 分科会(第4,5自由報告部会、第2パネル部会、ワー
クショップ)


大会参加費:会員1,000 円 非会員2,000 円
懇親会参加費:4,500 円 (常勤職を持たない学生の方は2,500 円)

●大会プログラム(自由報告・パネル報告の要旨、会場アクセス情報等を含む)
は、 以下のサイトからダウンロードできますので、ぜひご覧下さい。
http://queerjp.org/conf.html

------------------------------------------------------------

★★シンポジウム:11月20日(土)13:00〜16:00★★

テーマ 「社会制度から/への介入 — 過去、現在、未来—」

 ●シンポジスト :
 鶴田幸恵さん (奈良女子大学大学院人間文化研究科)
 原美奈子 "ミナ汰" さん ("共生社会をつくる"セクシュアル・マイノリティ
支援全国ネットワーク代表)
 堀江有里さん (立命館大学ほか非常勤講師)

 司会:谷口洋幸(中央大学ほか非常勤講師)

 ●シンポジウム趣旨:

 性的マイノリティを含む人間の生活は社会制度とのせめぎ合いの中にあるとい
えるでしょう。医療や社会保障、法律、教育、福祉など、家父長制や性別二元論
/異性愛主義のもとで確立してきたさまざまな社会制度は、ときに性的マイノリ
ティの人間性を根源から否定し、ときに生活の質の向上に資する方策として立ち
現れています。

 家族/戸籍制度、労働環境の諸問題、国籍制度などは、女性や他のマイノリテ
ィだけでなく、性的マイノリティにとっても抑圧的な側面をもつものです。こう
した中で、同性愛の精神疾病分類からの除外、性同一性障害や性分化疾患に対す
る医療の介在、エイズ予防法や人権擁護法案などの審議、性同一性障害者特例法
の制定とその影響の検討、性教育の是非をめぐる攻防、同性カップルへの法的保
障にかんする議論など、性的マイノリティの生きやすさへの挑戦も行われていま
す。

 社会制度とのかかわり方は、それぞれの立場や考え方によりさまざまでありえ
ます。たとえば社会制度によって一方的に不利益や不都合を おしつけられること
もあれば、社会制度に対する変革を要求することもあり、さらには、不利益や不
都合を回避して生き抜く方法が模索されたり、社会制度に内在する抑圧性や権力
性自体を問い直そうとする試みがなされることもあるでしょう。

 本シンポジウムでは、3人の登壇者を迎え、性的マイノリティの生活と社会制
度とのかかわりについて、具体的な実例や理論的な考察をご報告いただき、今後
のありうる方向性を検討していきます。
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by anti-phallus | 2010-11-10 16:53 | イベントの案内 | Comments(0)

立ち上がる

 最近考えていたことの続き。
 色んな意味で、立ち上がることのつらい時代だけど、立ち上がらずにぐずぐずしているほうがしんどいんじゃないかなと思えてきた。
 自分は隠せないし、隠していたら面白くない。ぐずぐずしている空気の中で気を使ってしんどくなるより、気楽に自由にNOといって、仲間を募った方がいいのではないか。
 最近、ぐずぐずしている空気に気を使いすぎていたかもしれない。
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by anti-phallus | 2010-11-09 22:03 | つれづれ | Comments(0)

ジェンダー研究をすること

 以前あるところで、自分はできるだけジェンダー色が薄いふりをしてきた、という言葉を聞いた。そのひとは社会学関係の研究者だった。
 薄いように見せかけなければいけないくらいにはそのひとの研究はジェンダー視点をそなえたものだったようだ。
 そのひとのなかでは、ジェンダー研究者は損をする、色眼鏡で見られる、就職先が見つからないなどのイメージがあるのだろう。似たような発言は時々聞くし、そういう印象を持っている人も多いかもしれない。
 思い返せばわたしも院に入る前に、井上俊氏に「ジェンダー研究者は不利なんですか」と聞いたことがあった(笑)。今思えばずいぶんとストレート。
 そんなバカな私の質問に井上氏は「研究方法や分野でそのような差別をされることはない」というような感じで答えたと思う。それに対して私は、まあ実際のところは分からないけど、社会学という世界はいちおうはそういう良識的な建前はあるのだなと思った。

 しかし自分の中にジェンダー視点がある人がそれを隠しながら研究活動をするというのはどんな状態なんだろうか。研究活動というのは自分の視点や認識を明るみに出しながら検証していくものだから、自分の頭の中の一部を隠しながら行っていては、検証作業が中途半端にならざるを得ないのではないだろうか。それは、結局のところ自分の研究の質を下げることになってしまうのではないか。

 と、こういうようなことを知人にしゃべっていたら「あなたは特別だから」と言われた。特別というのはこの場合、周りを気にしないとか迎合しないとかの意味だろう。わたしのなかでは、自分の視点を隠して研究をするということに対して批判的意識があるから、「あなたは特別」と言われてしまうと、批判を無効化されるように感じた。

 その知人の発言について考えていたのだけど、こういう反応も仕方ないのかもしれない。「特別だから」という発言にはどこか切り捨てられるような感じがあるけど、もしかしたらそのひとは何かを防衛するために言ったのかもしれない。でもそれはそのひとの問題であり、わたしの問題ではない、はず。

 すべてのひとに同意してもらうのは無理だから、だからこそ自分は自分の言葉を発さなければならないのだろう。それが嫌なら、言葉で何かを伝える仕事をしてもあまり意味がない。そういう覚悟が自然に持てるようになりたい。
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by anti-phallus | 2010-11-08 23:57 | フェミニズム | Comments(0)

平等

 学生と話してて、自分の出身大学を答えるとすげえーと言われてひかれます。私から見るとそんな学生たちの方がしっかりしてるし優しいし人間的にはすごいと思うのにそんなヒエラルキーが社会にはあって、もうどう考えたらいいか分かんないなあと悲しくなる。そんな学生たちだって、たぶんある場面では「すげー」と言われる立場にある。
 この学歴問題というのは改善されたように見えてそれなりに日本社会の根幹的問題を作っていると思う。
 受験勉強で高得点を取れるかどうかということで人間性がはかれるという幻想はあまりに馬鹿らしい。けど存在している。
 70年代には、大学受験システムが資本主義社会における労働者供給制度として批判される可能性もあったけど今は、そんなの時代錯誤ですね。
 成績の良さが社会的成功の必要条件だと気づいてそのように努力した自分も今から考えたらバカだけど、今なお社会的成功に乗っかってあぐらをかいているひとたちにも付き合いきれない。
 みんな基本的には、人間の平等という原則の周りをくるくる回っていて、そのわりには身近な関係性で上下関係を無意識に作っている。
 
 生きているうちに、本当の平等な日本社会というのを経験してみたい。
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by anti-phallus | 2010-11-05 00:38 | つれづれ | Comments(0)

すべて

 わたしもそれなりに今まで色々考えてきましたが、日本社会の問題というのは、結局、みんなの
遠慮深さだという結論にたどり着きました 笑。
 日本人というのは、あまりに「上の人」に従順すぎる。
 ちょっとでも上の人にたてつくと「人非人」みたいに扱われる。
 わたしみたいに留学経験もない者が言っても仕方ないんだけど。
 しかし、社会学的分析が必要なこの文脈を差し置いていえば、みなさんもっとはちゃめちゃちゃでも自分の事情を言った方がいい、言うことが社会的意義があるということです。
 社会的意義というのは結局、後づけて作られていくものですから。
 
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by anti-phallus | 2010-11-05 00:07 | つれづれ | Comments(0)