今日は下記の企画のミーティングがあった。
原発サヨナRiot GRRRL!! ブログは現状、ほとんど何も書かれていないのに等しいのだけど、とりあえず、フェミの精神と意欲だけは買ってほしい。。。
原発震災に関して様々に動きがある中で、「母親だからこそ、原発に反対なんです!」という言い方が盛り上がっています。
私は、それを聞くたびにビミョーな気持ちになります。
確かに、父親とか、あるいは子どもを生んだことのない人間、育てたことのない人間とかにはもてない、母親ならではの「子どもを守りたい」気持ちはあるのかもしれない。それは、子どもを産んだり、育てたことのないわたしには分からないのかもしれません。そう言われてしまったらもう何も言えません。
だけど、それでいいのでしょうか?母親が、子どもの健康や安全に対して一番の発言権があるのでしょうか?
今日のミーティングでは、あるひとが、「成熟した母性ならいい、だけど、未熟な母性は、自分の子どものためには他の子どもたちを蹴飛ばす」と言っていました。
わたしは、「成熟した母性」や「未熟な母性」という考え方はしません。ですが、確かに、「母親」という立場を想定するときに、自分の子どものために他の存在を考えられなくなる、というありようは想像できます。
そもそも、母親が本当に子どもの立場を代弁できるものなのでしょうか?むしろ、母親とは、子どもに対して「社会のルール」や「大人の都合」を教え込む立場なのではないでしょうか?
もう、母親が子どもの代弁をできるという幻想から脱しませんか。
子どもは、いや、ひとは誰かに代弁されるべき存在ではありません。しかし、確かに多くの子どもたちは放射能についての知識を得る技術をまだもっていません。
わたしたちが、子どもたちを、わたしたちの社会の対等な構成員として考えようとするとき、技術的な制約から子どもたちの代弁をせざるを得ないなら、そのとき代弁者は、痛みを持ってそうするべきです。決して、「母親として」など、誇らしげに、代弁をすべきではありません。
母親くらいしか、子どものことを思いやれない、そんな社会がおかしいのです。
誰もが、子どもだったことはある。子どもだったことのないひとはいません。それが、性差別やレイシズムや障害者差別とは違うところです。ですが、ほとんどのひとは、子どもだった頃に、自分がいかに不自由だったか、抑圧されていたかを忘れてしまう。まるで、抑圧されていた子ども時代のことを忘れるために、力を持とうとしてしまう。
母親が、平然と、子どもを代弁できるかのように振るまうことは、子どもに対する抑圧を肯定することにもなりかねません。
本来は、母親のみならず、すべての大人が、子どもの立場にたって発言すべきなのです、痛みを持って。
だって、東電の、政府の、官僚の、原発を推進してきたひとびとは多くが家庭を持っていて、そのなかには多くの母親がいたんですよ。なぜ、その母親たちは、原発を止めなかったのでしょうか。「世界中の母親が子どものことをいちばん考えている」なら、なぜそれらの母親たちは、原発と闘わなかったのでしょうか?
今の社会では、「母親」という立場は社会の権力構造を再生産する役割になりがちなのです。すべての母がそうなのではありません。抵抗している方々ももちろんいる。だけど、ひとしなみに「母親」と言っただけでは、権力構造に回収されてしまう。
原発を生み出す社会に抵抗し、変えていくためには、子どもにリスクを押し付け、その代弁を母親のみに押し付ける、この社会にも抵抗しなくてはいけないとわたしは思います。母親が、その立場から解放され、本当に子どもが生きやすく、抑圧が最低限で済み、母親と子どもの関係がもっと自由で、平等に近い社会であるように、わたしはそんな社会を望んでいきたいと思う。