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おきく's第3波フェミニズム

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  • 雑誌
    [ 2012-05-12 13:29 ]
  • 幸せ
    [ 2012-02-13 02:11 ]
  • 幸せ
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  • 原発の授業 賛成派へのツボ
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  • 渋谷・原発やめろデモで不当逮捕
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  • 母の日か riot grrrl か
    [ 2011-05-02 00:42 ]
  • 腰には放射線計
    [ 2011-04-27 21:47 ]

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2012年 05月 12日

 ひさびさに図書館で雑誌チェックをしたけど、面白いものがなくてびっくり。
 この雑誌はこういう路線だからこういうテーマで、この執筆陣ね、という予想の範疇を超えるものがなく、読んでみてもわくわく感がない。なんなんだろうこれは。どれも、従来の路線の縮小再生産になってしまっているような・・・
 10年前には雑誌コーナーに行けば必ず、読みたいと思える文章があって、夢中になって読んだものだけどなあ。最近は、自分が読みたいと思うものが見つからない。
 自分自身の変化もあるけど、やっぱりこの10年で、言説空間が紙媒体からネットへと完全に移ってしまったんだろうなあ。Facebookやツイッターやブログ等なら、読みたいと思う文章、面白いと思える文章が見つかる。その移行に、自分自身も自然と参入しているけど、改めて考えてみないと、これは。
 言論空間が完全に質的に変化したということだから、ちょっと距離を置いて、考え直さなくては。はあ〜この10年間くらい、ずっと冬眠していた気がします。いや、引きこもりか。



by anti-phallus | 2012-05-12 13:29 | つれづれ | Trackback | Comments(0)

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2012年 02月 13日

 どうでもいいことだけど、最近、幸せだなーと思った途端に、「これは幸せなんだ」と自分に強迫的に言い聞かせている自分を発見しておののく、ことがある。

 余り自分の中で、「幸せ」という単語は存在しなかったんだけど、ある友人に、「あんたには幸せになってほしい」と言われたことがあって、それ以来意識してしまっている単語。
 幸せって何なんだろうと考えだしたら恐らく果てのない言葉で、それを考えることを断念するところに初めて社会が成立するようなところがあると思うけど、あらためて、幸せってどういうものなんだろうか。

 幸せっていう状態が、今の日本ではひとつのライフスタイルに体現されていると思われていて、それは正社員で結婚していて子どもがいること。もちろんその子どもは障害がなくって、かわいくって、成績もむっちゃ悪くはないんでしょう、きっと。
 そしてみなが、その狭き門を争って、互いに競争している。・・・のではないだろうか。

 しかし、幸せになるために、競争して勝たなければならない社会というのはおかしいのです。
 幸せとは、競争の結果得られるものではなく、自分の中にあるものです。それを発見するのは自分以外にはいません。でも、それを体感するのはとても難しいことです。生きていること、実はそれ自体が幸せであるための必要条件なんですが、それを感じることを妨げる要素があまりにこの社会では多すぎます。人に、それを感じてはいけないと思わせる装置がたくさん存在しています。
 
 ほんとは、幸せとか不幸とかそういう物差しをもって自分やひとを測ることそれ自体が不毛なんだと思います。その物差しがひとを分断する効果を持っていると思います。
 ある種のひとびとは、幸せを求める人々の心が社会を発展させるというと思います。でも、わたしは、社会の発展よりも、今、ひとりひとりが、そこにある幸せを発見することの方が優先されるべきだと思います。それは、長い目で見れば、ひとびとのつながりを回復する道だと思います。

 というのがわたしの公式見解だけど、なかなかその境地に達せられないのも事実。人間、理想社会には生きていないからね。。






by anti-phallus | 2012-02-13 02:11 | つれづれ | Trackback | Comments(0)

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2011年 10月 31日

 結婚=幸せだったり、研究=幸せだったり、ひとによって幸せが何によって得られると考えるかは別だけど、そういう、ひとが幸せを求める力に興味がわく。
 わたしは、幸せ自体の存在に懐疑的になってしまうので、ひとびとの幸せを求める心に感嘆するところがある。

 結婚=幸せだと思ってネットで出会い系サイトに登録して、異性に会ってお付き合いを始める。けっこう大変なことだと思うけど、多くの人がそういう努力をしているらしい。

 幸せを求める力は巨大だからささいな危険信号には目をつぶってしまったりする。それがたまりにたまってDV被害に遭ってしまうこともあるだろう。幸せを求める力によって、暴力にあってしまうこともある。

 研究に夢中になって、はっと気づいたらプレカリアートだったり。研究で世の中を変えられると信じて、はっと気づいたら単なる白い巨塔の王様になっていただけだったり。

 ひとびとの幸せを求める心の裏にあるのは、孤独なのか?向上心なのか?うつになっているときは幸せを求めるなんて考えられないだろうし。それとも単なる利己心?
 けっこう面白いテーマである。「ずっと独身…ひとりより二人」という結婚相談所の広告バナーを見させられながら。

by anti-phallus | 2011-10-31 00:04 | つれづれ | Trackback | Comments(0)

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2011年 08月 11日

原発震災でできた熱い石のようなものが心の中にあって、ときおりうずく。
逃避してもなくならない。
この火はずっと抱えていくしかないのだろうと思う。

by anti-phallus | 2011-08-11 11:46 | つれづれ | Trackback | Comments(0)

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2011年 06月 12日

 3/11から3ヶ月。ほんとに濃い3ヶ月だった。どんどん社会が揺れているのを感じる。
 この社会に嫌気がさし絶望的になると同時に、ひとびとの変革へのエネルギーを感じ希望を見いだす瞬間が交互に到来する。
 今後どうなっていくのだろう。読めない。
 実家の母によると、福島市内に住む母のきょうだいは「もう年だから諦めて死ぬしかない」と言っているという。確かに、避難したくても高齢だと病気をもっていて動けないし、新しい生活を始めることも難しいだろう。応答する言葉をもたない。
 そんなことを感じ、その一方で昨日の全国の行動をネットで見ると、少し気持ちが楽になる。

 原発さよなRiotGRRRL!!!は、予想以上の参加者だった。栄の久屋広場での集会はまったりと、かつ熱くライブが行われ、アンビエント中心のサウンドデモもRelaxして歩けた。動画もあります。

 原発さよなRiotGRRRL!!!

 東京の行動もすごい。下記の動画の後も夜遅くまで多くの人々が集まってた模様。

 ユニオンチューブ作成の動画

 日本の社会が大きく動いている。今までの閉塞感がこわれて、新しい空気が生まれているのだろうか。払った犠牲は大きいが、せめて、変化のただ中にいられることを喜ぼう。






























by anti-phallus | 2011-06-12 23:57 | つれづれ | Trackback | Comments(0)

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2011年 05月 27日

 某書を書評するためにセジウイックを読み直していた。そうしたら、本当に夢中になって読むことができた。こういう時間は、思えばひさしぶりだった。
 読書に我を忘れたり、論文を書いてすっきりしたり、こういう時間は、人生の中でわたしにとっていちばん幸せな瞬間じゃないかと思う。そういえば、被災地の子どもに本を送ろうというプロジェクトがあった。ひとは、どんな辛い状況であっても、こういう瞬間があれば救われるんじゃないかと思う。多分こういったら否定されると思うけど、でも、辛い状況であればあるほど、そこから遠ざかれる時間は貴重になるし、逃げ道がなければやっていけない。そして、逃げ道というのは、逃げているように見えて実はそうでもないのではないだろうか。
 現実に立ち向かうのはしんどいし、立ち向かったといってうまくいくかどうかは分からない。
 今、日本は行き詰まっている。しばらく前からそうだったけど、震災でそれが白日の下にさらされてしまった。日本で生きている人々は、相当疲れていると思う。なのに、「がんばれ日本」とかいわれてしまい、もういいよ、という気分なんじゃないかな。みんな真面目だからそうも言えないだろうけど。
 今後、どうなるのか分からない。でも、好きな本を読んで夢中になれる時間、文章を書いて解放される瞬間、それだけは大事にできる生き方をしたいと思う。



by anti-phallus | 2011-05-27 00:27 | つれづれ | Trackback | Comments(3)

semスキン用のアイコン01原発の授業 賛成派へのツボsemスキン用のアイコン02

  

2011年 05月 26日

 急遽、講義で原発震災を取り上げ進めてきたが、今日で講義の部分は終え、来週のグループディスカッションで完了となる予定。全然専門じゃないのにあせって勉強して資料を集めてやってきた。
 今日は「原発と差別」ということで2つの動画を上映。

 「隠された被曝労働」イギリスのチャンネル4制作で1995年。樋口健二さんが出てくる。
 今月23日放映の関西テレビのニュースの一部。

 どちらも、原発で働く労働者にスポットを当てたもので、衝撃的な内容。
 学生の感想を読むと、なかに、「わたしは今まで原発賛成でしたが今日の映像を見て反対に変わりました。心がざわついています」というものがあった。
 他人の考えを変えてしまうのはちょっと怖いのだが、これは嬉しい。
 原発について賛成するひとびとのなかには、問題をきちんと理解しないままに賛成している人が多いと思う。
 そのような層に対して、原発の最も危険な部分は日雇い労働者などの下層労働者が働いているという事実、その労働が非常に危険なものだということを伝えるとかなり影響が大きいと思う。脱原発派へのアドバイス、です。








by anti-phallus | 2011-05-26 15:12 | つれづれ | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01渋谷・原発やめろデモで不当逮捕semスキン用のアイコン02

  

2011年 05月 09日

 昨日は名古屋の脱原発・STOP浜岡パレードに行きました。参加者も多かったけど、警察も多くて、異常な管理。デモの列にぴたりとくっついて、全体を5つに分断。ひとつの隊列の中からは前後の列も見えないくらい距離を置かされて、「早く歩け」とか「もっとくっついて」とかしきりにスピーカーで叫ばれる。交差点では走らされる。警察が指揮を執っているようだった。
 あれでは意気があがらない。中電ビル前にも行ったが、抗議行動をする間もなく歩かされた。

 5月7日の渋谷では、逮捕者も出た模様。ユニオンチューブからデモの様子が分かる。

 警察がサウンドカーとひとびとを遠ざけ、それに抗議する人々の波の中で「公妨!」という声が上がったとたん、警察の群れががーっと参加者を持ち上げて連れて行ってしまう。計算ずくに見える。
 そのシーンは悔しく、切ないですが、後半のあたりはいいです。

 市民の行動を弾圧し、逮捕するのが「公務」とは、公共性も地に落ちたものだ。今の日本の「公共性」が、市民からどれだけ簒奪されているか、よく分かる。








by anti-phallus | 2011-05-09 17:24 | つれづれ | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01母の日か riot grrrl かsemスキン用のアイコン02

  

2011年 05月 02日

 今日は下記の企画のミーティングがあった。

原発サヨナRiot GRRRL!!

 ブログは現状、ほとんど何も書かれていないのに等しいのだけど、とりあえず、フェミの精神と意欲だけは買ってほしい。。。

 原発震災に関して様々に動きがある中で、「母親だからこそ、原発に反対なんです!」という言い方が盛り上がっています。
 私は、それを聞くたびにビミョーな気持ちになります。

 確かに、父親とか、あるいは子どもを生んだことのない人間、育てたことのない人間とかにはもてない、母親ならではの「子どもを守りたい」気持ちはあるのかもしれない。それは、子どもを産んだり、育てたことのないわたしには分からないのかもしれません。そう言われてしまったらもう何も言えません。

 だけど、それでいいのでしょうか?母親が、子どもの健康や安全に対して一番の発言権があるのでしょうか?

 今日のミーティングでは、あるひとが、「成熟した母性ならいい、だけど、未熟な母性は、自分の子どものためには他の子どもたちを蹴飛ばす」と言っていました。
 わたしは、「成熟した母性」や「未熟な母性」という考え方はしません。ですが、確かに、「母親」という立場を想定するときに、自分の子どものために他の存在を考えられなくなる、というありようは想像できます。

 そもそも、母親が本当に子どもの立場を代弁できるものなのでしょうか?むしろ、母親とは、子どもに対して「社会のルール」や「大人の都合」を教え込む立場なのではないでしょうか?

 もう、母親が子どもの代弁をできるという幻想から脱しませんか。

 子どもは、いや、ひとは誰かに代弁されるべき存在ではありません。しかし、確かに多くの子どもたちは放射能についての知識を得る技術をまだもっていません。
 わたしたちが、子どもたちを、わたしたちの社会の対等な構成員として考えようとするとき、技術的な制約から子どもたちの代弁をせざるを得ないなら、そのとき代弁者は、痛みを持ってそうするべきです。決して、「母親として」など、誇らしげに、代弁をすべきではありません。
 母親くらいしか、子どものことを思いやれない、そんな社会がおかしいのです。
 誰もが、子どもだったことはある。子どもだったことのないひとはいません。それが、性差別やレイシズムや障害者差別とは違うところです。ですが、ほとんどのひとは、子どもだった頃に、自分がいかに不自由だったか、抑圧されていたかを忘れてしまう。まるで、抑圧されていた子ども時代のことを忘れるために、力を持とうとしてしまう。

 母親が、平然と、子どもを代弁できるかのように振るまうことは、子どもに対する抑圧を肯定することにもなりかねません。
 本来は、母親のみならず、すべての大人が、子どもの立場にたって発言すべきなのです、痛みを持って。
 
 だって、東電の、政府の、官僚の、原発を推進してきたひとびとは多くが家庭を持っていて、そのなかには多くの母親がいたんですよ。なぜ、その母親たちは、原発を止めなかったのでしょうか。「世界中の母親が子どものことをいちばん考えている」なら、なぜそれらの母親たちは、原発と闘わなかったのでしょうか?

 今の社会では、「母親」という立場は社会の権力構造を再生産する役割になりがちなのです。すべての母がそうなのではありません。抵抗している方々ももちろんいる。だけど、ひとしなみに「母親」と言っただけでは、権力構造に回収されてしまう。

 原発を生み出す社会に抵抗し、変えていくためには、子どもにリスクを押し付け、その代弁を母親のみに押し付ける、この社会にも抵抗しなくてはいけないとわたしは思います。母親が、その立場から解放され、本当に子どもが生きやすく、抑圧が最低限で済み、母親と子どもの関係がもっと自由で、平等に近い社会であるように、わたしはそんな社会を望んでいきたいと思う。













by anti-phallus | 2011-05-02 00:42 | つれづれ | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01腰には放射線計semスキン用のアイコン02

  

2011年 04月 27日

 ニュースを見るたびに茫然とする。茫然としているだけでは辛くなるので書くことにする。
 福島の小学校では、教師の腰には放射線計が下げられ、登校時間から下校時間まで計測を続けることになったという。教師は「これで保護者の不安が解消するなら有効だと思う」。体育の時間も外でなく、体育館で授業を行うそう。
 子どもたちが校庭で遊べない。常に放射線の上がり下がりを気にしながら教師は授業を行う。こんな状態で、なぜ学校を動かさなければならないのだろうか。
 ウルリッヒ・ベックは、「許容値」というマジックワードによって許容値までのリスクは無害視され、また許容値の設定されないリスクも無害化されると指摘する。
 ベックの書は、チェルノブイリを受けて書かれたものだが、まさに今の日本社会を預言しているようだ。
 計測して、国のいう許容値以下であれば安全だといえるのか?放射能には「いき値」はない。例え微量であってもそれは安全とはいえない。許容値以下であろうとリスクはリスクであって、それは決して安全ではない。なぜ、そんなところに子どもたちをおいておくのだろうか?
 国や自治体がすぐに子どもたちを「疎開」させることは財政的に無理であっても、せめて学校を休校してくれれば、保護者は危機感を持って自分たちのおかれている状況を考え直せるだろうし、避難・疎開できる者はするだろう。せめてそれくらいの決定権は与えてくれてもいいのではないだろうか。
 (ソ連はチェルノブイリ事故のさい、1ミリシーベルト以上の地域には移住権を与え、5ミリシーベルト以上では強制移住させたという。それをこの日本では、移住させるどころか基準を緩め、20ミリシーベルトまで許容させようとしている。)
 こんな事態なのに普通に学校を運営することで一体誰が得をするというのだろうか?わたしは、東北や北関東一円で学校は休み、事態が落ち着くまでは避難する者は避難し、残る者は対応について協議を続けるべきだと思う。そこまで広くできなくとも、せめて福島や宮城くらいは休校にすべきだ。
 ところが休校どころか、普通に学校が営まれる、腰に放射線計を下げながら。
 しかも放射線計による計測は、「保護者を安心させるため」だという。決して、子どもの安全を守るためではないのである。ここでも、事故直後から政府とテレビが流してきた「安全」神話がのぞいている。政府や学校などの権威が「安全」だといえばそれは本当に「安全」なのである。現実には空気中に放射性物質が浮遊していたとしても。基準、許容値以下の数値であれば「安全」なのだ。そしてそれらのメッセージによって保護者が「安心」すればそれで解決。「安全」世界のできあがり、空気は汚染されながら。
 一体、学校は何のため、誰のためにあるのか。子どものためにあるのではないことが自明になった。学校は、おとなのため、汚染を「無害化」したいおとなのためにあるのである。何年後かに福島の若者のうち、高い確率で甲状腺ガンが発病したとしても、そんなことより、今普通に、通常の学校を動かすことが大事なのである。
 まさにこれが日本である。どんなことがあろうとも、いつも平静、普通に毎日を送る。お父さんは会社に行き、お母さんは家事、子どもは学校に行く。あわててはいけない、パニックになってはいけない。異常事態はどこにも発生していない。日本はいつも平和。国民は皆幸せ。文句を言う国民は誰もいない。被災地には天皇ご夫妻があの無表情な笑顔で哀れみにくる。
 原発が爆発し、空気も海も植物も動物も汚染されても、この平和な日本は変わらないのである。
 ああ頭がおかしくなりそう。









by anti-phallus | 2011-04-27 21:47 | つれづれ | Trackback | Comments(0)