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カテゴリ:フェミニズム( 22 )

ろくでなし子さんとフェミニズム

 遅ればせなのですが、ろくでなし子さんの活動への応援的なことを書きたいと思います。わたしが彼女の存在を知ったのは警察に逮捕される前後あたりでした。「ま◎こ」をかたどったアート作品を作っているということで、「え?日本にも今でもそんなことしてるひとがいるんだ〜」的な驚きを感じました。
 わたし自身は、アメリカのフェミニストアートのなかでそういう手法があるのは知っていましたし、日本のリブ運動の中でも「女性の健康」などをテーマにしたグループで同じような女性器への取り組みをされてるのに参加したこともありました。ですが今、しかも同世代で真正面から「ま◎こアート」に挑戦しているひとがいるとは!と感動。
 そして、彼女が逮捕されるなんて、フェミニズムへの弾圧!と考えました。
 ですが、あいかわらずの忙しさでほとんど何も支援できず。(余談ですがこの忙しさは本当に腹立たしい。やりたいことがなかなかできず、政治状況は悪化する一方で鬱々するばかり)そのうち無事?釈放され、活動再開されていて本当に良かったです。

 というところで、また問題は、ろくでなし子さんには色んなかたが応援しているようですが、わたしが思うのはフェミニズムからの応援がもっと必要だ!ということです。というのは、ろくでなし子さんの活動は、フェミニズムそのものだと思うからです。

 日本でま◎こはおとしめられています。本来は女性器は女性にとって大事な身体の要素のひとつであり、セクシュアリティを司るものですし、毎日の身体作用の要でもる子宮や卵巣などとつながってもいる。手や足が大事な身体の要素であるように、性器もひとりひとりが快く生きていくために大事にされるべきものです。
 ですが、まず名前を呼べない。マスメディア上では無論、ネット上でもそうだという指摘も見かけました。「ま◎こ」と書くとブログ停止になるとか?どうなんでしょう。。
 この状態は、女性の身体が他者に奪われているに近い状況を象徴しています。名前を呼べなかったら、ともだちとそれについて楽しく会話することもできないし、それについて正しい情報や知識を得ることもできない。PMSという月経困難症で悩む女性は多いですし、女性器に関する不調や病気にかかることも女性にとってそれほど珍しいことではない。婦人科にかかることでさえ恥ずかしいような空気はある。また、セックスについて話すこともしにくくなる。「ま◎こ」と公的な場面で言う女はさげすまれるから。
 何せそのことをろくでなし子さんの逮捕は余すところなく証明してくれました。

しかも!そういうふうに表の世界で口に出しにくい一方で、ポルノの世界、つまりアダルトビデオや官能小説(いまどきこういうジャンルがどれだけあるのかは知らないが)、アダルト動画、男性週刊誌等々では女性器をにおわせる表現があふれています。コンビニや街角の本屋に行けば、女性は目を背けざるを得ないアダルトコーナーがあちこちにあるのが日本の現状。
 これは何を意味しているか。あまりに日常化していて、誰も反対していないように見えるのでもうあえて考えられもしませんが、実はこれはいわゆる、「女性の身体が男性に支配されている」ということにほかなりません。ここでいう「男性」は個々の男性ひとりひとりではありません。男性中心社会と言えばいいでしょうか。
 女性の身体を特別視して、女性アナウンサーやアイドル,モデル等々のヌードを掲載して儲けている出版社・ビデオ会社、それを買って喜ぶ読者。男性中心的な性意識が資本と結びついて、女性の身体を支配しているのが今の現実です。
 女性の身体は何か「いやらしい」もの、オープンにしてはいけないもののように感じさせられてしまっているのです。
 
 女性の身体は「わいせつ」ではない、それがろくでなし子さんの活動から受け取るメッセージ。その活動、ま◎この表現で大事なポイントは、それが「セックス」とは別の文脈で表現されている点です。女性器は、落書きなどに現れているように、「性交」を意味するように使われることが多いです。性器はもちろん性交にも使われますが、女性の日常生活の中ではそれに止まるものではない。例えば生理や排泄など日々の健康に関わる機能で大活躍しています。もちろん妊娠・出産においても大事な部分。それを、セックス、しかも男性視線的なセックス観でばかり意味付けされている現社会での女性器観に、ろくでなし子さんの活動は挑戦している。これがフェミニズムでなくて何がフェミニズムといえるでしょうか。

 ろくでなし子さんへのフェミニズムからの支持が少ない一因に、「表現の自由」問題があるようです。表現の自由を支持する立場と、差別表現を規制することを重視する立場の対立ですね。わたしは、原則的には表現の自由は守られるべきと考えていますが、現状のポルノ産業のあまりの野放しぶりを看過するのもどうかな〜と迷っています。両者の中間あたりの立場はないものかと思っていますが、ともあれ女性からの性的な表現がもっともっと伸びてくるのが理想。女性が性的な表現をしにくい今の社会。どんどん色んな考えの女性が登場することで、自由派と規制派が対立して硬直してしまっている構図も変えられていくのではないでしょうか。


 最後に、ろくでなし子さんの活動は、「これからフェミニズムってどうなってしまうんだろう〜」とウツウツしているわたしに元気をくれました。フェミニズムはお勉強じゃない、ということを体現している意味でも大事だと思います。

※ある人からのアドバイスにより、検閲でブログ閉鎖されるのを避けるため、残念ながら伏せ字にしました。ああバカらしい。






 
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by anti-phallus | 2015-07-17 14:41 | フェミニズム | Comments(2)

フェミニズムへの批判

 フレイザーの議論に関連してまず一言書きたいと思います。わたしはこの主張が、現在のジェンダー・セクシュアリティを考える上で非常に重要な内容だと考えており、いくつかのところで紹介してきました。そのなかで思ったことについてです。
 このフレイザーの主張に対して、「フェミニズムを批判するもの」と捉え、否定的に対応された経験が少しありました。それは、ジェンダー・セクシュアリティに関連する研究者からです。
 近年、日本のフェミニズム研究が以前と比べて新しい議論が少なくなってきているのは、この反応に代表されるフェミニズム研究界の問題があると思います。
 まあもちろんこのフレイザーの論考を読んで下さる方の多くは研究界には直接縁のない方も多いでしょうから、こんなことを書くのは野暮なのですが、実は研究界に止まらない重要な問題点を含んでいると思うので書いておきます。

 それは、フェミニズムがひとつの「正義」や「権威」になってしまっているのではないかということです。フレイザーの議論は、フェミニズムがネオリベラリズムと共犯関係になってしまったのではないかという批判であり、それ自体はフェミニズムに対して非常に厳しく反省を迫るものです。しかしお読みいただければ分かるように、フレイザーは自身もその一翼を担ったものとして、自己反省的にあえて振り返っているのです。そしてその反省は、自己反省に止まらず、フェミニズムを歪めて内在化させた現在のネオリベラリズムの本質のありかにもつながるものであり、そういう意味では普遍的な側面をももつからこそ、このフレイザーの議論は多くの人の興味を呼ぶのです。

 では、どうしてこのようなフェミニズム批判がある人々にとっては受け入れがたいのかと考えると、フェミニズムという概念が、既にある、「正しい言説」であったり、「それを身につけている正しいフェミニスト」のものであるという了解が広がっているからではないでしょうか。そのような「正しい思想」「正しいひと」を批判するのは、「それ以外の間違ったもの」「敵」に利するものだからよくない、という認識図式があるように感じます。
 それは、研究界だけではなく、一般にも、勉強していないとフェミニストではないとか、フェミニストは学歴もキャリアも高い人、というイメージは広くあるのではないでしょうか。

 ですが、何人かのフェミニストが論じてきたように、フェミニズムとは「既にあるもの」というよりは、「いまだ言葉になっていないが、確かにどこかにあるような、多くの女性たち、あるいはそれ以外のものたちにも分け持たれている、性差別への怒り」だとわたしは考えています。ですが、世の中は性差別に根づいていますので、そのようなフェミニズムを自覚している人は少ないです。だから、もっとフェミニズムを多くの人に伝えていくことが大事なのです。
 そのために例えば研究はあるのだと思います。そして、今あるフェミニズムが完全ということはありえないのですから、時代に応じて、社会に応じて、フェミニズムは常に刷新されなければいけないでしょう。

 ある意味では、批判され続け、刷新していくことがフェミニズムの命なのです。
 日本のフェミニズムは残念ながら、(自覚的な)担い手の層は高齢化し、力を失っています。そんななかでアベノミクスのようなネオリベラリズムが大展開していますから、とにかく大変残念な状況です。フレイザーの議論は、アメリカ社会を念頭に置いたものですが、日本の状況にもよく当てはまるのは驚くくらいです。
 フェミニズムにとって今は冬、激寒の時代ですが、だからこそ、このようなフェミニズム批判を踏まえて、立て直す時期なのではないでしょうか。
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by anti-phallus | 2015-01-07 12:08 | フェミニズム | Comments(0)

ナンシー・フレイザー「フェミニズムはどうして資本主義の侍女となってしまったのか」

 アメリカの社会主義フェミニスト、ナンシー・フレイザーの文章を訳したものを紹介します。
 これは「The Guardian」のサイトに寄稿されているものです。2013年10月に掲載されたようです。翻訳に間違いがあるかもしれません。ですが、非常に重要な議論をしています。多くのひとに読んでほしいと思うのでここに紹介します。
できるだけ原文にあたってもらうことをお勧めします。(→ココ

 ただこの主張自体は、以前からフレイザーが論じているもので、ここでは簡略化したものが寄稿されています。日本語に訳された論文もありますので、関心のある人は、CINIIで検索して読むといいと思います。
 なお、掲載にあたっては著者ご本人の承諾をいただきました。ありがとうございます。

※1/6 ご指摘をいただき、第4段落「with the benefit of hindsight」の訳を直しました。
※ほかにも読みやすいようにちょっとずつ直しています。
※1/10 最終段落中の「mantle」ですがコメントをいただいたので「底流」と直してみました。ただ、わたし自身はまだ迷いがあります。様々な問題や運動を覆う傘のようなイメージで「外套」という意味をこめたのかもしれないとも思うのですがどうなのでしょう。


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フェミニズムはどうして資本主義の侍女となってしまったのか−−そしてどのように再生できるか
資本主義の搾取への批判として開始された運動がその最新のネオリベラル局面にとって鍵となる発想を提供するようになってしまった

                            ナンシー・フレイザー

 わたしはフェミニストとして、女性解放のために闘うことで、より良い世界−−より平等で、公正で自由な−−を築いているといつも考えていた。だが最近、フェミニストたちによって開拓されたそのような理想がかなり違った結果をもたらしているのではないかと不安を感じ始めた。とくに、わたしたちの性差別批判が、いまや不平等と搾取の新しい形式のための正当化を供給しているのではないかと。

 運命の意外な展開により、女性解放のための運動は自由市場の社会を築くためのネオリベラルな努力との危険な結びつきに巻き込まれてしまったのではないかとわたしは恐れている。それは、かつてはラディカルな世界観の一部を構成したフェミニストの思考がますます個人主義的な用語によって表現されているさまを説明するだろう。かつてフェミニストがキャリア至上主義を促進する社会を批判したところで、それは今や女性に「がんばる」よう助言する。かつては社会的連帯を優先した運動が今や女性の起業を称揚する。かつては「ケア」や相互依存の価値を発見した世界観がいまや、個人の達成や能力主義を奨励する。

この変化の背後にあるのは、資本主義の性格の変貌だ。戦後の国家管理型資本主義は新しい形式の資本主義−−「組織されない」、グローバルな、ネオリベラリズム−−に道を譲った。第二波フェミニズムは前者への批判として現れたが、後者の侍女になってしまった。

結果論になるが、女性解放運動は同時に異なるふたつの可能な未来を指向していたということが分かる。第一のシナリオでは、ジェンダーの解放が参加型民主主義や社会的連帯と同時に実現する世界を予想した。第二のシナリオでは、新しい形式の自由主義、女性に男性同様の個人的自立のための資源や増大する選択肢、能力主義的達成を認めるようなものを約束した。この意味で第二波フェミニズムは両義的である。ふたつの異なる社会のビジョンのどちらにしても、ふたつの異なる歴史による彫琢に影響された。

フェミニズムの両義性は、近年、第二の個人的自由主義シナリオの観点に結実したように思われる。だがそれはわたしたちがネオリベラルな誘惑の受動的な犠牲者だったからではない。逆に、私たち自身が、みっつの重要な思考をこの展開に貢献したのである。

第1に寄与したのは、わたしたちの「家族賃金」批判だった。男性稼ぎ手と女性家庭責任者(の組み合わせ)という家族の理想は、国家管理型資本主義の中心にあった。この理想に対するフェミニストの批判は、今は「フレキシブル資本主義」の正当化に役立っている。結局、この形式の資本主義は女性の賃労働−−とりわけサービス産業と大規模生産産業における低賃金の仕事、若い単身女性によってのみではなく既婚女性や子どものいる女性によっても従事される、人種化された女性だけではなく、実質的にあらゆる国籍と民族の女性たちによる−−に依存している。女性が世界中の労働市場にあふれてくるにつれて、国家管理型資本主義の家族の理想はふたりの稼ぎ手という、より新しい近代的な規範−−フェミニズムに公認された−−に取って代わられている。

その新しい理想の下にある現実は、低下した賃金レベル、減少する雇用の保障、切り下げられた生活水準、世帯収入に必要な労働時間の急増、ダブルシフト(仕事のかけもち)の悪化−−ふたつどころかしばしば三つや四つのかけもち−−、貧困の悪化、女性が家計責任を持つ世帯での貧困の集中などであることを忘れてはいけない。ネオリベラリズムは女性のエンパワメントの語りを磨くことで、小石を宝石に見せてしまっている。フェミニストの家族賃金批判を搾取の正当化のために利用することで、女性の解放の夢を資本の蓄積のエンジンに結びつけているのだ。

フェミニズムはネオリベラルの精神に第二の貢献もなした。国家管理型資本主義の時期に、わたしたちはちょうど、階級の不平等にばかり傾注して、ドメスティック・バイオレンスや性的搾取、生殖/リプロダクションの抑圧などの「非経済的な」不公正が見えなくなっているような狭い政治的ビジョンを批判した。「経済主義」を批判して「個人的な事柄」を政治化することで、フェミニストはジェンダーの差異という文化的な構築を前提とする地位のヒエラルキーに挑戦できるように政治的課題を広げた。それは文化と経済の両方を横断する正義のための闘争を拡張する結果となるはずだった。だがじっさいには、「ジェンダー・アイデンティティ」のほうにばかり注目し、パンとバターにまつわる事柄を犠牲にする結果となった。より悪いことに、フェミニストは、何よりも社会的平等の記憶を全て抑圧したい、上昇するネオリベラリズムにあまりにぴったりと適合するアイデンティティ・ポリティクスと化してしまった。結果的に、わたしたちは、状況が政治経済の批判について再二重化された注目を必要としているまさにそのときに、文化的な性差別の批判を絶対化してしまった。

最後に、フェミニズムはネオリベラリズムに第3の思考を貢献した。福祉国家的パターナリズムに対する批判である。国家組織型資本主義の時期には明らかに進歩的だったが、その批判はその後、ネオリベラリズムによる「乳母的国家」に対する戦争と、より最近の皮肉なNGOの発想へ収斂した。その実例は、「マイクロクレジット」、グローバルな「南」における貧しい女性たちへの小さい銀行型融資のプログラムである。トップ・ダウンの官僚的な国家政策に対してエンパワーするボトムアップのオルタナティブと位置づけられ、マイクロクレジットは女性の貧困や従属へのフェミニストの処方箋として見なされている。しかしながら見逃されていることは、煩わしい同時発生物である。マイクロクレジットは、国家が貧困と闘うマクロ構造的努力、小規模な融資では代替できない努力を捨て去った時に急成長した。この場合でも、フェミニストの思考はネオリベラリズムに取って代わられた。市民をエンパワーするために国家権力を民主化することをもともと目指していた展望は、今や市場化と国家の削減を正当化するために利用されている。

これら全ての場合において、フェミニズムの両義性は(ネオ)リベラルな個人主義のために分解された。しかし他方で、連帯に向かうシナリオもまだ存在している。現在の危機は、その縫い目をもう一度拾い上げ、女性解放の夢を連帯社会のビジョンに再結合するチャンスを与えている。そのためには、フェミニストはネオリベラリズムとの危険な結合を断ち切り、私たち自身の目的のために三つの「貢献」を再主張する必要がある。

第一に、賃労働を脱中心化し、ケア労働やそれ以外のものを含む賃金化されない活動を尊重する生活様式に影響力をもたせることで、私たちの家族賃金批判とフレキシブルな資本主義の誤ったつながりを切断したい。第二に、男性中心的な文化的価値を前提とする地位秩序を変容させる闘いを、経済的公正のための闘いと統合することによって、私たちの経済主義批判からアイデンティティ・ポリティクスに至る道を崩壊させたい。最後に、公正のために資本を制御することを求められている公的権力を強化する手段として参加型民主主義という底流を再主張することによって、私たちの官僚制批判と自由市場原理主義の間のにせの絆を切断したい。
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by anti-phallus | 2015-01-05 17:07 | フェミニズム | Comments(2)

アベ・・・ポスト・フェミニズム

 最近、モヤモヤ感が高まっている。原因は、政治です。もちろん仕事が忙しいとか、暑くなったり寒くなったりの気候だとか、そういう日常的なものもあるんだけど、それだけじゃなく、か、それよりも政治がほんとに鬱陶しい。

 例えば、安倍政権の女性政策。女性活躍推進法案とやらで、女性管理職の登用数値を企業に義務づけるとかつけないとかで、話題になっている。少し前には女性閣僚数が史上最多とかで、政権支持率がアップしたとかもあった。
 これは、政界や経済界としては当然の動きで、日本はどんどん労働力が少なくなる訳ですから、働ける誰かを持ってこなくてはいけない、と彼らは考える。そこで、外国人労働者はどうかと考えたが、外国人労働者に自由や権利を与えるという道は基本的にあり得ないから、少数のエリート外国人には道を開くが、それだけではとても足りない。ということで、とうとう女性に大々的に目をつけた訳です。
 ただそれだけの話。あくまで雇用政策、安く、効率よく働かせようというだけのことで、これは女性差別の解消にも、平等にも関係ないんです。日本の女性は日本語もしゃべれるし、黙ってよく働くから、もっと使おうかと彼らが考えただけで。
 もちろん女性を働かせたいということで、雇用条件や雇用環境を本当に変えて、どんな女性でも働きやすい雇用システムに変えるならば歓迎なわけです。総合職・一般職のコース別雇用制度をなくし、正規と非正規の格差もなくし、派遣も原則禁止するなど。男性の長時間労働も禁止し、法定休暇も増やすなど。
 ところが現政策は、それどころか、残業代ゼロ法案など、逆をいっています。
 雇用システムの女性差別性はそのままに、一部のばりばり働ける、上に行きたい女性労働者だけ取り立てようということです。

 この動きで、わたしがブルーなのは、政策の中身そのものはもちろんのこと、それ以上に、ジェンダーに関してどんどん誤解が広がることです。
 というのは、早速この前もある若い人が、この政策を「女性であるだけで昇進できる時代になった」と批判していました。このひとはとくにいわゆる「バックラッシャー」とかネトウヨとかではなく、ごく普通の、社会問題にもほどほどの関心をもっているひとです。この人が特別なわけではなく、報道だけ見ていると、こういう誤解を抱いても仕方ないわけです。新聞やマスコミは、女性労働の問題などよく分かっていない記者・ジャーナリストがほとんどで、政策の表面だけ見て、そのまま報じるだけですから。記事の最後に、多少憂慮しているような専門家のコメントを載せていても、記事全体の趣旨としてはよく分からない、結局は政策を後押しするような記事が多いです。
 こういう、ジェンダーの実態は伝えないままに、どんどん打ち出される法案や政策の良さげなイメージだけ広がっていくという状況は、男女共同参画推進法あたりから常態になっています。ジェンダー研究者や女性運動家も高齢化していっているので、適切に大きい声で批判する層も減っています。
 結果、「女性差別はなくなった」「男女は平等、どころか女性が優遇されている」というイメージが広がっているのです。

 わたしはこの状況を日本版「ポスト・フェミニズム」だと見ています。ポスト・フェミニズムというのは「フェミニズムは終わった」とする社会の風潮のもと、能力主義・エリート主義が女性の中に強化されていき、男女格差に加え女性間格差も拡大する社会の様子を示しています。イギリスやアメリカで議論されている問題ですが、日本ではあまり知られていません。

 サッチャーやブッシュ/クリントンあたりから英米ではどんどん進んだ状況ですが、日本では、2000年代以降、小泉や安倍のあたりから本格化していっています。
 一番の問題は、こういうポスト・フェミニズム的状況がある、これを変えなくてはいけないということを主張する声が少ない、ほとんどないことです。わたし自身が、色んなことに忙殺されて、なかなかできていない・・・。
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by anti-phallus | 2014-09-29 10:40 | フェミニズム | Comments(0)

家事ハラの誤用

 やっと前期授業期間が終わり、ほっとひといきつけそうです。最近全然書けていないので色々書きたいところ。
 まず、昨日発見して、驚いた事件。家事ハラスメントという言葉についてです。
 この言葉はそもそもは竹信三恵子さんという研究者、ジャーナリストの方が岩波新書『家事労働ハラスメント』で提起したもので、女性に家事を押し付ける今の社会のあり方を批判したものです。
 それが、旭化成ホームズ「共働き家族研究所」というところの行った調査で、全く逆の意味、「妻が夫の家事にダメ出しをすること」と定義されてしまっています。この研究所はムービーも公開していて、見てみたところかなりびっくりしました。これって、女性のみならず、男性に対しても失礼な内容ではないでしょうか。夫をまるで幼稚な子ども扱い・・・しかも東京の電車の吊り広告で同じメッセージを大展開している模様。


 動画の方も是非見てみて下さい。不快な気分になるかもしれませんが・・・
 これは近年続いている、一連のフェミニズムへの逆流現象だと思います。バックラッシュとはもはや言えない、もっと構造的な。ひとつひとつ声を上げていかないといけませんね。


 竹信さんが研究所に対して質問状を出されましたので掲載しておきます。

++++++++++++++++++


旭化成ホームズ株式会社「共働き家族研究所」御中

「妻の家事ハラ」実態調査についての抗議・要請書
        2014年7月24日 和光大学教授・ジャーナリスト 竹信三恵子

 7月14日付の御社の「妻の家事ハラ実態調査」についてのニュースリリースと再現ムービーを拝見しました。ここでは、「夫の家事協力に対する妻のダメ出し行為」を「家事ハラ」と定義づけるとされています。このような恣意的な定義づけによる誤用、捻じ曲げに、この言葉の創設者として困惑しています。
 「家事ハラ」は2013年10月に私が出版した『家事労働ハラスメント~生きづらさの根にあるもの』(岩波新書)の中で創出した造語です。ここでは「家事ハラ」を、家事労働の蔑視・無視・排除といった嫌がらせ(ハラスメント)によって、これを担う人々(主に女性)に大きな不利益をもたらしている社会システムの歪みを取り上げ、「家事ハラ」によって経済力を持ちにくい立場に置かれたことが女性の貧困の増加を招いていること、男性もまた、家事労働という生にかかわる労働から排除され、ワーク・ライフ・バランスを欠いた「働く機械」として生きることを余儀なくされていることを指摘しました。そして、女性が抱え込まされている家事労働を、①企業の労働時間短縮、②行政の社会サービスの充実、③労働時間の短縮
による男性の家事分担という3つの関係者によって再分担し、女性が外で働く時間を生み出すことで、二人働きによる新しい豊かさを生み出す政策が必要であることを提案しています。
 ところが、御社の誤用によって、このような「家事ハラ」の意味は大きく損なわれました。女性からは「家事のやり方を注意したくらいでハラスメント扱いする不愉快な言葉」と反発が起き、「家事のやり方をとがめるくらいなら家事を頼むな」という男性の反発も誘発し、そんな不毛な紛争の只中に、この言葉は投げ込まれることになってしまったのです。

 その結果、著者としての私がこうむった実害は、下記のようなものです。
1.御社のような大手企業の大量宣伝を通じて「家事ハラ」の意味が本来のものと全く逆のものとして社会に流布し、著書のイメージが完全に破壊されたこと。

2.メッセージを届けようと想定していた読者層がこの言葉に嫌悪感を抱くようになり、著書の普及が大きく阻害されかねないこと。

3.人々が気づいていなかった現象に新しい名前(たとえば、セクハラやDVなど)をつけることで、その問題点を見えるものにするという社会改革の試みが、勝手な言葉の再定義によって頓挫させられようとしていること。

このような深刻な実害を及ぼした御社の誤用に強く抗議するとともに、そのような行為がなぜ生まれたのかの経緯を説明していただき、かつ、被った実害を軽減する措置を要請します。お願いしたい措置は、別紙の通りです。


(別紙)
旭化成ホームズにお願いしたい措置
                              2014年7月24日 
和光大学教授 竹信三恵子

今回の事態を収拾し、竹信が受けた被害を救済するため、下記のような対応をお願いします。

①中央線などに旭化成ホームズが張り出した車内広告のすべてに、家事ハラの本来の定義と本のPRを盛り込んだステッカーを目立つように張り込むこと
②ホームページにも同様のものを目立つように掲載すること
③正しい家事ハラの意味を伝える再現ムービーを制作し、これもホームページで公開すること
④謝罪文の提出
⑤なぜこのような誤用が生まれたのかについての事実経過の文書による提出

<参考:フェイスブックの投稿から>
・今、乗っている中央線の車内広告は、すべて、“妻の”家事ハラ白書と、題されたヘーベルハウス 共働き家族研究所のポスターです。(いわゆる一本買いです)ここで言う 「家事ハラ」とは、夫のやった家事に妻がダメ出しや文句を言うことで、それにより、夫は家事から遠ざけられてしまうのだ、と言うものです。竹信 三恵子さんが、岩波新書で、書かれた家事ハラス メントとは、全く異なるものです。しかし、これはキャンペーンだと思います。竹信さんの産み出された家事ハラを消すための。どこの広告代理店かは分かりませんが、大大キャンペーンです。悔しいです。(女性)

・私は家事ハラの本質をそらして見失わさせ、保守的な家族観やさらには家長制復活のためのキャンペーンではと感じましたが。みなさんはどう思います?(男性)

・家事を夫が「手伝う」って感覚自体にまず違和感。そんなので調査したものなどダメですよね!!(女性)


+++++++++++++引用終わり++++++++++++++++++







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by anti-phallus | 2014-07-25 16:27 | フェミニズム | Comments(0)

補足/結婚について

 昨日、あれだけ書いて力尽きたのですがまだ言い足りなかった(笑)。
 上野氏の記事を読み返しててだんだんと怒りを感じてきたのは、後半の、結婚=幸せ論。ユニクロとか鍋とかに目を奪われがちですが、より深い問題は、上野氏がここで結婚カップルをはっきりと推奨していることです。
 昨日も触れましたがこれまで上野氏は結婚制度を批判し、結婚しているフェミニストも批判していました。ところがこの記事では、若い女性に、結婚することを勧めている。

引用:
「女の分断の第1段階が「正規と非正規」だったとすれば、第2段階は「非婚と既婚」になるでしょう。少ない年収だって持ち寄れば倍になる。カップルとシングルの所得格差が拡大します。/ちなみにヨーロッパでは、男性が結婚相手を選ぶ際、稼得能力の高い女性を選ぶという傾向がはっきりと出ています。日本でも男性の平均所得は減少していますから、結婚相手に「キミは働かなくていいよ」なんて言わなくなるはずです。つまり、稼げない女は、結婚相手としても選ばれなくなる可能性が高い。」

 このへんほんとうにひどい。結局この記事は、女性たちに、「男性から結婚相手として選んでもらうために」稼ぐ力を身につけなさいと言っているのです!

 私が初めこの記事のタイトルを見た時、割と普通のこと言ってるなーと思いました。というのは、上野世代の女性運動に関わっている方々は、とにかく色々差別があっても、自分は(往々にして正社員として)働き続けてきたことに誇りを持っていることが多い。闘いながらも、職場を辞めずに働き続けてきたことを胸を張って語る。そして、若い女性たちにもそうすることをアドバイスすることが多々あります。だから、これまであまりそういうことを言っていなかった上野氏が同世代の女性活動家たちと同じようなこと言ってるな〜と思ったのです。
 ですが、よく読むとその働くことも、どうも男性に選んでもらうため、という目論みがあるよう。これは、女性運動に関わっている人たちはさすがにあまり言わない。は???なぜそんなお見合いを勧める親戚のおばちゃん(偏見)のようなことを・・・・戦略といってもほどがある。単なる未来予測として家族社会学者がこういうことを言うことはありますが、記事全体を読むとそれにとどまらないアドバイスとして読めてくる。これがジェンダー研究やフェミニストの考えだともし誤解されたら私は本当に嫌です。上野氏は一体どうしちゃったのか。

 結婚制度というものは、女性の賃金を安くしている根本のものです。たいていの経営者は言います、「きみは夫に養ってもらってるんだから給料が安くても/クビにされてもいいだろ」と。そして女性たち自身も、家事や子育てを抱え、「男性=正社員並みに」働けるわけがない。一般職で頑張っても、男性と同じ土俵には乗れない。そうして女性たちは辞めていき、子どもの手が離れるとやっとパートとして「復帰」するのです。
 また、結婚制度の精神への影響も計り知れない。こうやって、男がいないと暮らせないと思わされた女性たちは、常に男性からどう見られるか、結婚出来るかを気にし、女一人で、あるいは女性同士で生きていくなんてできない、さみしい、無理と思わされていきます。その現代版が「女子力」言説です。女子力のゴールは「幸せな結婚」。
 そして、結婚制度と切り離せないのがDV。どんな関係であれ権力関係のあるところにはハラスメントや暴力が発生する可能性が高まります。一方が他方を養うような関係性だったら、DVの発生するリスクは高まります。
 上野氏が推奨しているお互い年収300万円カップルだったらどうでしょう。その提案の中には、男女の賃金格差や労働のジェンダー構造を変革するという側面はなかったから、平均賃金が女性は男性の半分くらいの今の日本の格差のままだと思われるので、年収300万円同士のカップルでは、男性は妻と同じ収入であることを気にしている可能性が高い。社会が不平等なままですから、個人の意識もそうならざるを得ない。よほどの人物でなければ。そうすると妻の方はこれ以上自分の収入を上げて夫を脅かさないように気を遣うでしょう。夫はユニクロ、自分はしまむら、という見えない気遣いをせざるを得ないかもしれない。こういうぴりぴりした空気を上野氏は幸せといっているのか。
 上野氏の推奨している幸せ像は現実的ではないんですよね、こう考えると。

 ともあれ、結婚がジェンダー論の目標ではないということは少なくとも言っておきます。この記事が、まとめたライターのために、上野氏が話したこととだいぶ違っているならいいのですが。





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by anti-phallus | 2014-03-04 10:40 | フェミニズム | Comments(0)

上野氏の記事について

 上野千鶴子氏のネット上の記事(インタビュー?)が一部で話題になっているようだ。上野氏がツイッターなどネット上で批判されていることは今までもよくあったが、私はスルーするようにしていた。というのは、上野氏はネットが普及する以前から(文章や発言に対して)毀誉褒貶の大きい人で、また言動自体が極論をあえて言うことで注目を浴び、批判も込みで騒がれることをねらっているようなところがあるから、わたしはあえて言及することでその戦略に乗りたくなかったのだ。10年ほど前に論文上で彼女のスタンスを批判したことはあったし、まあもういいかという気持ちもあった。何よりフェミニズム内部で対立するように見えれば、フェミニズムの戦略上良くないだろうという判断もあった。
 だが、ここ近年のフェミニズムの凋落(?)ぶりを見ると、かえってそういう内部批判による変革の欠如がフェミニズムの後退に一役買ったのだろうかという疑念が強くなってきた。
 改めて、フェミニズムの名の下にされる上野氏のような影響力のあるだろう言説をきちんと公的に評価していくことも必要なのかもしれないと思う。というわけで今回の文章を見てみたい。

 元ネタはコレ↓

「『女子力を磨くより、稼ぐ力を身に付けなさい!』上野千鶴子さんが描く、働く女の未来予想図」


 何度か読み返して思ったのは、ジェンダー研究者というよりは経営者目線だな、ということ。
 上野氏の文章は大抵そうなのですが、いろんな人の言っていることやデータを器用に切り貼りして分かりやすくまとめちゃいます。その器用さがこのかたの売りで、ある場面では役に立ちますが、じっくりとそのテーマについて理解したり味わったりするには不向きなタイプの文章です。まあじっくり論じるタイプの文章は一般の読者には向かないと考えれば、こういうタイプの文章は別に悪くない。ですが、この記事はインタビュー形式のためか、よりその欠点が目立っていますね。

 ネット上での批判の多くは後半の、「鍋を食べてユニクロ着て100円DVDウンヌン」のあたりに集中しています。前半で女性労働の問題を論じているのに、後半でそういうご提案かよ!と驚いている人が多い。ユニクロがいわゆるブラック企業で、労働者の使い捨ての上に成り立っているという最近の批判を上野氏は知った上でこう言ったとすればかなりの問題だと思いますが、その点や、そういうライフスタイルをパッケージ化して「これも幸せでしょ?」と差し出してしまう姿勢等が批判を浴びています。

 わたしもそれらの批判には同感ですが、その上で前半部分も考えてみたい。ここは、労働とジェンダーについて勉強しているひとならだいたい知っているだろう、一般的な知識です。とくに大きな発見もないし、問題もない。ただ、あれ?と思うところがあります。

引用
「男女雇用機会均等法が成立したのが1985年。女性の雇用・労働問題に取り組む女性ユニオン東京の伊藤みどりさんは、この年を「女の分断元年」と呼んでいます。これ以降、働く女性は「正規雇用か、非正規雇用か」という大きな分断線で2つに分けられてしまったからです。」

 大きく間違ってはいないのですが、85年を問題化する論調が出てきたのはジェンダー論の中でもここしばらくで、多くの場合は均等法というよりは、それと同年にできた派遣労働法のほうを批判します。これまでは均等法はまだしも派遣法の方はあまり注目されてこなかったのですが、99年の派遣先業種拡大以来、どんどん改悪されていき、この10年くらいの間にその問題性が理解されてきました。
 上野氏は85年以降女性労働者が「非正規か正規か」に分断されたと言っていますが、というよりは、均等法はそれまで男女別に労働者を採用・雇用管理していたシステムから総合職と一般職に分ける「コース別雇用」を企業に導入させたことが問題です。実質は男女別に雇用管理しているのに、それを「コース別」という隠れ蓑を持ってきて見えなくしてしまったわけです。いわゆる「間接差別」です。
 女性が「正規か非正規か」で分断されるのは85年以前からあったこと(パートという女性の代表的な働き方は高度成長時代に増加したもの)で、均等法によって発生した問題と言えるかは疑問です。
 上野氏は以前から均等法について批判してきており、それは重要な指摘です。ただ、派遣労働の問題は均等法と別の法律から直接には発生しているわけですし、こんなにおおざっぱにまとめるのは「ジェンダー研究者」の公的発言としてはどうなのかなと思います。わたしもおおざっぱとよく周りから言われるほうなので口幅ったいですが。。。自戒をこめて。

 その後はそれほど専門的な内容でもないですし、とくに批判することもないのですが、ただ特徴として安倍政権の女性活用策を「間違い」だとしているところに違和感がありました。これは実は他のジェンダー研究者にも最近増えているスタンスなのですが、ある政策を誤りや間違いだとするスタンス。わたしは違和感があって、というのはそのスタンスは政権や政治家、あるいは大企業経営者の立場を代弁してしまうのではないかと思うからです。政治家や経営者視点から「女性の活用」とやらを正しいとか間違っているとか言っても、そこから本当に女性や労働者のためになる判断が出てくるとは思えない。
 もちろんいろんな場面で、そういうレトリックを使うことの有益さはあると思います。何しろ世間では労働者目線というより、経営者目線で誰もが世の中を見てしまっていますから。ただわたしは、あえて、そういう目線ではなく、本当に自分の置かれた立場、あるいはより弱い立場から社会を見ていけるようにすることが、ジェンダー論やフェミニズム、あるいは社会科学の役割だと思っています。上野氏と学問観、あるいはフェミニズム観が違うのかもしれません。

 あと、次の部分。

「それ以外に「育児を外注する」というオプションがあるはずですが、北欧のように国や社会が責任を持って保育所などのインフラを整備する「公共化オプション」も、アメリカのように移民労働力を格安の賃金で雇って育児を任せるという「市場化オプション」も、日本では極めて限られている。」

 ここですが、北欧の公共化オプションはともかく、アメリカの「市場化オプション」を並べてしまうのは危険です。「市場化オプション」とやらは、アメリカの収入の高い仕事に就いているカップルの家庭で、移民の女性をメイドとして私的に雇うことを指していると思われますが、これをひとつのオプションとして提示してしまうのは、わたしは怖いです。
 移民の女性は正規の滞在資格を持っていることもあればそうでないこともある、非常に弱い立場です。そのため雇い主からのハラスメントに遭いやすいことがジェンダー研究、移民研究では指摘されている。背景にはアメリカ等富裕国とメキシコや南米などの貧しい国の間の大きな構造的格差があるわけで、そういうことを考えれば、安易にオプションとして提示できるものではありません。
 このあたりが経営者目線だなーと思うゆえんです。

 前半の最後あたりで、多様性を持たない日本企業は沈没するだろう、ということを言っていますが、これもジェンダー論関係で最近多い論調です。日本経済のためには女性を活用しろ、ダイバーシティを推進しろというレトリック。このレトリックを正面から否定する気はありませんが、わたしが言いたいのは、これまで日本経済が「発展」してきたとすれば、それは女性の労働力を酷使してきたからではないか、ということ。
 日本の企業は女性を「一般職」やパート、派遣として安く使ってきました。でも女性たちは社会的発言力が弱いですから、この差別を問題視しにくく、あきらめて働かざるを得なかった。家庭内の家事労働も含めて。そんな女性たちの我慢とあきらめの上に日本経済は安住してきたことにみな気づかなくてはいけないと思っています。そして、「女性活用」というならば、皮肉に言えば、日本企業はこの差別構造を利用してきたのですから、狡猾にやってきたのです。それを間違っていると言って、同じ土俵で争っても仕方ない。
 気づかなくてはいけないのは、女性活用の成功云々ではなく、女性や労働者たちが経営者や政治家目線でものを考えるのをやめて、本当に自分たちのために社会を変える視点を持つことです。

 それから、後半の年収300万円同士で結婚してユニクロで幸せに、というところも大企業の会長が週刊誌等で、あるいは飲み屋でしゃべっていると考えれば納得がいく。上野氏は以前は結婚制度を批判していましたが、その問題意識はどこにいってしまったのか。
 年収300万円で幸せに、というのは、前半で批判していた現状の「女性活用策」にもろに適合しているように思えますが。。。
 「女たちが生き抜く術を聞く」というこの記事のスタイル自体に問題があると思いますが、なんだか迷える女性たちが上野氏に群がって救いを求めているみたいな・・・ツイッターでも書きましたが、フェミニズムというものは女性自身がエンパワーして、社会に働きかけていくためにあると思うので、誰かえらいひとにすがるものではないのではないかと。

 長くなったのでとりあえず筆を置きます。
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by anti-phallus | 2014-03-02 22:00 | フェミニズム | Comments(0)

家事労働の話

 10年近くジェンダー関係で研究し、大学で教えていますが、気づかないうちに「世間」とのギャップが大きくなっているような?いや前から大きいのか?

 世間の人たちは、「女性差別はどんどん解消されている」とものすごーく思っています。ですが、それは一体どういう根拠からなのでしょう???というのがわたしの疑問であります。

 先日、「最近男性が家事をするようになった」という言い方を聞きました。その中の一人の方は保育関係の方で、「だから保育園の子どもが汚れた格好をしていると、母親が何をしているのかと思う」(父親が家事を手伝っているのに母親が子どもの世話くらいしろ、という意味?)とおっしゃっていました。それこそがジェンダー規範なんだって!

 ちなみに、家事分担の調査を見ましょう。

 総務省のサイトからです。

 これを見て、家事分担が進んでいるといえるでしょうか???
 わたしは統計はダメですが、こういうとき、大事なんですよね〜。

 今、恐ろしい勢いで「女性差別は終わった」ようなイメージが老いも若きも大勢の人々に浸透しているように感じます。そうではない現実に気づくところからフェミニズムが始まるんですよね。
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by anti-phallus | 2013-05-13 21:47 | フェミニズム | Comments(0)

フェミニズムの冬

 今、フェミニズムの冬に突入しているように感じます。みんな気づいていないんだけど、社会運動の中でも、とくにフェミニズムは冬期を迎えている。いつ終わるともしれない冬に。
 人間の、自由を最も敏感に感じ取り、受け止め、表現するのがフェミニズムのはずで、だからこそフェミはひとびとの期待を受けています。
 もともと日本社会は「自由」に対しては抑圧的な性質がありましたが、311の後、様々な動乱を経て、ひとびとの叫びを塗り込める形で「危機管理」対応的政治が求められてしまっています。それは、この10年近くの間に、フェミが封じ込められ、制度化され、権威化される過程の総仕上げともなってしまいました。
 現代日本を支配しているのはニヒリズムです。何をやっても無駄、正しいことを言っても損するだけ、そんな気持ちが私たちの「日常」を形作っている。やっぱり人間の幸せは性別役割分業家庭の中に入って、結婚して、子どもを育てて、死を看取ってもらうこと。活動家や学者が何を言ってもそれは売名行為。そういう批判的な気持ちに共感するところは多々あるんですが、それではこの閉塞はどうやったら変えられるのでしょうか。
 表面的な正しさや無垢さを超えて、ニヒリズムではない、何かもっと自由なもの、共有できるものを作らないと、冬はいつまでも明けない、そんな気がします。
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by anti-phallus | 2012-12-25 00:16 | フェミニズム | Comments(0)

国家を歌うのは誰か?+沖縄県知事選

 ここ最近は忙しかったから今週は少しおとなしくしよう。
 バトラーとスピヴァクの『国家を歌うのは誰か?』を読み返している。随所に示唆的な言葉がある。言語のこと、運動のこと。何カ所も書き留めておきたいところを見つける。
 例えば次のところ。

ここで立ち止まって、この発話は、国民のただなかに翻訳という仕事を設定しているのではないかと考えなければなりません。隔絶や裂け目こそが平等の可能性の条件となり、したがって平等は、国民の同質性の拡大や増大にはつながりません。(P44-45 一部省略)

 ここでの隔絶や裂け目は、私が前から使っている分断という言葉に重なる考えによるものだと思う。平等が既にあるものと語ってしまえば、その場の抑圧性はものすごく大きなものになってしまう。だがバトラーにとって、効力のあるエージェンシーは「わたしたち」でしかない。そして、平等でない限り、わたしたちは語り得るものとならない。
 平等と自由は密接につながっている。

 この冒頭で、バトラーはアーレントの公私区分がもつ抑圧性について批判している。そこはアーレントが男性中心主義的思考と訣別できていない側面を象徴的に表しているのだろう。その男性中心主義的思考は人種主義や民族中心主義、階級主義とも連動していることが、古代ギリシアの理想化から見て取れるかもしれない。
 社会領域を公私に分けて、私的世界に暗さや秘匿性をあてがう思考や行動、人間的あり方を、言論だけでなく、実践の中で運動の中で批判するのは相当に難しい。その批判が必然的に関係者の私的領域を他者の目にさらしかねないから。そこまでする必要性を批判者が引き受けられるかどうか。



 沖縄の県知事選結果にがっくりきている人は多い。だが、一つの国家の「国益」とやらをいち地方自治体の首長選で選んでもらうというのはそれ自体暴力的である。
 どうして沖縄の人々ばかりが選択を迫られるのか。自分たちの身近な毎日にとっては迷惑の大きなものが、自分の国家の利権というよりは自分の国家に支配的な影響力を持っている他の国家の利権の拠点となっていて、それを遠くにやるかそのままにするかをなぜか選ばなければならない。本当に選ばなければならない責任をもっているひとびとは遠くから見やるばかり。選択せねばならないことの圧力を「わたしたち」は沖縄に押しつけることをやめなければならない。
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by anti-phallus | 2010-11-30 11:52 | フェミニズム | Comments(0)