菊地夏野のブログ。こけしネコ。


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家族に介入する国家が問題なのか:親子断絶防止法案

 最近、「家族に介入する国家」という言い方を見かける。そのとき話題になっているのは憲法24条や「親子断絶防止法」案。親子断絶防止法案は、今国会で成立がめざされている、超党派の議員による法案。この法案については早くブログで書かなければと思いつつ、4月は怒涛の忙しさで動けず、連休に入ってやっと抱えていた論文もひと段落し、まとめ始めることができました。

 この法案は、「子の連れ去りを防止する」ことを目的としていて、「子の連れ去り」とはなんだか随分悪いことのような言い方ですが、別居や離婚をするときに片方の親が子を連れて出て行くことを意味しています。そう聞いてもなかなかピンとこないと思います。親子の断絶を防止するなどといわれると、良い法案のように思えてしまうと思います。ですが実際はかなり危ない法律なのです。
 厚労省のデータ(リンクはこれ。このデータは重要です)によると、2012年時点で子どものいる世帯中、母子世帯は6.8%で、父子世帯は0.8%なので母子世帯が多数派です。
 この法案は、離婚後、同居していない親と子の面会交流を義務づけようというものです。離婚後、当事者間で一定の関係性を保てていれば面会の義務づけなど必要にならないわけで、問題になるのは両親間や親子間で信頼関係が損なわれて争いがある場合です。そしてそこにはDVが相当割合推測できるわけですね。


 これまでたくさんのDV被害に遭われた方々にお話を伺ってきましたが、DVは本当に体だけでなく心までむしばみます。新しい場所で新しい生活を始めようとしていても、元夫に居場所を突き止められないように、これまでの人間関係を全て絶って、名前まで変えて生活している方もいます。子どもも、自分は直接DVを受けていなくても、母の被害を見ていれば同じように感じてしまいます。そしてお話を聞く中で印象的だったのは、多くの女性が、「自分のことだけだったら我慢したかもしれないけど、子どものためにこれ以上止まってはいけないと思って逃げることを決意した」と語っていたこと。
 DV支援をしているある弁護士の方は、「子どもの方が逃げるよう母の背中を押すことも多い」と言っていた。
 この法案は、「DVの場合は特別に配慮する」としていますが、どのケースが DVでどれがそうでないか、誰がどのように決めるのでしょうか。被害者がDVを訴えても、それを認める加害者は少ない。もしこの法案が実現されたら、DVケースのうちごく一部のものしか配慮の対象にならないのではないか。

 ほかにもこの法案が実現したら、離婚するときに、役所の窓口で、子のいる場合、面会交流の取り決めができていないとされれば離婚届を受け付けられなくなるかもしれない。またこの法案によって、母子がDV夫から逃げる際に、これまで行政がしていた相談/支援活動を受けにくくなるおそれもあります。行政が、「子の連れ去り」を支援したと非難されることを恐れるからです。

 そもそも、なぜ面会交流を義務づけなければならないのでしょうか。面会交流は「子の最善の利益」のために、としていますが、子どもにとってそれは本当に常に必要なことなのでしょうか。別居したり離婚したりとなった場合、そうなったまでにはそれなりの事情があったはず。なぜその後で行政が「面会交流」のみ義務付けるのでしょうか。
 多くの関係者が批判しているように、行政がやるべきことはもっとほかにある。
 まず、養育費やひとり親家庭の経済的困難の問題。母子世帯で、父から養育費を受けているのは2割を切ります。養育費を受けていても金額は月数万円程度。母子世帯の年収平均は181万円です(ともに前傾データより)。貧困率もすごい。行政がやるべきは、養育費の支払いをもっと確実にするか、公的な支援を増やすことでしょう。アメリカなどでは養育費の取り立てはかなり厳しいですが、日本では、例えば転職してしまえばもう追えません。まあDVの場合、養育費どころか関係を切る必要のある場合がほとんどなので、行政のひとり親家庭支援策の拡充の方が重要ですね。
 この法案は養育費や経済支援についてはほとんど触れません。面会交流のみです。そこから連想したのが、戦前は女性は法的に無能力者とされていたため、離婚して家を出るときには子どもを連れて出ることは許されなかった。子は家父長のものとされていたから、ということ。この法案が背景にしているのはそのような家族観なのではないかということです。子どもはいつでも親、特に父親に従うべきもの、母が連れて出たとしても父の権威を忘れてもらっては困る、という意識。
 実は私は昨年母を亡くしました。そのため親子や母子、家族について改めて色んなことを考えざるを得ませんでしたが、少なくとも言えることは、私が母を尊敬するのは、私の自由を尊重してくれたこと。良い親子関係のためには子どもを尊重することが必要条件ではないでしょうか。家父長が一番偉くて次に偉いのは長男、なんて序列が決まっているような家庭はしんどくてたまらない。もし自分の両親が離婚したとして、どちらかの親に会うよう誰かに仕向けられたり、まして行政から義務づけられたりしたら、それだけで非常にストレスでしょう。
 法律で会うことを義務づけられたりするなんてもうその時点で親子の関係性は傷つけられてしまう。親子関係はそもそも上下関係、権力関係のあるものですから、これ以上負荷をかけてはいけないと思う。行政は、親子関係や家庭が当事者間でできるだけうまくいくよう「見守る」べきで、虐待やDVなどの問題がある場合に支援を全力ですべきで、家庭の形がどうあるべきかということまで介入してはいけない。


 とこういう風に考えていて、冒頭の、「家族に介入する国家」という左派側のスローガンにひっかかってしまった。この法案を「家族に介入する国家」として批判すると、じゃあDVなどで被害者を支援する場合も「国家の介入」になってしまうんじゃないかと思ったから。
 家庭というのは容易に支配と従属の関係になりがち。しかもどんな内実であっても「家庭は癒しと憩いの場」「国の基礎単位」という美名で覆い隠されがち。それを考えると、国家が家族に介入することが問題なのではなくて、どのような介入なのかということが問われるんですね。支配に転化しがちな家庭の形を守るのではなく、あくまで一人一人の人権と自立を尊重するのが行政の望ましいあり方。

 ところがそもそもの人権のレベルから崩されようとしているのが近年の動き・・・。安倍首相が5月3日憲法記念日に日本会議の集会で改憲を2020年まで実現するというメッセージを発表した(…)ということですが、自民党が目指す国のあり方は、戦前の家父長制的家族をモデルにしています。家父長を絶対として皆が上下関係に縛られる家族のあり方は、政府に国民が従い戦争にも行く国の基本とされているのです。
 私は、そんな息苦しい家族の方がよっぽど愛情を欠いていると思いますがどうでしょうか?愛情を育てたいなら、できる限り力関係は減らして楽にすべき。
 やっぱり周りを見回すと、息苦しい家族関係はまだまだ多い。息苦しい中で育ってしまうと、平等や対等、個の尊重ということを想像できないから、息苦しいのが普通になってしまう。安倍さんたちが望んでいるのはそういう世界。トップにいる人たちばかりが輝く世の中。
 フェミニズムが目指してきたのは、より自由で平等な社会。そのなかでDV被害者を支援する法や行政が生まれてきた。でも被害者支援策はまだまだ不十分。この断絶防止法案はそういうフェミニズムの第1歩をつぶそうとしている。
 今期国会で、共謀罪の後に審議予定と報道されています。マスコミではまだまだ注目されていないこの法案。危険性を理解して、なんとか止めないと…。




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by anti-phallus | 2017-05-05 23:51 | フェミニズム | Comments(1)

ジュディス・バトラー インタビュー「トランプは抑えられない憎悪を解放している」

ジュディス・バトラーのインタビューを訳してみました。
バトラーの翻訳なんてわたしなどにはハードルが高くて、他に訳してほしい方々がたくさんいらっしゃるんですが、非常に刺激的な内容で、ついつい恐れながらやってしまいました。多分これまた誤訳がたくさんあるのではないかと思います。ご指摘いただければたいへんありがたいです。f0210120_11470653.jpg

バトラーについては説明は要らないかと思います。インタビューは2016年の10月に行われています。ドイツのサイトのものなので、ドイツの政治状況についてが多いですが、アメリカの占拠(オキュパイ、99% etc)の運動やトランプについても語っています。インタビュアーとのかけ合いというか、インタビュアーがおそらくわざとたたみかけるような質問をして、バトラーがそれに対して否定したり肯定したりして議論が深められていくのが面白いです。

欧米で激化するレイシズムがメイン・テーマになっています。フレイザーのテキストについても言えますが、フェミニストというと「女性の問題」のみ論じるのだろうというイメージを持っている人も多いですが、それは大きな勘違いで、いわゆる狭義の「女性の問題」も当然扱いますが、バトラーたちはそれに止まらず、一見「女性の問題」とみなされないような多種多様な重要な課題について取り組んでいます。

とりわけ、90年代に注目されたフレイザーとバトラーを中心とした論争は経済と文化の関係性という社会科学に根源的で伝統的なテーマを直接論じました。今でも読む価値のあるものです。ちなみに下記の本はこの論争の現状を取り上げています(私も書かせてもらいました)ので是非読んでみてください。

『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」: 格差、文化、イスラーム』
越智 博美 (著), 河野 真太郎 (著)
で、このインタビューでは、バトラーの人種差別/レイシズムと闘う決意が強く伝わってきます。その背景にある経済社会の不安定化についても触れています。それは左派的な政治と深く結びついていますが、同時に運動や政治の暴力性への警戒もはっきり語られていて、わたしはこういうところにフェミニズムの精神を発見します。上で書いたことと関係しますが、フェミニズムとは、単に「女性の問題」を扱うものというよりは、様々な世界に関する分析や視点、理論の中に立ち上がる何らかの形のスタイル、価値観、方法だと思えるのです。

また、同様にレイシズムやネオリベラリズムについて分析していても、フレイザーとは大きく違う点があるのもお分かりになると思います。とくにトランプを支持する人々への評価が違っています。フレイザーがトランプ支持者を批判しながらも、同時に左派がキャッチすべき潜在的仲間だと考えようとするのに対して、バトラーはシンプルに厳しく、その本質を言葉にしています。この違いは、上記の90年代の二人の論争での対立点とも重なっていて、評価の分かれるところでしょう。わたしはどちらも好きですが‥

最後に、トランプや欧米のレイシズムがこれだけ議論の対象になり、日本でも大勢の関心を呼んでいるわけですが、日本で既に長期間政権を握っている安倍さんだって、排外主義、ナショナリズム、レイシズム、セクシズムの頭領なわけです。バトラーの分析が日本の社会経済状況についても当てはまる部分は多いです。にもかかわらずトランプやヨーロッパのレイシストに比べて日本の安倍政権への批判は弱い。どうしたものか‥‥

()内は私が加えたものです。

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トランプは抑えられない憎悪を解放している



これらすべての反動的なポピュリズムはどこから来るのだろうか?哲学者ジュディス・バトラーに、ドナルド・トランプ、ドイツの「歓迎する文化(Willkommenskultur)」、ラディカル・デモクラシーについて聞いた。


なぜ今、公的な集会について本を書こうと決めたのですか?

JB 公的な集会は民主主義の純粋な形なのかどうかについて議論が始まった“アラブの春”の間、それらのことについて考え出したのだと思います。「これが市民であり、彼女・彼らは不公正な体制を打ち破ろうとしている」と言われていました。そしてそれはもちろん、「市民とは本当は誰なんだ?」というようなすべての種類の問いを生起します。「彼女・彼らが街に姿を現していることは重要なのだろうか、街に現れたそれらの身体はすべての人々を代表しているのだろうか?街に出ていない人々についてはどうなんだろうか?」と。

身体が集会において演じる役割についてなぜそれほど関心を持ったのですか?

JB オキュパイ運動に関連する他の議論もありました。そこではあるひとびとは「彼女・彼らは要求を出さない、ただ場所を占拠しているだけだ」と言っていたので、「いやそうではなく、それが要求を形成する方法であり、この場所がわたしたちのものでありこの空間は公的なものであるべきなんだということを言う方法だ」と言おうと努めました。けれどもそのような主張が遂行されるために言語化される必要はないのです。というのはわたしは、彼女・彼らはその身体であるいはその身体が空間を占拠する方法を通じてそれを行っていたと思います。そのような身体的な行動や身振りは政治的に有意なものでもあることを主張したいと思います。それは空間を占拠して主張を行い、主張を具体化しています。

あなたの本には集会への暗黙の共感が読み取れます。一部の人々はそれを恐れるでしょう。

JB 私たちが考えなければならないのは集会という言葉なのかもしれません。大勢の集まりだったり、集団の運動や暴動、暴徒かもしれません。暴徒(mob)はおそらくわたしたちが同様に恐れるものでしょう。それは暴力によって保障されるように思われます。それは意図的なものでも、政治的な関心のあるものでもありません。集会は違います。そこでひとびとはともに集まり議論します。そして彼女・彼らがともに集まり、お互いに姿を現わすことが重要なのです。ハンナ・アーレントのような人にとって、ギリシアやローマの集会は民主主義の発足の重要な一部分でした。そしてわたしたちは民主主義を実現するために集会を必要とし続けていると思います。自省的で包括的なーー民主的な参加と討議の形式を実証することを求めているようなーー集会と、民主主義を諦めている人々との違いを見極められるようになるべきです。

あなたは集会は、普段排除されている人々が公的空間に入ることを許すと書いています。ペギーダ(PEGIDA、「西洋のイスラム化に反対する欧州愛国者」、ドイツで勢力を伸ばす反イスラム団体)の場合でもそれはいえますか?

JB 私が支持するような種類の集会には、ラディカル・デモクラシーの原則が賭けられています。右翼の人種差別主義者が集まって、人種差別主義者にはふさわしくない公的空間から排除されてきたと言うなら、そのとき彼女・彼らはじっさいには他者を排除する権利を求めているのです。彼女・彼らは集まって、人種差別主義者の表明された目的と排他的な計画のために公的空間を獲得しようとしています。それは意図においても効果においても民主的ではありません。

どの集会を「私たちが必要としている」と決められるのでしょう?ある集会は包括的であると同時に排他的であるかもしれません。カイロのタハリール広場では何年も前から無数の女性たちが性的暴行を受けています。

JB 集会は異なる種類の危険を異なる種類の人々に課すと思います。あなたが女性あるいはトランスあるいは移民であるなら、おそらく公的な集会で危険にさらされるでしょう。というのは公的な集会は身体的で公的な露出を含むからです。あなたの隣にいるのは誰か常に知ることはできないし、誰があなたやあなたの隣の人や群衆の反対側にいる人を傷つける目的で、近くにいることを利用するか常に分かっていることはできません。だから公的な集会には危険も常にあるのです。

あなたは街頭でもっと多くのひとびとを見たいと思いますか?

JB いいえ。街頭にもっと多くのひとびとが出れば私たちの生がより良くなるとは思えません。ところで、わたしは身体がしていることと言語を分離できないと思います。身体は表現します、それは意味があるのです。

ペギーダが運動と身振りを通して表現するものと、民主主義を志向する集会が表現するものを差異化できるでしょうか?

JB できると思います。身振りと運動を単に脱文脈化することはできないでしょう。問題はどのように文脈化するかということです。それらは概して、特定の政治を伴う人種差別と反移民の集会です。わたしたちは彼女・彼らがしていることを理解し、適切に判断しなければなりません。それは新しい移民が街に出て統合を求めるのとは全く異なります。もしあなたが、公的空間に足を踏み入れることが法に背くからといってそこから禁じられていたならば、公的空間に入ることは法に対する関係を取り上げることになります。

ですがそれは極右のポピュリストの示威行動についても言えることです。

JB 確かにそうですが、国家の暴力と国家の検閲、人種差別主義者の大衆運動は全て民主主義に対する主張に反して働くと言うこともできます。例えば白人の特権を主張する人々は、移民によって「排除されて」いると主張するかもしれませんが、じっさいのところは自らの特権を失うことを恐れているのです。それが文脈であり、わたしたちはそれら全ての身振りと運動、言語による主張によってその文脈を理解しなければならないのです。

あなたは著書の中でハンナ・アーレントの公的領域と私的領域の区別を批判的に評価しています。そのなかのどのあたりが問題含みなのでしょうか?

JB 『人間の条件』の中でハンナ・アーレントは、再生産や睡眠などの私的で家庭内の活動、身体の再生産を意味するそれら全ての政治的ではない活動と、おそらく栄養たっぷりの身体が登場する政治的な領域を明確に区別しています。アーレントの民主主義の原則の考えは、以下のような仮定を持っています。食料は分配されていて、入手可能であり、ひとびとは保護されていて、病気になれば医療を受けられると。ですが問題はもちろん、私たちは「不安定性(precarity、バトラーのキーワードで、「あやうさ」とも訳す※)」の時代に生きていて、基本的な生の必要性をめぐる非常に多くの事柄があり、そのために私たちは闘っているということです。誰が家を持っているのか、誰が医療を受けられるのか、誰が国境を越えられるのか?これらは全て身体の維持と身体の可動性に根本的に関わっている政治的問題です。具体的な生を考えずに、集団や集会の自由、言論の自由さえももつことはできません。

不安定性(precarity)は今でも増大していますか?

JB 不安定性(precarity)より重要な政治的概念になっていると思います。イサベル・ローリーという研究者によれば、それが私たちの現在の瞬間に本当に内在している経済的政治的条件なのです。「プロレタリアート」は、食べたり生きるために十分なほどには支払われていない労働者たちのことですが、「プレカリアート」はそれとは異なるカテゴリーです。プレカリアートは仕事すら持っていないかもしれません。仕事を得たとしてもすぐに失うかもしれません。一時的な労働者であるかもしれません。家を手に入れても翌日失うかもしれません。未来は根本的に予測できないのです。

なぜそのようなことに?

JB 市場が障害なく拡張できるように労働がますます一時的で不安定にされるにつれて、働く人々と生計可能な賃金に向けた公的義務はますます脅かされています。そのためより多くの人々があるやり方で打ち捨てられ奪われるのをわれわれは目にするようになっています。第一次・第二次世界大戦後、おびただしい数の人々が奪われるのを目にしましたが、その奪われ方は異なる種類でした。現代の強奪も、戦争を通して起きていますが、財政政策やネオリベラリズム、そして労働や住宅の条件、住宅市場や住宅の入手機会に対するその影響、さらに食料への影響をも通じて起きています。多くの人々が非常に基本的な問いで苦しんでいるのを知るのにそれほど遠くに行く必要はありません。

現在のポピュリズムの上昇は、より多くの人々が自分自身を、この新しいプレカリアート、その一部だと考えるようになっている事実に関係していると考えますか?

JB 南アメリカ、例えばアルゼンチンの運動のように、右翼と左翼のポピュリズムを識別すべき理由があると思います。こういった種類の運動に関心のあったエルネスト・ラクラウにとって、ポピュリズムは肯定的な概念でしたし、あるいはそうなり得るものでした。

それはなぜですか?

JB 異なる主張のために集まる異なる種類のアイデンティティの人々が互いに結びついているからです。彼女・彼らは共通する条件を見つけ始め、互いの状況を理解することを求めています。これらのつながりを通して、新しい人々の意識が生まれ、あるいは生まれ得るのです。だからラクラウにとって、ポピュリズムは左翼の約束を与えるものだったのです。彼はポピュリズムを超議会的な政治運動にとどまるものとしては考えませんでした。それが選挙による議会や代議制民主主義、国家権力にすら変容する可能性を実際に思い描いていました。

ではどのようにしてこの明らかに肯定的な形式のポピュリズムと否定的なそれを差異化しますか?

JB おそらく、その形式の良し悪しを識別し始める前に、それを理解しなければならないでしょう。結局のところ、「良い」としていたものが後になって「悪い」ものに変わることがあります。あらゆる種類の国家権力に反対し、すべての国家的過程を憎み、超議会的領域にとどまり続けようとする種類のポピュリズムがあります。現在私たちが目にしているような、男女の平等を保障する法や人種差別に反対する法、移民を許可し民族的に宗教的に異種混淆な人々を認めさえする法に反対する右翼的形式のポピュリズムもあると思います。そしてそのような種類の反動的ポピュリズムは、郷愁に駆られたり特権を失ったと考えて、社会の初期状態を取り戻そうとしたがります。彼女・彼らの以前の世界の喪失のために国家権力を引きずり降ろそうと望んでいます。

ドイツでしばしばなされる議論で、あるひとびとは社会の周縁に追いやられ不安定性(precarity)の中に取り残されていると感じているからAfD(Alternative für Deutschland、反EUを掲げるドイツの政党)を支持するのだというものがあります。賛成できますか?

JB 右翼団体はしばしば疎外されていると感じることがありますが、彼女・彼らが本当に意味していることはその特権が失われたということです。彼女・彼らの特権、白人の前提は揺れ動いています。お分かりのように、確かに彼女・彼らは白人の特権を失いつつあります。白人の特権が前提されていた以前の世界を失いつつあります。その通りです、失いつつあるし、その喪失に慣れて受け止め、より大きくより民主的で異種混淆的な世界を受け入れるのが彼女・彼らのなすべきことです。

けれども彼女・彼らをプレカリアートの概念に含めることはしませんか?

JB 問題は、ネオリベラル経済が人々の隅から隅まで右派と左派を区別することなく不安定性(precarity)を生み出していることです。そのため、自らの位置をとったとして移民を責めているので、右派の人々あるいはより右派的になった人々がいますが、彼女・彼らは、富裕な人々は利益を得続けるのに、不安定性(precarity)が経済的階級を横断して拡大するという、問題の根本を見極めていません。彼女・彼らは、ますます多くの人々の幸福を現実に危険にさらしている財政や金融政策を注意深く見ることをせずに、移民に責めを帰すことに決めています。

トランプの支持者についても同じことが言えますか?

JB トランプの支持者ですか・・

ドイツ人には非常に興味があります。

JB それは全くかなり解読しにくいものです。トランプの支持には経済的要素があります。彼の支持者のある部分にとっては政府は生計をなして財政的に成功する可能性を邪魔するものだから、規制や政府に反対しています。またそれは、労働者の健康や安全を保障するための税の納入や職場の規制をも含み得ます。彼女・彼らはトランプが連邦税を払っていなかったらしい事実を称賛し、「自分もあの人になりたい」と考えているのです。

怒りはありますか?

JB 巨大な怒りを感じます。女性や人種的マイノリティや移民に対してだけではなく、彼女・彼らは自らの怒りが彼の公的で検閲されない発言によって解放されていることに興奮しています。左派にいるわたしたちは、恐らく良心(superego)です。トランプが美辞麗句を飾ってやろうとしていることは、左翼だけではなくリベラリズムを、基本的なアメリカのリベラリズムと左翼を単なる検閲の塊として特定することです。私たちは抑圧的な機械で、彼は解放の車です。これはまさに悪夢です。

彼の公然とした性差別と人種差別についてはいかがですか。

JB トランプが解放しているものは、抑えられない憎しみであり、最近見たように、誰の同意も気にかけさえしない性的行動の形式です。わたしたちはいつから触れてもいいかどうかについて女性に尋ねなければならなくなったのか、それはなぜか?彼が実際言っているのは違いますが、彼はまさにそうほのめかしています。それは人々を、その怒りを、その憎しみを解放しています。そしてこれらの人々は金持ちかもしれず、貧しいかもしれず、あるいは中流かもしれません。彼女・彼らは自分たちが左派やフェミニスト、公民権や平等を求める運動、黒人男性が国を代表することを許したオバマの大統領任期期間によって抑圧され検閲されていると感じています。

あるトランプ支持者は、もし彼が権力を得たらその不愉快な想定に基づいた行動はとらないだろうと言います。

JB あなたにそのようなことを言う人々は、彼が言っている全ての不愉快な事柄を好んでいるかのように見られたくないという意味で、真実を否認しています。その人はこう考えているだけです。彼は国境を閉じ、戦争に行き、あるいはお役所仕事を省くだろう。ですが事実はこうです。彼女・彼らは彼の言う不愉快な事柄と共に生きていきたいのです。彼女・彼らは必ずしも賛成しないでしょうが、そのことに慣れているし、反対しないことを意味しています。彼女・彼らは暗黙のうちにそのような言説に同意を与えています。多くの人々が彼の言説から私的な喜びを得ています。彼女・彼らはそれを大声で言うことはできないかもしれません。というのは人種差別主義者や性差別主義者、あるいは同性愛嫌悪的とされることは恥ずかしいことだと見なされているからです。ですがそのような感情を私的に心に抱いています。

哲学者のエマニュエル・レヴィナスは、私たちが他者に出会う時、その出会いは直接的な要請を私たちに課すと書いています。あなたは彼の理論を拡張して、お互いに出会い、道徳的義務の感覚を相互に課す公的な集会における身体について考え出しています。あなたがここで思い描いている倫理はどのような種類の政治的意味合いを持っていますか?

JB いいえ、身体から身体への個人間の接触のモデルを、より大きな政治的関係のモデルとして見なすことはできません。ですが、より大きな構造へ翻訳され得るそれらのより小さな出会いから、いくつかの一般的な原則を引き出すことはできます。そしてそれらの原則のなかには相互依存性があるでしょう。グローバルな相互依存性、それは気候の変化や食料の分配を含みます。けれどまた例えば、合衆国は、それ自身の領土における悪影響に苦しめられることなく世界の異なる側で戦争をすることはできません。というのは、私たちは実際に世界を共有しているからです、私たちが破壊しようとしている人々とすら。第1世界の状況の中で生き、そこで自由や直接的暴力からの相対的安全を享受しているわたしたちは、本当にそれが好きです。私たちはそれが自らに近づいてくると衝撃を受けます。このことがここで、ブリュッセルで、パリで、ロンドンで、ニューヨークで行われていることです。これらの都市を標的にする人々は、わたしたちが他者が苦しむことを強要されている種類の破壊から距離を取り得るというわたしたちの想定を攻撃しようとしているのです。

そのことは国内政治に対しては何を意味しているのでしょうか?

JB わたしにとって倫理的なものは政治的なものから完全に分離されてはいません。私たちの公的な政策に影響を与えるべき倫理的原則があります。そしてそれは次のことを含みますし、それが私が最も関心のあることだと思います。私たちがあるときには他者の生活に起きていることに注意を払わず、誰かの嘆くべき生に想いを馳せることも、平等なあるいは平等に有意な人々の生を考えることもなく私たち自身の地政学的区域に暮らしているあり方のことです。ですから、私たちの限られた国家や言語の境界を超えて平等を広げることが私たちの責任です。

私たちは現在、シリアの人々の生を生きられたり嘆かれたりされるべきものではないと考えているのでしょうか?

JB 白人のヨーロッパ人がトルコとの国境でシリアに拘束されたとすれば、大きな怒りが生まれるでしょう。それは同一化作用(identification)がすぐに行われるからです。

アンジェラ・メルケルの「歓迎する文化」政策はあなたが思い描く種類の倫理の表現なのでしょうか?

JB はい。それは二つの異なる段階に分けて考えることができます。第一に、わたしたちが歓待や「歓迎する文化」と呼んでいるものは絶対に重要です。それは国際法や難民保護法にも合致しています。またハンガリーのような、国境を閉じて全ての「歓迎する文化」を拒否している場所でも見ることができます。ドイツは「歓待の限界はどこだ?」という問いを討議しています。しかしながらわたしは、第二の段階があると思います。「私たちは誰だろうか?ドイツ人とは今や誰のことか?」と問うことです。歓待について議論するとき、歓待を「彼女・彼ら」にほどこすのはいつもこの「わたしたち」です。けれど「彼女・彼ら」が一旦中に入ると、そのとき「私たち」は誰を意味するのでしょうか?「私たち」は変わるのでしょうか?そのとき彼女・彼らは「私たち」の一部になるのでしょうか?完全な包括とは、人種的に民族的に異なるドイツ人を認め肯定することです。

それは難しいでしょうか?

JB そうです。「私たちは今やムスリムであり、キリスト教徒であり、ユダヤ教徒だ」とか「私たちは今や白人で、黒人で、褐色で、多文化で、多民族だ」と言うことは。

現在ドイツでは右翼的なポピュリズムと言説が増大し、ますますイスラム嫌悪的になっています。

JB 歓待が、移民をドイツに適合させるよう求めるプログラムになっていく方法を考えています。それはドイツの新しい人種差別主義と闘うことに集中的に尽力するプログラムではありません。新しい移民コミュニティがドイツの不可欠な部分になることを拒否する人々もまた変化を経験しなければなりません。今やドイツとは何であり誰を含んでいるのかということの感覚の変化を。そうするためには、ドイツ人はこれらのコミュニティについて学び、慣れなければならないでしょう。これは歓待以上のものです。それは国として「私たち」とは誰であるかの意味を変えることです。そしてそれがこの第2の段階であり、歓待を超え、たくさんの種類の宗教を受け入れる多国籍的、多人種的国家へと導くでしょう。

ではどのように「私たち」と言う概念を拡張できるでしょうか?

JB それはどのように人々と生きるかという問い、共生の問いだと思います。あなたは彼女・彼らの生活を学び、言語を学びたいとも思いますか?彼女・彼らを常にあなたの寛容の受取人として扱っていますか、それともあなたと平等だと見なすようになれますか?ドイツ語はドイツで話されている唯一の言語ではないと認められますか?援助や支援が様々な宗教的共同体に与えられるべきであることや、彼女・彼らは単に歓迎されていると感じるだけでなく、ドイツ人の一部でもあると感じるべきであり、またそうなりつつあることを受け入れられますか?わたしは、ドイツ文化に移民を適応させるための努力がそういうものとして何度も行われてきたと思います。

トランプのレトリックにも、ブレグジットにも、右翼的ポピュリストの言葉にもそれを見て取ることができます。国籍の民族的理解へと後退しています。なぜでしょう?

JB ハンナ・アーレントがここでの道案内になります。国民国家の観念の中で機能する限り、基本的に、国家を代表するために特定の国籍を、その国籍を代表するために国家を求めることになります。それは、常にマイノリティと、排除される人々、国家の支配的な発想に一致しない人々が存在することを意味しています。彼女・彼らは完全な権利がなく、あるいは権利を奪われ、追い出されさえするでしょう。これが彼女の複数性がそんなにも重要である理由です。そして複数性は人種的民族的異種混交性へと翻訳できるだろうと思っています。けれど異種混交性はヨーロッパの今現在のあり方なのです。それが新しいヨーロッパなのです。



※バトラーの著作で、"Precarious Life" は『生のあやうさ』(本橋哲也訳、以文社)として日本語訳されています。




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by anti-phallus | 2017-03-11 21:12 | フェミニズム | Comments(0)

N・フレイザー/A・ディビス他「リーン・インを超えて:99%のフェミニズムと3月8日の力強い国際的ストライキのために」

ナンシー・フレイザーやアンジェラ・デイビスが名を連ねている、3月8日のウィメンズ・マーチへの呼びかけ文を訳しました。フレイザーはこのブログで何度も紹介していますが、アンジェラ・デイビスは日本語でも訳されているのでご存知の方もいると思いますが黒人差別やアメリカの戦争に対して長く闘っているフェミニスト活動家、研究者です。






この呼びかけ文の核心は「リーン・イン」フェミニズムを批判し、そうではない「99%のひとびとのフェミニズム」を作ろう、としているところ。「リーン・イン」とはFacebookの最高執行責任者の女性(シェリル・サンドバーグ)が書いた本のタイトルで、「一歩踏み出す」というような意味らしいですが、フレイザーが批判する「進歩的なネオリベラリズム」のフェミニズム版のひとつを示しているといっていいでしょう。日本でも報道された、1月21日のウィメンズ・マーチは、女性からのトランプへの異議申し立てとして認知されていますが、フェミニズム内部からこういう批判もあるという点は大事です。

日本でも、前エントリの上野さんの記事をめぐる批判・論争のように、フェミニズム内部では常に互いへの批判があります。フェミニズムに好意を持たない人々からは、「また女の喧嘩か」という嫌味が投げられるでしょうが、そうではなく、フェミニズムは常にこのように異なる意見を開示し、交わし、そのことによって他の人々へも呼びかけ、内容を更新していくような思想と運動なのです。そしてそのなかで、誰の発言が一番エライ、ということはないと私は思っています。誰もがそれぞれの思いや立場からものを言っていいのです。

また、上野記事をめぐる論争を、この「リーン・イン」フェミニズム批判と絡めて考えるとどうなるでしょうか・・・。どちらにしてもアメリカでも日本でもフェミニズムをめぐる状況が混沌としている、ということだと思います。ある意味日本では、安倍政権こそが「進歩的・ネオリベラル・フェミニズム」であるかのように見えてくるときさえあります。女性活躍推進政策を考えてみてください。こういったフェミニズムもどきに対して、日本のフェミニズムからの批判が少なすぎるというのが最大の問題です。(ちゃんと論じようと思っているのですがなかなか・・・・。)

東京でもウィメンズ・マーチが準備されています。安倍政権やトランプなどなど、暗いことばかりですが、何か少しでも変化のための自分なりの行動ができるといいですね。


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「リーン・イン」を超えて:99%のフェミニズムと3月8日の力強い国際的ストライキのために



アンジェラ・ディビス, Barbara Ransby, Cinzia Arruzza, Keeanga-Yamahtta Taylor, リンダ・マーティン・オルコフ, ナンシー・フレイザー, Rasmea Yousef Odeh and Tithi Bhattacharya

February 3, 2017


1月21日の巨大なウィメンズ・マーチは力強いフェミニストの闘いの新しい波の始まりを印付けるかもしれない。だがその焦点は正確には何だろうか?わたしたちの視点ではトランプと彼の攻撃的なまでに女性嫌悪的でホモフォビック〔同性愛嫌悪的〕、トランス嫌悪的、人種差別的政策に反対するだけでは十分ではない。わたしたちは、社会的支援や労働者の権利に対する新自由主義的な継続的攻撃にもまた標的を向ける必要がある。トランプの露骨な女性嫌悪は1月21日の大規模な応答への直接的な引き金だったが、女性(とすべての働く人々)への攻撃は彼の統治より長く先行している。女性、特に有色の女性や働く女性、失業中あるいは移民女性の生活条件は、経済の金融化と企業のグローバリゼーションのため過去30年にわたって悪化している。「リーン・イン」フェミニズムや他種の企業のフェミニズムは、個人的な自分のプロモーションや出世にアクセスする手段を持たず、その生活条件が社会的再生産を擁護し、公正なリプロダクティブの権利を守り、労働者の権利を保障する政策によってのみ向上されるような大多数の私たちマジョリティの役には立っていない。女性の動員の新しい波はこれらすべての関心に正面から向き合わなければならない。それは99%の人々にとってのフェミニズムでなければならない。

わたしたちが求める種類のフェミニズムは地球を横断する闘いの中ですでに国際的に出現している。ポーランドの中絶禁止に反対する女性のストライキからラテンアメリカの男性の暴力に反対する女性のストライキとマーチまで。イタリアの昨年11月の大規模な女性のデモから、韓国とアイルランドのリプロダクティブ・ライツを守る女性の抗議とストライキまで。これらの動きに顕著なのは、そのいくつかが男性の暴力に対する闘いと、労働の不安定化と賃金の不平等への反対を結びつけていることだ。またホモフォビアやトランス嫌悪、外国人嫌悪的な移民政策への反対をも。ともに、それらは、同時に反レイシストて反帝国主義、反ヘテロセクシスト、反ネオリベラルな、拡張された課題に向かう新しい国際的なフェミニズム運動の先駆けである。

私たちはこの新しい、より広げられたフェミニズム運動の発展に寄与したい。

第一歩として、わたしたちは、3月8日に男性の暴力に反対しリプロダクティブ・ライツを守る国際的ストライキを築くのを支援することを提案する。このなかで、わたしたちはそのようなストライキを呼びかける30を超える国からのフェミニストグループと合流する。その考えは、トランス女性を含めた女性と、それを支援するすべての人々を国際的な闘いの日に集めるというものだ。ストをし、行進し、道や橋や広場をいっぱいにし、家事労働やケアや性労働をやめ、ボイコットし、女性差別的な政治家や企業の名前を呼び、教育制度の中でもストライキをする日に。これらの行動は、「リーン・イン」フェミニズムが無視する人々のニーズや情熱を可視化するために行われる。公的な労働市場の中の女性、社会的再生産やケアの領域で働く女性、失業中だったり不安定な労働についている女性たちのことだ。

99%の人々のためのフェミニズムを受け入れるために、わたしたちはアルゼンチンのNi Una Menosの連合から示唆を得た。彼女たちが定義するように、女性に対する暴力は、多くの側面を持っている。ドメスティック・バイオレンス以外にも借金や資本主義の財産関係等の市場の暴力、また国家の暴力、レズビアンやトランスやクィアの女性に対する差別的な政策の暴力や移民の運動を犯罪化する国家の暴力、市民の投獄の暴力、中絶禁止と無料の医療と無料の中絶へのアクセスの欠如による女性の身体に対する制度的な暴力。それらの見方を知りわたしたちは、ムスリムや移民女性、有色女性や働いている、あるいは働いていない女性、レズビアン、ジェンダー不一致やトランス女性に対する制度的、政治的、文化的、経済的攻撃に反対する決意を固めた。

1月21日のウイメンズ・マーチはアメリカ合衆国でも新しいフェミニストの運動が出現しているかもしれないことを示した。この瞬間を逃してはいけない。3月8日にはともに、ストをし、歩き、マーチをしデモに参加しよう。この国際的な行動の日を利用して、「リーン・フェミニズム」と手を切り、その場所に99%の人々のためのフェミニズム、草の根の反資本主義のフェミニズム、働く女性やその家族と連帯するフェミニズム、そしてその世界中の連合を築こう。












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by anti-phallus | 2017-02-25 18:20 | フェミニズム | Comments(0)

【補足追加】中日新聞上野千鶴子さんインタビュー記事に思う

 ネット上でまた上野千鶴子さんの発言について話題になっています。わざわざ取り上げるのもどうなのかなと思っていたのですが、議論のテーマ自体は日本における移民問題ということで、重要なものです。このテーマで、フェミニストのスタンスがひとつに代表されてしまったらよくないので、ひっそりと書いておくことにしました。

 発端は、下記の中日新聞の記事です。


 この記事自体、そもそもの趣旨がよく分からず、「建国記念?」「司馬?」「日本人?」それでなんで移民問題?とよく分からないことだらけなのですが、紙面ではもっと説明があったのでしょうか。そしてなぜ上野さん?移民問題についてとくに研究成果のある方ではありません。ちょっとやっつけ感のある記事なのですが、とにかくいろいろ問題があるということで批判がなされ、その中でも下記の移住連さんが公開質問状を出されました。

 もっともな内容で、論旨としては「上野氏の発言が実態に基づいていないこと、そして結果的に排外主義を再生産していること」が指摘されています。
 わたしはこれまで研究テーマの一つとして「ジャパゆき」現象についてわずかではありますが取り組んできて、その中でいろいろなことを発見しました。まず大きいのは、移民あるいは在日外国人について日本社会のマジョリティはあまりに無知であること。まあ無知だからといって責めるつもりはなくて、関連する法制度が複雑すぎることにも問題があります。日本には、法的に正式には「移民」という概念はないのではないでしょうか。移民といって一般的にイメージされるのは、生まれたのとは違う国に住み、働いているひとのことでしょう。ですが日本でそのようなあり方はごく特別な例しか認められていません。

 法律も移民法という名称ではなく、「出入国管理及び難民認定法」という法律です。その名の通り、「管理」するための法律であって、これによって在日外国人は日本にいる資格や期間、条件等々を「管理」されています。欧米各国には移民局と通称されるような国の機関があります(正式名称は様々)が、日本でそれに近いものは「入国管理局」で、「入管」と通称されていますが「移民局」といわれることはない。それは日本の入管法・政策が基本的に管理主義的な発想で作られているためで、「移民の権利」を認めるという発想はほとんどないからです。その体質をはっきり表しているのが、在日韓国・朝鮮人に対する歴史的処遇です。日本政府は彼女・彼らが自身の言語や文化、それに基づいた教育を受ける権利を歴史的に否定・禁止してきています。戦後、在日コリアンの人々はそれに対して闘ってきた歴史があります。現在でも高校授業料無償化からの除外政策や、ヘイト・スピーチなど問題は続いています。

 これは法律だけではなく、日本社会の社会意識としても同様だと思います。グローバル化といわれて何十年経っても、多くの人々は「日本は日本人のもの」という感覚でいるでしょう。飲食店やコンビニなどで日本語を話せない外国人の店員さんに対して、「日本にいるんだから日本語しゃべれよ」という目で見てしまうことは誰しもあるでしょう。そこに、彼女・彼らがどのような思いで日本にいるのか、日本語ができずに苦労しているのではないか、ということまで思いを馳せることは少ないでしょう。

 このような社会の雰囲気は、上野さんの発言、「移民を入れて活力ある社会をつくる一方、社会的不公正と抑圧と治安悪化に苦しむ国にするのか」という部分や「日本人は多文化共生に耐えられない」という部分に現れています。つまり、「移民イコール治安悪化」という社会に渦巻いている偏見(それこそ「エビデンス」で否定されるのに)であり、「多文化共生は辛いこと」という(こちらはあまり指摘されない表現ですが)マジョリティの意識です。ちなみにわたしは、この発言を読んで、多くの人々にとって多文化共生は辛いことなのか、と逆に気づかされました。多文化共生というと日本と異なる文化に触れて楽しく交流する、というイメージだと思っていたのですが、それを「辛いこと」と感じる人も多いのだなと。ある意味、「日本の本音」みたいなことなのでしょうね。「日本の本音」を代弁しているのが今回の上野さんの記事であり、だからこそいろんな人が注目しているのでしょうか。

 それから、議論が混乱しているのが、移住連の指摘通り、上野さんが否定している「移民政策」とは何なのか、という点ですが、推測するに、安倍政権の考えている外国人労働力導入政策のことかと思われます。これまで何度か報じられていますが例えば下記。



 こういった政府の動きに対して「移民開国」といって危機感を表明してる方が多いようです。ですがこの政策はどうも技能実習生の枠組みを拡大したり特区を利用するらしいということと、開放する分野は農業・介護・家事などに限定していることから考えて、「移民開国」と言えるようなものではないように思います。既に戦後これまで日本は、大量の外国人労働者を迎えています。特に70年代後半から80年代のバブル期、製造業と性産業を中心に、外国人労働者がいなければ成り立たなかったような状況でした。この時期に多かったのは東南アジアからの人々。当時について以前聞いた当事者からは、「いわゆる不法滞在していても警察は全然黙認」だったそうです。それが90年代の不景気に入ると、途端に取り締まりも厳しくなりました。

 つまり日本の入管政策は、日本経済の都合だけで外国人労働力を入れたり出したりしようというもので、開国という形をとらなくても実質的に国は開いたり閉じたりしているのです。というかグローバル化じゃなくても、国境を完全に閉じることなんてできないのです。人はいろんな理由で国境をいろんな形で越えるのです。国家はそれを制限し、管理しようとします(例えばトランプのように)。今回の安倍の政策もその一環に過ぎません。それに対して「日本は排外的だから開国しない方がいい」と発言することがいったいどんな意味をもつのでしょうか。それはやはり、今までと今の移民あるいは外国籍者の人々が日本で生きてきた、生きている現実を見えにくくしてしまうのではないでしょうか。

 フェミニストとして考えるならば、そのような日本政府の企業中心的外国人管理政策を批判し、日本国籍を持たない女性たちの立場を想像することが大事なのではないでしょうか。私の見てきた限りでは、在日フィリピン人女性のほんとにみなが、夫やお店の客からの暴力、DVに苦しんできています。日本社会の外国人差別と女性差別を真っ向から受けているのです。開国の是非を論じるのではなく、既にある当事者の現実を見据え、彼女・彼らの人権を保障する制度や社会をつくっていくことが求められるはずです。つまり、安倍の政策をどう思うか、という水準(のみ)に乗ってしまってはダメだということですね。基本的な発想のレベルから問題があるので、そうではない法制を根本から主張していかないとダメだ、ということです。実務的な場面で政策の内容について評価する必要はありますが、研究者あるいはフェミニストとして発言できる場合には、現状肯定ではなく、現状を踏まえたより望ましいビジョンを示すことが求められているはずで、そうではないから今回多くの方が批判しているわけですね。

★補足
この論点には非常に深い前提もあって、というのはフェミニズムが移民のようないわゆるジェンダーには直接関連していないとされる問題についてどのように向き合うか、ということです。それについて上野さんは以前から、「フェミニズムはジェンダー(女性)以外の問題には関われない、関わるべきではない」という立場をとることが多い方でした。ただし、それと矛盾する言動もしているので困るのですが。
わたしは、ジェンダーは国籍や民族、人種、階級、身体性など他の社会的カテゴリーと切り離して存在するわけではないので、そのような分離主義的立場は非現実的だと考えています。
この前提にある問題が、今回の論争(?)の根底に横たわっていると思います。このレベルにまで議論を深めることができれば、上野さんの今回の発言も有益な結果を生むことができるのではないでしょうか。

★在日フィリピン人女性のインタビューを用いた拙著論文です。関心のある方、読んでいただけると大変嬉しいです。

「在日フィリピン女性の不可視性」岩崎稔/陳光興/吉見俊哉『カルチュラル・スタディーズで読み解くアジア』 せりか書房  2011年

「国籍法を変えたフィリピン女性たちの身体性―ジェンダー・セクシュアリティとグローバリズム」森千香子/エレン・ルバイ 編 『国境政策のパラドクス』  勁草書房  2014年

★2014年にも上野さんの発言が問題になって、このブログに批判を書いていました。以下です。

























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by anti-phallus | 2017-02-16 17:31 | フェミニズム | Comments(0)

フレイザーのトランプ論「進歩的ネオリベラリズムの終焉」

マクロビーに続いてナンシー・フレイザーのトランプ論を訳しました。こちらはマクロビーより立場を明確に打ち出している、フレイザーらしい論評です。今年1月2日付で公開されています。

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前回のフレイザーのインタビューでも見られましたが、トランプの勝利を、ネオリベラリズムで被害を被ったひとびとに支持された結果と解釈しています。そしてその勝利は「進歩的ネオリベラリズム」の敗北でもあると。進歩的ネオリベラリズムとは、グローバルな金融資本主義と「多様性」や「エンパワメント」といった言葉を唱えるエリートたちの結合、を意味しています。本来「多様性」や「反差別」といった言葉は、全ての人々のための理想でしたが、現在ネオリベラリズムに利用されて、能力主義や企業中心主義のための言葉になってしまっているとフレイザーは考えています。これはフレイザーが従来から批判しているフェミニズムの変質と深く関わっている重要な論点です。

トランプの支持者たちは、文化的には「多様性」を唱える教養あるエリートたちから差別され、経済的にもグローバル化で大きな打撃を受けました。本来ならそこで左翼が彼女・彼らの痛みを引き受けるべきなのですが、現代アメリカでは左翼が不在なため、トランプの反動的・差別的な政治にすくわれてしまった、ということです。
しかしもちろんトランプはひとびとの真の救済となるはずはないので、フレイザーは、とくにクリントンを支持したひとびとに、間違いを認めトランプ支持層に訴えかける努力をすべきだ、と論じています。

フレイザーが根拠をおいているのはサンダースやその支持者たちで、これは前に訳したアイゼンスタインや恐らくマクロビーとも少し異なるスタンスなので、そこが面白いと思います。サンダースの支持者たちは、オキュパイ運動等と重なってくるだろうと思いますが、オキュパイ運動にどれだけフェミニズムの視点が見いだせたのか、そのあたりがポイントでしょう(というか私が関心がある)。

それから、この議論を日本に重ねて考えると、社会科学だったり左翼運動だったりフェミニズムだったりの権威ある言説や世界への反感が、近年の右傾化やレイシズム、ナショナリズムにつながっていることが連想されます。日本の右傾化も、グローバル化で経済的に打撃を受けた層によって支持されている面のあることが指摘されています。アメリカほど明確に地域性を示していないのが分かりにくいところですが。

全体的にはわたしとしては、トランプの経済政策だってネオリベのひとつなのでは?(クリントンの進歩的ネオリべに対して、トランプは反動的右翼的ネオリべ、ということになるはず)とかフレイザーの主張する左翼の再生はどれだけ現実的なのか?という点や、多様性を唱えるエリートやフェミニストたちの主体的責任を問い過ぎてないか?(彼女・彼らの責任というより構造的側面が大きい気がするが・・まだ分からない)という点で迷いますが、ともあれ発見の多い、理性的な論評だと思います。多くの方々に読まれ、議論されてほしいです。

追記
非常に良く見ていただいているので付け加えますが、フレイザーのいう左翼が本当に現代の問題に答えるためには、大幅な、今までの左翼の歴史を変える、超えるような変化が必要なのでしょうね。わたしはなんとなく、左翼はもっとフェミニズム(良質の)から学ぶべき、というのがまず最初に来ると思います。






進歩的ネオリベラリズムの終焉


ドナルド・トランプの選挙は、ネオリベラルなヘゲモニーの崩壊を共に知らせる一連のドラマティックな政治的反乱の一つを表している。これらの反乱には、英国における「ブレグジット〔Brexit:イギリスのEU脱退〕」選挙や、イタリアにおけるレンツィ〔元首相、政治改革の国民投票で敗れ辞任〕の改革への拒否、アメリカにおける民主党の指名投票におけるバーニー・サンダースの選挙運動、フランスの国民戦線〔マリーヌ・ル・ペン率いる反EU・移民排斥を唱える政党〕支持の増加などが含まれる。これらはイデオロギーや目標が異なるにもかかわらず、これら選挙による反乱はターゲットを共通している。これらはすべて、企業中心のグローバリゼーション、ネオリベラリズム、そしてそれらを推進する政治的権力者たちへの拒否である。どのケースにおいても、有権者たちは、今日の金融資本主義を特徴付ける財政緊縮、自由貿易、略奪的債務、不安定な薄給の仕事という致命的な組み合わせにNOを突きつけた。それらの選挙結果は、この形式の資本主義の構造的危機に対する応答であり、その構造的危機は、2008年〔リーマンショックの起きた年〕に初めてグローバルな金融秩序がメルトダウン同然に陥った事態によって白日のもとにさらされたものだ。

しかしながら最近まで、この危機への主要な応答は社会的抗議運動だった--もちろんドラマティックで生命力があるが、大体は短命な--。対照的に政治システムは、比較的安泰で、いまだ政党官僚や権威あるエリートたちに牛耳られているように見えた、少なくともアメリカやイギリス、ドイツのような強力な資本主義国家では。しかしながら今や、選挙の衝撃はグローバル金融の要塞を含む世界中に鳴り響いている。トランプに投票した人々は、ブレグジットの投票者やイタリアの改革への反対者たちと同様、その政治的支配者に反抗して立ち上がった。それらのひとびとは、政治的支配層を鼻で笑い、この30年間自分たちの生活条件を侵食してきたシステムを否認した。驚くべきは彼女・彼らがそうしたことではなく、そんなにも長くかかったことである。

にもかかわらず、トランプの勝利はグローバル金融への反乱だけではない。彼に投票した人々が拒否したのは単なるネオリベラリズムではなく、「進歩的な」ネオリベラリズムだった。これは矛盾しているように聞こえるかもしれないが、アメリカの選挙結果とおそらく各地で起きているいくつかの出来事を理解する鍵を握っているのはこのねじれているが現実に起きている政治的連合である。アメリカの場合、進歩的ネオリベラリズムは、一方の新しい社会運動(フェミニズム、アンチ・レイシズム、多文化主義、LGBTQの権利運動)の主流と、他方での高級志向の「象徴的な」サービス産業に基づいた経済セクター(ウオール街、シリコンバレー、ハリウッド)との連合である。この連合において、進歩的勢力は、とくに金融化の認知資本主義の力と効果的に連結した。しかしながら、知らずに前者はその魅力を後者に貸し出した。理論上は違った結末を与え得るはずの多様性やエンパワメントといった理想は、今や、製造業とかつて中流階級の生活をなしていたものを破壊した政策の表面を飾っている。

進歩的ネオリベラリズムは過去30年間にわたってアメリカで発展し、1992年のビル・クリントンの選挙によって承認された。クリントンは「新しい民主党」の主要なエンジニアかつ標準的な伝承者であり、トニー・ブレアの「新しい労働党」のアメリカ版だった。組織化された製造業労働者やアフリカ系アメリカ人、都市の中産階級のニュー・ディール連合に代わって、彼は、企業家、郊外居住者、新しい社会運動、若者、多様性や多文化主義、女性の権利を信ずる本当の現代の進歩主義を主張するすべての人々の新しい連合を築いた。そのような進歩的な観念を支持しながらも、クリントン政権はウォール街の機嫌取りをした。経済をゴールドマン・サックスに差し出し、銀行システムを規制緩和し、脱工業化を促進する自由貿易協定を協議した。脇に追いやられたのはラスト・ベルト地帯である、かつてニュー・ディール時代の社会民主主義の牙城であり、今や大統領選挙人団をドナルド・トランプへ運んだ地域。この地域は、南部のより新しい産業の中心地と共に、この20年間を通して広がった高騰する金融化に大きな打撃を与えた。バラク・オバマを含む彼の継承者に継続され、クリントンの政策はすべての働く人々、とくに製造業関連会社に雇われた人々の生活条件を切り下げた。つまり、クリントン主義は組合の弱体化、実質賃金の切り下げ、仕事の不安定性の上昇、機能停止した家族賃金に代わる二人稼ぎ手家庭の増加について大きな責任がある。

最後の点が示唆するように、社会保障の圧殺は、新しい社会運動から借りられた解放的な魅力のベニヤ板で飾られた。製造業が爆発していた時期、国中が「多様性」や「エンパワメント」、「差別反対」の話で騒がしかった。これらの言葉は、「進歩」を平等ではなく能力主義と同一視して、「解放」の意味合いを、序列を廃止することではなく、勝者総取り方式の企業の序列の中で「有能な」女性やマイノリティ、ゲイなどの小さなエリートが増加することと見なした。これらの「進歩」のリベラルで個人主義的な理解は徐々に、60-70年代に広がった解放の、より拡張的で反序列的、平等主義的で階級に意識的で、反資本主義的な理解に取って代わった。ニュー・レフトが弱体化すると、その資本主義社会の構造的批判は消え、この国に特徴的なリベラルで個人主義的な姿勢が再び現れ、「進歩主義者」と自称左翼の情熱は見えないほどに縮んだ。しかしながらこの扱いを封印したのは、この展開とネオリベラリズムの台頭の同時発生だった。資本主義経済の自由化に傾注する政治団体は、「lean in〔女性がビジネス界などに進出しようとすること〕」や「ガラスの天井を破る」ことに専念する能力主義的な企業のフェミニズムに完璧な仲間を見出した。

その結果は、解放の切り縮められた理想と金融化の致命的な形式を混ぜ合わせた「進歩的ネオリベラリズム」だった。トランプの支持者に完全に拒否されたのはその混合だった。この勇敢で新しいコスモポリタン世界から取り残された人々の間で目立つのは、もちろん製造業の労働者であり、そしてまた経営者、中小零細企業、ラスト・ベルト地帯と南部の産業を必要とする人々、同様に失業とドラッグで破壊された農村地帯の人々だった。これらのひとびとにとって、脱工業化による傷は、彼女・彼らをおきまりのように文化的に遅れていると見なす、進歩派の説教による侮辱によって悪化させられた。グローバリゼーションを拒否することで、トランプの支持者たちはそれと同一視されるリベラルなコスモポリタニズムをも否定した。(全てではないが)ある人々にとっては、自らの状況の悪化を政治的正しさ〔ポリティカル・コレクトネス〕や有色の人々、移民やイスラム教徒のせいにするのはたやすかった。彼女・彼らの眼の中では、フェミニストとウォール街の連中は同類であり、ヒラリー・クリントンの中に完全に統合されていた。

この合成を可能にしたのは、本当の左翼の不在だった。「オキュパイ・ウォールストリート」のような定期的だが短命な爆発にもかかわらず、この何十年というものアメリカでは持続的な左翼が存在しなかった。一方にある金融化を批判するトランプの支持者の正当な不満と、他方の反レイシスト、反セクシスト、反序列的な解放の世界観を結び付けられる左派のわかりやすい語りはどこにもなかった。労働と新しい社会運動の間の破壊的でかつ潜在力のある結びつきは弱体化したままだった。左翼を実現するには不可欠な両極は、互いにバラバラになり、意見が合わず、正反対に位置づけられるままである。

少なくとも驚くべき初期のバーニー・サンダースの選挙運動まで、彼はBlack Lives Matter〔警官による黒人殺害などの黒人差別に反対する運動〕に突き動かされて以後、両者の結びつきのために闘った。サンダースの反乱は、優勢なネオリベラルの常識を打破し、トランプのそれの民主的な側面と共通点があった。トランプが共和党の権力者たちを負かした時、バーニーはオバマの継承者の指名に僅差で負けようとするころだった。民主党ではオバマの党員たちがすべての権力の段階を支配していた。その間、サンダースとトランプがアメリカの有権者の大多数に衝撃を与えた。だがトランプの反動的なポピュリズムのみが生き残った。トランプが、高額寄付者や党の大物たちに好まれる者たちを含め共和党のライバルを簡単に負かしている間、サンダースの反乱は、民主的でない民主党によって効果的に抑えられていた。一般投票のころまでには、左翼のオルタナティブは抑圧されていた。残されていたのは反動的なポピュリズムと進歩的なネオリベラリズムのホブソン的な選択〔究極の選択、選択の余地のないこと〕だった。いわゆる左翼がヒラリー・クリントンに対抗して結束した時、死が約束されたのだ。

にもかかわらず、またこの地点から、これは左翼が拒否すべき選択となった。社会保障の解放に反対する政治家階級によって私たちに提示された用語を認めるよりも、現在の秩序に対する社会的な反感の圧倒的な広がりに基づいてそれらを再定義するよう努めるべきである。社会保障に反対する「金融化と解放」を支持するよりも、金融化に対抗する解放と社会保障の新しい連合を築くべきである。サンダースのそれに基づくこのプロジェクトでは、解放は企業の序列を多様化することを意味するのではなく、それを廃することを意味している。そして繁栄とは、株の配当が増えることではなく、すべての人々にとって良い生活が送れる物質的必要が満たされることである。この組み合わせのみが、現局面で、唯一の信念があり見込みのある回答であり続けている。

わたし個人としては、進歩的ネオリベラリズムの敗北のために涙を流すつもりはない。もちろん、レイシストで、反移民、反エコロジカルなトランプ政権から恐れるべきことは多い。だがネオリベラルのヘゲモニーの内部崩壊も、クリントン主義による民主党の破壊もどちらも嘆く必要はない。トランプの勝利は解放と金融化の連合の敗北を印している。しかし彼の大統領の任期は現在の危機への解答も、新しい体制の約束も、安定的なヘゲモニーもどれも与えはしない。むしろ私たちが直面しているのは、空白期間、誰もが精神と心を手に入れられる開かれた不安定な状況である。この状況下で、危険だけではなく機会もあるのだ、新しいニューレフトを築くための。

それが起きるかどうかは、部分的には、クリントンの選挙運動に集まった進歩派たちの徹底的な自己反省にかかっているだろう。彼女・彼らは、ウラジーミル・プーチンとFBIに支援された「愚かな奴らのバスケット」(レイシスト、女性差別者、イスラム嫌悪者、ホモフォビア)に迷い込んだという心地よいが誤った作り話をやめる必要があるだろう。彼女・彼らは、能力主義と多様性、エンパワメントに関して解放を誤って理解したために、社会保障や良質な生活水準、労働者階級の尊厳を犠牲にした責めを負うべき部分があることを認める必要があるだろう。サンダースの「民主的な社会主義」というキャッチフレーズを蘇らせ、21世紀にそれはどのような意味を持つかを考え、どうすれば金融資本主義の政治経済を変容できるか熟考する必要があるだろう。とくに、彼女・彼らは、レイシストでも右翼でもない多くのトランプ支持者たちに手を伸ばす必要があるだろう、その支持者たち自身が「不正なシステム」の被害者であり、活性化した左翼の反ネオリベラル・プロジェクトに採用されうる、されるべきひとびとである。

これはレイシズムやセクシズムに関する緊急の懸念を無視するものではない。そうではなく、金融資本主義下で長い間歴史的に抑圧されてきた人々が今日どのように新しい表現と根拠を見つけ出すかということを意味している。わたしたちは選挙運動を支配していた誤ったゼロ・サム思考に反論し、女性や有色の人々を苦しめる危害と、トランプに投票した多くの人々の経験を結びつけなければならない。そのようにして、生き返った左翼が全ての人々のために闘える強力で新しい連合のための基盤を作ることができるだろう。




























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by anti-phallus | 2017-01-28 23:19 | フェミニズム | Comments(4)

アンジェラ・マクロビー「アンチ・フェミニズム、過去とこれから」

 アンジェラ・マクロビーのネット上の寄稿を訳しました。マクロビーはイギリスのメディア研究のフェミニストで、日本ではカルチュラル・スタディーズの分野で知られています。
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 彼女は、本文中でも触れられている『the aftermath of feminism』が大変面白いです。それは2009年の本なのですが、今回訳出したテクストは2016年11月公開のものなので、今日本でも話題沸騰(・・・)しているトランプ米大統領についてがメインの話題となっています。
 トランプ氏については、日本で語られるときは移民排除や人種差別の問題について批判されることが多く、女性差別についてはネタ的に、「こんなこと言ってるよ〜」みたいなノリで語られがちな印象がありますが、そうではない深刻な問題が横たわっていることを論じています。ヨーロッパ、アメリカだけではなく日本も含め、女性に対する抑圧や暴力が増大しており、にもかかわらず十分な批判がそこに向けられない状況に今あるということです。トランプ氏は、早速中絶の権利を抑制する政策を出し始めているようですね。(日本では中絶について、今でも刑法堕胎罪で原則は犯罪化されているーーーけれども母体保護法で条件付き許可されるという二重体制ーーーことを知る人すらほとんどいない状況・・・)
 このテクストの中でフレイザーのネオリベラル・フェミニズム批判についても触れられていて、そういう意味でも目を引きます。フレイザーとマクロビーの現状分析の内容と方法における共通性と個性を考えるのも大事なことかと。
 ちなみに「anti-feminism」を初め「反フェミニズム」と訳していたのですがカタカナにしちゃったほうが通りやすいのかと思いそうしてあります。ほかにも短いのに訳しにくい表現が多々あり、間違い等あればお知らせください。

原文は:


アンチ・フェミニズム、過去とこれから


暴力の危険と脅威が女性を待っている。アンチ・フェミニズムの新局面へようこそ。

シルヴィオ・ベルルスコーニがイタリアの首相だった時、わたしたちはアメリカで起こることの予兆を目にしていた。ベルルスコーニはメディア界の大物であり、道化を演じたがるが常にそこには脅しを忘れないショーマンであり、現実生活では、トニー・ソプラノであり、彼にとって女性はセックスの対象に過ぎなかった。ミシェル・オバマが外交上、この男性と握手しなければならない不快感で身をすくめる瞬間をカメラが捉えたのを思い起こそう。

ベルルスコーニは、全身全霊で、自立的な女性の増加に反対した。彼は、女性が身のほどをわきまえ、母、祖母、愛人、ショーガールとして従属していた時代まで時計を巻き戻そうとする男性だった。私の世代の女性なら誰もが、この種の、もはやお咎めなく女性の背中を縛り付けることができないことに憤慨している男性に馴染みがあっただろう。

世界の舞台でドイツのアンジェラ・メルケル首相のような強い女性と対面しなければならない時には、ベルルスコーニはジョークを飛ばし、彼女をからかい、男子生徒のように振る舞い、彼女の後ろではまるで彼女が乳母のような存在にすぎないかのように「おかしな顔」を作って、結果的に「あなたとまじめに付き合う気はない」と示していた。

フェミニストの主張に現実に直面すると、彼は伝統的なポスト・フェミニストの姿勢をとり、フェミニストに対して魅力がなく、年をとって、ムカムカすると侮辱する一方で、同時に、彼の政権に、無資格のステレオタイプ的にグラマーな女性を権限のある地位に登用した。彼はいつも新しい形の「中道派の」ファシズムをちらつかせ、普通の男性を代表するために左派とポピュリストを厳しく否定し、スカートは法ギリギリの長さまでにしておきたがった。

何年か経った現在、ドナルド・トランプの勝利はより大きなスケールでこれらと同じ特徴を示している。トランプの謝罪もされない性差別は、今や自信を持って再び自己主張する家父長制の反乱に自由を与えたようだ。これまでは、アンジェラ・メルケルやテレサ・メイ英国首相やニコラ・スタージョンスコットランド首相を見ればわかるように、家父長制は停止していると見られていたのだが。低次元の「外交的」でない侮辱は、権力の特定の行使の形式を映しており、女性を所属政党にかかわらず押し込めようとする方法である。

2016年の11月8日以来、多くのフェミニストがなぜそんなに多くの白人女性がトランプに投票したのかと問い直している。これは女性自身のミソジニー(女性嫌悪)を示しているのだろうか?ヒラリー・クリントンに、「エリート白人フェミニズム」を信奉し、合衆国の労働者階級女性との結びつきに失敗したと多くの怒りが向けられた。だが多くの黒人や他の民族的マイノリティの女性たちはクリントンに投票した。トランプの立候補中に示されたレイシズムのためだけではなく、夫や父親に保護されあるいは男性稼ぎ手に支えられるフェミニスト以前の女性になるという幻想は、もはや彼女たちを引きつけなかったからでもある。労働市場の人種化された特性は、この幻想に似たようなモデルが生まれるのをほとんど許さないし、したがって1950年代の典型的な主婦の時代に戻るような発想は出てこなかった。

どちらにしても、クリントンが自分たちの給料が何十年も上がらないままのふつうの女性有権者たちにつながれなかったという議論は、なぜ、彼女たちの多くが、彼女たちの権利を再生産に制限しようと用意し、そしてあらゆる種類の男性と平等なレベルでの職場への参加の能力を邪魔しようとする男性に進んで投票したのかということをいまだ説明していない。この現象は、アンチ・フェミニズムを検討することによってのみ説明可能である。

アンチ・フェミニズムは色合いを変え続けるが、決して去ることはない。ライターであり活動家であるスーザン・ファルーディが重要な著書『バックラッシュ』で記録しているが、合衆国においてリベラル・フェミニズムと社会主義フェミニズムの高まりとほぼ同時に、「モラル・マジョリティ」の怒れる反対運動の支持者たちが立ち上がった。私の著書『フェミニズムの余波(The Aftermath of Feminism)』で、より不快でもなくより進歩的な、あるいは親女性的でさえある力を持つように見えるこのバックラッシュの後の複雑化した状況を追った。

この運動は女性、特に若い女性の擁護の新しい形を伴った。彼女たちが、フェミニズムを古くてアナクロで全く魅力のない帽子として捨て、女性の個人化という「頑張る」道を選ぶという条件付きで。これは、新しい能力主義の中でフェミニズムの助けなしに容易に目標を達成できる野心的で競争心の強い人気者の少女の「ポスト・フェミニズム」だった。

イギリスのトニー・ブレアの任期中、この精神が政治文化とポピュラー文化に広がった。女性たちが笑顔を浮かべ素直な「ブレア・ベイビー」となるよう期待された時、フェミニズムは冷蔵庫に入れられた。私はよく思い出せるが、仕事の問題や雇用、ジェンダーやセクシュアリティに興味のある女子学生すらもがフェミニズムを拒絶し、それなしでやっていけると感じていた時代だ。若い男性のように後ろポケットにウイスキーの小瓶を忍ばせ、ラップダンスクラブに喜んで連れ立ってある種の「男根的な女性性」に感染するのが流行っていた。

ナンシー・フレイザーと何人かは、この種の業績に駆り立てられ、あるいは選択にもとづいた女性のエンパワメントの観念を宣伝することによってネオリベラルな秩序と共犯者になったとあるフェミニストたちを批判した。彼女たちは少数にのみ許される陽の当たる場所を認めることで資本主義に売り出したという複雑な方法で。その過程で、リベラル・フェミニズムの多くは、よりあからさまにマーケット主導で競争主義的な女性の成功の思想へと変質したが、この「ネオリベラル・フェミニズム」の形すらトランプ的な世界観にとっては嫌悪の対象かもしれない。

同時に、多くの異なるタイプと形式のフェミニストの運動と組織を含むフェミニストのルネッサンスも起きている。「エブリディ・セクシズム」プロジェクトはフェミニズムが近年そんなにも求められていることを示す最良の例の一つだ。同時に重要なのは、イギリスの「the F Word」や、アメリカのフェミニストがトランプの悪名高い「プッシーをつかむ」発言に抗議するために活気づけたやり方のような、この10年間のウェブ・アクティビズムだ。しかし、すべての老若のフェミニストたちを驚かせたのは、この新しい可視化が生んだ虐待や暴力、中傷の激しさだった。

アンチ・フェミニズムは今やより過激な鋭さをもっている。この憎悪はインターネットに本拠地を見出し、Jo Cox議員の無残な死が示したように、そこから街頭へ移動した。表向きにはコックスは移民や政治亡命希望者への憎悪の傾向を除去しようとしたために殺されたとされている。だが彼女が女性だったことも偶然ではないように思われる。殺害の脅迫を受け警察の保護を必要とすることになった女性の活動家や政治家、コメンテーターのリストはこの12ヶ月で急激に増えている。痛ましくもコックスは保護を要請するまでに至らなかったが。

脅迫と暴力の脅しは、お互いに喧嘩の構えを取りたがる男性とは違い、女性に対して特有の意味合いがある。ベルルスコーニは、女性は一家の男性に逆らうと叩かれるゴッドファーザー映画の王国に所属していた。トランプは近年の彼の多くの発言の中で、挑発的に、「怯える」必要はないと言ったが、新しいバックラッシュは、ある立場をとろうとする女性へのあからさまな挑発の形をとっている。避妊や中絶に関してついに得られた権利の核心はいまやかつてないほどに脅威にさらされている。「第2波フェミニズム」の頃から闘われなければならなかった自由を守るよう求められているのは女性自身である。

この脅威がどれほど現実的なのかはいえないが、最近のこのバックラッシュをみると、女性たちには、女性たち自身のために、またその娘や夫や父、息子のために、階級や民族の境界を超えて、真剣に権利を擁護する新しい方法を見つける緊急の必要性がある。フェミニズムがこれまでそしてこれからもその生をより良いものとするものであることを思い起こす必要もあるのだから。










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by anti-phallus | 2017-01-25 13:25 | フェミニズム | Comments(0)

大学の男女共同参画政策について

 この10年くらいずっと悩ましく思っていて、いつかちゃんと論じなきゃと考えてきたけれどもなかなかできていないという問題群の中に、標記のものがある。
 足元のことであり、しかもかなり複雑な意味合いを持っているものなので、論じるのも荷が重い。けれどもこのままだとするっと網を抜けてどんどん世の中に広まって埋め尽くしていくような怖さがある・・・・。
 この10年か20年くらいか、全国の大学ではどんどん男女共同参画政策が進められている。これは当初は、80年代頃からの大学における女性学やジェンダー論の興隆を受けて教員や市民の方々の草の根の努力から始まったところもある。だが、だんだんと国公立大学が法人化し、大学の貧困化が進み、一方で男女共同参画や女性研究者・女子学生支援に文科省や厚労省の予算が付き出した頃から、おかしくなっていった。初めは大学における女性研究者の比率の増加や、理系の女子学生の増加の推進から始まっただろうか。次に出産・子育てに従事している女性研究者の支援策が設置されるようになった。ちなみに、ここでいう女性研究者とは実質的に専任(常勤)の女性教員を指すことがほとんどだ。非常勤教員は利用できないことが多いし、そもそも制度設計が常勤の教員を念頭に置いてなされている。近年では、ワーク・ライフ・バランス政策とあいまって、「ワーキング・マザー」や「ワーキング・ファーザー」のロールモデル集なども作られているようだ。
 そして女性活躍推進法も混ざってきて、大企業から女性管理職を呼んで「女性の働き方・両立の仕方」を講演させたり、学生に指南したりという企画はどこの大学でも目白押しだろう。

 今まで問題を感じながらも、批判もしにくく、結果的に「スルー」してきた。しかし、止むことなく「ロールモデル」が掲げられるに及んで、もうガマンできない(笑)。あまりにうっとおしい・・・・。なんで「バリバリ働いて、成果もあげて、地位と名声もあって、そしてもちろん子どもも夫もいて、キラキラ輝いている女性」なんかをめざさなくてはいけないんだろうか・・・。確かに誰かがそういうあり方を目指して頑張るのはいいだろう。「女だから」大学院に入れなかったり、研究者になれないような状況よりはいいだろう。

 でも、かといって、誰もがそんな「キラキラ」を「モデル」としなくてはいけないのだろうか?そもそも大学とは、研究したり教育をしたりの場なのであって、それ以外の「家庭生活」や「私生活」の基準を教わるための場なのだろうか?研究・教育を中心とする大学という場で、人生について私生活について学ぶことはあっていいだろう。師や仲間から色んなことを教わることは得難いだろう。だが、大学が、教員や学生にある種の生き方を「推薦」したり評価したりすることがあっていいのだろうか?そういうことをやるとき、よほど配慮しないと必ず、その社会で「主流」の生き方の規範化の再生産になる。今は、「前向きに働いて成果を出して」「子育てもする」既婚女性と、それを支えるし当然収入も地位もある夫という組み合わせが「良い人生」だろう。仕事もパッとしないし恋愛にも恵まれないダメンズとか、仕事にも男にも興味ない女子とか、パートナーのいないレズビアンなんかはあまり想定されていない・・・。「活躍」したくないひとなんていないかのような言われ方。

 「活躍」という名の労働。そういうことなのだろう。

 そして怖いのは、こういう「活躍」言説がまるでフェミニズムのひとつでもあるかのような雰囲気。おそらく多くのフェミニスト(を自称する人)は、こういう批判に同意するだろう。でも表立って批判する動きは大きくない。活躍言説を批判するとまるでフェミニズムを批判しているかのように見られかねない難しさがあるから。でも批判しないと、フェミニズムはますます「お上の」意向みたいになってしまって、力を失っていくだろう。

 フェミニズムは誰かに「モデル」を指南したり、教えたりするものではない。むしろ世の中が女性に様々なモデルを押し付け、自由を奪っていることを気づかせ、そうではないひとりひとりの自由なありかたを尊重することを支えようとするもの。「活躍」なんてしたってしなくたっていい。できるときとそうでないときがある。上から言われる「活躍」ほど怖いものはない。そういう「活躍」をしていないと見なされる人、「普通」の女性たち、日の当たらないところにいるひとりひとりのためにあるのがフェミニズム、のはず。

 「男性活躍推進法」なんてありえないし、そんなのだったらみな笑うだろう。なのに女性の場合だけ、「良いこと」のようにされてしまうおかしさ。どれだけ女性がバカにされてるのかということに気づかないと。

 しっかし、こういう「正論」めいたことを言うと浮いてしまう世の中。今更感があるというか、みんな活躍なんかしたくないんだけどでもそんな本音はおいておいて、一億総活躍社会、という「ていに」しておいたほうが国的にいいよね、みたいな。やっぱり今はもうゆるい戦時中なんだろうかと思ってしまう。少なくとも戦争準備体制、ではある。これ以上乗せられないように、自分の正気は保っておかないと。









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by anti-phallus | 2016-12-22 20:10 | フェミニズム | Comments(0)

ナンシー・フレイザー インタビュー「クリントンはエリート女性に利するネオリベラル・フェミニズムの象徴」

フレイザーのインタビューを訳しました!スペイン語の評論サイト『CTXT』上に、2016年4月20日公開されたものです。原文は↓

 前にこのブログでご紹介したもの(ココ)は、フェミニズムの意味について論じられたものでしたが、こちらはもっと長く、テーマも広汎にわたっています。現在が主に承認の時代にあるというフレイザーの従来からの主旨に加えて、戦後からの世界的変化について分かりやすく論じている冒頭のところは、承認と分配の理論についてご存じない方にも取っ付きやすいと思います。そしてこのインタビューの意義のひとつは、承認と分配に加えて、最近導入している「Representation 表象/代表」の概念について説明している点です。

 それから、アイデンティティ・ポリティクスと承認の運動の違いについて話していて、そのなかで同性婚やLGBTの政治の意味、軍隊における同性愛の処遇について触れているあたりも非常に刺激的。

 そしてタイトルにもなっているアメリカ大統領選についての論評は、もっと早くにご紹介できたら・・・と悔やまれますが、今読んでも価値は大きいものと思います。クリントンがトランプに負けた後、新聞等で「ヒラリー敗北を惜しむ日本の女性たち」というような記事を載せていましたが、ヒラリーは「女性の味方」「女性の代表」なのでしょうか?フレイザーは、クリントンが「全ての女性の味方」ではないことをはっきり指摘しています。どうして日本のマスコミはこれくらいのことを理解できないのでしょうか・・・。その上で、トランプが支持を集めていたことについてより詳しい分析が欲しかったですね。このフレイザーの指摘を踏まえると、先の大統領選は「エリート女性のためのネオリベラル・フェミニズム」と大衆の味方のふりをした右翼ナショナリズムとの対決だっということになるでしょうか。


 全て含めて、非常に面白いインタビューでした。フレイザーさんの了解を得てここに公表できることを嬉しく思います。とはいえ訳は相変わらず粗いのでお許し下さい。誤訳等ありましたらお知らせください。付け加えますと、アイデンティティ・ポリティクスと承認の政治の峻別は難しいところだと思います。フレイザーのフェミニズムやLGBTの運動への評価は議論を呼ぶところですが、私たちにより大きい世界観で運動を評価すべきことを思い出させてくれるという意味で理解されてほしいです。


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ナンシー・フレイザー(ボルティモア、1947)は、1960年代後半以来、フェミニストの闘いと批判理論の最前線に存在している。彼女のいう「ネオリベラル・フェミニズム」への批判や承認と再分配の理論は、社会的不平等を理解するために大きな影響を与えている。CTXTは彼女と、マンハッタンのニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチの哲学科にある彼女の研究室で会い、この時代におけるアイデンティティ・ポリティクスの優位性やバーニー・サンダース、ドナルド・トランプ、ヒラリー・クリントンの重要性、そしてなぜ彼女が最新作("Fortune of Feminism")において何が現代社会を病ませているかということと、治癒するための闘争はどこに注目すべきかということの両方を考察するために、第3の概念ーー「表象」を導入するよう求められていると感じているのかということについて話し合った。

─────15年前にあなたはヘーゲルから借りた用語、「承認」について、差異とアイデンティティの問いを理解するようになる時代のキーワードであるとしました。ヘーゲルはそれをどのように理解し、またなぜそれが顕著なのでしょうか

NF ヘーゲルにおいては本質的にふたつの行為者が相互に出会い、それぞれが主体です。ですが完全な主体になるためには、それぞれは他方から承認される必要があります。それぞれは他方を主体としてそれ自身の資格で認め、その資格は同時に平等であり、私と異なっています。もし双方の人々がそれを認められるなら、相互的な平等で対称的な承認の過程を経るでしょう。しかし、よく知られているように、主人と奴隷の弁証法において、彼らは相互に非常に非対称な、不平等な関係性、支配あるいは従属的な関係性で出会うのです。そして非互恵的な承認を得るでしょう。


─────なぜそれが2000年代初め以降流行したのでしょう?

NF それはわたしがポスト社会主義状況と呼んでいる時代と関係があります。配分的正義の問題が、圧倒的多数のマジョリティがもつ社会的闘争と対立の資源を組織化するヘゲモニーの能力を失った、戦後社会の歴史における一時期でした。この時点まで、戦後期において、この再分配のパラダイムは覇権的であり、ほとんどすべての社会的言説と対立はそれらの時代に組織化されました。このことは多くの事柄をより困難にしています。多くの主張が、分配の文法に合わないという理由で周縁へと格下げされました。基本的に、我々が後知恵でもって今わかることは、承認の政治の隆盛がネオリベラリズムの隆盛と同時に生じたということです。ネオリベラリズムは実質的に社会民主主義の想像力に置き換わり、平等主義的な配分的正義を攻撃し、すべての社会民主主義モデルは、完全に崩壊したとまではいかなくとも、少なくともすり切れ、その影響力を失い、政治的空間と言説を組織化する能力を失い、ある意味で様々な承認の主張と闘争に空間を開きました。


─────どのような例がありますか。

NF 1989年の共産主義とソビエト圏全体の崩壊のあと、私たちは何を得たでしょう?間もなく宗教対立や国家間対立が増えました。今私たちは承認の領域の中にいます。以前は、それらの主張は抑制され、除外されていました。そして分配の言説の共産主義のバージョンもありました。それは破壊されました。西洋ではそれは社会民主主義のヘゲモニーの喪失でした。ネオリベラリズムの隆盛とは別に、その一部分は1960年代から生まれた新しい社会運動に起きていることと関係があります。ニューレフトは、ラディカルな、反資本主義精神といっても良いものをもっており、再分配と承認の両方に、とてもラディカルな方法で焦点を当てました。ですが何十年か後、ニューレフトのある種のラディカルな反資本主義的精神が消え、残されたもの、新しい種類のフェミニズム、新しい種類の反レイシズム、LGBTの性の政治の運動などの運動の継承者たちは物事の政治経済面を無視しがちであり、私が地位や承認の観点で分析する問いに焦点を当てる傾向がありました。

─────あなたはそれらの問いをアイデンティティ・ポリティクスに結びつけました。どの程度までそれは否定的な意味合いがあるのですか。

NF 私が研究の中で試みたことの一部は、アイデンティティ・ポリティクスと承認の政治の性急な同一化を分離することでした。承認の政治は正義の合法的な局面であり、承認の不公正を乗り越えるための主張は重要であると言おうと努めてきました。それらは通俗的なマルクス主義がしたように、分配の主張へ単に還元されてはなりません。わたしは承認の主張の重要性や合法性、相対的自律性を守りたかったのです。ですが、それらを理解するためには一つの方法以外にもたくさんの方法があるということを示唆したかったのです。つまりそれは必ずしもアイデンティティ・ポリティクスの形式をとる必要はないと。じっさいしばしば、承認の主張はアイデンティティ・ポリティクスの形式をとります。これは私からみると不幸な事態です。それはあらゆる種類の問題を生み出し、承認のために闘うことを意味するもののアイデンティティ主義的でない思考を見いだせるならしばしばそのほうがよいのです。


─────それは何を意味しているのでしょうか?

NF フェミニズムのような運動が闘うべきものは、ある異なるアイデンティティや女性性の特質があり、それらは男性性と平等なのだから肯定的承認を必要としているというような考えのためではないのです。そうではなく私が言いたいのは、フェミニスト運動における承認の政治はジェンダーの事柄に結び付けられる地位の不平等の形式に対する闘争であるべきだということです。そしてそれは、これはそれがどうであれ「女性性」を再評価すべきかどうかということを開かれたままにしておきます。このようにわたしは承認の政治をアイデンティティ・ポリティクスから切り離そうと試みています。


─────振り返ると、もし誤った分析でしたら訂正して欲しいですが、アメリカ合衆国では結婚の平等や、黒人の大統領を冠するなど、可視性に関する事柄でも、承認に関して大きな進歩があったように思います。そちらにあまりに多くの強調がなされ、再分配の方にはあまりに少なかったのではないでしょうか?私たちは非常に不平等な時代に生きていて、より良い方向に行くようには思えません。

NF それは多い少ないの問題ではなく、均衡が存在しないという問題です。不均衡と一面性が存在しています。例えばゲイ・ムーブメントやLGBTの運動は、結婚の平等や軍隊へのアクセスに焦点を当てています。これらは今私が闘いを起こす場所のための第1の選択ではありません。ですが、その両方とも、面白いことに、分配的な要素をもっているのです。例えば軍は、大学の学費を得られる数少ないルートの一つであり、したがって経済的な利点がそこにはあるのです。また結婚する権利を得ることは、承認と同様に経済的社会的権利付与を得ます。


─────より望ましいと思うオルタナティブの道にはどのようなものがありえるでしょうか?

NF そうですね、わたしは基本的な社会的権利付与、結婚上の地位に関わらない個人の社会的権利を想像するための闘争が好ましいと思いますし、結婚しているかどうかを強調しない社会を選びたいと思います。「我々も結婚したい!」と叫ぶのではなく。医療や税やあらゆる種類の保障を、ただ人間であるだけで、この国に住んでいる市民、住民であるというだけで得たいとなぜ主張しないのでしょう?


─────部分的には再分配に関わる事柄でもあるのにそれらの運動は地位を強調します。それはなぜでしょう?

NF そうなのです。結婚の平等の事柄はそれ自身で、結婚している人としていない人その他の間に、不平等な地位の比較を導きます。わたしたちはそれを強化する必要はないのです。

─────2000年代初めに、あなたは「承認の問いは再分配の闘争を周辺化したり除外する」という「置き換え」の問題について書いていました。今やもうほとんど20年経ちました。この時代をどのように考えますか?

NF 少なくともアメリカでは社会的対立と主張形成の状況が、私が書いていた当時からはかなり異なっています。もっともドラマティックな実例は、現在の大統領の第一次選挙キャンペーンです。そこでは、一方に、「民主的社会主義者」であろうとするバーニー・サンダースがいて、分配に圧倒的に焦点化する明確な階級の線を根本的に押し出そうとしています。彼はまたあらゆる良質な進歩的な承認の闘争を支持していますが、実際に中心的に力を入れているのは、1%ほどの億万長者階級に対するこの問いです。


─────彼が第一に階級を強調することによって多くの支持を得られたことは驚きではありませんでしたか?
NF その通りです!信じられないほど驚きました。とても喜ばしいことですし、私はそれまで予見しませんでした。なにより、冷戦の終わりから大変遠くまで来たということを教えてくれました。社会主義という言葉を使うことができるという事実、その言葉が偏見をもたらしたり、赤狩りや狂気のようなものを触発しないということは興味深いことです。他方、ドナルド・トランプ側では、ある種の右翼の権威主義的国家主義的大衆主義があり、階級問題のようなものを呼び起こすかのようだが、排他的な、半ばレイシスト的で、確実に国家主義的な色合いに染めています。そしてこれら二つの姿は承認の政治において、その計画案と同様非常に激しく異なっているかのようですが、それらは双方とも分配の新しい特色を表現しています。私が90年代半ばにそれについて書いていた時、分配は周辺にあって、すべてのものは承認、承認、承認でした。もはやそういう状況ではないのです。承認は消えていませんし、消えるべきではありませんが、それは異なる種類のバランスの中にあるのです。

─────選挙について触れられましたが、民主党側の他の候補者、ヒラリー・クリントンについてはいかがですか。グロリア・スタイネムのような多くの第二波フェミニストは、彼女は女性でありフェミニストの候補者なのだから女性は彼女を支援すべきだと声高に主張しています。彼女はフェミニストの候補者なのでしょうか?

NF そうですね、私はそう思いません。ですが非常に興味深いことが進行しています。クリントンは長い間、献身的なフェミニストであり、彼女は女性と子どものための支援でキャリアを開始しました。彼女は「女性の権利は人権である」と国連で演説を行ったことでも有名ですし、妊娠中絶支持派であることは確かです。ですから、それらすべての事柄がこの種の承認の側に適合するなら、彼女はそちらに位置付けられるでしょうし、よりはっきりさせれば、サンダースよりもそちら側でしょう。ですが一方で、これはどんな種類のフェミニズムなのでしょう?クリントンはある種のネオリベラル・フェミニズムを体現しているのです。ガラスの天井を破り、中に入っていくことに焦点化するような。それは、すでに、政治や経済の序列を上昇するための文化や他の形式の資源を豊富に持っている、特権を持ち高学歴の女性たちを妨げる障壁を除去することを意味しています。これは、特権を持つ女性を主な受益者とするフェミニズムですが、彼女たちの上昇する能力は、ある意味で、すべてのケア・ワークを提供するこれもまた女性化された低収入で不安定でしばしば人種化されたサービス業の広大な蓄積に依存しているのです。そして同時に、ヒラリー・クリントンは彼女の夫同様に、金融の規制緩和によってウオール街に深く関わっており、従ってこれらすべての経済の新自由主義化に関与しているのです。したがって、サンダースが代表するような種類のフェミニズムは、すべての女性、貧しい女性、黒人女性、労働者階級の女性たちなどのためのフェミニズムになりうるより良い機会を持っているのです。そしてそれは私の考えるフェミニズムにも近いのです。


───── あなたは著書の中で、第3の概念を導入されました。そこでは承認と再分配については触れず、表象を提示しています。なぜそうする必要を感じたのでしょう?

NF 一方の経済的分配の問題とも他方での地位と承認の問題とも離れて、社会の根本的な局面として、政治的なもの自体に関わらなければならない他の問題群があるという考えをはっきりとした方法で主題化するためです。また私たちの時代においては、難民、亡命希望者、未登録者(訳注:非合法移民)の世界の中で誰が政治的地位を持つのかという問いすべては大変重要なものです。これは特に承認にも再分配にも関連せず、それらの交差物でもありえません。それは政治的な声を持つことについてでもあるのです。

───── それらの超越した境界線はどの程度までなのでしょう?

NF 政治的な声と誰がそれを持ち誰がもたないかということについて考えるとき、合衆国や他の既存の国民国家の限定的な政治的共同体についてのみではなく、より広く国際的で、トランスナショナルな、グローバルな文脈で考えるべきだと思います。国家が不平等に権力を与えられている世界の問題もあります。だから、あなたが例えばソマリアのような、失敗した国ではなくとも、巨大なグローバル権力の支配下にあったり、IMFなどのようなグローバルな金融機関の支配下にある非常に弱い国の市民であったなら、この巨大なレベルで、あなたの国内だけではなくそのような世界システムの中で取り組まなければならない大きな問題に政治的な声に関連して直面するのではないでしょうか。そしてそれらに到達する唯一の方法はこの表象の概念によってなのです。その考えは、正義の三つの局面、誤分配、誤承認、誤あるいは無表象または政治の問題の間違った枠組みの3つの異なる不正の形式について考えるということです。


─────そうしますとあなたはそれを社会運動や政治の観点でどのように分節化しますか。例えば私はヨーロッパについて考えていますが、政治的主体性をどのように分節化するかという問い、それはアイデンティティ・ポリティクスを確立し、あるいは取って代わることなしに起こり得るのか、という論争があります。あなたは表象やトランスナショナリティの概念を紹介しますが、グローバル化した世界の中で、アイデンティティを強調することなく、例えば表象を強調することで共同体の権力を築けるのでしょうか?それが起こり得ることをどのように提示しますか?

NF 例えば、EUの全体構造や問題は部分的には表象に関する問題だと思われます。ヨーロッパ中央銀行とグローバルな金融機関は現在、いわゆるトロイカの関係で、財政緊縮の遂行によって選挙を無効化できるような限りない権力を持っているという事実によってだけでも。彼らはギリシア人に、「われわれはあなたが誰に投票しようと気にしない。あなた方はそのような政策は実行できない」と言えるのです。ですから、EUがグローバルな金融秩序と交差するとき、その構造の中には、政治的権力と政治的声はどこにあるのかという基本的な問いが横たわっているのです。それは承認と分配の問題以上のものであり、さらにいえばそれらに切り替わって投射されるのです。より富裕な北の国々がPIGSと呼ばれる南の国々を怠惰で税金逃れだと見下しているヨーロッパでは、ある種の承認の政治が存在しているのですから。それはあまりになじみのある承認の物語です。しかしそれが本当に怖いのは、それがこの構造的な問題と交差するところで、そしてもちろん、それが民主的な声に対して抑制を強制するようなEU自体の創出に関係があるということです。















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by anti-phallus | 2016-11-29 20:00 | フェミニズム | Comments(0)

アメリカ大統領選についてフェミニストの立場から

アメリカの大統領選について、マスコミはもっぱらトランプ氏についてばかり報じていますが、フェミニズムの視点から見た論評を紹介します。
政治学者のジラー・アイゼンスタインの、the Feminist Wireというサイトへの寄稿です。(元記事はこちら
ヒラリーという女性の権利を主張する政治家の存在にどう対峙すべきか悩ましいフェミニズムの状況が見えてきます。
ちなみにフレイザーも、オバマとヒラリーの対決について、興味深い論評をしています(『正義の秤』第7章など)。
学歴の高いイデオロギー的なフェミニストや若者がオバマを支持したのに対して、学歴や階層の低い地方の女性たちがヒラリーを支持したと。そしてこの分裂を超えてフェミニストの連合を再生させるのが課題だと。

アイゼンスタインにしてもフレイザーにしてもこれだけしっかりした責任あるフェミニストがいるということに感謝の念をもちます。日本でもフェミニズムの視点からこういった言説を出していかないと。

文中に出てくる中絶の問題についてはこちらの記事が参考になります。
中絶の権利がどんどん死文化しつつある状況がわかりますが、日本では刑法堕胎罪にしても母体保護法にしてもなかなか議論にもならないのに中絶天国と言われるような状態。女性の権利を守るというのは本当に難しい。
抄訳ですし、著者の了解は取っていないことをご了承ください。
(特に最後のビヨンセのレモンのところ、訳しにくかったのでカットしてますが、うまく訳せる方いますか?)


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「わたしたち」はthe WOMAN cardで遊ぶ用意ができた。でも反レイシスムのフェミニストはどうすべきだろうか?

わたしはこれを、大統領選に女性候補者がいるという事実をよろこんでいて、だがこの特定の候補者のフェミニズムの観念が好きではない多くの女性たちのために書く。わたしはまた、バーニーのキャンペーンを含むアクティビストのグループの多くを支持する者として、だがよりラディカルに反レイシストでフェミニストでありたいと欲する者としても書いている。わたしはまた、選挙という舞台が求めるべき民主主義をもたらすとは思えず、だがこの夢ーーー十全に人道的で、自由で、非帝国主義的で、反レイシストでフェミニスト的で、ジェンダーに基づかない世界ーーーのためにできる限りのことをしなければならないと考える人々のためにも書いている。

これは地獄から来た選挙だ!あからさまに人種差別主義で、ヘテロセクシストで、金持ちの頑固者が、合衆国で初めての女性の大統領候補者に狙い撃ちしている。そしてこの初の女性候補者は、大いに大衆的な、最初の白人男性、民主主義的な社会主義者に挑戦を受けている。

ヒラリー・クリントンはエリートでフェミニストの候補者とみられている。そしてバーニー・サンダースは進歩的で平等主義的な候補者とみられているが、彼は人種や性やジェンダーの平等については十分に発言していない。

これら候補者の誰も、十分に反レイシスト・反帝国主義的なフェミニストであるとはいえない。しかし、われわれはどちらか、あるいはこのぬかるみのなかにいることを選ぶよういわれている。ヒラリーは女性の「権利」は彼女のメッセージの核心だと考えているが、「権利」の言説は部分的で、帝国主義的で人種化されたままである。

女性の「権利」は十分ではない。女性は例えば中絶のような何かへの権利を持ちうるが、それを獲得するためのアクセスをもっていない。人は中絶への法的権利を持ちうるが、医学校がもう中絶の方法を教えていないなら、彼女はアクセスできないだろう。もしTRAP法が続けば、中絶のできる病院は中絶の権利を無意味なものと考えて閉鎖し続けるだろう。

ヒラリーの女性の権利のアジェンダは女性を男性と同等とみなしている。だがこれは、2016年においては問題がある。彼女はここでどの女性のことを考えているのか?我々すべてのことを考えているだろうか?そして私たちはどのような男性と同等であるべきなのだろうか?

わたしたちはいつもヒラリーがミソジニストに笑い者にされないようにするだろうが、それはわたしたちの多くにとってあまりに特権化されたフェミニズムを支持することとは異なる。バーニーは経済の不平等に完全に焦点化しており、残りはあとからついてくるだろうと考えている。だがはっきりとした反レイシストでフェミニスト的なアジェンダが自然と進展するだろうと信じるのは難しい。

反レイシストで反軍事主義者のフェミニストは、帝国主義やレイシズム、女性嫌悪、そしてヘテロセクシズムの深く結びついたシステムについてもっと聞く必要がある。ヒラリー、わたしたちは単にガラスの天井を割るだけではなく、すべての女性を地下室から解放し、そして地下室を壊す政策を求めている。そしてバーニー、わたしたちは女性、とくに有色女性が貧困層の中でも最下層であることの承認と救済を求めている。

反レイシストで反帝国主義的フェミニストは、人種とジェンダーの抑圧のつながりと重なりを考察しなければならない。白人の特権は、白人女性の生を強調し、他のすべての肌の色の女性たちを抹消する。ヒラリーとバーニーは白人とこの白人支配に苦しんでいるそれ以外の人々のあいだの特徴と差異を明確にし、救済策を探る必要がある。

そのような反レイシストのフェミニズムは、より包括的でラディカルな民主的実践を進める。思考を明確にしていくとより一層、それは包括的になっていく。普遍的になると包括的になるというよりは。誰も明確化から除外はされない。だから誰も排除されない。もし政策が妊娠中の女性に中絶によって妊娠を終わらせることを許すなら、誰もこの選択から排除されない。誰もそれを選ぶ必要はないが、その選択はまだ残っている。そして今日男性は選択肢を必要としないが、選択肢を持つ女性は彼を排除しない。その逆は真実ではない。

反動的な、リベラルな、あるいは単に沈黙させられたフェミニズムを超えて考えよう。

ネオリベラルフェミニズムと超軍事主義的フェミニズムを超えて考えよう。選択の法的支えに焦点化することで権力と特権の現存する構造を特権化する「権利」で定義されるフェミニズムを超えて。

そしてわたしたちは「フェミニスト」の選挙言説の討議とディスカッションをさらに開きたい。トランプのミソジニーでもヒラリーの(暗黙の)白人主義的ネオリベラルフェミニズムでも、バーニーの語られないフェミニズムも十分ではない。私たちは他の方法、第三の方法、いわゆる、私たちの望んでいる新しい人種とジェンダーの正義について考える方法が欲しい。

反レイシストで反帝国主義のフェミニストとしてわたしたちは、次のことに責任を持っている。賃金の平等、リプロダクティブ・ライツとその権利を行使できるアクセス、15ドルの最低賃金、有給の家族休暇、LGBTQの公正、すべての人のヘルスケア、すべての人が受けられる大学教育、気候変化との闘い、公平な移民と難民政策、人種の正義、警官の暴力と大量監禁の終了、先住民の権利、そしてどんな犠牲を払っても戦争を避けること。

わたしたちはビヨンセのフレーズに感謝する。
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by anti-phallus | 2016-05-31 17:24 | フェミニズム | Comments(0)

フェミニズムと美

 またよもやまですが。フェミニズムと美の関係は複雑で、フェミニズムに関心のある人からもそうでないひとからも「女性の美に対するフェミニズムの考え」をなにか固定的な内容として受け止めているように感じることがある。
 まあ代表的には、「フェミニズムは女性に美しさを求める社会を批判するものだから、フェミニストは外見など気にしてはいけない」というイメージ。こういうイメージが強くなると、フェミニストはスカートを否定するとか、美人が嫌いとかいう歪んだフェミニスト像が生まれることになる。また、フェミニズムを支持する立場の人自身がそういうイメージに縛られているように感じることもある。

 わたしにとってのフェミニズムはそういうものではないので、不思議だなといつも感じている。それで思ったのは、わたしの場合フェミニズムに入っていったのは、90年代の華やかだった頃のフェミニズム関連の文献からで、美をテーマにしたものと言えば例えば江原由美子さん編集の「フェミニズムの主張」シリーズ(勁草書房)とかからで、そんななかではミスコンや性の商品化なんかが賛否両方から喧々諤々と論じられていて、でも統一的な結論などは提示されていなかった。だから、そういう風に色んな立場から自由に議論する場がフェミニズムみたいなイメージを持っていたと思う。
 それは単に何でも議論すればいい場、という意味ではなくて、ジェンダーや性に関してはまず言葉にするのがはばかられる社会というものがあって、とくに女性が率直に性について語るのは今でも「恥」や何かのネガティブな評価を受けやすい。美や外見に対する強制力はとても強いものがあって、それを否定するのには勇気が要る。そんななかで、自分個人の感覚も含めて議論しても許される場、というのはたぶんフェミニズム以外にはないのではないだろうか。90年代よりも今はさらにそうだという気がする。

誰もが自分をありのままに認められたいと思っている一方で、そのためには「ああいう顔」「〇〇さんみたいな体」にならないとだめだという圧力も自分の中にある。フェミニズムに関心のある人だってこういう社会的圧力から完全に自由ではない。単に、この美に縛られた社会を否定するのではなく、そういう情けない自分も受け入れながら、本当に自分にとって望ましい美を考え探し続けていく。それをサポートするのがフェミニズムなんじゃないかなと思う今日この頃です。
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by anti-phallus | 2015-12-23 15:27 | フェミニズム | Comments(0)