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カテゴリ:フェミニズム( 19 )

【補足追加】中日新聞上野千鶴子さんインタビュー記事に思う

 ネット上でまた上野千鶴子さんの発言について話題になっています。わざわざ取り上げるのもどうなのかなと思っていたのですが、議論のテーマ自体は日本における移民問題ということで、重要なものです。このテーマで、フェミニストのスタンスがひとつに代表されてしまったらよくないので、ひっそりと書いておくことにしました。

 発端は、下記の中日新聞の記事です。


 この記事自体、そもそもの趣旨がよく分からず、「建国記念?」「司馬?」「日本人?」それでなんで移民問題?とよく分からないことだらけなのですが、紙面ではもっと説明があったのでしょうか。そしてなぜ上野さん?移民問題についてとくに研究成果のある方ではありません。ちょっとやっつけ感のある記事なのですが、とにかくいろいろ問題があるということで批判がなされ、その中でも下記の移住連さんが公開質問状を出されました。

 もっともな内容で、論旨としては「上野氏の発言が実態に基づいていないこと、そして結果的に排外主義を再生産していること」が指摘されています。
 わたしはこれまで研究テーマの一つとして「ジャパゆき」現象についてわずかではありますが取り組んできて、その中でいろいろなことを発見しました。まず大きいのは、移民あるいは在日外国人について日本社会のマジョリティはあまりに無知であること。まあ無知だからといって責めるつもりはなくて、関連する法制度が複雑すぎることにも問題があります。日本には、法的に正式には「移民」という概念はないのではないでしょうか。移民といって一般的にイメージされるのは、生まれたのとは違う国に住み、働いているひとのことでしょう。ですが日本でそのようなあり方はごく特別な例しか認められていません。

 法律も移民法という名称ではなく、「出入国管理及び難民認定法」という法律です。その名の通り、「管理」するための法律であって、これによって在日外国人は日本にいる資格や期間、条件等々を「管理」されています。欧米各国には移民局と通称されるような国の機関があります(正式名称は様々)が、日本でそれに近いものは「入国管理局」で、「入管」と通称されていますが「移民局」といわれることはない。それは日本の入管法・政策が基本的に管理主義的な発想で作られているためで、「移民の権利」を認めるという発想はほとんどないからです。その体質をはっきり表しているのが、在日韓国・朝鮮人に対する歴史的処遇です。日本政府は彼女・彼らが自身の言語や文化、それに基づいた教育を受ける権利を歴史的に否定・禁止してきています。戦後、在日コリアンの人々はそれに対して闘ってきた歴史があります。現在でも高校授業料無償化からの除外政策や、ヘイト・スピーチなど問題は続いています。

 これは法律だけではなく、日本社会の社会意識としても同様だと思います。グローバル化といわれて何十年経っても、多くの人々は「日本は日本人のもの」という感覚でいるでしょう。飲食店やコンビニなどで日本語を話せない外国人の店員さんに対して、「日本にいるんだから日本語しゃべれよ」という目で見てしまうことは誰しもあるでしょう。そこに、彼女・彼らがどのような思いで日本にいるのか、日本語ができずに苦労しているのではないか、ということまで思いを馳せることは少ないでしょう。

 このような社会の雰囲気は、上野さんの発言、「移民を入れて活力ある社会をつくる一方、社会的不公正と抑圧と治安悪化に苦しむ国にするのか」という部分や「日本人は多文化共生に耐えられない」という部分に現れています。つまり、「移民イコール治安悪化」という社会に渦巻いている偏見(それこそ「エビデンス」で否定されるのに)であり、「多文化共生は辛いこと」という(こちらはあまり指摘されない表現ですが)マジョリティの意識です。ちなみにわたしは、この発言を読んで、多くの人々にとって多文化共生は辛いことなのか、と逆に気づかされました。多文化共生というと日本と異なる文化に触れて楽しく交流する、というイメージだと思っていたのですが、それを「辛いこと」と感じる人も多いのだなと。ある意味、「日本の本音」みたいなことなのでしょうね。「日本の本音」を代弁しているのが今回の上野さんの記事であり、だからこそいろんな人が注目しているのでしょうか。

 それから、議論が混乱しているのが、移住連の指摘通り、上野さんが否定している「移民政策」とは何なのか、という点ですが、推測するに、安倍政権の考えている外国人労働力導入政策のことかと思われます。これまで何度か報じられていますが例えば下記。



 こういった政府の動きに対して「移民開国」といって危機感を表明してる方が多いようです。ですがこの政策はどうも技能実習生の枠組みを拡大したり特区を利用するらしいということと、開放する分野は農業・介護・家事などに限定していることから考えて、「移民開国」と言えるようなものではないように思います。既に戦後これまで日本は、大量の外国人労働者を迎えています。特に70年代後半から80年代のバブル期、製造業と性産業を中心に、外国人労働者がいなければ成り立たなかったような状況でした。この時期に多かったのは東南アジアからの人々。当時について以前聞いた当事者からは、「いわゆる不法滞在していても警察は全然黙認」だったそうです。それが90年代の不景気に入ると、途端に取り締まりも厳しくなりました。

 つまり日本の入管政策は、日本経済の都合だけで外国人労働力を入れたり出したりしようというもので、開国という形をとらなくても実質的に国は開いたり閉じたりしているのです。というかグローバル化じゃなくても、国境を完全に閉じることなんてできないのです。人はいろんな理由で国境をいろんな形で越えるのです。国家はそれを制限し、管理しようとします(例えばトランプのように)。今回の安倍の政策もその一環に過ぎません。それに対して「日本は排外的だから開国しない方がいい」と発言することがいったいどんな意味をもつのでしょうか。それはやはり、今までと今の移民あるいは外国籍者の人々が日本で生きてきた、生きている現実を見えにくくしてしまうのではないでしょうか。

 フェミニストとして考えるならば、そのような日本政府の企業中心的外国人管理政策を批判し、日本国籍を持たない女性たちの立場を想像することが大事なのではないでしょうか。私の見てきた限りでは、在日フィリピン人女性のほんとにみなが、夫やお店の客からの暴力、DVに苦しんできています。日本社会の外国人差別と女性差別を真っ向から受けているのです。開国の是非を論じるのではなく、既にある当事者の現実を見据え、彼女・彼らの人権を保障する制度や社会をつくっていくことが求められるはずです。つまり、安倍の政策をどう思うか、という水準(のみ)に乗ってしまってはダメだということですね。基本的な発想のレベルから問題があるので、そうではない法制を根本から主張していかないとダメだ、ということです。実務的な場面で政策の内容について評価する必要はありますが、研究者あるいはフェミニストとして発言できる場合には、現状肯定ではなく、現状を踏まえたより望ましいビジョンを示すことが求められているはずで、そうではないから今回多くの方が批判しているわけですね。

★補足
この論点には非常に深い前提もあって、というのはフェミニズムが移民のようないわゆるジェンダーには直接関連していないとされる問題についてどのように向き合うか、ということです。それについて上野さんは以前から、「フェミニズムはジェンダー(女性)以外の問題には関われない、関わるべきではない」という立場をとることが多い方でした。ただし、それと矛盾する言動もしているので困るのですが。
わたしは、ジェンダーは国籍や民族、人種、階級、身体性など他の社会的カテゴリーと切り離して存在するわけではないので、そのような分離主義的立場は非現実的だと考えています。
この前提にある問題が、今回の論争(?)の根底に横たわっていると思います。このレベルにまで議論を深めることができれば、上野さんの今回の発言も有益な結果を生むことができるのではないでしょうか。

★在日フィリピン人女性のインタビューを用いた拙著論文です。関心のある方、読んでいただけると大変嬉しいです。

「在日フィリピン女性の不可視性」岩崎稔/陳光興/吉見俊哉『カルチュラル・スタディーズで読み解くアジア』 せりか書房  2011年

「国籍法を変えたフィリピン女性たちの身体性―ジェンダー・セクシュアリティとグローバリズム」森千香子/エレン・ルバイ 編 『国境政策のパラドクス』  勁草書房  2014年





















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by anti-phallus | 2017-02-16 17:31 | フェミニズム | Comments(0)

フレイザーのトランプ論「進歩的ネオリベラリズムの終焉」

マクロビーに続いてナンシー・フレイザーのトランプ論を訳しました。こちらはマクロビーより立場を明確に打ち出している、フレイザーらしい論評です。今年1月2日付で公開されています。

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前回のフレイザーのインタビューでも見られましたが、トランプの勝利を、ネオリベラリズムで被害を被ったひとびとに支持された結果と解釈しています。そしてその勝利は「進歩的ネオリベラリズム」の敗北でもあると。進歩的ネオリベラリズムとは、グローバルな金融資本主義と「多様性」や「エンパワメント」といった言葉を唱えるエリートたちの結合、を意味しています。本来「多様性」や「反差別」といった言葉は、全ての人々のための理想でしたが、現在ネオリベラリズムに利用されて、能力主義や企業中心主義のための言葉になってしまっているとフレイザーは考えています。これはフレイザーが従来から批判しているフェミニズムの変質と深く関わっている重要な論点です。

トランプの支持者たちは、文化的には「多様性」を唱える教養あるエリートたちから差別され、経済的にもグローバル化で大きな打撃を受けました。本来ならそこで左翼が彼女・彼らの痛みを引き受けるべきなのですが、現代アメリカでは左翼が不在なため、トランプの反動的・差別的な政治にすくわれてしまった、ということです。
しかしもちろんトランプはひとびとの真の救済となるはずはないので、フレイザーは、とくにクリントンを支持したひとびとに、間違いを認めトランプ支持層に訴えかける努力をすべきだ、と論じています。

フレイザーが根拠をおいているのはサンダースやその支持者たちで、これは前に訳したアイゼンスタインや恐らくマクロビーとも少し異なるスタンスなので、そこが面白いと思います。サンダースの支持者たちは、オキュパイ運動等と重なってくるだろうと思いますが、オキュパイ運動にどれだけフェミニズムの視点が見いだせたのか、そのあたりがポイントでしょう(というか私が関心がある)。

それから、この議論を日本に重ねて考えると、社会科学だったり左翼運動だったりフェミニズムだったりの権威ある言説や世界への反感が、近年の右傾化やレイシズム、ナショナリズムにつながっていることが連想されます。日本の右傾化も、グローバル化で経済的に打撃を受けた層によって支持されている面のあることが指摘されています。アメリカほど明確に地域性を示していないのが分かりにくいところですが。

全体的にはわたしとしては、トランプの経済政策だってネオリベのひとつなのでは?(クリントンの進歩的ネオリべに対して、トランプは反動的右翼的ネオリべ、ということになるはず)とかフレイザーの主張する左翼の再生はどれだけ現実的なのか?という点や、多様性を唱えるエリートやフェミニストたちの主体的責任を問い過ぎてないか?(彼女・彼らの責任というより構造的側面が大きい気がするが・・まだ分からない)という点で迷いますが、ともあれ発見の多い、理性的な論評だと思います。多くの方々に読まれ、議論されてほしいです。

追記
非常に良く見ていただいているので付け加えますが、フレイザーのいう左翼が本当に現代の問題に答えるためには、大幅な、今までの左翼の歴史を変える、超えるような変化が必要なのでしょうね。わたしはなんとなく、左翼はもっとフェミニズム(良質の)から学ぶべき、というのがまず最初に来ると思います。






進歩的ネオリベラリズムの終焉


ドナルド・トランプの選挙は、ネオリベラルなヘゲモニーの崩壊を共に知らせる一連のドラマティックな政治的反乱の一つを表している。これらの反乱には、英国における「ブレグジット〔Brexit:イギリスのEU脱退〕」選挙や、イタリアにおけるレンツィ〔元首相、政治改革の国民投票で敗れ辞任〕の改革への拒否、アメリカにおける民主党の指名投票におけるバーニー・サンダースの選挙運動、フランスの国民戦線〔マリーヌ・ル・ペン率いる反EU・移民排斥を唱える政党〕支持の増加などが含まれる。これらはイデオロギーや目標が異なるにもかかわらず、これら選挙による反乱はターゲットを共通している。これらはすべて、企業中心のグローバリゼーション、ネオリベラリズム、そしてそれらを推進する政治的権力者たちへの拒否である。どのケースにおいても、有権者たちは、今日の金融資本主義を特徴付ける財政緊縮、自由貿易、略奪的債務、不安定な薄給の仕事という致命的な組み合わせにNOを突きつけた。それらの選挙結果は、この形式の資本主義の構造的危機に対する応答であり、その構造的危機は、2008年〔リーマンショックの起きた年〕に初めてグローバルな金融秩序がメルトダウン同然に陥った事態によって白日のもとにさらされたものだ。

しかしながら最近まで、この危機への主要な応答は社会的抗議運動だった--もちろんドラマティックで生命力があるが、大体は短命な--。対照的に政治システムは、比較的安泰で、いまだ政党官僚や権威あるエリートたちに牛耳られているように見えた、少なくともアメリカやイギリス、ドイツのような強力な資本主義国家では。しかしながら今や、選挙の衝撃はグローバル金融の要塞を含む世界中に鳴り響いている。トランプに投票した人々は、ブレグジットの投票者やイタリアの改革への反対者たちと同様、その政治的支配者に反抗して立ち上がった。それらのひとびとは、政治的支配層を鼻で笑い、この30年間自分たちの生活条件を侵食してきたシステムを否認した。驚くべきは彼女・彼らがそうしたことではなく、そんなにも長くかかったことである。

にもかかわらず、トランプの勝利はグローバル金融への反乱だけではない。彼に投票した人々が拒否したのは単なるネオリベラリズムではなく、「進歩的な」ネオリベラリズムだった。これは矛盾しているように聞こえるかもしれないが、アメリカの選挙結果とおそらく各地で起きているいくつかの出来事を理解する鍵を握っているのはこのねじれているが現実に起きている政治的連合である。アメリカの場合、進歩的ネオリベラリズムは、一方の新しい社会運動(フェミニズム、アンチ・レイシズム、多文化主義、LGBTQの権利運動)の主流と、他方での高級志向の「象徴的な」サービス産業に基づいた経済セクター(ウオール街、シリコンバレー、ハリウッド)との連合である。この連合において、進歩的勢力は、とくに金融化の認知資本主義の力と効果的に連結した。しかしながら、知らずに前者はその魅力を後者に貸し出した。理論上は違った結末を与え得るはずの多様性やエンパワメントといった理想は、今や、製造業とかつて中流階級の生活をなしていたものを破壊した政策の表面を飾っている。

進歩的ネオリベラリズムは過去30年間にわたってアメリカで発展し、1992年のビル・クリントンの選挙によって承認された。クリントンは「新しい民主党」の主要なエンジニアかつ標準的な伝承者であり、トニー・ブレアの「新しい労働党」のアメリカ版だった。組織化された製造業労働者やアフリカ系アメリカ人、都市の中産階級のニュー・ディール連合に代わって、彼は、企業家、郊外居住者、新しい社会運動、若者、多様性や多文化主義、女性の権利を信ずる本当の現代の進歩主義を主張するすべての人々の新しい連合を築いた。そのような進歩的な観念を支持しながらも、クリントン政権はウォール街の機嫌取りをした。経済をゴールドマン・サックスに差し出し、銀行システムを規制緩和し、脱工業化を促進する自由貿易協定を協議した。脇に追いやられたのはラスト・ベルト地帯である、かつてニュー・ディール時代の社会民主主義の牙城であり、今や大統領選挙人団をドナルド・トランプへ運んだ地域。この地域は、南部のより新しい産業の中心地と共に、この20年間を通して広がった高騰する金融化に大きな打撃を与えた。バラク・オバマを含む彼の継承者に継続され、クリントンの政策はすべての働く人々、とくに製造業関連会社に雇われた人々の生活条件を切り下げた。つまり、クリントン主義は組合の弱体化、実質賃金の切り下げ、仕事の不安定性の上昇、機能停止した家族賃金に代わる二人稼ぎ手家庭の増加について大きな責任がある。

最後の点が示唆するように、社会保障の圧殺は、新しい社会運動から借りられた解放的な魅力のベニヤ板で飾られた。製造業が爆発していた時期、国中が「多様性」や「エンパワメント」、「差別反対」の話で騒がしかった。これらの言葉は、「進歩」を平等ではなく能力主義と同一視して、「解放」の意味合いを、序列を廃止することではなく、勝者総取り方式の企業の序列の中で「有能な」女性やマイノリティ、ゲイなどの小さなエリートが増加することと見なした。これらの「進歩」のリベラルで個人主義的な理解は徐々に、60-70年代に広がった解放の、より拡張的で反序列的、平等主義的で階級に意識的で、反資本主義的な理解に取って代わった。ニュー・レフトが弱体化すると、その資本主義社会の構造的批判は消え、この国に特徴的なリベラルで個人主義的な姿勢が再び現れ、「進歩主義者」と自称左翼の情熱は見えないほどに縮んだ。しかしながらこの扱いを封印したのは、この展開とネオリベラリズムの台頭の同時発生だった。資本主義経済の自由化に傾注する政治団体は、「lean in〔女性がビジネス界などに進出しようとすること〕」や「ガラスの天井を破る」ことに専念する能力主義的な企業のフェミニズムに完璧な仲間を見出した。

その結果は、解放の切り縮められた理想と金融化の致命的な形式を混ぜ合わせた「進歩的ネオリベラリズム」だった。トランプの支持者に完全に拒否されたのはその混合だった。この勇敢で新しいコスモポリタン世界から取り残された人々の間で目立つのは、もちろん製造業の労働者であり、そしてまた経営者、中小零細企業、ラスト・ベルト地帯と南部の産業を必要とする人々、同様に失業とドラッグで破壊された農村地帯の人々だった。これらのひとびとにとって、脱工業化による傷は、彼女・彼らをおきまりのように文化的に遅れていると見なす、進歩派の説教による侮辱によって悪化させられた。グローバリゼーションを拒否することで、トランプの支持者たちはそれと同一視されるリベラルなコスモポリタニズムをも否定した。(全てではないが)ある人々にとっては、自らの状況の悪化を政治的正しさ〔ポリティカル・コレクトネス〕や有色の人々、移民やイスラム教徒のせいにするのはたやすかった。彼女・彼らの眼の中では、フェミニストとウォール街の連中は同類であり、ヒラリー・クリントンの中に完全に統合されていた。

この合成を可能にしたのは、本当の左翼の不在だった。「オキュパイ・ウォールストリート」のような定期的だが短命な爆発にもかかわらず、この何十年というものアメリカでは持続的な左翼が存在しなかった。一方にある金融化を批判するトランプの支持者の正当な不満と、他方の反レイシスト、反セクシスト、反序列的な解放の世界観を結び付けられる左派のわかりやすい語りはどこにもなかった。労働と新しい社会運動の間の破壊的でかつ潜在力のある結びつきは弱体化したままだった。左翼を実現するには不可欠な両極は、互いにバラバラになり、意見が合わず、正反対に位置づけられるままである。

少なくとも驚くべき初期のバーニー・サンダースの選挙運動まで、彼はBlack Lives Matter〔警官による黒人殺害などの黒人差別に反対する運動〕に突き動かされて以後、両者の結びつきのために闘った。サンダースの反乱は、優勢なネオリベラルの常識を打破し、トランプのそれの民主的な側面と共通点があった。トランプが共和党の権力者たちを負かした時、バーニーはオバマの継承者の指名に僅差で負けようとするころだった。民主党ではオバマの党員たちがすべての権力の段階を支配していた。その間、サンダースとトランプがアメリカの有権者の大多数に衝撃を与えた。だがトランプの反動的なポピュリズムのみが生き残った。トランプが、高額寄付者や党の大物たちに好まれる者たちを含め共和党のライバルを簡単に負かしている間、サンダースの反乱は、民主的でない民主党によって効果的に抑えられていた。一般投票のころまでには、左翼のオルタナティブは抑圧されていた。残されていたのは反動的なポピュリズムと進歩的なネオリベラリズムのホブソン的な選択〔究極の選択、選択の余地のないこと〕だった。いわゆる左翼がヒラリー・クリントンに対抗して結束した時、死が約束されたのだ。

にもかかわらず、またこの地点から、これは左翼が拒否すべき選択となった。社会保障の解放に反対する政治家階級によって私たちに提示された用語を認めるよりも、現在の秩序に対する社会的な反感の圧倒的な広がりに基づいてそれらを再定義するよう努めるべきである。社会保障に反対する「金融化と解放」を支持するよりも、金融化に対抗する解放と社会保障の新しい連合を築くべきである。サンダースのそれに基づくこのプロジェクトでは、解放は企業の序列を多様化することを意味するのではなく、それを廃することを意味している。そして繁栄とは、株の配当が増えることではなく、すべての人々にとって良い生活が送れる物質的必要が満たされることである。この組み合わせのみが、現局面で、唯一の信念があり見込みのある回答であり続けている。

わたし個人としては、進歩的ネオリベラリズムの敗北のために涙を流すつもりはない。もちろん、レイシストで、反移民、反エコロジカルなトランプ政権から恐れるべきことは多い。だがネオリベラルのヘゲモニーの内部崩壊も、クリントン主義による民主党の破壊もどちらも嘆く必要はない。トランプの勝利は解放と金融化の連合の敗北を印している。しかし彼の大統領の任期は現在の危機への解答も、新しい体制の約束も、安定的なヘゲモニーもどれも与えはしない。むしろ私たちが直面しているのは、空白期間、誰もが精神と心を手に入れられる開かれた不安定な状況である。この状況下で、危険だけではなく機会もあるのだ、新しいニューレフトを築くための。

それが起きるかどうかは、部分的には、クリントンの選挙運動に集まった進歩派たちの徹底的な自己反省にかかっているだろう。彼女・彼らは、ウラジーミル・プーチンとFBIに支援された「愚かな奴らのバスケット」(レイシスト、女性差別者、イスラム嫌悪者、ホモフォビア)に迷い込んだという心地よいが誤った作り話をやめる必要があるだろう。彼女・彼らは、能力主義と多様性、エンパワメントに関して解放を誤って理解したために、社会保障や良質な生活水準、労働者階級の尊厳を犠牲にした責めを負うべき部分があることを認める必要があるだろう。サンダースの「民主的な社会主義」というキャッチフレーズを蘇らせ、21世紀にそれはどのような意味を持つかを考え、どうすれば金融資本主義の政治経済を変容できるか熟考する必要があるだろう。とくに、彼女・彼らは、レイシストでも右翼でもない多くのトランプ支持者たちに手を伸ばす必要があるだろう、その支持者たち自身が「不正なシステム」の被害者であり、活性化した左翼の反ネオリベラル・プロジェクトに採用されうる、されるべきひとびとである。

これはレイシズムやセクシズムに関する緊急の懸念を無視するものではない。そうではなく、金融資本主義下で長い間歴史的に抑圧されてきた人々が今日どのように新しい表現と根拠を見つけ出すかということを意味している。わたしたちは選挙運動を支配していた誤ったゼロ・サム思考に反論し、女性や有色の人々を苦しめる危害と、トランプに投票した多くの人々の経験を結びつけなければならない。そのようにして、生き返った左翼が全ての人々のために闘える強力で新しい連合のための基盤を作ることができるだろう。




























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by anti-phallus | 2017-01-28 23:19 | フェミニズム | Comments(4)

アンジェラ・マクロビー「アンチ・フェミニズム、過去とこれから」

 アンジェラ・マクロビーのネット上の寄稿を訳しました。マクロビーはイギリスのメディア研究のフェミニストで、日本ではカルチュラル・スタディーズの分野で知られています。
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 彼女は、本文中でも触れられている『the aftermath of feminism』が大変面白いです。それは2009年の本なのですが、今回訳出したテクストは2016年11月公開のものなので、今日本でも話題沸騰(・・・)しているトランプ米大統領についてがメインの話題となっています。
 トランプ氏については、日本で語られるときは移民排除や人種差別の問題について批判されることが多く、女性差別についてはネタ的に、「こんなこと言ってるよ〜」みたいなノリで語られがちな印象がありますが、そうではない深刻な問題が横たわっていることを論じています。ヨーロッパ、アメリカだけではなく日本も含め、女性に対する抑圧や暴力が増大しており、にもかかわらず十分な批判がそこに向けられない状況に今あるということです。トランプ氏は、早速中絶の権利を抑制する政策を出し始めているようですね。(日本では中絶について、今でも刑法堕胎罪で原則は犯罪化されているーーーけれども母体保護法で条件付き許可されるという二重体制ーーーことを知る人すらほとんどいない状況・・・)
 このテクストの中でフレイザーのネオリベラル・フェミニズム批判についても触れられていて、そういう意味でも目を引きます。フレイザーとマクロビーの現状分析の内容と方法における共通性と個性を考えるのも大事なことかと。
 ちなみに「anti-feminism」を初め「反フェミニズム」と訳していたのですがカタカナにしちゃったほうが通りやすいのかと思いそうしてあります。ほかにも短いのに訳しにくい表現が多々あり、間違い等あればお知らせください。

原文は:


アンチ・フェミニズム、過去とこれから


暴力の危険と脅威が女性を待っている。アンチ・フェミニズムの新局面へようこそ。

シルヴィオ・ベルルスコーニがイタリアの首相だった時、わたしたちはアメリカで起こることの予兆を目にしていた。ベルルスコーニはメディア界の大物であり、道化を演じたがるが常にそこには脅しを忘れないショーマンであり、現実生活では、トニー・ソプラノであり、彼にとって女性はセックスの対象に過ぎなかった。ミシェル・オバマが外交上、この男性と握手しなければならない不快感で身をすくめる瞬間をカメラが捉えたのを思い起こそう。

ベルルスコーニは、全身全霊で、自立的な女性の増加に反対した。彼は、女性が身のほどをわきまえ、母、祖母、愛人、ショーガールとして従属していた時代まで時計を巻き戻そうとする男性だった。私の世代の女性なら誰もが、この種の、もはやお咎めなく女性の背中を縛り付けることができないことに憤慨している男性に馴染みがあっただろう。

世界の舞台でドイツのアンジェラ・メルケル首相のような強い女性と対面しなければならない時には、ベルルスコーニはジョークを飛ばし、彼女をからかい、男子生徒のように振る舞い、彼女の後ろではまるで彼女が乳母のような存在にすぎないかのように「おかしな顔」を作って、結果的に「あなたとまじめに付き合う気はない」と示していた。

フェミニストの主張に現実に直面すると、彼は伝統的なポスト・フェミニストの姿勢をとり、フェミニストに対して魅力がなく、年をとって、ムカムカすると侮辱する一方で、同時に、彼の政権に、無資格のステレオタイプ的にグラマーな女性を権限のある地位に登用した。彼はいつも新しい形の「中道派の」ファシズムをちらつかせ、普通の男性を代表するために左派とポピュリストを厳しく否定し、スカートは法ギリギリの長さまでにしておきたがった。

何年か経った現在、ドナルド・トランプの勝利はより大きなスケールでこれらと同じ特徴を示している。トランプの謝罪もされない性差別は、今や自信を持って再び自己主張する家父長制の反乱に自由を与えたようだ。これまでは、アンジェラ・メルケルやテレサ・メイ英国首相やニコラ・スタージョンスコットランド首相を見ればわかるように、家父長制は停止していると見られていたのだが。低次元の「外交的」でない侮辱は、権力の特定の行使の形式を映しており、女性を所属政党にかかわらず押し込めようとする方法である。

2016年の11月8日以来、多くのフェミニストがなぜそんなに多くの白人女性がトランプに投票したのかと問い直している。これは女性自身のミソジニー(女性嫌悪)を示しているのだろうか?ヒラリー・クリントンに、「エリート白人フェミニズム」を信奉し、合衆国の労働者階級女性との結びつきに失敗したと多くの怒りが向けられた。だが多くの黒人や他の民族的マイノリティの女性たちはクリントンに投票した。トランプの立候補中に示されたレイシズムのためだけではなく、夫や父親に保護されあるいは男性稼ぎ手に支えられるフェミニスト以前の女性になるという幻想は、もはや彼女たちを引きつけなかったからでもある。労働市場の人種化された特性は、この幻想に似たようなモデルが生まれるのをほとんど許さないし、したがって1950年代の典型的な主婦の時代に戻るような発想は出てこなかった。

どちらにしても、クリントンが自分たちの給料が何十年も上がらないままのふつうの女性有権者たちにつながれなかったという議論は、なぜ、彼女たちの多くが、彼女たちの権利を再生産に制限しようと用意し、そしてあらゆる種類の男性と平等なレベルでの職場への参加の能力を邪魔しようとする男性に進んで投票したのかということをいまだ説明していない。この現象は、アンチ・フェミニズムを検討することによってのみ説明可能である。

アンチ・フェミニズムは色合いを変え続けるが、決して去ることはない。ライターであり活動家であるスーザン・ファルーディが重要な著書『バックラッシュ』で記録しているが、合衆国においてリベラル・フェミニズムと社会主義フェミニズムの高まりとほぼ同時に、「モラル・マジョリティ」の怒れる反対運動の支持者たちが立ち上がった。私の著書『フェミニズムの余波(The Aftermath of Feminism)』で、より不快でもなくより進歩的な、あるいは親女性的でさえある力を持つように見えるこのバックラッシュの後の複雑化した状況を追った。

この運動は女性、特に若い女性の擁護の新しい形を伴った。彼女たちが、フェミニズムを古くてアナクロで全く魅力のない帽子として捨て、女性の個人化という「頑張る」道を選ぶという条件付きで。これは、新しい能力主義の中でフェミニズムの助けなしに容易に目標を達成できる野心的で競争心の強い人気者の少女の「ポスト・フェミニズム」だった。

イギリスのトニー・ブレアの任期中、この精神が政治文化とポピュラー文化に広がった。女性たちが笑顔を浮かべ素直な「ブレア・ベイビー」となるよう期待された時、フェミニズムは冷蔵庫に入れられた。私はよく思い出せるが、仕事の問題や雇用、ジェンダーやセクシュアリティに興味のある女子学生すらもがフェミニズムを拒絶し、それなしでやっていけると感じていた時代だ。若い男性のように後ろポケットにウイスキーの小瓶を忍ばせ、ラップダンスクラブに喜んで連れ立ってある種の「男根的な女性性」に感染するのが流行っていた。

ナンシー・フレイザーと何人かは、この種の業績に駆り立てられ、あるいは選択にもとづいた女性のエンパワメントの観念を宣伝することによってネオリベラルな秩序と共犯者になったとあるフェミニストたちを批判した。彼女たちは少数にのみ許される陽の当たる場所を認めることで資本主義に売り出したという複雑な方法で。その過程で、リベラル・フェミニズムの多くは、よりあからさまにマーケット主導で競争主義的な女性の成功の思想へと変質したが、この「ネオリベラル・フェミニズム」の形すらトランプ的な世界観にとっては嫌悪の対象かもしれない。

同時に、多くの異なるタイプと形式のフェミニストの運動と組織を含むフェミニストのルネッサンスも起きている。「エブリディ・セクシズム」プロジェクトはフェミニズムが近年そんなにも求められていることを示す最良の例の一つだ。同時に重要なのは、イギリスの「the F Word」や、アメリカのフェミニストがトランプの悪名高い「プッシーをつかむ」発言に抗議するために活気づけたやり方のような、この10年間のウェブ・アクティビズムだ。しかし、すべての老若のフェミニストたちを驚かせたのは、この新しい可視化が生んだ虐待や暴力、中傷の激しさだった。

アンチ・フェミニズムは今やより過激な鋭さをもっている。この憎悪はインターネットに本拠地を見出し、Jo Cox議員の無残な死が示したように、そこから街頭へ移動した。表向きにはコックスは移民や政治亡命希望者への憎悪の傾向を除去しようとしたために殺されたとされている。だが彼女が女性だったことも偶然ではないように思われる。殺害の脅迫を受け警察の保護を必要とすることになった女性の活動家や政治家、コメンテーターのリストはこの12ヶ月で急激に増えている。痛ましくもコックスは保護を要請するまでに至らなかったが。

脅迫と暴力の脅しは、お互いに喧嘩の構えを取りたがる男性とは違い、女性に対して特有の意味合いがある。ベルルスコーニは、女性は一家の男性に逆らうと叩かれるゴッドファーザー映画の王国に所属していた。トランプは近年の彼の多くの発言の中で、挑発的に、「怯える」必要はないと言ったが、新しいバックラッシュは、ある立場をとろうとする女性へのあからさまな挑発の形をとっている。避妊や中絶に関してついに得られた権利の核心はいまやかつてないほどに脅威にさらされている。「第2波フェミニズム」の頃から闘われなければならなかった自由を守るよう求められているのは女性自身である。

この脅威がどれほど現実的なのかはいえないが、最近のこのバックラッシュをみると、女性たちには、女性たち自身のために、またその娘や夫や父、息子のために、階級や民族の境界を超えて、真剣に権利を擁護する新しい方法を見つける緊急の必要性がある。フェミニズムがこれまでそしてこれからもその生をより良いものとするものであることを思い起こす必要もあるのだから。










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by anti-phallus | 2017-01-25 13:25 | フェミニズム | Comments(0)

大学の男女共同参画政策について

 この10年くらいずっと悩ましく思っていて、いつかちゃんと論じなきゃと考えてきたけれどもなかなかできていないという問題群の中に、標記のものがある。
 足元のことであり、しかもかなり複雑な意味合いを持っているものなので、論じるのも荷が重い。けれどもこのままだとするっと網を抜けてどんどん世の中に広まって埋め尽くしていくような怖さがある・・・・。
 この10年か20年くらいか、全国の大学ではどんどん男女共同参画政策が進められている。これは当初は、80年代頃からの大学における女性学やジェンダー論の興隆を受けて教員や市民の方々の草の根の努力から始まったところもある。だが、だんだんと国公立大学が法人化し、大学の貧困化が進み、一方で男女共同参画や女性研究者・女子学生支援に文科省や厚労省の予算が付き出した頃から、おかしくなっていった。初めは大学における女性研究者の比率の増加や、理系の女子学生の増加の推進から始まっただろうか。次に出産・子育てに従事している女性研究者の支援策が設置されるようになった。ちなみに、ここでいう女性研究者とは実質的に専任(常勤)の女性教員を指すことがほとんどだ。非常勤教員は利用できないことが多いし、そもそも制度設計が常勤の教員を念頭に置いてなされている。近年では、ワーク・ライフ・バランス政策とあいまって、「ワーキング・マザー」や「ワーキング・ファーザー」のロールモデル集なども作られているようだ。
 そして女性活躍推進法も混ざってきて、大企業から女性管理職を呼んで「女性の働き方・両立の仕方」を講演させたり、学生に指南したりという企画はどこの大学でも目白押しだろう。

 今まで問題を感じながらも、批判もしにくく、結果的に「スルー」してきた。しかし、止むことなく「ロールモデル」が掲げられるに及んで、もうガマンできない(笑)。あまりにうっとおしい・・・・。なんで「バリバリ働いて、成果もあげて、地位と名声もあって、そしてもちろん子どもも夫もいて、キラキラ輝いている女性」なんかをめざさなくてはいけないんだろうか・・・。確かに誰かがそういうあり方を目指して頑張るのはいいだろう。「女だから」大学院に入れなかったり、研究者になれないような状況よりはいいだろう。

 でも、かといって、誰もがそんな「キラキラ」を「モデル」としなくてはいけないのだろうか?そもそも大学とは、研究したり教育をしたりの場なのであって、それ以外の「家庭生活」や「私生活」の基準を教わるための場なのだろうか?研究・教育を中心とする大学という場で、人生について私生活について学ぶことはあっていいだろう。師や仲間から色んなことを教わることは得難いだろう。だが、大学が、教員や学生にある種の生き方を「推薦」したり評価したりすることがあっていいのだろうか?そういうことをやるとき、よほど配慮しないと必ず、その社会で「主流」の生き方の規範化の再生産になる。今は、「前向きに働いて成果を出して」「子育てもする」既婚女性と、それを支えるし当然収入も地位もある夫という組み合わせが「良い人生」だろう。仕事もパッとしないし恋愛にも恵まれないダメンズとか、仕事にも男にも興味ない女子とか、パートナーのいないレズビアンなんかはあまり想定されていない・・・。「活躍」したくないひとなんていないかのような言われ方。

 「活躍」という名の労働。そういうことなのだろう。

 そして怖いのは、こういう「活躍」言説がまるでフェミニズムのひとつでもあるかのような雰囲気。おそらく多くのフェミニスト(を自称する人)は、こういう批判に同意するだろう。でも表立って批判する動きは大きくない。活躍言説を批判するとまるでフェミニズムを批判しているかのように見られかねない難しさがあるから。でも批判しないと、フェミニズムはますます「お上の」意向みたいになってしまって、力を失っていくだろう。

 フェミニズムは誰かに「モデル」を指南したり、教えたりするものではない。むしろ世の中が女性に様々なモデルを押し付け、自由を奪っていることを気づかせ、そうではないひとりひとりの自由なありかたを尊重することを支えようとするもの。「活躍」なんてしたってしなくたっていい。できるときとそうでないときがある。上から言われる「活躍」ほど怖いものはない。そういう「活躍」をしていないと見なされる人、「普通」の女性たち、日の当たらないところにいるひとりひとりのためにあるのがフェミニズム、のはず。

 「男性活躍推進法」なんてありえないし、そんなのだったらみな笑うだろう。なのに女性の場合だけ、「良いこと」のようにされてしまうおかしさ。どれだけ女性がバカにされてるのかということに気づかないと。

 しっかし、こういう「正論」めいたことを言うと浮いてしまう世の中。今更感があるというか、みんな活躍なんかしたくないんだけどでもそんな本音はおいておいて、一億総活躍社会、という「ていに」しておいたほうが国的にいいよね、みたいな。やっぱり今はもうゆるい戦時中なんだろうかと思ってしまう。少なくとも戦争準備体制、ではある。これ以上乗せられないように、自分の正気は保っておかないと。









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by anti-phallus | 2016-12-22 20:10 | フェミニズム | Comments(0)

ナンシー・フレイザー インタビュー「クリントンはエリート女性に利するネオリベラル・フェミニズムの象徴」

フレイザーのインタビューを訳しました!スペイン語の評論サイト『CTXT』上に、2016年4月20日公開されたものです。原文は↓

 前にこのブログでご紹介したもの(ココ)は、フェミニズムの意味について論じられたものでしたが、こちらはもっと長く、テーマも広汎にわたっています。現在が主に承認の時代にあるというフレイザーの従来からの主旨に加えて、戦後からの世界的変化について分かりやすく論じている冒頭のところは、承認と分配の理論についてご存じない方にも取っ付きやすいと思います。そしてこのインタビューの意義のひとつは、承認と分配に加えて、最近導入している「Representation 表象/代表」の概念について説明している点です。

 それから、アイデンティティ・ポリティクスと承認の運動の違いについて話していて、そのなかで同性婚やLGBTの政治の意味、軍隊における同性愛の処遇について触れているあたりも非常に刺激的。

 そしてタイトルにもなっているアメリカ大統領選についての論評は、もっと早くにご紹介できたら・・・と悔やまれますが、今読んでも価値は大きいものと思います。クリントンがトランプに負けた後、新聞等で「ヒラリー敗北を惜しむ日本の女性たち」というような記事を載せていましたが、ヒラリーは「女性の味方」「女性の代表」なのでしょうか?フレイザーは、クリントンが「全ての女性の味方」ではないことをはっきり指摘しています。どうして日本のマスコミはこれくらいのことを理解できないのでしょうか・・・。その上で、トランプが支持を集めていたことについてより詳しい分析が欲しかったですね。このフレイザーの指摘を踏まえると、先の大統領選は「エリート女性のためのネオリベラル・フェミニズム」と大衆の味方のふりをした右翼ナショナリズムとの対決だっということになるでしょうか。


 全て含めて、非常に面白いインタビューでした。フレイザーさんの了解を得てここに公表できることを嬉しく思います。とはいえ訳は相変わらず粗いのでお許し下さい。誤訳等ありましたらお知らせください。付け加えますと、アイデンティティ・ポリティクスと承認の政治の峻別は難しいところだと思います。フレイザーのフェミニズムやLGBTの運動への評価は議論を呼ぶところですが、私たちにより大きい世界観で運動を評価すべきことを思い出させてくれるという意味で理解されてほしいです。


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ナンシー・フレイザー(ボルティモア、1947)は、1960年代後半以来、フェミニストの闘いと批判理論の最前線に存在している。彼女のいう「ネオリベラル・フェミニズム」への批判や承認と再分配の理論は、社会的不平等を理解するために大きな影響を与えている。CTXTは彼女と、マンハッタンのニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチの哲学科にある彼女の研究室で会い、この時代におけるアイデンティティ・ポリティクスの優位性やバーニー・サンダース、ドナルド・トランプ、ヒラリー・クリントンの重要性、そしてなぜ彼女が最新作("Fortune of Feminism")において何が現代社会を病ませているかということと、治癒するための闘争はどこに注目すべきかということの両方を考察するために、第3の概念ーー「表象」を導入するよう求められていると感じているのかということについて話し合った。

─────15年前にあなたはヘーゲルから借りた用語、「承認」について、差異とアイデンティティの問いを理解するようになる時代のキーワードであるとしました。ヘーゲルはそれをどのように理解し、またなぜそれが顕著なのでしょうか

NF ヘーゲルにおいては本質的にふたつの行為者が相互に出会い、それぞれが主体です。ですが完全な主体になるためには、それぞれは他方から承認される必要があります。それぞれは他方を主体としてそれ自身の資格で認め、その資格は同時に平等であり、私と異なっています。もし双方の人々がそれを認められるなら、相互的な平等で対称的な承認の過程を経るでしょう。しかし、よく知られているように、主人と奴隷の弁証法において、彼らは相互に非常に非対称な、不平等な関係性、支配あるいは従属的な関係性で出会うのです。そして非互恵的な承認を得るでしょう。


─────なぜそれが2000年代初め以降流行したのでしょう?

NF それはわたしがポスト社会主義状況と呼んでいる時代と関係があります。配分的正義の問題が、圧倒的多数のマジョリティがもつ社会的闘争と対立の資源を組織化するヘゲモニーの能力を失った、戦後社会の歴史における一時期でした。この時点まで、戦後期において、この再分配のパラダイムは覇権的であり、ほとんどすべての社会的言説と対立はそれらの時代に組織化されました。このことは多くの事柄をより困難にしています。多くの主張が、分配の文法に合わないという理由で周縁へと格下げされました。基本的に、我々が後知恵でもって今わかることは、承認の政治の隆盛がネオリベラリズムの隆盛と同時に生じたということです。ネオリベラリズムは実質的に社会民主主義の想像力に置き換わり、平等主義的な配分的正義を攻撃し、すべての社会民主主義モデルは、完全に崩壊したとまではいかなくとも、少なくともすり切れ、その影響力を失い、政治的空間と言説を組織化する能力を失い、ある意味で様々な承認の主張と闘争に空間を開きました。


─────どのような例がありますか。

NF 1989年の共産主義とソビエト圏全体の崩壊のあと、私たちは何を得たでしょう?間もなく宗教対立や国家間対立が増えました。今私たちは承認の領域の中にいます。以前は、それらの主張は抑制され、除外されていました。そして分配の言説の共産主義のバージョンもありました。それは破壊されました。西洋ではそれは社会民主主義のヘゲモニーの喪失でした。ネオリベラリズムの隆盛とは別に、その一部分は1960年代から生まれた新しい社会運動に起きていることと関係があります。ニューレフトは、ラディカルな、反資本主義精神といっても良いものをもっており、再分配と承認の両方に、とてもラディカルな方法で焦点を当てました。ですが何十年か後、ニューレフトのある種のラディカルな反資本主義的精神が消え、残されたもの、新しい種類のフェミニズム、新しい種類の反レイシズム、LGBTの性の政治の運動などの運動の継承者たちは物事の政治経済面を無視しがちであり、私が地位や承認の観点で分析する問いに焦点を当てる傾向がありました。

─────あなたはそれらの問いをアイデンティティ・ポリティクスに結びつけました。どの程度までそれは否定的な意味合いがあるのですか。

NF 私が研究の中で試みたことの一部は、アイデンティティ・ポリティクスと承認の政治の性急な同一化を分離することでした。承認の政治は正義の合法的な局面であり、承認の不公正を乗り越えるための主張は重要であると言おうと努めてきました。それらは通俗的なマルクス主義がしたように、分配の主張へ単に還元されてはなりません。わたしは承認の主張の重要性や合法性、相対的自律性を守りたかったのです。ですが、それらを理解するためには一つの方法以外にもたくさんの方法があるということを示唆したかったのです。つまりそれは必ずしもアイデンティティ・ポリティクスの形式をとる必要はないと。じっさいしばしば、承認の主張はアイデンティティ・ポリティクスの形式をとります。これは私からみると不幸な事態です。それはあらゆる種類の問題を生み出し、承認のために闘うことを意味するもののアイデンティティ主義的でない思考を見いだせるならしばしばそのほうがよいのです。


─────それは何を意味しているのでしょうか?

NF フェミニズムのような運動が闘うべきものは、ある異なるアイデンティティや女性性の特質があり、それらは男性性と平等なのだから肯定的承認を必要としているというような考えのためではないのです。そうではなく私が言いたいのは、フェミニスト運動における承認の政治はジェンダーの事柄に結び付けられる地位の不平等の形式に対する闘争であるべきだということです。そしてそれは、これはそれがどうであれ「女性性」を再評価すべきかどうかということを開かれたままにしておきます。このようにわたしは承認の政治をアイデンティティ・ポリティクスから切り離そうと試みています。


─────振り返ると、もし誤った分析でしたら訂正して欲しいですが、アメリカ合衆国では結婚の平等や、黒人の大統領を冠するなど、可視性に関する事柄でも、承認に関して大きな進歩があったように思います。そちらにあまりに多くの強調がなされ、再分配の方にはあまりに少なかったのではないでしょうか?私たちは非常に不平等な時代に生きていて、より良い方向に行くようには思えません。

NF それは多い少ないの問題ではなく、均衡が存在しないという問題です。不均衡と一面性が存在しています。例えばゲイ・ムーブメントやLGBTの運動は、結婚の平等や軍隊へのアクセスに焦点を当てています。これらは今私が闘いを起こす場所のための第1の選択ではありません。ですが、その両方とも、面白いことに、分配的な要素をもっているのです。例えば軍は、大学の学費を得られる数少ないルートの一つであり、したがって経済的な利点がそこにはあるのです。また結婚する権利を得ることは、承認と同様に経済的社会的権利付与を得ます。


─────より望ましいと思うオルタナティブの道にはどのようなものがありえるでしょうか?

NF そうですね、わたしは基本的な社会的権利付与、結婚上の地位に関わらない個人の社会的権利を想像するための闘争が好ましいと思いますし、結婚しているかどうかを強調しない社会を選びたいと思います。「我々も結婚したい!」と叫ぶのではなく。医療や税やあらゆる種類の保障を、ただ人間であるだけで、この国に住んでいる市民、住民であるというだけで得たいとなぜ主張しないのでしょう?


─────部分的には再分配に関わる事柄でもあるのにそれらの運動は地位を強調します。それはなぜでしょう?

NF そうなのです。結婚の平等の事柄はそれ自身で、結婚している人としていない人その他の間に、不平等な地位の比較を導きます。わたしたちはそれを強化する必要はないのです。

─────2000年代初めに、あなたは「承認の問いは再分配の闘争を周辺化したり除外する」という「置き換え」の問題について書いていました。今やもうほとんど20年経ちました。この時代をどのように考えますか?

NF 少なくともアメリカでは社会的対立と主張形成の状況が、私が書いていた当時からはかなり異なっています。もっともドラマティックな実例は、現在の大統領の第一次選挙キャンペーンです。そこでは、一方に、「民主的社会主義者」であろうとするバーニー・サンダースがいて、分配に圧倒的に焦点化する明確な階級の線を根本的に押し出そうとしています。彼はまたあらゆる良質な進歩的な承認の闘争を支持していますが、実際に中心的に力を入れているのは、1%ほどの億万長者階級に対するこの問いです。


─────彼が第一に階級を強調することによって多くの支持を得られたことは驚きではありませんでしたか?
NF その通りです!信じられないほど驚きました。とても喜ばしいことですし、私はそれまで予見しませんでした。なにより、冷戦の終わりから大変遠くまで来たということを教えてくれました。社会主義という言葉を使うことができるという事実、その言葉が偏見をもたらしたり、赤狩りや狂気のようなものを触発しないということは興味深いことです。他方、ドナルド・トランプ側では、ある種の右翼の権威主義的国家主義的大衆主義があり、階級問題のようなものを呼び起こすかのようだが、排他的な、半ばレイシスト的で、確実に国家主義的な色合いに染めています。そしてこれら二つの姿は承認の政治において、その計画案と同様非常に激しく異なっているかのようですが、それらは双方とも分配の新しい特色を表現しています。私が90年代半ばにそれについて書いていた時、分配は周辺にあって、すべてのものは承認、承認、承認でした。もはやそういう状況ではないのです。承認は消えていませんし、消えるべきではありませんが、それは異なる種類のバランスの中にあるのです。

─────選挙について触れられましたが、民主党側の他の候補者、ヒラリー・クリントンについてはいかがですか。グロリア・スタイネムのような多くの第二波フェミニストは、彼女は女性でありフェミニストの候補者なのだから女性は彼女を支援すべきだと声高に主張しています。彼女はフェミニストの候補者なのでしょうか?

NF そうですね、私はそう思いません。ですが非常に興味深いことが進行しています。クリントンは長い間、献身的なフェミニストであり、彼女は女性と子どものための支援でキャリアを開始しました。彼女は「女性の権利は人権である」と国連で演説を行ったことでも有名ですし、妊娠中絶支持派であることは確かです。ですから、それらすべての事柄がこの種の承認の側に適合するなら、彼女はそちらに位置付けられるでしょうし、よりはっきりさせれば、サンダースよりもそちら側でしょう。ですが一方で、これはどんな種類のフェミニズムなのでしょう?クリントンはある種のネオリベラル・フェミニズムを体現しているのです。ガラスの天井を破り、中に入っていくことに焦点化するような。それは、すでに、政治や経済の序列を上昇するための文化や他の形式の資源を豊富に持っている、特権を持ち高学歴の女性たちを妨げる障壁を除去することを意味しています。これは、特権を持つ女性を主な受益者とするフェミニズムですが、彼女たちの上昇する能力は、ある意味で、すべてのケア・ワークを提供するこれもまた女性化された低収入で不安定でしばしば人種化されたサービス業の広大な蓄積に依存しているのです。そして同時に、ヒラリー・クリントンは彼女の夫同様に、金融の規制緩和によってウオール街に深く関わっており、従ってこれらすべての経済の新自由主義化に関与しているのです。したがって、サンダースが代表するような種類のフェミニズムは、すべての女性、貧しい女性、黒人女性、労働者階級の女性たちなどのためのフェミニズムになりうるより良い機会を持っているのです。そしてそれは私の考えるフェミニズムにも近いのです。


───── あなたは著書の中で、第3の概念を導入されました。そこでは承認と再分配については触れず、表象を提示しています。なぜそうする必要を感じたのでしょう?

NF 一方の経済的分配の問題とも他方での地位と承認の問題とも離れて、社会の根本的な局面として、政治的なもの自体に関わらなければならない他の問題群があるという考えをはっきりとした方法で主題化するためです。また私たちの時代においては、難民、亡命希望者、未登録者(訳注:非合法移民)の世界の中で誰が政治的地位を持つのかという問いすべては大変重要なものです。これは特に承認にも再分配にも関連せず、それらの交差物でもありえません。それは政治的な声を持つことについてでもあるのです。

───── それらの超越した境界線はどの程度までなのでしょう?

NF 政治的な声と誰がそれを持ち誰がもたないかということについて考えるとき、合衆国や他の既存の国民国家の限定的な政治的共同体についてのみではなく、より広く国際的で、トランスナショナルな、グローバルな文脈で考えるべきだと思います。国家が不平等に権力を与えられている世界の問題もあります。だから、あなたが例えばソマリアのような、失敗した国ではなくとも、巨大なグローバル権力の支配下にあったり、IMFなどのようなグローバルな金融機関の支配下にある非常に弱い国の市民であったなら、この巨大なレベルで、あなたの国内だけではなくそのような世界システムの中で取り組まなければならない大きな問題に政治的な声に関連して直面するのではないでしょうか。そしてそれらに到達する唯一の方法はこの表象の概念によってなのです。その考えは、正義の三つの局面、誤分配、誤承認、誤あるいは無表象または政治の問題の間違った枠組みの3つの異なる不正の形式について考えるということです。


─────そうしますとあなたはそれを社会運動や政治の観点でどのように分節化しますか。例えば私はヨーロッパについて考えていますが、政治的主体性をどのように分節化するかという問い、それはアイデンティティ・ポリティクスを確立し、あるいは取って代わることなしに起こり得るのか、という論争があります。あなたは表象やトランスナショナリティの概念を紹介しますが、グローバル化した世界の中で、アイデンティティを強調することなく、例えば表象を強調することで共同体の権力を築けるのでしょうか?それが起こり得ることをどのように提示しますか?

NF 例えば、EUの全体構造や問題は部分的には表象に関する問題だと思われます。ヨーロッパ中央銀行とグローバルな金融機関は現在、いわゆるトロイカの関係で、財政緊縮の遂行によって選挙を無効化できるような限りない権力を持っているという事実によってだけでも。彼らはギリシア人に、「われわれはあなたが誰に投票しようと気にしない。あなた方はそのような政策は実行できない」と言えるのです。ですから、EUがグローバルな金融秩序と交差するとき、その構造の中には、政治的権力と政治的声はどこにあるのかという基本的な問いが横たわっているのです。それは承認と分配の問題以上のものであり、さらにいえばそれらに切り替わって投射されるのです。より富裕な北の国々がPIGSと呼ばれる南の国々を怠惰で税金逃れだと見下しているヨーロッパでは、ある種の承認の政治が存在しているのですから。それはあまりになじみのある承認の物語です。しかしそれが本当に怖いのは、それがこの構造的な問題と交差するところで、そしてもちろん、それが民主的な声に対して抑制を強制するようなEU自体の創出に関係があるということです。















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by anti-phallus | 2016-11-29 20:00 | フェミニズム | Comments(0)

アメリカ大統領選についてフェミニストの立場から

アメリカの大統領選について、マスコミはもっぱらトランプ氏についてばかり報じていますが、フェミニズムの視点から見た論評を紹介します。
政治学者のジラー・アイゼンスタインの、the Feminist Wireというサイトへの寄稿です。(元記事はこちら
ヒラリーという女性の権利を主張する政治家の存在にどう対峙すべきか悩ましいフェミニズムの状況が見えてきます。
ちなみにフレイザーも、オバマとヒラリーの対決について、興味深い論評をしています(『正義の秤』第7章など)。
学歴の高いイデオロギー的なフェミニストや若者がオバマを支持したのに対して、学歴や階層の低い地方の女性たちがヒラリーを支持したと。そしてこの分裂を超えてフェミニストの連合を再生させるのが課題だと。

アイゼンスタインにしてもフレイザーにしてもこれだけしっかりした責任あるフェミニストがいるということに感謝の念をもちます。日本でもフェミニズムの視点からこういった言説を出していかないと。

文中に出てくる中絶の問題についてはこちらの記事が参考になります。
中絶の権利がどんどん死文化しつつある状況がわかりますが、日本では刑法堕胎罪にしても母体保護法にしてもなかなか議論にもならないのに中絶天国と言われるような状態。女性の権利を守るというのは本当に難しい。
抄訳ですし、著者の了解は取っていないことをご了承ください。
(特に最後のビヨンセのレモンのところ、訳しにくかったのでカットしてますが、うまく訳せる方いますか?)


++++++++++++++++++++++++++


「わたしたち」はthe WOMAN cardで遊ぶ用意ができた。でも反レイシスムのフェミニストはどうすべきだろうか?

わたしはこれを、大統領選に女性候補者がいるという事実をよろこんでいて、だがこの特定の候補者のフェミニズムの観念が好きではない多くの女性たちのために書く。わたしはまた、バーニーのキャンペーンを含むアクティビストのグループの多くを支持する者として、だがよりラディカルに反レイシストでフェミニストでありたいと欲する者としても書いている。わたしはまた、選挙という舞台が求めるべき民主主義をもたらすとは思えず、だがこの夢ーーー十全に人道的で、自由で、非帝国主義的で、反レイシストでフェミニスト的で、ジェンダーに基づかない世界ーーーのためにできる限りのことをしなければならないと考える人々のためにも書いている。

これは地獄から来た選挙だ!あからさまに人種差別主義で、ヘテロセクシストで、金持ちの頑固者が、合衆国で初めての女性の大統領候補者に狙い撃ちしている。そしてこの初の女性候補者は、大いに大衆的な、最初の白人男性、民主主義的な社会主義者に挑戦を受けている。

ヒラリー・クリントンはエリートでフェミニストの候補者とみられている。そしてバーニー・サンダースは進歩的で平等主義的な候補者とみられているが、彼は人種や性やジェンダーの平等については十分に発言していない。

これら候補者の誰も、十分に反レイシスト・反帝国主義的なフェミニストであるとはいえない。しかし、われわれはどちらか、あるいはこのぬかるみのなかにいることを選ぶよういわれている。ヒラリーは女性の「権利」は彼女のメッセージの核心だと考えているが、「権利」の言説は部分的で、帝国主義的で人種化されたままである。

女性の「権利」は十分ではない。女性は例えば中絶のような何かへの権利を持ちうるが、それを獲得するためのアクセスをもっていない。人は中絶への法的権利を持ちうるが、医学校がもう中絶の方法を教えていないなら、彼女はアクセスできないだろう。もしTRAP法が続けば、中絶のできる病院は中絶の権利を無意味なものと考えて閉鎖し続けるだろう。

ヒラリーの女性の権利のアジェンダは女性を男性と同等とみなしている。だがこれは、2016年においては問題がある。彼女はここでどの女性のことを考えているのか?我々すべてのことを考えているだろうか?そして私たちはどのような男性と同等であるべきなのだろうか?

わたしたちはいつもヒラリーがミソジニストに笑い者にされないようにするだろうが、それはわたしたちの多くにとってあまりに特権化されたフェミニズムを支持することとは異なる。バーニーは経済の不平等に完全に焦点化しており、残りはあとからついてくるだろうと考えている。だがはっきりとした反レイシストでフェミニスト的なアジェンダが自然と進展するだろうと信じるのは難しい。

反レイシストで反軍事主義者のフェミニストは、帝国主義やレイシズム、女性嫌悪、そしてヘテロセクシズムの深く結びついたシステムについてもっと聞く必要がある。ヒラリー、わたしたちは単にガラスの天井を割るだけではなく、すべての女性を地下室から解放し、そして地下室を壊す政策を求めている。そしてバーニー、わたしたちは女性、とくに有色女性が貧困層の中でも最下層であることの承認と救済を求めている。

反レイシストで反帝国主義的フェミニストは、人種とジェンダーの抑圧のつながりと重なりを考察しなければならない。白人の特権は、白人女性の生を強調し、他のすべての肌の色の女性たちを抹消する。ヒラリーとバーニーは白人とこの白人支配に苦しんでいるそれ以外の人々のあいだの特徴と差異を明確にし、救済策を探る必要がある。

そのような反レイシストのフェミニズムは、より包括的でラディカルな民主的実践を進める。思考を明確にしていくとより一層、それは包括的になっていく。普遍的になると包括的になるというよりは。誰も明確化から除外はされない。だから誰も排除されない。もし政策が妊娠中の女性に中絶によって妊娠を終わらせることを許すなら、誰もこの選択から排除されない。誰もそれを選ぶ必要はないが、その選択はまだ残っている。そして今日男性は選択肢を必要としないが、選択肢を持つ女性は彼を排除しない。その逆は真実ではない。

反動的な、リベラルな、あるいは単に沈黙させられたフェミニズムを超えて考えよう。

ネオリベラルフェミニズムと超軍事主義的フェミニズムを超えて考えよう。選択の法的支えに焦点化することで権力と特権の現存する構造を特権化する「権利」で定義されるフェミニズムを超えて。

そしてわたしたちは「フェミニスト」の選挙言説の討議とディスカッションをさらに開きたい。トランプのミソジニーでもヒラリーの(暗黙の)白人主義的ネオリベラルフェミニズムでも、バーニーの語られないフェミニズムも十分ではない。私たちは他の方法、第三の方法、いわゆる、私たちの望んでいる新しい人種とジェンダーの正義について考える方法が欲しい。

反レイシストで反帝国主義のフェミニストとしてわたしたちは、次のことに責任を持っている。賃金の平等、リプロダクティブ・ライツとその権利を行使できるアクセス、15ドルの最低賃金、有給の家族休暇、LGBTQの公正、すべての人のヘルスケア、すべての人が受けられる大学教育、気候変化との闘い、公平な移民と難民政策、人種の正義、警官の暴力と大量監禁の終了、先住民の権利、そしてどんな犠牲を払っても戦争を避けること。

わたしたちはビヨンセのフレーズに感謝する。
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by anti-phallus | 2016-05-31 17:24 | フェミニズム | Comments(0)

フェミニズムと美

 またよもやまですが。フェミニズムと美の関係は複雑で、フェミニズムに関心のある人からもそうでないひとからも「女性の美に対するフェミニズムの考え」をなにか固定的な内容として受け止めているように感じることがある。
 まあ代表的には、「フェミニズムは女性に美しさを求める社会を批判するものだから、フェミニストは外見など気にしてはいけない」というイメージ。こういうイメージが強くなると、フェミニストはスカートを否定するとか、美人が嫌いとかいう歪んだフェミニスト像が生まれることになる。また、フェミニズムを支持する立場の人自身がそういうイメージに縛られているように感じることもある。

 わたしにとってのフェミニズムはそういうものではないので、不思議だなといつも感じている。それで思ったのは、わたしの場合フェミニズムに入っていったのは、90年代の華やかだった頃のフェミニズム関連の文献からで、美をテーマにしたものと言えば例えば江原由美子さん編集の「フェミニズムの主張」シリーズ(勁草書房)とかからで、そんななかではミスコンや性の商品化なんかが賛否両方から喧々諤々と論じられていて、でも統一的な結論などは提示されていなかった。だから、そういう風に色んな立場から自由に議論する場がフェミニズムみたいなイメージを持っていたと思う。
 それは単に何でも議論すればいい場、という意味ではなくて、ジェンダーや性に関してはまず言葉にするのがはばかられる社会というものがあって、とくに女性が率直に性について語るのは今でも「恥」や何かのネガティブな評価を受けやすい。美や外見に対する強制力はとても強いものがあって、それを否定するのには勇気が要る。そんななかで、自分個人の感覚も含めて議論しても許される場、というのはたぶんフェミニズム以外にはないのではないだろうか。90年代よりも今はさらにそうだという気がする。

誰もが自分をありのままに認められたいと思っている一方で、そのためには「ああいう顔」「〇〇さんみたいな体」にならないとだめだという圧力も自分の中にある。フェミニズムに関心のある人だってこういう社会的圧力から完全に自由ではない。単に、この美に縛られた社会を否定するのではなく、そういう情けない自分も受け入れながら、本当に自分にとって望ましい美を考え探し続けていく。それをサポートするのがフェミニズムなんじゃないかなと思う今日この頃です。
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by anti-phallus | 2015-12-23 15:27 | フェミニズム | Comments(0)

ろくでなし子さんとフェミニズム

 遅ればせなのですが、ろくでなし子さんの活動への応援的なことを書きたいと思います。わたしが彼女の存在を知ったのは警察に逮捕される前後あたりでした。「ま◎こ」をかたどったアート作品を作っているということで、「え?日本にも今でもそんなことしてるひとがいるんだ〜」的な驚きを感じました。
 わたし自身は、アメリカのフェミニストアートのなかでそういう手法があるのは知っていましたし、日本のリブ運動の中でも「女性の健康」などをテーマにしたグループで同じような女性器への取り組みをされてるのに参加したこともありました。ですが今、しかも同世代で真正面から「ま◎こアート」に挑戦しているひとがいるとは!と感動。
 そして、彼女が逮捕されるなんて、フェミニズムへの弾圧!と考えました。
 ですが、あいかわらずの忙しさでほとんど何も支援できず。(余談ですがこの忙しさは本当に腹立たしい。やりたいことがなかなかできず、政治状況は悪化する一方で鬱々するばかり)そのうち無事?釈放され、活動再開されていて本当に良かったです。

 というところで、また問題は、ろくでなし子さんには色んなかたが応援しているようですが、わたしが思うのはフェミニズムからの応援がもっと必要だ!ということです。というのは、ろくでなし子さんの活動は、フェミニズムそのものだと思うからです。

 日本でま◎こはおとしめられています。本来は女性器は女性にとって大事な身体の要素のひとつであり、セクシュアリティを司るものですし、毎日の身体作用の要でもる子宮や卵巣などとつながってもいる。手や足が大事な身体の要素であるように、性器もひとりひとりが快く生きていくために大事にされるべきものです。
 ですが、まず名前を呼べない。マスメディア上では無論、ネット上でもそうだという指摘も見かけました。「ま◎こ」と書くとブログ停止になるとか?どうなんでしょう。。
 この状態は、女性の身体が他者に奪われているに近い状況を象徴しています。名前を呼べなかったら、ともだちとそれについて楽しく会話することもできないし、それについて正しい情報や知識を得ることもできない。PMSという月経困難症で悩む女性は多いですし、女性器に関する不調や病気にかかることも女性にとってそれほど珍しいことではない。婦人科にかかることでさえ恥ずかしいような空気はある。また、セックスについて話すこともしにくくなる。「ま◎こ」と公的な場面で言う女はさげすまれるから。
 何せそのことをろくでなし子さんの逮捕は余すところなく証明してくれました。

しかも!そういうふうに表の世界で口に出しにくい一方で、ポルノの世界、つまりアダルトビデオや官能小説(いまどきこういうジャンルがどれだけあるのかは知らないが)、アダルト動画、男性週刊誌等々では女性器をにおわせる表現があふれています。コンビニや街角の本屋に行けば、女性は目を背けざるを得ないアダルトコーナーがあちこちにあるのが日本の現状。
 これは何を意味しているか。あまりに日常化していて、誰も反対していないように見えるのでもうあえて考えられもしませんが、実はこれはいわゆる、「女性の身体が男性に支配されている」ということにほかなりません。ここでいう「男性」は個々の男性ひとりひとりではありません。男性中心社会と言えばいいでしょうか。
 女性の身体を特別視して、女性アナウンサーやアイドル,モデル等々のヌードを掲載して儲けている出版社・ビデオ会社、それを買って喜ぶ読者。男性中心的な性意識が資本と結びついて、女性の身体を支配しているのが今の現実です。
 女性の身体は何か「いやらしい」もの、オープンにしてはいけないもののように感じさせられてしまっているのです。
 
 女性の身体は「わいせつ」ではない、それがろくでなし子さんの活動から受け取るメッセージ。その活動、ま◎この表現で大事なポイントは、それが「セックス」とは別の文脈で表現されている点です。女性器は、落書きなどに現れているように、「性交」を意味するように使われることが多いです。性器はもちろん性交にも使われますが、女性の日常生活の中ではそれに止まるものではない。例えば生理や排泄など日々の健康に関わる機能で大活躍しています。もちろん妊娠・出産においても大事な部分。それを、セックス、しかも男性視線的なセックス観でばかり意味付けされている現社会での女性器観に、ろくでなし子さんの活動は挑戦している。これがフェミニズムでなくて何がフェミニズムといえるでしょうか。

 ろくでなし子さんへのフェミニズムからの支持が少ない一因に、「表現の自由」問題があるようです。表現の自由を支持する立場と、差別表現を規制することを重視する立場の対立ですね。わたしは、原則的には表現の自由は守られるべきと考えていますが、現状のポルノ産業のあまりの野放しぶりを看過するのもどうかな〜と迷っています。両者の中間あたりの立場はないものかと思っていますが、ともあれ女性からの性的な表現がもっともっと伸びてくるのが理想。女性が性的な表現をしにくい今の社会。どんどん色んな考えの女性が登場することで、自由派と規制派が対立して硬直してしまっている構図も変えられていくのではないでしょうか。


 最後に、ろくでなし子さんの活動は、「これからフェミニズムってどうなってしまうんだろう〜」とウツウツしているわたしに元気をくれました。フェミニズムはお勉強じゃない、ということを体現している意味でも大事だと思います。

※ある人からのアドバイスにより、検閲でブログ閉鎖されるのを避けるため、残念ながら伏せ字にしました。ああバカらしい。






 
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by anti-phallus | 2015-07-17 14:41 | フェミニズム | Comments(2)

フェミニズムへの批判

 フレイザーの議論に関連してまず一言書きたいと思います。わたしはこの主張が、現在のジェンダー・セクシュアリティを考える上で非常に重要な内容だと考えており、いくつかのところで紹介してきました。そのなかで思ったことについてです。
 このフレイザーの主張に対して、「フェミニズムを批判するもの」と捉え、否定的に対応された経験が少しありました。それは、ジェンダー・セクシュアリティに関連する研究者からです。
 近年、日本のフェミニズム研究が以前と比べて新しい議論が少なくなってきているのは、この反応に代表されるフェミニズム研究界の問題があると思います。
 まあもちろんこのフレイザーの論考を読んで下さる方の多くは研究界には直接縁のない方も多いでしょうから、こんなことを書くのは野暮なのですが、実は研究界に止まらない重要な問題点を含んでいると思うので書いておきます。

 それは、フェミニズムがひとつの「正義」や「権威」になってしまっているのではないかということです。フレイザーの議論は、フェミニズムがネオリベラリズムと共犯関係になってしまったのではないかという批判であり、それ自体はフェミニズムに対して非常に厳しく反省を迫るものです。しかしお読みいただければ分かるように、フレイザーは自身もその一翼を担ったものとして、自己反省的にあえて振り返っているのです。そしてその反省は、自己反省に止まらず、フェミニズムを歪めて内在化させた現在のネオリベラリズムの本質のありかにもつながるものであり、そういう意味では普遍的な側面をももつからこそ、このフレイザーの議論は多くの人の興味を呼ぶのです。

 では、どうしてこのようなフェミニズム批判がある人々にとっては受け入れがたいのかと考えると、フェミニズムという概念が、既にある、「正しい言説」であったり、「それを身につけている正しいフェミニスト」のものであるという了解が広がっているからではないでしょうか。そのような「正しい思想」「正しいひと」を批判するのは、「それ以外の間違ったもの」「敵」に利するものだからよくない、という認識図式があるように感じます。
 それは、研究界だけではなく、一般にも、勉強していないとフェミニストではないとか、フェミニストは学歴もキャリアも高い人、というイメージは広くあるのではないでしょうか。

 ですが、何人かのフェミニストが論じてきたように、フェミニズムとは「既にあるもの」というよりは、「いまだ言葉になっていないが、確かにどこかにあるような、多くの女性たち、あるいはそれ以外のものたちにも分け持たれている、性差別への怒り」だとわたしは考えています。ですが、世の中は性差別に根づいていますので、そのようなフェミニズムを自覚している人は少ないです。だから、もっとフェミニズムを多くの人に伝えていくことが大事なのです。
 そのために例えば研究はあるのだと思います。そして、今あるフェミニズムが完全ということはありえないのですから、時代に応じて、社会に応じて、フェミニズムは常に刷新されなければいけないでしょう。

 ある意味では、批判され続け、刷新していくことがフェミニズムの命なのです。
 日本のフェミニズムは残念ながら、(自覚的な)担い手の層は高齢化し、力を失っています。そんななかでアベノミクスのようなネオリベラリズムが大展開していますから、とにかく大変残念な状況です。フレイザーの議論は、アメリカ社会を念頭に置いたものですが、日本の状況にもよく当てはまるのは驚くくらいです。
 フェミニズムにとって今は冬、激寒の時代ですが、だからこそ、このようなフェミニズム批判を踏まえて、立て直す時期なのではないでしょうか。
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by anti-phallus | 2015-01-07 12:08 | フェミニズム | Comments(0)

ナンシー・フレイザー「フェミニズムはどうして資本主義の侍女となってしまったのか」

 アメリカの社会主義フェミニスト、ナンシー・フレイザーの文章を訳したものを紹介します。
 これは「The Guardian」のサイトに寄稿されているものです。2013年10月に掲載されたようです。翻訳に間違いがあるかもしれません。ですが、非常に重要な議論をしています。多くのひとに読んでほしいと思うのでここに紹介します。
できるだけ原文にあたってもらうことをお勧めします。(→ココ

 ただこの主張自体は、以前からフレイザーが論じているもので、ここでは簡略化したものが寄稿されています。日本語に訳された論文もありますので、関心のある人は、CINIIで検索して読むといいと思います。
 なお、掲載にあたっては著者ご本人の承諾をいただきました。ありがとうございます。

※1/6 ご指摘をいただき、第4段落「with the benefit of hindsight」の訳を直しました。
※ほかにも読みやすいようにちょっとずつ直しています。
※1/10 最終段落中の「mantle」ですがコメントをいただいたので「底流」と直してみました。ただ、わたし自身はまだ迷いがあります。様々な問題や運動を覆う傘のようなイメージで「外套」という意味をこめたのかもしれないとも思うのですがどうなのでしょう。


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フェミニズムはどうして資本主義の侍女となってしまったのか−−そしてどのように再生できるか
資本主義の搾取への批判として開始された運動がその最新のネオリベラル局面にとって鍵となる発想を提供するようになってしまった

                            ナンシー・フレイザー

 わたしはフェミニストとして、女性解放のために闘うことで、より良い世界−−より平等で、公正で自由な−−を築いているといつも考えていた。だが最近、フェミニストたちによって開拓されたそのような理想がかなり違った結果をもたらしているのではないかと不安を感じ始めた。とくに、わたしたちの性差別批判が、いまや不平等と搾取の新しい形式のための正当化を供給しているのではないかと。

 運命の意外な展開により、女性解放のための運動は自由市場の社会を築くためのネオリベラルな努力との危険な結びつきに巻き込まれてしまったのではないかとわたしは恐れている。それは、かつてはラディカルな世界観の一部を構成したフェミニストの思考がますます個人主義的な用語によって表現されているさまを説明するだろう。かつてフェミニストがキャリア至上主義を促進する社会を批判したところで、それは今や女性に「がんばる」よう助言する。かつては社会的連帯を優先した運動が今や女性の起業を称揚する。かつては「ケア」や相互依存の価値を発見した世界観がいまや、個人の達成や能力主義を奨励する。

この変化の背後にあるのは、資本主義の性格の変貌だ。戦後の国家管理型資本主義は新しい形式の資本主義−−「組織されない」、グローバルな、ネオリベラリズム−−に道を譲った。第二波フェミニズムは前者への批判として現れたが、後者の侍女になってしまった。

結果論になるが、女性解放運動は同時に異なるふたつの可能な未来を指向していたということが分かる。第一のシナリオでは、ジェンダーの解放が参加型民主主義や社会的連帯と同時に実現する世界を予想した。第二のシナリオでは、新しい形式の自由主義、女性に男性同様の個人的自立のための資源や増大する選択肢、能力主義的達成を認めるようなものを約束した。この意味で第二波フェミニズムは両義的である。ふたつの異なる社会のビジョンのどちらにしても、ふたつの異なる歴史による彫琢に影響された。

フェミニズムの両義性は、近年、第二の個人的自由主義シナリオの観点に結実したように思われる。だがそれはわたしたちがネオリベラルな誘惑の受動的な犠牲者だったからではない。逆に、私たち自身が、みっつの重要な思考をこの展開に貢献したのである。

第1に寄与したのは、わたしたちの「家族賃金」批判だった。男性稼ぎ手と女性家庭責任者(の組み合わせ)という家族の理想は、国家管理型資本主義の中心にあった。この理想に対するフェミニストの批判は、今は「フレキシブル資本主義」の正当化に役立っている。結局、この形式の資本主義は女性の賃労働−−とりわけサービス産業と大規模生産産業における低賃金の仕事、若い単身女性によってのみではなく既婚女性や子どものいる女性によっても従事される、人種化された女性だけではなく、実質的にあらゆる国籍と民族の女性たちによる−−に依存している。女性が世界中の労働市場にあふれてくるにつれて、国家管理型資本主義の家族の理想はふたりの稼ぎ手という、より新しい近代的な規範−−フェミニズムに公認された−−に取って代わられている。

その新しい理想の下にある現実は、低下した賃金レベル、減少する雇用の保障、切り下げられた生活水準、世帯収入に必要な労働時間の急増、ダブルシフト(仕事のかけもち)の悪化−−ふたつどころかしばしば三つや四つのかけもち−−、貧困の悪化、女性が家計責任を持つ世帯での貧困の集中などであることを忘れてはいけない。ネオリベラリズムは女性のエンパワメントの語りを磨くことで、小石を宝石に見せてしまっている。フェミニストの家族賃金批判を搾取の正当化のために利用することで、女性の解放の夢を資本の蓄積のエンジンに結びつけているのだ。

フェミニズムはネオリベラルの精神に第二の貢献もなした。国家管理型資本主義の時期に、わたしたちはちょうど、階級の不平等にばかり傾注して、ドメスティック・バイオレンスや性的搾取、生殖/リプロダクションの抑圧などの「非経済的な」不公正が見えなくなっているような狭い政治的ビジョンを批判した。「経済主義」を批判して「個人的な事柄」を政治化することで、フェミニストはジェンダーの差異という文化的な構築を前提とする地位のヒエラルキーに挑戦できるように政治的課題を広げた。それは文化と経済の両方を横断する正義のための闘争を拡張する結果となるはずだった。だがじっさいには、「ジェンダー・アイデンティティ」のほうにばかり注目し、パンとバターにまつわる事柄を犠牲にする結果となった。より悪いことに、フェミニストは、何よりも社会的平等の記憶を全て抑圧したい、上昇するネオリベラリズムにあまりにぴったりと適合するアイデンティティ・ポリティクスと化してしまった。結果的に、わたしたちは、状況が政治経済の批判について再二重化された注目を必要としているまさにそのときに、文化的な性差別の批判を絶対化してしまった。

最後に、フェミニズムはネオリベラリズムに第3の思考を貢献した。福祉国家的パターナリズムに対する批判である。国家組織型資本主義の時期には明らかに進歩的だったが、その批判はその後、ネオリベラリズムによる「乳母的国家」に対する戦争と、より最近の皮肉なNGOの発想へ収斂した。その実例は、「マイクロクレジット」、グローバルな「南」における貧しい女性たちへの小さい銀行型融資のプログラムである。トップ・ダウンの官僚的な国家政策に対してエンパワーするボトムアップのオルタナティブと位置づけられ、マイクロクレジットは女性の貧困や従属へのフェミニストの処方箋として見なされている。しかしながら見逃されていることは、煩わしい同時発生物である。マイクロクレジットは、国家が貧困と闘うマクロ構造的努力、小規模な融資では代替できない努力を捨て去った時に急成長した。この場合でも、フェミニストの思考はネオリベラリズムに取って代わられた。市民をエンパワーするために国家権力を民主化することをもともと目指していた展望は、今や市場化と国家の削減を正当化するために利用されている。

これら全ての場合において、フェミニズムの両義性は(ネオ)リベラルな個人主義のために分解された。しかし他方で、連帯に向かうシナリオもまだ存在している。現在の危機は、その縫い目をもう一度拾い上げ、女性解放の夢を連帯社会のビジョンに再結合するチャンスを与えている。そのためには、フェミニストはネオリベラリズムとの危険な結合を断ち切り、私たち自身の目的のために三つの「貢献」を再主張する必要がある。

第一に、賃労働を脱中心化し、ケア労働やそれ以外のものを含む賃金化されない活動を尊重する生活様式に影響力をもたせることで、私たちの家族賃金批判とフレキシブルな資本主義の誤ったつながりを切断したい。第二に、男性中心的な文化的価値を前提とする地位秩序を変容させる闘いを、経済的公正のための闘いと統合することによって、私たちの経済主義批判からアイデンティティ・ポリティクスに至る道を崩壊させたい。最後に、公正のために資本を制御することを求められている公的権力を強化する手段として参加型民主主義という底流を再主張することによって、私たちの官僚制批判と自由市場原理主義の間のにせの絆を切断したい。
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by anti-phallus | 2015-01-05 17:07 | フェミニズム | Comments(2)