バトラーとスピヴァクの『国家を歌うのは誰か?』を読み返している。随所に示唆的な言葉がある。言語のこと、運動のこと。何カ所も書き留めておきたいところを見つける。
例えば次のところ。
ここで立ち止まって、この発話は、国民のただなかに翻訳という仕事を設定しているのではないかと考えなければなりません。隔絶や裂け目こそが平等の可能性の条件となり、したがって平等は、国民の同質性の拡大や増大にはつながりません。(P44-45 一部省略)
ここでの隔絶や裂け目は、私が前から使っている分断という言葉に重なる考えによるものだと思う。平等が既にあるものと語ってしまえば、その場の抑圧性はものすごく大きなものになってしまう。だがバトラーにとって、効力のあるエージェンシーは「わたしたち」でしかない。そして、平等でない限り、わたしたちは語り得るものとならない。
平等と自由は密接につながっている。
この冒頭で、バトラーはアーレントの公私区分がもつ抑圧性について批判している。そこはアーレントが男性中心主義的思考と訣別できていない側面を象徴的に表しているのだろう。その男性中心主義的思考は人種主義や民族中心主義、階級主義とも連動していることが、古代ギリシアの理想化から見て取れるかもしれない。
社会領域を公私に分けて、私的世界に暗さや秘匿性をあてがう思考や行動、人間的あり方を、言論だけでなく、実践の中で運動の中で批判するのは相当に難しい。その批判が必然的に関係者の私的領域を他者の目にさらしかねないから。そこまでする必要性を批判者が引き受けられるかどうか。
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沖縄の県知事選結果にがっくりきている人は多い。だが、一つの国家の「国益」とやらをいち地方自治体の首長選で選んでもらうというのはそれ自体暴力的である。
どうして沖縄の人々ばかりが選択を迫られるのか。自分たちの身近な毎日にとっては迷惑の大きなものが、自分の国家の利権というよりは自分の国家に支配的な影響力を持っている他の国家の利権の拠点となっていて、それを遠くにやるかそのままにするかをなぜか選ばなければならない。本当に選ばなければならない責任をもっているひとびとは遠くから見やるばかり。選択せねばならないことの圧力を「わたしたち」は沖縄に押しつけることをやめなければならない。

