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ナンシー・フレイザー「資本主義におけるケアの危機」

ナンシー・フレイザー(Nancy Fraser)のインタビュー記事(2016)を翻訳しました。原文はここです。



「ケアの危機」とは現在私たちが直面している構造的な問題です。ケアを代表とする家事や子育て、介護などの「社会的再生産」がどんどん民営化・商品化され、私たちの生活が切り縮められている状況のことをいいます。このインタビューでは、その歴史的背景の説明や様々な大事な論点の解説があります。ケアといえば今は子育てや介護という私たち個人が家庭で日々直面する営みが議論されますが、それにとどまらず、公的な教育費の削減や福祉・医療の民営化なども大きな問題です。もちろんアメリカや欧米だけでなく日本も、というより日本は特に深刻に直面している課題です。

要約すると、近代史は、19世紀の自由資本主義→20世紀半ばからの国家統治型資本主義→現在のネオリベラル資本主義、という3段階に分けられます。それぞれの段階で社会的再生産・ケアに対する国家のスタンスは違い、自由資本主義では放任(野放し)で民衆任せ、国家統治型資本主義(いわゆる福祉国家の時代)には家族賃金をモデル(理想)化して社会設計、ネオリベラル下では私的領域までをもさらなる商品化、という流れになります。このなかで福祉国家時代の家族賃金というのは良さそうに見えますが、性別分業を基軸としたものなので、「女性の従属」をも意味するのです。フェミニズムはこのジェンダー化された家族賃金モデルを批判してきたのですが、そこでネオリベラルの「二人稼ぎ手モデル」に足をすくわれた、というのが現在私たちが抱える矛盾をなしています。

従来からのフレイザーのフェミニズム論を、より歴史的・構造的に学ぶことができます。このフェミニズム批判を、単なるバックラッシュのようにではなく、より良質で開かれたものを求める過程の中で理解して欲しいと思います。例えば、安倍政権が進める女性活躍政策や、それを支持するフェミニズムは、私たちの指針にも救いにもならないということです。インタビューの中で、次のように言っているのを読むと目が覚めるような思いがします。

「ちなみに、ネオリベラル・フェミニストはフェミニストです。否定はできません。ですがそのフェミニズムの要素には、フェミニストの発想が単純化され、切り縮められ、市場フレンドリーな用語で再解釈されているのに気づきます。例えば、女性の従属を、才能ある女性が上昇するのを妨げる差別として考えるようなときに。そのような思考は完全にヒエラルキー的な企業の虚像を正当化します。それは、女性の大部分の利益に対して、いやむしろ世界中の全ての人々の利益に対して基本的に敵対する世界観を正当化します。」

ここまで明確に指摘できるフェミニストは少ないでしょう。
企業社会の中で女性が昇進するのは「女性活躍」の目標とされています。最近よく、女性管理職の数がどうのこうのいわれていますね。そのなかで、女性の昇進が本当に性差別の解消になるのか、疑問を持つ人は多いでしょう。ですが多くのひとはフレイザーのようにここまではっきり批判も出来ないでしょう。この批判でフレイザーに違和感を感じる人も多いでしょう。けれど、わたしはフレイザーを支持します。女性が昇進することは、個人レベルでは本人が望むのであれば良いことですし、応援したくなる時もあると思います。ですが、それがフェミニズムの最優先事項であるとはわたしにはいえません。やはりフェミニズムは、ある恵まれた女性(のみ)を応援するものではなく、あくまで女性の間の望ましいつながりを構想するもの、できるだけ多く、すべての女性を尊重するものだと思うからです。またそもそも、企業社会という場がどれだけ女性に良いものをもたらすか、例えば地位の高い女性であろうとそこに居続けることは大きな犠牲を求めるだろうと思うからです。それは男性にとっても本当は同じことです。ですがたいていの場合、企業社会で働き生活することしかできませんから、みなそうして頑張っています。そういう現実があるからこそ、そうではない世界を最終的に求めることに意味があるのです。

社会的再生産の重要性を理解しない左翼やマルクス主義への批判もあります。ここが古い左翼(新しいのも?)とフェミニズムが袂を分つ分岐点です。

===========================

ナンシー・フレイザーはニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチの哲学と政治学の教授であり、今日最も尊敬される批判理論家の一人である。新しい著作、『Fortunes of Feminism(フェミニズムの明暗:国家統治型資本主義から新自由主義の危機へ)』でフレイザーはリベラル・フェミニズムの困惑させられる資本主義への収束と、フェミニズムが過酷な搾取のシステムのためにうわべだけの自由を提供しようとするやり方と闘っている。資本主義批判と、根本的に異なるフェミニズムのビジョンを発展させるために、彼女はジェンダーの公正はどのように平等な社会のためのあらゆる闘争の核心に置かれるべきかということを示している。最近、フレイザーは「ケアの危機」と呼ぶ状況に言及している。それを冠した彼女の論文は『New Left Review』100号で発表されている。

◆社会的再生産とは?

サラ・レオナルド:社会的再生産とは何でしょうか、また、それはなぜあなたのフェミニスト分析の中心にあるのでしょうか?

フレイザー:社会的再生産とは、社会的な関係性の創造と維持に関連しています。このひとつの側面は、世代間のつながり、例えば出産、子育てや高齢者の介護などに関連しています。他の面では、友人や家族、近所付き合いやコミュニティなどの水平なつながりの維持に関連しています。これらの種類の活動は社会にとって絶対的に本質的なものです。それは感情的であると同時に物質的で、社会的な共同を支える「社会的接着剤」を与えます。それなしには、どのような社会的な組織も、経済も政治も文化も、存在できないでしょう。歴史的に、社会的再生産はジェンダー化されています。そのための責任の大部分は、男性もいつも一部を演じはしますが、女性に割り当てられます。
資本主義の成立はこのジェンダーの分割を強化しました、社会的再生産から経済的生産をくり抜き、それを二つの分離されたものとして扱い、二つの異なる制度に位置付け、二つの異なる方法で調整することによって。生産は工場と会社へ置き換えられ、そこではそれは「経済的」であり賃金によって報われると見なされました。再生産は後景に追いやられ、新しい私的な家庭内の領域に格下げされ、そこではそれはセンチメンタルに自然化され、金銭ではなく「愛」や「徳」のために行われるとされました。少なくとも理論上はこのようにいえます。実際には、社会的再生産は決して完全に私的な家庭内の境界内に置かれることはなく、地域や公的な施設や市民社会にも配置されていました。にもかかわらず、社会的再生産からの経済的生産のジェンダー的分離は、資本主義社会における女性の従属の主要な制度的な基礎を構成しているのです。したがってフェミニズムにとって、これ以上に中心的な問題はないのです。

レオナルド:あなたの分析によれば、私たちはケアの危機に突入しています。それは何を意味していて、私たちはどのようにしてここに至ってしまったのでしょうか?

フレイザー:資本主義社会では、社会的再生産のために可能な能力は貨幣価値には一致しません。それは当然のこととされ、無料で全く入手可能な「贈り物」と扱われ、注意を払われたり補充されたりすることはありません。経済的生産が、より一般的には社会が依存している社会的つながりを持続するための十分なエネルギーが常に存在するだろうと考えられています。これは、資本主義社会において自然が、欲しいだけ手にすることができ、要らなくなればどれだけでも廃棄することのできる無限の貯蔵庫として扱われるやり方によく似ています。じっさいには、自然も社会的再生産能力も無限ではありません。両方とも極限まで拡張されはします。自然の場合、多くの人々が既にこのことを理解しています。そして私たちは「ケア」の場合にも同じように理解し始めているのです。社会が社会的再生産のための公的支援を一斉に取りやめ、その主要な提供者を何時間もの厳しい賃労働へ追いやる時、それが依存している社会的能力自体を枯渇させます。これがわたしたちの今日の状況そのものです。現在の資本主義の金融化された形式は、組織的に、社会的絆を持続する私たちの能力を消費しています、自分の尻尾を食べる虎のように。その結果が「ケアの危機」であり、現在の環境の危機と全く同じように深刻で組織的であり、あらゆる場合においてつながっているのです。

私たちがどのようにしてここに到達したのかを理解するために、資本主義のこの形式を以前の形式に対比させたいと思います。資本主義の歴史が、異なる蓄積体制の連続から形成されているというのは共通の思考です、例えば自由資本主義、国家統治型(あるいは社会民主主義的)資本主義、ネオリベラル金融資本主義など、研究者はたいてい、国家と市場が相互に関係する特有の方法の観点からこれらの体制を識別します。ですが彼(女)らは同等に重要な、生産と再生産の間の関係を無視してしまいます。その関係は資本主義社会の典型的な特徴であり、私たちの分析の中心に属しています。社会的再生産がそのそれぞれの局面でどのように組織化されるかに注目することで、資本主義の歴史を理解するのに大いに役に立ちます、あらゆる時代でどれだけ多くの「ケア・ワーク」が商品化されているか、というように。国家あるいは共同の供給によってどれだけ支援されているのだろうか?世帯や地域、市民社会にどれだけ多くが割り振られているのか?

これに基づいて、19世紀のいわゆる自由資本主義から20世紀半ばの国家統治型体制、そして現在の金融資本主義へと歴史的軌跡を跡付けることができます。つまり、自由資本主義は社会的再生産を私有化し、国家統治型資本主義は部分的に社会化し、金融資本主義はますます商品化しようとしています。それぞれの場合において、社会的再生産の特有の組織はジェンダーと家族の理想の特徴的な組み合わせとともに進みます。「分離した領域」という自由資本主義のビジョンから、「家族賃金」の社会民主主義的モデル、「二人稼ぎ手家族」というネオリベラルの金融化された規範へと。説明しましょう。

自由資本主義の場合はかなり明瞭です。経営者が女性や子どもを含む新たにプロレタリアート化された人々を無理やり工場や鉱山へ押し込めていた時、国家は主として傍観を決め込んでいました。結果は、社会的再生産の危機であり、民衆の反発や「保護法制」を求める運動を誘発しました。しかしそのような政策は問題を解決できようもなく、その結末は、労働者階級と農民共同体を自力でやっていくよう放置することでした。にもかかわらず、この資本主義の形式は文化的に生産的でした。社会的再生産を私的な家族内の女性の領域と再配置し、「分離された領域」「無情な世界の中の安息地」「家の中の天使」といった新しいブルジョワ的な家内性の想像物を発明しました。それはたいていの人々からそれらの理想を実現するために必要な条件を奪うものなのに。危機に苦しめられ、自由体制は20世紀に資本主義社会の新しい国家統治型の変形に取って代わられました。この局面では、大量生産と大量消費に基づいて、社会的再生産は部分的に、国家と「社会福祉」の組織的支援を通して社会化されました。そして、ますます古くなった「分離した領域」のモデルは、より新しくより「近代的な」「家族賃金」の規範に取って代わられました。労働運動の強力な支持を得たその規範によれば、産業に従事する男性労働者は、妻を子供と家庭に専念させられるように、その家族を養うだけの賃金を払われるべきだという規範です。再び、限られた特権層の少数派のみがこの理想を達成しました。だが、それは非常に多くの人々の心を動かしました、少なくとも資本主義の中核たる富める北大西洋諸国では。植民地とポスト植民地は、グローバル・サウスの継続する略奪のままにおかれ、これらの協定から除外されました。またアメリカ合衆国では、人種の不均衡が埋め込まれていて、家庭内と農業の労働者は社会保障と他の形の公的援助から除外されていました。またもちろん、家族賃金は女性の従属と異性愛規範(heteronormativity)を制度化しました。したがって、国家統治型資本主義は黄金の時代などではありませんし、私たちの現状とはかなり異なっています。

もちろん今日、家族賃金の理想は絶えました。それは一方では(1パーセントの人々でない限り)一人の稼ぎでは家族を扶養できなくなった実質賃金の縮小の犠牲となりました。そして他方では、家族賃金に埋め込まれた女性の依存の思想を脱正当化したフェミニズムの成功の代償でもあります。ワン・ツー・パンチの結果、私たちは今「二人稼ぎ手家族」という新しい規範を手にしています。良さそうではないですか、あなたがシングルではないとしたら?しかしながら、これも、家族賃金のように、ごまかしなのです。それは、今や世帯を維持するに必要とされる長時間の賃労働の急増を神秘化し、もしその世帯が子供や高齢者や病気や障害を持っていてフルタイムの賃労働者として機能しない人を含んでいたら、事態はより悪化します。またもし一人親家庭の場合、それ以上に深刻です。今やこれに加えて、その二人稼ぎ手モデルは国家の援助の削減の時期に促進されています。労働時間の増大の必要性と公的サービスの削減の間で、金融資本主義体制は社会的絆を維持する私たちの能力を体系的に枯渇させようとしています。この資本主義の形式は、私たちの「ケアする」力を極限まで拡張しようとします。この「ケアの危機」は構造的に理解される必要があります。現在の状況下では、それは偶然でも付随的でもなく、資本主義に内在する社会的再生産の危機に向かう傾向の表れなのです。ですが、それは現在の金融資本主義の体制ではとりわけ先鋭化された形態をとるでしょう。

◆ケアの危機とフェミニズム
レオナルド:この危機におけるフェミニズムの役割についてもっとお話ししていただけますか。フェミニストは必死に頑張る二人稼ぎ手家庭を目標とはしていませんでした。

フレイザー:ええもちろん。ですがフェミニズムがこれらすべてにおいて果たしたことについては深刻で悩ましい問題があります。フェミニストは家族賃金の理想を女性の従属の制度化として拒否しましたし、それはその通りです。しかしわたしたちは、製造業の再配置が経済的にその理想をつぶしたときにそうしたのです。他の世界では、フェミニズムと産業の変化は互いに強化したりしないかもしれませんが、この世界ではそうなのです。結果として、決してフェミニズム運動がその経済的変化を引き起こしたわけではないけれど、わたしたちはその正当化を知らぬ間に提供するはめになってしまいました。わたしたちは他者のアジェンダに、魅力やイデオロギー的な安定剤を提供してしまったのです。

けれども一方で、このアジェンダに完全に乘っている、1%を代表するネオリベラル・フェミニストが現実に存在していることを覚えておきましょう。あえて言わせてもらえば、わたしたちはそのうちの一人を合衆国の大統領として選出するところでした。ちなみに、ネオリベラル・フェミニストはフェミニストです。否定はできません。ですがそのフェミニズムの要素には、フェミニストの発想が単純化され、切り縮められ、市場フレンドリーな用語で再解釈されているのに気づきます。例えば、女性の従属を、才能ある女性が上昇するのを妨げる差別として考えるようなときに。そのような思考は完全にヒエラルキー的な企業の虚像を正当化します。それは、女性の大部分の利益に対して、いやむしろ世界中の全ての人々の利益に対して基本的に敵対する世界観を正当化します。そしてフェミニズムのこのバージョンはネオリベラリズムの略奪へ解放的な見せかけを提供します。

レオナルド:私たちの金融経済においてケア・ワークの分配がどのように女性同士を争わせているか詳しく説明できますか?

フレイザー:もちろんです。今、ケア・ワークの二元化された構造があります。家事の支援を単に支払うことで入手できる人々と、第一のグループのための有給のケア・ワークに、しばしば非常に低い賃金と実質何の保護もない状態で従事することでいっぱいで自らの家族のケアをする余力もない人々に。わたしたちはこのセクターで生まれている権利と生活賃金のための闘いを目にしています。したがって明確に、これはお互いの利害の直接的な対立です。わたしはいつも、シェリル・サンドバーグの「リーン・イン」の発想は皮肉だと思っています。彼女のリーダーシップが企業の重役室でリーン・イン(乗り出す)することを思い描けるのは、薄給のケア・ワーカー達が彼女のトイレや家を掃除し、子どものオムツを替え、年老いた両親の世話をするのに頼っていられる限りなのですから。

そしてここで人種について触れなければいけません。このような仕事をしているのは結局、主に有色の移民女性、アフリカ系アメリカ人女性、ラテン系女性なのです。ニューヨークで中流階級の住む地域の公園に行きさえすれば、すぐに分かります。いわゆる「開発」戦略が、女性をこの目的のために富裕な国や地域に移民することを促進することである国があります。例えばフィリピンは、海外にいる家事労働者からの送金に依存しています。そしてこれは国家が組織した労働の交換であり、国家の開発戦略です。問題の国家は構造調整に従属してきました。その国は債務を背負っており、資金がなく、国際通貨を必要としていて、女性をこの仕事のために送り出す以外に道がありません。彼女達は子どもと家族をおいて他の貧しい人々にケアしてもらうほかない状態で。ところで私はケア・ワークは決して有給の仕事とされるべきでないなどと言いたいのではありません。それがどのように支払われ、組織され、誰によってかで全く大きな違いがあるということです。

◆社会的再生産と社会運動・社会主義の可能性
レオナルド:あなたが指摘したような問題に関してその根元に達するような方法で組織化している具体的な活動はありますか?

フレイザー:驚くほど多くの組織や活動があります。とても創造的でエネルギーに溢れています。ですが拡散したままで、社会的再生産の組織を変えるカウンター・ヘゲモニーの試みのレベルまでは到達していません。労働時間の短縮や無条件のベーシック・インカム、公的な子育て支援、移民家事労働者や営利の医療施設や病院、子育て支援センターのケア労働者の権利のためにともに闘うなら、そして特にグローバル・サウスの安全な水や住居、環境汚染への闘いも付け加えるなら、私の意見では、結局は社会的再生産を組織する新しい方法が必要だということになるのです。

社会的再生産のための闘いはほぼどこにでも存在します。それはその名前を名乗りはしません。けれどももしこれらの闘争がこのような方法で自らを理解するようになれば、社会変革のための広い運動においてともにつながり得る強力な基礎となるでしょう。また現在のケアの危機の構造的基礎が再生産を生産に従属させようとする資本主義に内在的な動因にあることを理解すれば、そのとき状況は本当に面白くなるでしょう。

レオナルド:若いアメリカ人の間で社会主義が関心を高めていることを受けて、社会的再生産の闘いを社会主義への闘いに関連づけますか?

フレイザー:もちろんです。私は自分自身をバーニー・サンダースと同様に、民主的社会主義者と呼んでいますが、それがいったい何を意味するのか分からないことを率直に認めざるを得ない時代に生きています。わたしたちは、それが権威主義的な統制経済や共産主義の一党独裁モデルを意味するものではないことを知っています。社会民主主義より、より深く強力で平等主義的なものを意味しています。搾取や流用、抽出が全くトランスナショナルな世界において、国民国家に限定されません。言い換えれば、私たちはそうではないものは全て知っていますが、肯定的にプログラムを定義するのが困難な時代にいるのです。私が主張したい一つのことは、社会的再生産を再想像することは、21世紀に望ましいと主張できる社会主義のあらゆる形式にとって中心にあらねばならないということです。再生産と生産の区別は今日どのように再発明されるべきでしょうか。また二人稼ぎ手家庭は何に代えられるのでしょうか。社会主義の歴史を見ると、マルクスとエンゲルスが拒否したことで知られる古いユートピア社会主義ですら、私が社会的再生産と呼んでいるものに大きな焦点を当てているのは興味深いことです。家族と共同体の生活の組織化などのことに。それは私たちにとっては有効でないという意味でユートピア的ですが、近代の産業社会主義の歴史においても難しい問題でありました。マルクスの社会主義と非マルクスの産業社会主義ではこの問題はやってきては見えなくなります。ほとんどの場合、それは工業化を組織し生産を計画する問題に対して二次的なものとして扱われてきました。ですがもし生産と再生産の二者関係の一方のみを強調するなら、他方は戻ってきて、予期せぬ、すべての企図を台無しにするようなやり方で仕返しをするでしょう。

レオナルド:あなたが社会生活や家族について提起した問いの多くは、やはりユートピア的で、1960年代の残骸のようですし、社会主義者のプログラムに必ずしも中心的ではないように見えます。にもかかわらず、あなたは我々がまさに危機の地点にいると主張し、それらの問題が中心であるべきだと言っています。社会的再生産の挑戦は誰もの毎日の経験にとって非常に基本的なのに、現在の社会主義のリバイバルの中で欠如しているのは驚くべきことですね。

フレイザー:それには強く同意します。この社会的再生産の危機の深刻さのなかでも、左翼がこれに目を向けないのは、悪い意味でユートピア的でしょう。製造業をなんとかして取り戻せるという考えは、これも悪い意味でユートピア的です。すべての成人を、第一にケアの責任、共同体への参加や社会的コミットメントの責任のあるものとして想定する社会を築けるという考えは違います。それはユートピア的ではありません。人間の生活が本当になんであるかに基づいたビジョンです。

レオナルド:これらすべてにおいて、テクノロジーに積極的な役割を見出しますか?それとも機械化された家事労働はより「リーン・イン」につながるだけでしょうか?グーグルで卵子の凍結保存が話題を呼び、それは子どもを持つ前に女性がより長く働くことを可能にするといわれています。多くの工業労働は機械化されるべきと考えられているのですから、ケア・ワークも同様なのでしょうか?それともそうするにはあまりにも親密すぎるでしょうか?

フレイザー:私はラッダイトではありませんからね。夜読書するための電気を使え、遠方のあなたとスカイプができ、その他もろもろのことに深く感謝しています。卵子凍結や搾乳機械のような、これまで批判的に書いてきたテクノロジーに対しても反対しているわけではありません。問題は文脈なのです。どのように生み出され、誰によって誰の利益のために使われているのか。それらのものの入手が合法的な選択となる文脈を容易に想像することができます。最悪の、あるいはわずかな選択肢の中で極めて制限された選択をした誰かを責めるつもりは全くありません。
社会的つながりを持続することを志向する活動は、無視できない個人的な側面を持っているとも考えます。それは定義上、個人的で、間主観的なコミュニケーションを含み、ある場合には身体的な接触も含みます。そしてケアの完全な機械化の思想には妨げとなります。ですがやはり、あらゆるものの完全な自動化を思い描けるということには疑問を持たざるをえません、もしそれがすべての人間の貢献を除去することを意味するならば。

レオナルド:ええ、ある意味では私たちは時間について話しているのですから。私たちはケアのようなものを時間を節約するために機械化します、時間がないという理由で。結局、時間がたっぷりある場合にしか、何を機械化したいか本当にはわからないでしょう。
フレイザー:私も洗濯物を全て手で洗いたくはないですし、自分の時間をわざわざ費やしたくはないことがたくさんあります。それ以外のことにより時間をかけたいのです、例えばこのような対話にね。

(小見出しは訳者による)







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# by anti-phallus | 2017-09-13 15:49 | フェミニズム | Comments(0)

諦めが生む女性専用車両

 このところ、学生に授業への感想等を書かせると、「女性専用車両」を批判するものが増えてきています。とはいっても授業で「女性専用車両」については全く触れていないのに、です。ジェンダー一般の話をしたのに対して、「昔は男尊女卑だったかもしれないが、今は女尊男卑で・・その代表例が女性専用車両だ」という流れで書いてきます。
 なんだかまるでジェンダー論やフェミニズムが女性専用車両を作ったかのような言われ方なので、ひそかに腹を立てていました(笑)。で、女性専用車両について何か書きたいと思っているなか、名古屋市議会宛てに、女性専用車両に反対する何者かが爆発物を送ったというニュースがあった(名古屋市の地下鉄は女性車両を導入している)り、ネット上で女性車両に反対する会があったりと、世間ではかなり注目されているのを実感。

 そして2日前にはこんなニュースも。




 イギリスで女性専用車両をめぐって政治家間で論争が起こり、女性議員が反対しているということですが、日本でこの問題が政治家レベルでこれだけ大きな論争になることはおそらくないだろう、ということがまずポイント。日本の政治は私たちの日常的な生活空間を公論の対象とすることは少ないですからね、特にジェンダーがらみなんて。
 それからイギリスの女性議員が反対している理由が、女性専用車両は性犯罪の容認につながるということのようですが、このもっともな意見は日本でどれだけ理解されるでしょうか。
 私の感触では、女性専用車両が性犯罪の防止のためだということすら十分認識されていないように思います。いや、というよりは、女性専用車両を設置している鉄道会社が本当に痴漢や性犯罪に対して本腰を入れて取り組んでいるのか、ということですね。鉄道会社が性犯罪防止や軽減に力を入れたければもっと様々な手段が可能なはずです。警備員を定期的に車両内に巡回させるとか、主要駅ホームに被害申し立てを受け付ける窓口を設置するとか、ポスター掲示やアナウンス等の啓発を増やすとか。そういうことをした上での専用車両ならまだ分かるのだけど、そうではなくてポンと専用車両だけ設置されると、お手軽な方法でアリバイ的にやってるのかなと感じられてしまう。

 そもそも鉄道会社を含む日本社会全体が性犯罪の問題に対してどれだけ真剣に考えているのか疑わしい。確かに以前よりは敏感になったかもしれない。だが、痴漢といえば、被害者の立場よりもむしろ痴漢冤罪のニュースのほうが多いかのよう。被害がどれだけ多くて日常化しているか、また被害を受けるとどれだけの傷を与えるか、ということが理解されないまま、男性が女性に被害を申し立てられると無実なのにすぐ加害者に仕立てられる、というイメージばかりが広がっているのではないでしょうか。
 女性専用車両をめぐって、男性専用車両も設置するべきだという声を聞きますが、男性専用車両に賛成する意見に、冤罪被害を防ぐため、というものがあります。これなど見ると、本当に心が寒くなる。この日本は、被害をなくす、また、被害者を支える、という気持ちよりも、「自分が無事でいる」「事件に関わらない」という意識の方が圧倒的に強い空間だということなのです。このような主張が浸透している社会が、本当に性犯罪の問題を重視し、厳しい態度でのぞもうとするわけがない。だから、多くの被害者は声をあげられないのです。

 個人的な経験を書くと、昔、田舎から出てきて東京の大学を受験する朝(満員電車などその日が初めて)に、痴漢にあいました・・。やはりものすごいショックでした。その時のことも踏まえて考えると、痴漢にあった時に、声をあげられたとして、どれくらいのひとが協力してくれるのかな、という不安があるということ。その時は声など上げられず、なんとか逃げましたが。加害をしないという教育や啓発はもちろんですが、声をあげた被害者に協力する、支えるという教育や政策、取り組みも必要。

 また、性別で分離することへの違和感を持つ人が少ない、ということもいえる。私は最終的な地点では女性であろうと男性であろうと性別で分離する車両には反対です。とても気持ち悪い。確かに女性専用車両は居心地いいです。女性の方が動作がソフトな人が多いし、なんとなく静かです(とはいえわたしは女性専用車両に乗った回数は少ないので分からない)。性暴力の被害にあった(性自認に大きな違和感のない)女性、あるいは男性からの性暴力を恐れる女性にとっては、女性専用車両はシェルターになります。だけど同時に、女性専用車両は男性か女性かどちらを選んだら良いか迷う人への想像力をもちません。性暴力の加害者のほとんどが男性であるとはいえ、加害者の100%が男性ではないし、男性の全てが加害者では当然ない。前半の意味合いを選択して、後半の事実を切り捨てる。そのことによって性に関するマイノリティの存在を捨象してしまう。日本社会がどれだけ日常的に性別分離を行なっているか、分離に違和感をなくさせられているかがわかります。
 ですが、わたしは更衣室やトイレは男女別で分けていいと思うし、すべて男女混合にされたらつらい。ただし同時に性別不問の個室的な選択肢も用意する方が望ましいと思うけれど。更衣室やトイレが全て個室になればベストですがそれは現実的にすぐには無理でしょう。

 というように性別分離はごく限られた条件下で許されるもので、鉄道という限りなくパブリックな空間では行われるべきではないと思います。でも日本では女性専用車両はネット上では反対の主張が目立つものの、一般的には乗客に支持されているからこそ、鉄道会社も維持しているのでしょう。ですがこれは、鉄道会社を含む日本社会全体が性犯罪に甘いことへの裏返しではないでしょうか。性犯罪について真面目に議論したくない、取り組みたくないという社会の意識が、被害者を含む女性客に、専用車両を支持させているのではないでしょうか。どうせ痴漢は無くならないのだから、当面自分は女性専用車両に乗って自衛するしかない、というような。諦めが女性専用車両を生んでいるのでは?

 このようななかでネット上で女性専用車両は「男性への差別」「女性の特権だ」という声を聞くと、痴漢の問題からずれて、女性へのバッシングにも見えてきます。なぜ女性専用車両が女性の特権なのでしょうか?女性は常に男性の横にいて、性犯罪のリスクに耐えなければならない、ということでしょうか。性犯罪から逃れることが女性の特権??わたしなどは、女性専用車両があるせいで、それ以外の車両に乗って痴漢にあったら自己責任だといわれるのではないかと怖いです。

いつまでも痴漢や性犯罪の加害者へは注目が集まらない、どのようにしたら加害を減らせるのか、被害者を支えられるのかという議論にはならない。痴漢、性暴力と闘うという認識ではなく、男女という性別で管理、比較競争しようとする社会の意識。
全く悲しい現実が見えてきます。















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# by anti-phallus | 2017-08-31 18:33 | フェミニズム | Comments(0)

アイヌのこと

北海道の歴史に興味が湧き、いくつかの点から勉強している。その中でもアイヌの存在は大きい。
今までアイヌについては自分から詳しい勉強をしたことがなく、正確な知識もなかった。ところが北海道の歴史について知る中で、不思議な感覚を味わっている。

沖縄の近代史を勉強して、日本国家の暴力性を学んだ。だが北海道の近代史からは沖縄に対して発動されたのとは異なる暴力性が見て取れる。
沖縄の日本併合、「琉球処分」はあくまでも集権化された琉球王国の「処分」(侵略)だった。一方アイヌは、当時集権化された国家を作っていなかった。アイヌは多くのコタン(集落)に分かれ、それぞれがリーダーをもって生活していた。それが長期にわたる松前藩、江戸幕府からの搾取との戦いの中で弱体化してゆき、明治政府の同化政策で言語や文化を奪われていった。

先日、白老のアイヌ民族博物館においてあった新聞のスクラップブックを見たら、北海道新聞が頻繁にアイヌに関する記事を載せているのに驚いた。それは、道内各地でのアイヌ関連の企画や施策、アイヌ当事者のインタビューなどである。わたしはこれまで新聞でアイヌ関連の報道に触れたことはあまりなかった。北海道新聞の全てを見たわけではないので分からないが、どうも北海道に住んでいるのとそうでないのとでは、アイヌに関する理解度が大きく異なってくるのではないかと想像される。
ここ最近は、ドイツの学術団体が日本にアイヌの遺骨を返還したという報道が新聞のトップニュースになったが、これも、何のことだかよくわからない人が大半だろう。

道外では、「アイヌ民族は滅亡した」というイメージを持っている人が多いのではないだろうか。そこでは差別の対象としてすら意識されていないかもしれない。だが、学んでいくにつれて、このイメージのもつ政治性に気づかされる。現実には、アイヌの血を引くということで葛藤し、悩み、差別を受けている人々がいる。その事実すらも、「アイヌは滅亡した」という多くの人が持つイメージは消失させる。これがナショナリズムの暴力性でなくて何だろう。

また驚いたことの一つに、白老にあるアイヌ民族博物館が来年閉館するという。この博物館は地域の人々が運営している。白老はアイヌの人々が多く住む地域で、戦後、当事者によるアイヌ観光(?)で賑わったらしい。当時の写真を見たら、明るく当事者と観光客が集合写真に写っていて、何とも言えない気分になった。そして小学校に「アイヌの子供がいるか」といって忍び込んでくる者もいたらしく、そういうことを憂いてこの博物館が作られたと博物館のボランティアの方から伺った。施設内にはカフェがあってアイヌ料理も食べられたり、アイヌ伝統の音楽と舞踊を見学できたりする。それが、2020年に国立博物館と公園がオープンするにあたり閉館をやむなくするらしい。2020年というのはオリンピック開催に合わせたものらしく、なんとも唐突な企画だ。この計画を道外の人はどれだけ知っているのか疑問だし、日本政府は今までアイヌに対してどれだけの取り組みをしてきたのだろうか。日本のマジョリティがアイヌについてほとんど知識のない状態は、第一には政府の責任がある。敗戦による大日本帝国解体後も政府は「日本には外国人はいない、要らない」という態度で十分な政策を行っていない。「日本に先住民はいない」と長年言い放ってきた。この無策によって、アイヌの当事者は言語や文化を継承できず、アイヌ語をしゃべられない人が大半だという。

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博物館のボランティアの方のお話では、この国立施設の構想には、教育に関するものが欠けているという。外向けの、参加型展示やら野外ミュージアムなどばかりで、当事者たちが当事者のためにする視点がない。
政府はハコモノ行政を繰り返すのはやめて、アイヌ当事者が文化を継承しアイデンティティを尊重するための教育や、その他の市民への啓発・教育政策から始めるべきではないだろうか。博物館等を作りたいなら、すでに北海道各地に小さいながら地域や当事者の記念館・博物館等はいくつかあるのだから、それらの活動を支援することだってできるはずである。


アイヌ文化の継承は、当事者にとって必要なだけではなく、非当事者にとっても価値がある。今の日本社会が見失っている精神性をアイヌ文化は教えてくれる。自然に対する価値観、個人と家族や共同体との関係性、生死の意味・・。わたしはまだ知り始めたばかりだが、それでもハッとさせられることがとても多い。近代化により周縁化させられた文化や生き方、価値観を取り戻すことは、わたしたちがどのように生きるべきか、生きたいかを考えるために豊かな示唆を与えてくれる。






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# by anti-phallus | 2017-08-07 17:59 | その他 | Comments(0)

家族に介入する国家が問題なのか:親子断絶防止法案

 最近、「家族に介入する国家」という言い方を見かける。そのとき話題になっているのは憲法24条や「親子断絶防止法」案。親子断絶防止法案は、今国会で成立がめざされている、超党派の議員による法案。この法案については早くブログで書かなければと思いつつ、4月は怒涛の忙しさで動けず、連休に入ってやっと抱えていた論文もひと段落し、まとめ始めることができました。

 この法案は、「子の連れ去りを防止する」ことを目的としていて、「子の連れ去り」とはなんだか随分悪いことのような言い方ですが、別居や離婚をするときに片方の親が子を連れて出て行くことを意味しています。そう聞いてもなかなかピンとこないと思います。親子の断絶を防止するなどといわれると、良い法案のように思えてしまうと思います。ですが実際はかなり危ない法律なのです。
 厚労省のデータ(リンクはこれ。このデータは重要です)によると、2012年時点で子どものいる世帯中、母子世帯は6.8%で、父子世帯は0.8%なので母子世帯が多数派です。
 この法案は、離婚後、同居していない親と子の面会交流を義務づけようというものです。離婚後、当事者間で一定の関係性を保てていれば面会の義務づけなど必要にならないわけで、問題になるのは両親間や親子間で信頼関係が損なわれて争いがある場合です。そしてそこにはDVが相当割合推測できるわけですね。


 これまでたくさんのDV被害に遭われた方々にお話を伺ってきましたが、DVは本当に体だけでなく心までむしばみます。新しい場所で新しい生活を始めようとしていても、元夫に居場所を突き止められないように、これまでの人間関係を全て絶って、名前まで変えて生活している方もいます。子どもも、自分は直接DVを受けていなくても、母の被害を見ていれば同じように感じてしまいます。そしてお話を聞く中で印象的だったのは、多くの女性が、「自分のことだけだったら我慢したかもしれないけど、子どものためにこれ以上止まってはいけないと思って逃げることを決意した」と語っていたこと。
 DV支援をしているある弁護士の方は、「子どもの方が逃げるよう母の背中を押すことも多い」と言っていた。
 この法案は、「DVの場合は特別に配慮する」としていますが、どのケースが DVでどれがそうでないか、誰がどのように決めるのでしょうか。被害者がDVを訴えても、それを認める加害者は少ない。もしこの法案が実現されたら、DVケースのうちごく一部のものしか配慮の対象にならないのではないか。

 ほかにもこの法案が実現したら、離婚するときに、役所の窓口で、子のいる場合、面会交流の取り決めができていないとされれば離婚届を受け付けられなくなるかもしれない。またこの法案によって、母子がDV夫から逃げる際に、これまで行政がしていた相談/支援活動を受けにくくなるおそれもあります。行政が、「子の連れ去り」を支援したと非難されることを恐れるからです。

 そもそも、なぜ面会交流を義務づけなければならないのでしょうか。面会交流は「子の最善の利益」のために、としていますが、子どもにとってそれは本当に常に必要なことなのでしょうか。別居したり離婚したりとなった場合、そうなったまでにはそれなりの事情があったはず。なぜその後で行政が「面会交流」のみ義務付けるのでしょうか。
 多くの関係者が批判しているように、行政がやるべきことはもっとほかにある。
 まず、養育費やひとり親家庭の経済的困難の問題。母子世帯で、父から養育費を受けているのは2割を切ります。養育費を受けていても金額は月数万円程度。母子世帯の年収平均は181万円です(ともに前掲データより)。貧困率もすごい。行政がやるべきは、養育費の支払いをもっと確実にするか、公的な支援を増やすことでしょう。アメリカなどでは養育費の取り立てはかなり厳しいですが、日本では、例えば転職してしまえばもう追えません。まあDVの場合、養育費どころか関係を切る必要のある場合がほとんどなので、行政のひとり親家庭支援策の拡充の方が重要ですね。
 この法案は養育費や経済支援についてはほとんど触れません。面会交流のみです。そこから連想したのが、戦前は女性は法的に無能力者とされていたため、離婚して家を出るときには子どもを連れて出ることは許されなかった。子は家父長のものとされていたから、ということ。この法案が背景にしているのはそのような家族観なのではないかということです。子どもはいつでも親、特に父親に従うべきもの、母が連れて出たとしても父の権威を忘れてもらっては困る、という意識。
 実は私は昨年母を亡くしました。そのため親子や母子、家族について改めて色んなことを考えざるを得ませんでしたが、少なくとも言えることは、私が母を尊敬するのは、私の自由を尊重してくれたこと。良い親子関係のためには子どもを尊重することが必要条件ではないでしょうか。家父長が一番偉くて次に偉いのは長男、なんて序列が決まっているような家庭はしんどくてたまらない。もし自分の両親が離婚したとして、どちらかの親に会うよう誰かに仕向けられたり、まして行政から義務づけられたりしたら、それだけで非常にストレスでしょう。
 法律で会うことを義務づけられたりするなんてもうその時点で親子の関係性は傷つけられてしまう。親子関係はそもそも上下関係、権力関係のあるものですから、これ以上負荷をかけてはいけないと思う。行政は、親子関係や家庭が当事者間でできるだけうまくいくよう「見守る」べきで、虐待やDVなどの問題がある場合に支援を全力ですべきで、家庭の形がどうあるべきかということまで介入してはいけない。


 とこういう風に考えていて、冒頭の、「家族に介入する国家」という左派側のスローガンにひっかかってしまった。この法案を「家族に介入する国家」として批判すると、じゃあDVなどで被害者を支援する場合も「国家の介入」になってしまうんじゃないかと思ったから。
 家庭というのは容易に支配と従属の関係になりがち。しかもどんな内実であっても「家庭は癒しと憩いの場」「国の基礎単位」という美名で覆い隠されがち。それを考えると、国家が家族に介入することが問題なのではなくて、どのような介入なのかということが問われるんですね。支配に転化しがちな家庭の形を守るのではなく、あくまで一人一人の人権と自立を尊重するのが行政の望ましいあり方。

 ところがそもそもの人権のレベルから崩されようとしているのが近年の動き・・・。安倍首相が5月3日憲法記念日に日本会議の集会で改憲を2020年まで実現するというメッセージを発表した(…)ということですが、自民党が目指す国のあり方は、戦前の家父長制的家族をモデルにしています。家父長を絶対として皆が上下関係に縛られる家族のあり方は、政府に国民が従い戦争にも行く国の基本とされているのです。
 私は、そんな息苦しい家族の方がよっぽど愛情を欠いていると思いますがどうでしょうか?愛情を育てたいなら、できる限り力関係は減らして楽にすべき。
 やっぱり周りを見回すと、息苦しい家族関係はまだまだ多い。息苦しい中で育ってしまうと、平等や対等、個の尊重ということを想像できないから、息苦しいのが普通になってしまう。安倍さんたちが望んでいるのはそういう世界。トップにいる人たちばかりが輝く世の中。
 フェミニズムが目指してきたのは、より自由で平等な社会。そのなかでDV被害者を支援する法や行政が生まれてきた。でも被害者支援策はまだまだ不十分。この断絶防止法案はそういうフェミニズムの第1歩をつぶそうとしている。
 今期国会で、共謀罪の後に審議予定と報道されています。マスコミではまだまだ注目されていないこの法案。危険性を理解して、なんとか止めないと…。




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# by anti-phallus | 2017-05-05 23:51 | フェミニズム | Comments(2)

ジュディス・バトラー インタビュー「トランプは抑えられない憎悪を解放している」

ジュディス・バトラーのインタビューを訳してみました。
バトラーの翻訳なんてわたしなどにはハードルが高くて、他に訳してほしい方々がたくさんいらっしゃるんですが、非常に刺激的な内容で、ついつい恐れながらやってしまいました。多分これまた誤訳がたくさんあるのではないかと思います。ご指摘いただければたいへんありがたいです。f0210120_11470653.jpg

バトラーについては説明は要らないかと思います。インタビューは2016年の10月に行われています。ドイツのサイトのものなので、ドイツの政治状況についてが多いですが、アメリカの占拠(オキュパイ、99% etc)の運動やトランプについても語っています。インタビュアーとのかけ合いというか、インタビュアーがおそらくわざとたたみかけるような質問をして、バトラーがそれに対して否定したり肯定したりして議論が深められていくのが面白いです。

欧米で激化するレイシズムがメイン・テーマになっています。フレイザーのテキストについても言えますが、フェミニストというと「女性の問題」のみ論じるのだろうというイメージを持っている人も多いですが、それは大きな勘違いで、いわゆる狭義の「女性の問題」も当然扱いますが、バトラーたちはそれに止まらず、一見「女性の問題」とみなされないような多種多様な重要な課題について取り組んでいます。

とりわけ、90年代に注目されたフレイザーとバトラーを中心とした論争は経済と文化の関係性という社会科学に根源的で伝統的なテーマを直接論じました。今でも読む価値のあるものです。ちなみに下記の本はこの論争の現状を取り上げています(私も書かせてもらいました)ので是非読んでみてください。

『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」: 格差、文化、イスラーム』
越智 博美 (著), 河野 真太郎 (著)
で、このインタビューでは、バトラーの人種差別/レイシズムと闘う決意が強く伝わってきます。その背景にある経済社会の不安定化についても触れています。それは左派的な政治と深く結びついていますが、同時に運動や政治の暴力性への警戒もはっきり語られていて、わたしはこういうところにフェミニズムの精神を発見します。上で書いたことと関係しますが、フェミニズムとは、単に「女性の問題」を扱うものというよりは、様々な世界に関する分析や視点、理論の中に立ち上がる何らかの形のスタイル、価値観、方法だと思えるのです。

また、同様にレイシズムやネオリベラリズムについて分析していても、フレイザーとは大きく違う点があるのもお分かりになると思います。とくにトランプを支持する人々への評価が違っています。フレイザーがトランプ支持者を批判しながらも、同時に左派がキャッチすべき潜在的仲間だと考えようとするのに対して、バトラーはシンプルに厳しく、その本質を言葉にしています。この違いは、上記の90年代の二人の論争での対立点とも重なっていて、評価の分かれるところでしょう。わたしはどちらも好きですが‥

最後に、トランプや欧米のレイシズムがこれだけ議論の対象になり、日本でも大勢の関心を呼んでいるわけですが、日本で既に長期間政権を握っている安倍さんだって、排外主義、ナショナリズム、レイシズム、セクシズムの頭領なわけです。バトラーの分析が日本の社会経済状況についても当てはまる部分は多いです。にもかかわらずトランプやヨーロッパのレイシストに比べて日本の安倍政権への批判は弱い。どうしたものか‥‥

()内は私が加えたものです。

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トランプは抑えられない憎悪を解放している



これらすべての反動的なポピュリズムはどこから来るのだろうか?哲学者ジュディス・バトラーに、ドナルド・トランプ、ドイツの「歓迎する文化(Willkommenskultur)」、ラディカル・デモクラシーについて聞いた。


なぜ今、公的な集会について本を書こうと決めたのですか?

JB 公的な集会は民主主義の純粋な形なのかどうかについて議論が始まった“アラブの春”の間、それらのことについて考え出したのだと思います。「これが市民であり、彼女・彼らは不公正な体制を打ち破ろうとしている」と言われていました。そしてそれはもちろん、「市民とは本当は誰なんだ?」というようなすべての種類の問いを生起します。「彼女・彼らが街に姿を現していることは重要なのだろうか、街に現れたそれらの身体はすべての人々を代表しているのだろうか?街に出ていない人々についてはどうなんだろうか?」と。

身体が集会において演じる役割についてなぜそれほど関心を持ったのですか?

JB オキュパイ運動に関連する他の議論もありました。そこではあるひとびとは「彼女・彼らは要求を出さない、ただ場所を占拠しているだけだ」と言っていたので、「いやそうではなく、それが要求を形成する方法であり、この場所がわたしたちのものでありこの空間は公的なものであるべきなんだということを言う方法だ」と言おうと努めました。けれどもそのような主張が遂行されるために言語化される必要はないのです。というのはわたしは、彼女・彼らはその身体であるいはその身体が空間を占拠する方法を通じてそれを行っていたと思います。そのような身体的な行動や身振りは政治的に有意なものでもあることを主張したいと思います。それは空間を占拠して主張を行い、主張を具体化しています。

あなたの本には集会への暗黙の共感が読み取れます。一部の人々はそれを恐れるでしょう。

JB 私たちが考えなければならないのは集会という言葉なのかもしれません。大勢の集まりだったり、集団の運動や暴動、暴徒かもしれません。暴徒(mob)はおそらくわたしたちが同様に恐れるものでしょう。それは暴力によって保障されるように思われます。それは意図的なものでも、政治的な関心のあるものでもありません。集会は違います。そこでひとびとはともに集まり議論します。そして彼女・彼らがともに集まり、お互いに姿を現わすことが重要なのです。ハンナ・アーレントのような人にとって、ギリシアやローマの集会は民主主義の発足の重要な一部分でした。そしてわたしたちは民主主義を実現するために集会を必要とし続けていると思います。自省的で包括的なーー民主的な参加と討議の形式を実証することを求めているようなーー集会と、民主主義を諦めている人々との違いを見極められるようになるべきです。

あなたは集会は、普段排除されている人々が公的空間に入ることを許すと書いています。ペギーダ(PEGIDA、「西洋のイスラム化に反対する欧州愛国者」、ドイツで勢力を伸ばす反イスラム団体)の場合でもそれはいえますか?

JB 私が支持するような種類の集会には、ラディカル・デモクラシーの原則が賭けられています。右翼の人種差別主義者が集まって、人種差別主義者にはふさわしくない公的空間から排除されてきたと言うなら、そのとき彼女・彼らはじっさいには他者を排除する権利を求めているのです。彼女・彼らは集まって、人種差別主義者の表明された目的と排他的な計画のために公的空間を獲得しようとしています。それは意図においても効果においても民主的ではありません。

どの集会を「私たちが必要としている」と決められるのでしょう?ある集会は包括的であると同時に排他的であるかもしれません。カイロのタハリール広場では何年も前から無数の女性たちが性的暴行を受けています。

JB 集会は異なる種類の危険を異なる種類の人々に課すと思います。あなたが女性あるいはトランスあるいは移民であるなら、おそらく公的な集会で危険にさらされるでしょう。というのは公的な集会は身体的で公的な露出を含むからです。あなたの隣にいるのは誰か常に知ることはできないし、誰があなたやあなたの隣の人や群衆の反対側にいる人を傷つける目的で、近くにいることを利用するか常に分かっていることはできません。だから公的な集会には危険も常にあるのです。

あなたは街頭でもっと多くのひとびとを見たいと思いますか?

JB いいえ。街頭にもっと多くのひとびとが出れば私たちの生がより良くなるとは思えません。ところで、わたしは身体がしていることと言語を分離できないと思います。身体は表現します、それは意味があるのです。

ペギーダが運動と身振りを通して表現するものと、民主主義を志向する集会が表現するものを差異化できるでしょうか?

JB できると思います。身振りと運動を単に脱文脈化することはできないでしょう。問題はどのように文脈化するかということです。それらは概して、特定の政治を伴う人種差別と反移民の集会です。わたしたちは彼女・彼らがしていることを理解し、適切に判断しなければなりません。それは新しい移民が街に出て統合を求めるのとは全く異なります。もしあなたが、公的空間に足を踏み入れることが法に背くからといってそこから禁じられていたならば、公的空間に入ることは法に対する関係を取り上げることになります。

ですがそれは極右のポピュリストの示威行動についても言えることです。

JB 確かにそうですが、国家の暴力と国家の検閲、人種差別主義者の大衆運動は全て民主主義に対する主張に反して働くと言うこともできます。例えば白人の特権を主張する人々は、移民によって「排除されて」いると主張するかもしれませんが、じっさいのところは自らの特権を失うことを恐れているのです。それが文脈であり、わたしたちはそれら全ての身振りと運動、言語による主張によってその文脈を理解しなければならないのです。

あなたは著書の中でハンナ・アーレントの公的領域と私的領域の区別を批判的に評価しています。そのなかのどのあたりが問題含みなのでしょうか?

JB 『人間の条件』の中でハンナ・アーレントは、再生産や睡眠などの私的で家庭内の活動、身体の再生産を意味するそれら全ての政治的ではない活動と、おそらく栄養たっぷりの身体が登場する政治的な領域を明確に区別しています。アーレントの民主主義の原則の考えは、以下のような仮定を持っています。食料は分配されていて、入手可能であり、ひとびとは保護されていて、病気になれば医療を受けられると。ですが問題はもちろん、私たちは「不安定性(precarity、バトラーのキーワードで、「あやうさ」とも訳す※)」の時代に生きていて、基本的な生の必要性をめぐる非常に多くの事柄があり、そのために私たちは闘っているということです。誰が家を持っているのか、誰が医療を受けられるのか、誰が国境を越えられるのか?これらは全て身体の維持と身体の可動性に根本的に関わっている政治的問題です。具体的な生を考えずに、集団や集会の自由、言論の自由さえももつことはできません。

不安定性(precarity)は今でも増大していますか?

JB 不安定性(precarity)より重要な政治的概念になっていると思います。イサベル・ローリーという研究者によれば、それが私たちの現在の瞬間に本当に内在している経済的政治的条件なのです。「プロレタリアート」は、食べたり生きるために十分なほどには支払われていない労働者たちのことですが、「プレカリアート」はそれとは異なるカテゴリーです。プレカリアートは仕事すら持っていないかもしれません。仕事を得たとしてもすぐに失うかもしれません。一時的な労働者であるかもしれません。家を手に入れても翌日失うかもしれません。未来は根本的に予測できないのです。

なぜそのようなことに?

JB 市場が障害なく拡張できるように労働がますます一時的で不安定にされるにつれて、働く人々と生計可能な賃金に向けた公的義務はますます脅かされています。そのためより多くの人々があるやり方で打ち捨てられ奪われるのをわれわれは目にするようになっています。第一次・第二次世界大戦後、おびただしい数の人々が奪われるのを目にしましたが、その奪われ方は異なる種類でした。現代の強奪も、戦争を通して起きていますが、財政政策やネオリベラリズム、そして労働や住宅の条件、住宅市場や住宅の入手機会に対するその影響、さらに食料への影響をも通じて起きています。多くの人々が非常に基本的な問いで苦しんでいるのを知るのにそれほど遠くに行く必要はありません。

現在のポピュリズムの上昇は、より多くの人々が自分自身を、この新しいプレカリアート、その一部だと考えるようになっている事実に関係していると考えますか?

JB 南アメリカ、例えばアルゼンチンの運動のように、右翼と左翼のポピュリズムを識別すべき理由があると思います。こういった種類の運動に関心のあったエルネスト・ラクラウにとって、ポピュリズムは肯定的な概念でしたし、あるいはそうなり得るものでした。

それはなぜですか?

JB 異なる主張のために集まる異なる種類のアイデンティティの人々が互いに結びついているからです。彼女・彼らは共通する条件を見つけ始め、互いの状況を理解することを求めています。これらのつながりを通して、新しい人々の意識が生まれ、あるいは生まれ得るのです。だからラクラウにとって、ポピュリズムは左翼の約束を与えるものだったのです。彼はポピュリズムを超議会的な政治運動にとどまるものとしては考えませんでした。それが選挙による議会や代議制民主主義、国家権力にすら変容する可能性を実際に思い描いていました。

ではどのようにしてこの明らかに肯定的な形式のポピュリズムと否定的なそれを差異化しますか?

JB おそらく、その形式の良し悪しを識別し始める前に、それを理解しなければならないでしょう。結局のところ、「良い」としていたものが後になって「悪い」ものに変わることがあります。あらゆる種類の国家権力に反対し、すべての国家的過程を憎み、超議会的領域にとどまり続けようとする種類のポピュリズムがあります。現在私たちが目にしているような、男女の平等を保障する法や人種差別に反対する法、移民を許可し民族的に宗教的に異種混淆な人々を認めさえする法に反対する右翼的形式のポピュリズムもあると思います。そしてそのような種類の反動的ポピュリズムは、郷愁に駆られたり特権を失ったと考えて、社会の初期状態を取り戻そうとしたがります。彼女・彼らの以前の世界の喪失のために国家権力を引きずり降ろそうと望んでいます。

ドイツでしばしばなされる議論で、あるひとびとは社会の周縁に追いやられ不安定性(precarity)の中に取り残されていると感じているからAfD(Alternative für Deutschland、反EUを掲げるドイツの政党)を支持するのだというものがあります。賛成できますか?

JB 右翼団体はしばしば疎外されていると感じることがありますが、彼女・彼らが本当に意味していることはその特権が失われたということです。彼女・彼らの特権、白人の前提は揺れ動いています。お分かりのように、確かに彼女・彼らは白人の特権を失いつつあります。白人の特権が前提されていた以前の世界を失いつつあります。その通りです、失いつつあるし、その喪失に慣れて受け止め、より大きくより民主的で異種混淆的な世界を受け入れるのが彼女・彼らのなすべきことです。

けれども彼女・彼らをプレカリアートの概念に含めることはしませんか?

JB 問題は、ネオリベラル経済が人々の隅から隅まで右派と左派を区別することなく不安定性(precarity)を生み出していることです。そのため、自らの位置をとったとして移民を責めているので、右派の人々あるいはより右派的になった人々がいますが、彼女・彼らは、富裕な人々は利益を得続けるのに、不安定性(precarity)が経済的階級を横断して拡大するという、問題の根本を見極めていません。彼女・彼らは、ますます多くの人々の幸福を現実に危険にさらしている財政や金融政策を注意深く見ることをせずに、移民に責めを帰すことに決めています。

トランプの支持者についても同じことが言えますか?

JB トランプの支持者ですか・・

ドイツ人には非常に興味があります。

JB それは全くかなり解読しにくいものです。トランプの支持には経済的要素があります。彼の支持者のある部分にとっては政府は生計をなして財政的に成功する可能性を邪魔するものだから、規制や政府に反対しています。またそれは、労働者の健康や安全を保障するための税の納入や職場の規制をも含み得ます。彼女・彼らはトランプが連邦税を払っていなかったらしい事実を称賛し、「自分もあの人になりたい」と考えているのです。

怒りはありますか?

JB 巨大な怒りを感じます。女性や人種的マイノリティや移民に対してだけではなく、彼女・彼らは自らの怒りが彼の公的で検閲されない発言によって解放されていることに興奮しています。左派にいるわたしたちは、恐らく良心(superego)です。トランプが美辞麗句を飾ってやろうとしていることは、左翼だけではなくリベラリズムを、基本的なアメリカのリベラリズムと左翼を単なる検閲の塊として特定することです。私たちは抑圧的な機械で、彼は解放の車です。これはまさに悪夢です。

彼の公然とした性差別と人種差別についてはいかがですか。

JB トランプが解放しているものは、抑えられない憎しみであり、最近見たように、誰の同意も気にかけさえしない性的行動の形式です。わたしたちはいつから触れてもいいかどうかについて女性に尋ねなければならなくなったのか、それはなぜか?彼が実際言っているのは違いますが、彼はまさにそうほのめかしています。それは人々を、その怒りを、その憎しみを解放しています。そしてこれらの人々は金持ちかもしれず、貧しいかもしれず、あるいは中流かもしれません。彼女・彼らは自分たちが左派やフェミニスト、公民権や平等を求める運動、黒人男性が国を代表することを許したオバマの大統領任期期間によって抑圧され検閲されていると感じています。

あるトランプ支持者は、もし彼が権力を得たらその不愉快な想定に基づいた行動はとらないだろうと言います。

JB あなたにそのようなことを言う人々は、彼が言っている全ての不愉快な事柄を好んでいるかのように見られたくないという意味で、真実を否認しています。その人はこう考えているだけです。彼は国境を閉じ、戦争に行き、あるいはお役所仕事を省くだろう。ですが事実はこうです。彼女・彼らは彼の言う不愉快な事柄と共に生きていきたいのです。彼女・彼らは必ずしも賛成しないでしょうが、そのことに慣れているし、反対しないことを意味しています。彼女・彼らは暗黙のうちにそのような言説に同意を与えています。多くの人々が彼の言説から私的な喜びを得ています。彼女・彼らはそれを大声で言うことはできないかもしれません。というのは人種差別主義者や性差別主義者、あるいは同性愛嫌悪的とされることは恥ずかしいことだと見なされているからです。ですがそのような感情を私的に心に抱いています。

哲学者のエマニュエル・レヴィナスは、私たちが他者に出会う時、その出会いは直接的な要請を私たちに課すと書いています。あなたは彼の理論を拡張して、お互いに出会い、道徳的義務の感覚を相互に課す公的な集会における身体について考え出しています。あなたがここで思い描いている倫理はどのような種類の政治的意味合いを持っていますか?

JB いいえ、身体から身体への個人間の接触のモデルを、より大きな政治的関係のモデルとして見なすことはできません。ですが、より大きな構造へ翻訳され得るそれらのより小さな出会いから、いくつかの一般的な原則を引き出すことはできます。そしてそれらの原則のなかには相互依存性があるでしょう。グローバルな相互依存性、それは気候の変化や食料の分配を含みます。けれどまた例えば、合衆国は、それ自身の領土における悪影響に苦しめられることなく世界の異なる側で戦争をすることはできません。というのは、私たちは実際に世界を共有しているからです、私たちが破壊しようとしている人々とすら。第1世界の状況の中で生き、そこで自由や直接的暴力からの相対的安全を享受しているわたしたちは、本当にそれが好きです。私たちはそれが自らに近づいてくると衝撃を受けます。このことがここで、ブリュッセルで、パリで、ロンドンで、ニューヨークで行われていることです。これらの都市を標的にする人々は、わたしたちが他者が苦しむことを強要されている種類の破壊から距離を取り得るというわたしたちの想定を攻撃しようとしているのです。

そのことは国内政治に対しては何を意味しているのでしょうか?

JB わたしにとって倫理的なものは政治的なものから完全に分離されてはいません。私たちの公的な政策に影響を与えるべき倫理的原則があります。そしてそれは次のことを含みますし、それが私が最も関心のあることだと思います。私たちがあるときには他者の生活に起きていることに注意を払わず、誰かの嘆くべき生に想いを馳せることも、平等なあるいは平等に有意な人々の生を考えることもなく私たち自身の地政学的区域に暮らしているあり方のことです。ですから、私たちの限られた国家や言語の境界を超えて平等を広げることが私たちの責任です。

私たちは現在、シリアの人々の生を生きられたり嘆かれたりされるべきものではないと考えているのでしょうか?

JB 白人のヨーロッパ人がトルコとの国境でシリアに拘束されたとすれば、大きな怒りが生まれるでしょう。それは同一化作用(identification)がすぐに行われるからです。

アンジェラ・メルケルの「歓迎する文化」政策はあなたが思い描く種類の倫理の表現なのでしょうか?

JB はい。それは二つの異なる段階に分けて考えることができます。第一に、わたしたちが歓待や「歓迎する文化」と呼んでいるものは絶対に重要です。それは国際法や難民保護法にも合致しています。またハンガリーのような、国境を閉じて全ての「歓迎する文化」を拒否している場所でも見ることができます。ドイツは「歓待の限界はどこだ?」という問いを討議しています。しかしながらわたしは、第二の段階があると思います。「私たちは誰だろうか?ドイツ人とは今や誰のことか?」と問うことです。歓待について議論するとき、歓待を「彼女・彼ら」にほどこすのはいつもこの「わたしたち」です。けれど「彼女・彼ら」が一旦中に入ると、そのとき「私たち」は誰を意味するのでしょうか?「私たち」は変わるのでしょうか?そのとき彼女・彼らは「私たち」の一部になるのでしょうか?完全な包括とは、人種的に民族的に異なるドイツ人を認め肯定することです。

それは難しいでしょうか?

JB そうです。「私たちは今やムスリムであり、キリスト教徒であり、ユダヤ教徒だ」とか「私たちは今や白人で、黒人で、褐色で、多文化で、多民族だ」と言うことは。

現在ドイツでは右翼的なポピュリズムと言説が増大し、ますますイスラム嫌悪的になっています。

JB 歓待が、移民をドイツに適合させるよう求めるプログラムになっていく方法を考えています。それはドイツの新しい人種差別主義と闘うことに集中的に尽力するプログラムではありません。新しい移民コミュニティがドイツの不可欠な部分になることを拒否する人々もまた変化を経験しなければなりません。今やドイツとは何であり誰を含んでいるのかということの感覚の変化を。そうするためには、ドイツ人はこれらのコミュニティについて学び、慣れなければならないでしょう。これは歓待以上のものです。それは国として「私たち」とは誰であるかの意味を変えることです。そしてそれがこの第2の段階であり、歓待を超え、たくさんの種類の宗教を受け入れる多国籍的、多人種的国家へと導くでしょう。

ではどのように「私たち」と言う概念を拡張できるでしょうか?

JB それはどのように人々と生きるかという問い、共生の問いだと思います。あなたは彼女・彼らの生活を学び、言語を学びたいとも思いますか?彼女・彼らを常にあなたの寛容の受取人として扱っていますか、それともあなたと平等だと見なすようになれますか?ドイツ語はドイツで話されている唯一の言語ではないと認められますか?援助や支援が様々な宗教的共同体に与えられるべきであることや、彼女・彼らは単に歓迎されていると感じるだけでなく、ドイツ人の一部でもあると感じるべきであり、またそうなりつつあることを受け入れられますか?わたしは、ドイツ文化に移民を適応させるための努力がそういうものとして何度も行われてきたと思います。

トランプのレトリックにも、ブレグジットにも、右翼的ポピュリストの言葉にもそれを見て取ることができます。国籍の民族的理解へと後退しています。なぜでしょう?

JB ハンナ・アーレントがここでの道案内になります。国民国家の観念の中で機能する限り、基本的に、国家を代表するために特定の国籍を、その国籍を代表するために国家を求めることになります。それは、常にマイノリティと、排除される人々、国家の支配的な発想に一致しない人々が存在することを意味しています。彼女・彼らは完全な権利がなく、あるいは権利を奪われ、追い出されさえするでしょう。これが彼女の複数性がそんなにも重要である理由です。そして複数性は人種的民族的異種混交性へと翻訳できるだろうと思っています。けれど異種混交性はヨーロッパの今現在のあり方なのです。それが新しいヨーロッパなのです。



※バトラーの著作で、"Precarious Life" は『生のあやうさ』(本橋哲也訳、以文社)として日本語訳されています。




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# by anti-phallus | 2017-03-11 21:12 | フェミニズム | Comments(0)

朝日新聞・女子力コメント

 朝日新聞の取材を受け、コメントを載せていただきました(2月19日付)。
 このブログでも何度か取り上げている「女子力」についての記事です。このシリーズ、今日(3/8)のウイメンズ・デーを目標とする「Dear Girlsシリーズ企画」にも続いています。

 朝日の女性記者の方々が海外のメディアでは大きく取り上げられるウイメンズ・デーについて日本のマスコミが取り上げていないのはおかしいということで始められたそうで、その動機はとても重要なものだと思います。しかも切り口も、女子力という、若い世代にはもう日常語となっているにもかかわらず他の世代では気づいていない言葉から考えようとしていて、その意味でも貴重です。マスコミは男性社会であるというのは以前からいわれている定説で、このような企画が立ち上がるのも遅すぎたくらいです。
 ただ、女子力シリーズは一つの言葉をめぐって読者参加も含め多面的に取り上げていて面白かったのに比べて、Dear Girlsシリーズはやや総花的というか、ちょっと盛り込みすぎてなんだかよくわからなくなってしまっているような気もします。まあ何度もここで取り上げているように、女性・ジェンダーをめぐる状況が混沌としていて、フェミニズム内でも議論や対立が先鋭化している背景があるので、ある意味仕方ないのかも。
 しかしウイメンズ・デーというなら、twitterでもつぶやいたんですが、男女の賃金格差の報道が歪んでいるのを直して、そういった正確なデータや現象をきちんと取り上げて、「社会問題」としてのジェンダーを読者に提起するような記事がいつかできないものか・・・・「女の子、がんばって」みたいなのはポスト・フェミニズムの1ヴァージョンに過ぎないのに・・・。(女の子はもうがんばらなくていいのです・・すでにオヤジ社会の中で頑張って頑張らされてるんだから・・)
 というため息はおいといて、コメントでは、「女子力」という言葉の孕む社会的背景、構造に目を向けてもらうように努力しました。新自由主義、という「ヘタレサヨク」言葉を載せてもらったのも良かったと思います。


リンクは下記。



コメント部分だけ抜粋してご紹介します。


++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
「女子力」という一つの言葉にこだわって、その成り立ちと移り変わり、まつわる思いなどについて考えてきました。多くの女性がこの言葉に感じる「呪縛」をほどくにはどうすればいいのか。アンケートに寄せられた声と、識者の見方を紹介します。女性記者たちの呼びかけに応じて、取材に参加した男性記者2人がいま考えることを、最後に。

「女子力」アンケートに寄せられた意見はこちら
 女子力に関する論文を書いた、名古屋市立大学人文社会学部の菊地夏野准教授(ジェンダー論)に、この言葉から見えてくる社会のありようについて聞きました。

     ◇

 女子力という言葉は、古さと新しさの両方をはらんでいます。

 日本でも女性が社会進出し、男女平等な社会にだいぶ近づいたというイメージを多くの人が抱いている一方、この言葉の使われ方を見ると、決して平等になってはいない。社会進出と言っても、実態は家事や育児、見た目の可愛さや気遣いなど、これまで通りの負担を課されたまま、男性中心の長時間労働の場に組み込まれたに過ぎません。

 女性に課される重圧に苦しめられたひとりが、電通社員の高橋まつりさんだったと思います。長時間労働の末、自死し、労災認定されましたが、亡くなる数日前、男性上司から「女子力がない」と指摘されたことなどをツイッターに書き込んでいました。エリートの男性並みに働く女性ですら、一方で女子力をも求められる。

 以前から使われていた「女らしさ」は、女性であれば自然にもつとされる性質を表します。一方、女子力は昔ながらの女性の役割を内包しながら、それを能力として「高い」「低い」と計量化し、本人が自発的に努力して身につけ、ランクアップさせるべきものという、新しい価値評価を持ちこんでいます。そこには「能力」「競争」という、ここ十数年で広がった新自由主義的な価値観が反映しています。

 若い世代に専業主婦願望が広がっていることなどからうかがえるように、女子力の意味するものを肯定する動きも見られます。雇用や社会保障の制度が揺らぐなかで、女子力が示す女性の役割に、さらによって立つことで、不安定化する社会を生き延びようとする若い世代の姿が見えてきます。それ以外のサバイバルの方法が見いだしにくいからです。

 現在の日本社会の様々な矛盾を、女子力の頑張りという形で女性に転嫁し、覆い隠そうとしている。女子力という言葉が果たしている機能は、そこにあるように見えます。(聞き手・錦光山雅子)





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# by anti-phallus | 2017-03-08 13:39 | 仕事 | Comments(0)

N・フレイザー/A・ディビス他「リーン・インを超えて:99%のフェミニズムと3月8日の力強い国際的ストライキのために」

ナンシー・フレイザーやアンジェラ・デイビスが名を連ねている、3月8日のウィメンズ・マーチへの呼びかけ文を訳しました。フレイザーはこのブログで何度も紹介していますが、アンジェラ・デイビスは日本語でも訳されているのでご存知の方もいると思いますが黒人差別やアメリカの戦争に対して長く闘っているフェミニスト活動家、研究者です。






この呼びかけ文の核心は「リーン・イン」フェミニズムを批判し、そうではない「99%のひとびとのフェミニズム」を作ろう、としているところ。「リーン・イン」とはFacebookの最高執行責任者の女性(シェリル・サンドバーグ)が書いた本のタイトルで、「一歩踏み出す」というような意味らしいですが、フレイザーが批判する「進歩的なネオリベラリズム」のフェミニズム版のひとつを示しているといっていいでしょう。日本でも報道された、1月21日のウィメンズ・マーチは、女性からのトランプへの異議申し立てとして認知されていますが、フェミニズム内部からこういう批判もあるという点は大事です。

日本でも、前エントリの上野さんの記事をめぐる批判・論争のように、フェミニズム内部では常に互いへの批判があります。フェミニズムに好意を持たない人々からは、「また女の喧嘩か」という嫌味が投げられるでしょうが、そうではなく、フェミニズムは常にこのように異なる意見を開示し、交わし、そのことによって他の人々へも呼びかけ、内容を更新していくような思想と運動なのです。そしてそのなかで、誰の発言が一番エライ、ということはないと私は思っています。誰もがそれぞれの思いや立場からものを言っていいのです。

また、上野記事をめぐる論争を、この「リーン・イン」フェミニズム批判と絡めて考えるとどうなるでしょうか・・・。どちらにしてもアメリカでも日本でもフェミニズムをめぐる状況が混沌としている、ということだと思います。ある意味日本では、安倍政権こそが「進歩的・ネオリベラル・フェミニズム」であるかのように見えてくるときさえあります。女性活躍推進政策を考えてみてください。こういったフェミニズムもどきに対して、日本のフェミニズムからの批判が少なすぎるというのが最大の問題です。(ちゃんと論じようと思っているのですがなかなか・・・・。)

東京でもウィメンズ・マーチが準備されています。安倍政権やトランプなどなど、暗いことばかりですが、何か少しでも変化のための自分なりの行動ができるといいですね。


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「リーン・イン」を超えて:99%のフェミニズムと3月8日の力強い国際的ストライキのために



アンジェラ・ディビス, Barbara Ransby, Cinzia Arruzza, Keeanga-Yamahtta Taylor, リンダ・マーティン・オルコフ, ナンシー・フレイザー, Rasmea Yousef Odeh and Tithi Bhattacharya

February 3, 2017


1月21日の巨大なウィメンズ・マーチは力強いフェミニストの闘いの新しい波の始まりを印付けるかもしれない。だがその焦点は正確には何だろうか?わたしたちの視点ではトランプと彼の攻撃的なまでに女性嫌悪的でホモフォビック〔同性愛嫌悪的〕、トランス嫌悪的、人種差別的政策に反対するだけでは十分ではない。わたしたちは、社会的支援や労働者の権利に対する新自由主義的な継続的攻撃にもまた標的を向ける必要がある。トランプの露骨な女性嫌悪は1月21日の大規模な応答への直接的な引き金だったが、女性(とすべての働く人々)への攻撃は彼の統治より長く先行している。女性、特に有色の女性や働く女性、失業中あるいは移民女性の生活条件は、経済の金融化と企業のグローバリゼーションのため過去30年にわたって悪化している。「リーン・イン」フェミニズムや他種の企業のフェミニズムは、個人的な自分のプロモーションや出世にアクセスする手段を持たず、その生活条件が社会的再生産を擁護し、公正なリプロダクティブの権利を守り、労働者の権利を保障する政策によってのみ向上されるような大多数の私たちマジョリティの役には立っていない。女性の動員の新しい波はこれらすべての関心に正面から向き合わなければならない。それは99%の人々にとってのフェミニズムでなければならない。

わたしたちが求める種類のフェミニズムは地球を横断する闘いの中ですでに国際的に出現している。ポーランドの中絶禁止に反対する女性のストライキからラテンアメリカの男性の暴力に反対する女性のストライキとマーチまで。イタリアの昨年11月の大規模な女性のデモから、韓国とアイルランドのリプロダクティブ・ライツを守る女性の抗議とストライキまで。これらの動きに顕著なのは、そのいくつかが男性の暴力に対する闘いと、労働の不安定化と賃金の不平等への反対を結びつけていることだ。またホモフォビアやトランス嫌悪、外国人嫌悪的な移民政策への反対をも。ともに、それらは、同時に反レイシストて反帝国主義、反ヘテロセクシスト、反ネオリベラルな、拡張された課題に向かう新しい国際的なフェミニズム運動の先駆けである。

私たちはこの新しい、より広げられたフェミニズム運動の発展に寄与したい。

第一歩として、わたしたちは、3月8日に男性の暴力に反対しリプロダクティブ・ライツを守る国際的ストライキを築くのを支援することを提案する。このなかで、わたしたちはそのようなストライキを呼びかける30を超える国からのフェミニストグループと合流する。その考えは、トランス女性を含めた女性と、それを支援するすべての人々を国際的な闘いの日に集めるというものだ。ストをし、行進し、道や橋や広場をいっぱいにし、家事労働やケアや性労働をやめ、ボイコットし、女性差別的な政治家や企業の名前を呼び、教育制度の中でもストライキをする日に。これらの行動は、「リーン・イン」フェミニズムが無視する人々のニーズや情熱を可視化するために行われる。公的な労働市場の中の女性、社会的再生産やケアの領域で働く女性、失業中だったり不安定な労働についている女性たちのことだ。

99%の人々のためのフェミニズムを受け入れるために、わたしたちはアルゼンチンのNi Una Menosの連合から示唆を得た。彼女たちが定義するように、女性に対する暴力は、多くの側面を持っている。ドメスティック・バイオレンス以外にも借金や資本主義の財産関係等の市場の暴力、また国家の暴力、レズビアンやトランスやクィアの女性に対する差別的な政策の暴力や移民の運動を犯罪化する国家の暴力、市民の投獄の暴力、中絶禁止と無料の医療と無料の中絶へのアクセスの欠如による女性の身体に対する制度的な暴力。それらの見方を知りわたしたちは、ムスリムや移民女性、有色女性や働いている、あるいは働いていない女性、レズビアン、ジェンダー不一致やトランス女性に対する制度的、政治的、文化的、経済的攻撃に反対する決意を固めた。

1月21日のウイメンズ・マーチはアメリカ合衆国でも新しいフェミニストの運動が出現しているかもしれないことを示した。この瞬間を逃してはいけない。3月8日にはともに、ストをし、歩き、マーチをしデモに参加しよう。この国際的な行動の日を利用して、「リーン・フェミニズム」と手を切り、その場所に99%の人々のためのフェミニズム、草の根の反資本主義のフェミニズム、働く女性やその家族と連帯するフェミニズム、そしてその世界中の連合を築こう。












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# by anti-phallus | 2017-02-25 18:20 | フェミニズム | Comments(0)

【補足追加】中日新聞上野千鶴子さんインタビュー記事に思う

 ネット上でまた上野千鶴子さんの発言について話題になっています。わざわざ取り上げるのもどうなのかなと思っていたのですが、議論のテーマ自体は日本における移民問題ということで、重要なものです。このテーマで、フェミニストのスタンスがひとつに代表されてしまったらよくないので、ひっそりと書いておくことにしました。

 発端は、下記の中日新聞の記事です。


 この記事自体、そもそもの趣旨がよく分からず、「建国記念?」「司馬?」「日本人?」それでなんで移民問題?とよく分からないことだらけなのですが、紙面ではもっと説明があったのでしょうか。そしてなぜ上野さん?移民問題についてとくに研究成果のある方ではありません。ちょっとやっつけ感のある記事なのですが、とにかくいろいろ問題があるということで批判がなされ、その中でも下記の移住連さんが公開質問状を出されました。

 もっともな内容で、論旨としては「上野氏の発言が実態に基づいていないこと、そして結果的に排外主義を再生産していること」が指摘されています。
 わたしはこれまで研究テーマの一つとして「ジャパゆき」現象についてわずかではありますが取り組んできて、その中でいろいろなことを発見しました。まず大きいのは、移民あるいは在日外国人について日本社会のマジョリティはあまりに無知であること。まあ無知だからといって責めるつもりはなくて、関連する法制度が複雑すぎることにも問題があります。日本には、法的に正式には「移民」という概念はないのではないでしょうか。移民といって一般的にイメージされるのは、生まれたのとは違う国に住み、働いているひとのことでしょう。ですが日本でそのようなあり方はごく特別な例しか認められていません。

 法律も移民法という名称ではなく、「出入国管理及び難民認定法」という法律です。その名の通り、「管理」するための法律であって、これによって在日外国人は日本にいる資格や期間、条件等々を「管理」されています。欧米各国には移民局と通称されるような国の機関があります(正式名称は様々)が、日本でそれに近いものは「入国管理局」で、「入管」と通称されていますが「移民局」といわれることはない。それは日本の入管法・政策が基本的に管理主義的な発想で作られているためで、「移民の権利」を認めるという発想はほとんどないからです。その体質をはっきり表しているのが、在日韓国・朝鮮人に対する歴史的処遇です。日本政府は彼女・彼らが自身の言語や文化、それに基づいた教育を受ける権利を歴史的に否定・禁止してきています。戦後、在日コリアンの人々はそれに対して闘ってきた歴史があります。現在でも高校授業料無償化からの除外政策や、ヘイト・スピーチなど問題は続いています。

 これは法律だけではなく、日本社会の社会意識としても同様だと思います。グローバル化といわれて何十年経っても、多くの人々は「日本は日本人のもの」という感覚でいるでしょう。飲食店やコンビニなどで日本語を話せない外国人の店員さんに対して、「日本にいるんだから日本語しゃべれよ」という目で見てしまうことは誰しもあるでしょう。そこに、彼女・彼らがどのような思いで日本にいるのか、日本語ができずに苦労しているのではないか、ということまで思いを馳せることは少ないでしょう。

 このような社会の雰囲気は、上野さんの発言、「移民を入れて活力ある社会をつくる一方、社会的不公正と抑圧と治安悪化に苦しむ国にするのか」という部分や「日本人は多文化共生に耐えられない」という部分に現れています。つまり、「移民イコール治安悪化」という社会に渦巻いている偏見(それこそ「エビデンス」で否定されるのに)であり、「多文化共生は辛いこと」という(こちらはあまり指摘されない表現ですが)マジョリティの意識です。ちなみにわたしは、この発言を読んで、多くの人々にとって多文化共生は辛いことなのか、と逆に気づかされました。多文化共生というと日本と異なる文化に触れて楽しく交流する、というイメージだと思っていたのですが、それを「辛いこと」と感じる人も多いのだなと。ある意味、「日本の本音」みたいなことなのでしょうね。「日本の本音」を代弁しているのが今回の上野さんの記事であり、だからこそいろんな人が注目しているのでしょうか。

 それから、議論が混乱しているのが、移住連の指摘通り、上野さんが否定している「移民政策」とは何なのか、という点ですが、推測するに、安倍政権の考えている外国人労働力導入政策のことかと思われます。これまで何度か報じられていますが例えば下記。



 こういった政府の動きに対して「移民開国」といって危機感を表明してる方が多いようです。ですがこの政策はどうも技能実習生の枠組みを拡大したり特区を利用するらしいということと、開放する分野は農業・介護・家事などに限定していることから考えて、「移民開国」と言えるようなものではないように思います。既に戦後これまで日本は、大量の外国人労働者を迎えています。特に70年代後半から80年代のバブル期、製造業と性産業を中心に、外国人労働者がいなければ成り立たなかったような状況でした。この時期に多かったのは東南アジアからの人々。当時について以前聞いた当事者からは、「いわゆる不法滞在していても警察は全然黙認」だったそうです。それが90年代の不景気に入ると、途端に取り締まりも厳しくなりました。

 つまり日本の入管政策は、日本経済の都合だけで外国人労働力を入れたり出したりしようというもので、開国という形をとらなくても実質的に国は開いたり閉じたりしているのです。というかグローバル化じゃなくても、国境を完全に閉じることなんてできないのです。人はいろんな理由で国境をいろんな形で越えるのです。国家はそれを制限し、管理しようとします(例えばトランプのように)。今回の安倍の政策もその一環に過ぎません。それに対して「日本は排外的だから開国しない方がいい」と発言することがいったいどんな意味をもつのでしょうか。それはやはり、今までと今の移民あるいは外国籍者の人々が日本で生きてきた、生きている現実を見えにくくしてしまうのではないでしょうか。

 フェミニストとして考えるならば、そのような日本政府の企業中心的外国人管理政策を批判し、日本国籍を持たない女性たちの立場を想像することが大事なのではないでしょうか。私の見てきた限りでは、在日フィリピン人女性のほんとにみなが、夫やお店の客からの暴力、DVに苦しんできています。日本社会の外国人差別と女性差別を真っ向から受けているのです。開国の是非を論じるのではなく、既にある当事者の現実を見据え、彼女・彼らの人権を保障する制度や社会をつくっていくことが求められるはずです。つまり、安倍の政策をどう思うか、という水準(のみ)に乗ってしまってはダメだということですね。基本的な発想のレベルから問題があるので、そうではない法制を根本から主張していかないとダメだ、ということです。実務的な場面で政策の内容について評価する必要はありますが、研究者あるいはフェミニストとして発言できる場合には、現状肯定ではなく、現状を踏まえたより望ましいビジョンを示すことが求められているはずで、そうではないから今回多くの方が批判しているわけですね。

★補足
この論点には非常に深い前提もあって、というのはフェミニズムが移民のようないわゆるジェンダーには直接関連していないとされる問題についてどのように向き合うか、ということです。それについて上野さんは以前から、「フェミニズムはジェンダー(女性)以外の問題には関われない、関わるべきではない」という立場をとることが多い方でした。ただし、それと矛盾する言動もしているので困るのですが。
わたしは、ジェンダーは国籍や民族、人種、階級、身体性など他の社会的カテゴリーと切り離して存在するわけではないので、そのような分離主義的立場は非現実的だと考えています。
この前提にある問題が、今回の論争(?)の根底に横たわっていると思います。このレベルにまで議論を深めることができれば、上野さんの今回の発言も有益な結果を生むことができるのではないでしょうか。

★在日フィリピン人女性のインタビューを用いた拙著論文です。関心のある方、読んでいただけると大変嬉しいです。

「在日フィリピン女性の不可視性」岩崎稔/陳光興/吉見俊哉『カルチュラル・スタディーズで読み解くアジア』 せりか書房  2011年

「国籍法を変えたフィリピン女性たちの身体性―ジェンダー・セクシュアリティとグローバリズム」森千香子/エレン・ルバイ 編 『国境政策のパラドクス』  勁草書房  2014年

★2014年にも上野さんの発言が問題になって、このブログに批判を書いていました。以下です。

























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# by anti-phallus | 2017-02-16 17:31 | フェミニズム | Comments(0)

フレイザーのトランプ論「進歩的ネオリベラリズムの終焉」

マクロビーに続いてナンシー・フレイザーのトランプ論を訳しました。こちらはマクロビーより立場を明確に打ち出している、フレイザーらしい論評です。今年1月2日付で公開されています。

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前回のフレイザーのインタビューでも見られましたが、トランプの勝利を、ネオリベラリズムで被害を被ったひとびとに支持された結果と解釈しています。そしてその勝利は「進歩的ネオリベラリズム」の敗北でもあると。進歩的ネオリベラリズムとは、グローバルな金融資本主義と「多様性」や「エンパワメント」といった言葉を唱えるエリートたちの結合、を意味しています。本来「多様性」や「反差別」といった言葉は、全ての人々のための理想でしたが、現在ネオリベラリズムに利用されて、能力主義や企業中心主義のための言葉になってしまっているとフレイザーは考えています。これはフレイザーが従来から批判しているフェミニズムの変質と深く関わっている重要な論点です。

トランプの支持者たちは、文化的には「多様性」を唱える教養あるエリートたちから差別され、経済的にもグローバル化で大きな打撃を受けました。本来ならそこで左翼が彼女・彼らの痛みを引き受けるべきなのですが、現代アメリカでは左翼が不在なため、トランプの反動的・差別的な政治にすくわれてしまった、ということです。
しかしもちろんトランプはひとびとの真の救済となるはずはないので、フレイザーは、とくにクリントンを支持したひとびとに、間違いを認めトランプ支持層に訴えかける努力をすべきだ、と論じています。

フレイザーが根拠をおいているのはサンダースやその支持者たちで、これは前に訳したアイゼンスタインや恐らくマクロビーとも少し異なるスタンスなので、そこが面白いと思います。サンダースの支持者たちは、オキュパイ運動等と重なってくるだろうと思いますが、オキュパイ運動にどれだけフェミニズムの視点が見いだせたのか、そのあたりがポイントでしょう(というか私が関心がある)。

それから、この議論を日本に重ねて考えると、社会科学だったり左翼運動だったりフェミニズムだったりの権威ある言説や世界への反感が、近年の右傾化やレイシズム、ナショナリズムにつながっていることが連想されます。日本の右傾化も、グローバル化で経済的に打撃を受けた層によって支持されている面のあることが指摘されています。アメリカほど明確に地域性を示していないのが分かりにくいところですが。

全体的にはわたしとしては、トランプの経済政策だってネオリベのひとつなのでは?(クリントンの進歩的ネオリべに対して、トランプは反動的右翼的ネオリべ、ということになるはず)とかフレイザーの主張する左翼の再生はどれだけ現実的なのか?という点や、多様性を唱えるエリートやフェミニストたちの主体的責任を問い過ぎてないか?(彼女・彼らの責任というより構造的側面が大きい気がするが・・まだ分からない)という点で迷いますが、ともあれ発見の多い、理性的な論評だと思います。多くの方々に読まれ、議論されてほしいです。

追記
非常に良く見ていただいているので付け加えますが、フレイザーのいう左翼が本当に現代の問題に答えるためには、大幅な、今までの左翼の歴史を変える、超えるような変化が必要なのでしょうね。わたしはなんとなく、左翼はもっとフェミニズム(良質の)から学ぶべき、というのがまず最初に来ると思います。






進歩的ネオリベラリズムの終焉


ドナルド・トランプの選挙は、ネオリベラルなヘゲモニーの崩壊を共に知らせる一連のドラマティックな政治的反乱の一つを表している。これらの反乱には、英国における「ブレグジット〔Brexit:イギリスのEU脱退〕」選挙や、イタリアにおけるレンツィ〔元首相、政治改革の国民投票で敗れ辞任〕の改革への拒否、アメリカにおける民主党の指名投票におけるバーニー・サンダースの選挙運動、フランスの国民戦線〔マリーヌ・ル・ペン率いる反EU・移民排斥を唱える政党〕支持の増加などが含まれる。これらはイデオロギーや目標が異なるにもかかわらず、これら選挙による反乱はターゲットを共通している。これらはすべて、企業中心のグローバリゼーション、ネオリベラリズム、そしてそれらを推進する政治的権力者たちへの拒否である。どのケースにおいても、有権者たちは、今日の金融資本主義を特徴付ける財政緊縮、自由貿易、略奪的債務、不安定な薄給の仕事という致命的な組み合わせにNOを突きつけた。それらの選挙結果は、この形式の資本主義の構造的危機に対する応答であり、その構造的危機は、2008年〔リーマンショックの起きた年〕に初めてグローバルな金融秩序がメルトダウン同然に陥った事態によって白日のもとにさらされたものだ。

しかしながら最近まで、この危機への主要な応答は社会的抗議運動だった--もちろんドラマティックで生命力があるが、大体は短命な--。対照的に政治システムは、比較的安泰で、いまだ政党官僚や権威あるエリートたちに牛耳られているように見えた、少なくともアメリカやイギリス、ドイツのような強力な資本主義国家では。しかしながら今や、選挙の衝撃はグローバル金融の要塞を含む世界中に鳴り響いている。トランプに投票した人々は、ブレグジットの投票者やイタリアの改革への反対者たちと同様、その政治的支配者に反抗して立ち上がった。それらのひとびとは、政治的支配層を鼻で笑い、この30年間自分たちの生活条件を侵食してきたシステムを否認した。驚くべきは彼女・彼らがそうしたことではなく、そんなにも長くかかったことである。

にもかかわらず、トランプの勝利はグローバル金融への反乱だけではない。彼に投票した人々が拒否したのは単なるネオリベラリズムではなく、「進歩的な」ネオリベラリズムだった。これは矛盾しているように聞こえるかもしれないが、アメリカの選挙結果とおそらく各地で起きているいくつかの出来事を理解する鍵を握っているのはこのねじれているが現実に起きている政治的連合である。アメリカの場合、進歩的ネオリベラリズムは、一方の新しい社会運動(フェミニズム、アンチ・レイシズム、多文化主義、LGBTQの権利運動)の主流と、他方での高級志向の「象徴的な」サービス産業に基づいた経済セクター(ウオール街、シリコンバレー、ハリウッド)との連合である。この連合において、進歩的勢力は、とくに金融化の認知資本主義の力と効果的に連結した。しかしながら、知らずに前者はその魅力を後者に貸し出した。理論上は違った結末を与え得るはずの多様性やエンパワメントといった理想は、今や、製造業とかつて中流階級の生活をなしていたものを破壊した政策の表面を飾っている。

進歩的ネオリベラリズムは過去30年間にわたってアメリカで発展し、1992年のビル・クリントンの選挙によって承認された。クリントンは「新しい民主党」の主要なエンジニアかつ標準的な伝承者であり、トニー・ブレアの「新しい労働党」のアメリカ版だった。組織化された製造業労働者やアフリカ系アメリカ人、都市の中産階級のニュー・ディール連合に代わって、彼は、企業家、郊外居住者、新しい社会運動、若者、多様性や多文化主義、女性の権利を信ずる本当の現代の進歩主義を主張するすべての人々の新しい連合を築いた。そのような進歩的な観念を支持しながらも、クリントン政権はウォール街の機嫌取りをした。経済をゴールドマン・サックスに差し出し、銀行システムを規制緩和し、脱工業化を促進する自由貿易協定を協議した。脇に追いやられたのはラスト・ベルト地帯である、かつてニュー・ディール時代の社会民主主義の牙城であり、今や大統領選挙人団をドナルド・トランプへ運んだ地域。この地域は、南部のより新しい産業の中心地と共に、この20年間を通して広がった高騰する金融化に大きな打撃を与えた。バラク・オバマを含む彼の継承者に継続され、クリントンの政策はすべての働く人々、とくに製造業関連会社に雇われた人々の生活条件を切り下げた。つまり、クリントン主義は組合の弱体化、実質賃金の切り下げ、仕事の不安定性の上昇、機能停止した家族賃金に代わる二人稼ぎ手家庭の増加について大きな責任がある。

最後の点が示唆するように、社会保障の圧殺は、新しい社会運動から借りられた解放的な魅力のベニヤ板で飾られた。製造業が爆発していた時期、国中が「多様性」や「エンパワメント」、「差別反対」の話で騒がしかった。これらの言葉は、「進歩」を平等ではなく能力主義と同一視して、「解放」の意味合いを、序列を廃止することではなく、勝者総取り方式の企業の序列の中で「有能な」女性やマイノリティ、ゲイなどの小さなエリートが増加することと見なした。これらの「進歩」のリベラルで個人主義的な理解は徐々に、60-70年代に広がった解放の、より拡張的で反序列的、平等主義的で階級に意識的で、反資本主義的な理解に取って代わった。ニュー・レフトが弱体化すると、その資本主義社会の構造的批判は消え、この国に特徴的なリベラルで個人主義的な姿勢が再び現れ、「進歩主義者」と自称左翼の情熱は見えないほどに縮んだ。しかしながらこの扱いを封印したのは、この展開とネオリベラリズムの台頭の同時発生だった。資本主義経済の自由化に傾注する政治団体は、「lean in〔女性がビジネス界などに進出しようとすること〕」や「ガラスの天井を破る」ことに専念する能力主義的な企業のフェミニズムに完璧な仲間を見出した。

その結果は、解放の切り縮められた理想と金融化の致命的な形式を混ぜ合わせた「進歩的ネオリベラリズム」だった。トランプの支持者に完全に拒否されたのはその混合だった。この勇敢で新しいコスモポリタン世界から取り残された人々の間で目立つのは、もちろん製造業の労働者であり、そしてまた経営者、中小零細企業、ラスト・ベルト地帯と南部の産業を必要とする人々、同様に失業とドラッグで破壊された農村地帯の人々だった。これらのひとびとにとって、脱工業化による傷は、彼女・彼らをおきまりのように文化的に遅れていると見なす、進歩派の説教による侮辱によって悪化させられた。グローバリゼーションを拒否することで、トランプの支持者たちはそれと同一視されるリベラルなコスモポリタニズムをも否定した。(全てではないが)ある人々にとっては、自らの状況の悪化を政治的正しさ〔ポリティカル・コレクトネス〕や有色の人々、移民やイスラム教徒のせいにするのはたやすかった。彼女・彼らの眼の中では、フェミニストとウォール街の連中は同類であり、ヒラリー・クリントンの中に完全に統合されていた。

この合成を可能にしたのは、本当の左翼の不在だった。「オキュパイ・ウォールストリート」のような定期的だが短命な爆発にもかかわらず、この何十年というものアメリカでは持続的な左翼が存在しなかった。一方にある金融化を批判するトランプの支持者の正当な不満と、他方の反レイシスト、反セクシスト、反序列的な解放の世界観を結び付けられる左派のわかりやすい語りはどこにもなかった。労働と新しい社会運動の間の破壊的でかつ潜在力のある結びつきは弱体化したままだった。左翼を実現するには不可欠な両極は、互いにバラバラになり、意見が合わず、正反対に位置づけられるままである。

少なくとも驚くべき初期のバーニー・サンダースの選挙運動まで、彼はBlack Lives Matter〔警官による黒人殺害などの黒人差別に反対する運動〕に突き動かされて以後、両者の結びつきのために闘った。サンダースの反乱は、優勢なネオリベラルの常識を打破し、トランプのそれの民主的な側面と共通点があった。トランプが共和党の権力者たちを負かした時、バーニーはオバマの継承者の指名に僅差で負けようとするころだった。民主党ではオバマの党員たちがすべての権力の段階を支配していた。その間、サンダースとトランプがアメリカの有権者の大多数に衝撃を与えた。だがトランプの反動的なポピュリズムのみが生き残った。トランプが、高額寄付者や党の大物たちに好まれる者たちを含め共和党のライバルを簡単に負かしている間、サンダースの反乱は、民主的でない民主党によって効果的に抑えられていた。一般投票のころまでには、左翼のオルタナティブは抑圧されていた。残されていたのは反動的なポピュリズムと進歩的なネオリベラリズムのホブソン的な選択〔究極の選択、選択の余地のないこと〕だった。いわゆる左翼がヒラリー・クリントンに対抗して結束した時、死が約束されたのだ。

にもかかわらず、またこの地点から、これは左翼が拒否すべき選択となった。社会保障の解放に反対する政治家階級によって私たちに提示された用語を認めるよりも、現在の秩序に対する社会的な反感の圧倒的な広がりに基づいてそれらを再定義するよう努めるべきである。社会保障に反対する「金融化と解放」を支持するよりも、金融化に対抗する解放と社会保障の新しい連合を築くべきである。サンダースのそれに基づくこのプロジェクトでは、解放は企業の序列を多様化することを意味するのではなく、それを廃することを意味している。そして繁栄とは、株の配当が増えることではなく、すべての人々にとって良い生活が送れる物質的必要が満たされることである。この組み合わせのみが、現局面で、唯一の信念があり見込みのある回答であり続けている。

わたし個人としては、進歩的ネオリベラリズムの敗北のために涙を流すつもりはない。もちろん、レイシストで、反移民、反エコロジカルなトランプ政権から恐れるべきことは多い。だがネオリベラルのヘゲモニーの内部崩壊も、クリントン主義による民主党の破壊もどちらも嘆く必要はない。トランプの勝利は解放と金融化の連合の敗北を印している。しかし彼の大統領の任期は現在の危機への解答も、新しい体制の約束も、安定的なヘゲモニーもどれも与えはしない。むしろ私たちが直面しているのは、空白期間、誰もが精神と心を手に入れられる開かれた不安定な状況である。この状況下で、危険だけではなく機会もあるのだ、新しいニューレフトを築くための。

それが起きるかどうかは、部分的には、クリントンの選挙運動に集まった進歩派たちの徹底的な自己反省にかかっているだろう。彼女・彼らは、ウラジーミル・プーチンとFBIに支援された「愚かな奴らのバスケット」(レイシスト、女性差別者、イスラム嫌悪者、ホモフォビア)に迷い込んだという心地よいが誤った作り話をやめる必要があるだろう。彼女・彼らは、能力主義と多様性、エンパワメントに関して解放を誤って理解したために、社会保障や良質な生活水準、労働者階級の尊厳を犠牲にした責めを負うべき部分があることを認める必要があるだろう。サンダースの「民主的な社会主義」というキャッチフレーズを蘇らせ、21世紀にそれはどのような意味を持つかを考え、どうすれば金融資本主義の政治経済を変容できるか熟考する必要があるだろう。とくに、彼女・彼らは、レイシストでも右翼でもない多くのトランプ支持者たちに手を伸ばす必要があるだろう、その支持者たち自身が「不正なシステム」の被害者であり、活性化した左翼の反ネオリベラル・プロジェクトに採用されうる、されるべきひとびとである。

これはレイシズムやセクシズムに関する緊急の懸念を無視するものではない。そうではなく、金融資本主義下で長い間歴史的に抑圧されてきた人々が今日どのように新しい表現と根拠を見つけ出すかということを意味している。わたしたちは選挙運動を支配していた誤ったゼロ・サム思考に反論し、女性や有色の人々を苦しめる危害と、トランプに投票した多くの人々の経験を結びつけなければならない。そのようにして、生き返った左翼が全ての人々のために闘える強力で新しい連合のための基盤を作ることができるだろう。




























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# by anti-phallus | 2017-01-28 23:19 | フェミニズム | Comments(4)

アンジェラ・マクロビー「アンチ・フェミニズム、過去とこれから」

 アンジェラ・マクロビーのネット上の寄稿を訳しました。マクロビーはイギリスのメディア研究のフェミニストで、日本ではカルチュラル・スタディーズの分野で知られています。
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 彼女は、本文中でも触れられている『the aftermath of feminism』が大変面白いです。それは2009年の本なのですが、今回訳出したテクストは2016年11月公開のものなので、今日本でも話題沸騰(・・・)しているトランプ米大統領についてがメインの話題となっています。
 トランプ氏については、日本で語られるときは移民排除や人種差別の問題について批判されることが多く、女性差別についてはネタ的に、「こんなこと言ってるよ〜」みたいなノリで語られがちな印象がありますが、そうではない深刻な問題が横たわっていることを論じています。ヨーロッパ、アメリカだけではなく日本も含め、女性に対する抑圧や暴力が増大しており、にもかかわらず十分な批判がそこに向けられない状況に今あるということです。トランプ氏は、早速中絶の権利を抑制する政策を出し始めているようですね。(日本では中絶について、今でも刑法堕胎罪で原則は犯罪化されているーーーけれども母体保護法で条件付き許可されるという二重体制ーーーことを知る人すらほとんどいない状況・・・)
 このテクストの中でフレイザーのネオリベラル・フェミニズム批判についても触れられていて、そういう意味でも目を引きます。フレイザーとマクロビーの現状分析の内容と方法における共通性と個性を考えるのも大事なことかと。
 ちなみに「anti-feminism」を初め「反フェミニズム」と訳していたのですがカタカナにしちゃったほうが通りやすいのかと思いそうしてあります。ほかにも短いのに訳しにくい表現が多々あり、間違い等あればお知らせください。

原文は:


アンチ・フェミニズム、過去とこれから


暴力の危険と脅威が女性を待っている。アンチ・フェミニズムの新局面へようこそ。

シルヴィオ・ベルルスコーニがイタリアの首相だった時、わたしたちはアメリカで起こることの予兆を目にしていた。ベルルスコーニはメディア界の大物であり、道化を演じたがるが常にそこには脅しを忘れないショーマンであり、現実生活では、トニー・ソプラノであり、彼にとって女性はセックスの対象に過ぎなかった。ミシェル・オバマが外交上、この男性と握手しなければならない不快感で身をすくめる瞬間をカメラが捉えたのを思い起こそう。

ベルルスコーニは、全身全霊で、自立的な女性の増加に反対した。彼は、女性が身のほどをわきまえ、母、祖母、愛人、ショーガールとして従属していた時代まで時計を巻き戻そうとする男性だった。私の世代の女性なら誰もが、この種の、もはやお咎めなく女性の背中を縛り付けることができないことに憤慨している男性に馴染みがあっただろう。

世界の舞台でドイツのアンジェラ・メルケル首相のような強い女性と対面しなければならない時には、ベルルスコーニはジョークを飛ばし、彼女をからかい、男子生徒のように振る舞い、彼女の後ろではまるで彼女が乳母のような存在にすぎないかのように「おかしな顔」を作って、結果的に「あなたとまじめに付き合う気はない」と示していた。

フェミニストの主張に現実に直面すると、彼は伝統的なポスト・フェミニストの姿勢をとり、フェミニストに対して魅力がなく、年をとって、ムカムカすると侮辱する一方で、同時に、彼の政権に、無資格のステレオタイプ的にグラマーな女性を権限のある地位に登用した。彼はいつも新しい形の「中道派の」ファシズムをちらつかせ、普通の男性を代表するために左派とポピュリストを厳しく否定し、スカートは法ギリギリの長さまでにしておきたがった。

何年か経った現在、ドナルド・トランプの勝利はより大きなスケールでこれらと同じ特徴を示している。トランプの謝罪もされない性差別は、今や自信を持って再び自己主張する家父長制の反乱に自由を与えたようだ。これまでは、アンジェラ・メルケルやテレサ・メイ英国首相やニコラ・スタージョンスコットランド首相を見ればわかるように、家父長制は停止していると見られていたのだが。低次元の「外交的」でない侮辱は、権力の特定の行使の形式を映しており、女性を所属政党にかかわらず押し込めようとする方法である。

2016年の11月8日以来、多くのフェミニストがなぜそんなに多くの白人女性がトランプに投票したのかと問い直している。これは女性自身のミソジニー(女性嫌悪)を示しているのだろうか?ヒラリー・クリントンに、「エリート白人フェミニズム」を信奉し、合衆国の労働者階級女性との結びつきに失敗したと多くの怒りが向けられた。だが多くの黒人や他の民族的マイノリティの女性たちはクリントンに投票した。トランプの立候補中に示されたレイシズムのためだけではなく、夫や父親に保護されあるいは男性稼ぎ手に支えられるフェミニスト以前の女性になるという幻想は、もはや彼女たちを引きつけなかったからでもある。労働市場の人種化された特性は、この幻想に似たようなモデルが生まれるのをほとんど許さないし、したがって1950年代の典型的な主婦の時代に戻るような発想は出てこなかった。

どちらにしても、クリントンが自分たちの給料が何十年も上がらないままのふつうの女性有権者たちにつながれなかったという議論は、なぜ、彼女たちの多くが、彼女たちの権利を再生産に制限しようと用意し、そしてあらゆる種類の男性と平等なレベルでの職場への参加の能力を邪魔しようとする男性に進んで投票したのかということをいまだ説明していない。この現象は、アンチ・フェミニズムを検討することによってのみ説明可能である。

アンチ・フェミニズムは色合いを変え続けるが、決して去ることはない。ライターであり活動家であるスーザン・ファルーディが重要な著書『バックラッシュ』で記録しているが、合衆国においてリベラル・フェミニズムと社会主義フェミニズムの高まりとほぼ同時に、「モラル・マジョリティ」の怒れる反対運動の支持者たちが立ち上がった。私の著書『フェミニズムの余波(The Aftermath of Feminism)』で、より不快でもなくより進歩的な、あるいは親女性的でさえある力を持つように見えるこのバックラッシュの後の複雑化した状況を追った。

この運動は女性、特に若い女性の擁護の新しい形を伴った。彼女たちが、フェミニズムを古くてアナクロで全く魅力のない帽子として捨て、女性の個人化という「頑張る」道を選ぶという条件付きで。これは、新しい能力主義の中でフェミニズムの助けなしに容易に目標を達成できる野心的で競争心の強い人気者の少女の「ポスト・フェミニズム」だった。

イギリスのトニー・ブレアの任期中、この精神が政治文化とポピュラー文化に広がった。女性たちが笑顔を浮かべ素直な「ブレア・ベイビー」となるよう期待された時、フェミニズムは冷蔵庫に入れられた。私はよく思い出せるが、仕事の問題や雇用、ジェンダーやセクシュアリティに興味のある女子学生すらもがフェミニズムを拒絶し、それなしでやっていけると感じていた時代だ。若い男性のように後ろポケットにウイスキーの小瓶を忍ばせ、ラップダンスクラブに喜んで連れ立ってある種の「男根的な女性性」に感染するのが流行っていた。

ナンシー・フレイザーと何人かは、この種の業績に駆り立てられ、あるいは選択にもとづいた女性のエンパワメントの観念を宣伝することによってネオリベラルな秩序と共犯者になったとあるフェミニストたちを批判した。彼女たちは少数にのみ許される陽の当たる場所を認めることで資本主義に売り出したという複雑な方法で。その過程で、リベラル・フェミニズムの多くは、よりあからさまにマーケット主導で競争主義的な女性の成功の思想へと変質したが、この「ネオリベラル・フェミニズム」の形すらトランプ的な世界観にとっては嫌悪の対象かもしれない。

同時に、多くの異なるタイプと形式のフェミニストの運動と組織を含むフェミニストのルネッサンスも起きている。「エブリディ・セクシズム」プロジェクトはフェミニズムが近年そんなにも求められていることを示す最良の例の一つだ。同時に重要なのは、イギリスの「the F Word」や、アメリカのフェミニストがトランプの悪名高い「プッシーをつかむ」発言に抗議するために活気づけたやり方のような、この10年間のウェブ・アクティビズムだ。しかし、すべての老若のフェミニストたちを驚かせたのは、この新しい可視化が生んだ虐待や暴力、中傷の激しさだった。

アンチ・フェミニズムは今やより過激な鋭さをもっている。この憎悪はインターネットに本拠地を見出し、Jo Cox議員の無残な死が示したように、そこから街頭へ移動した。表向きにはコックスは移民や政治亡命希望者への憎悪の傾向を除去しようとしたために殺されたとされている。だが彼女が女性だったことも偶然ではないように思われる。殺害の脅迫を受け警察の保護を必要とすることになった女性の活動家や政治家、コメンテーターのリストはこの12ヶ月で急激に増えている。痛ましくもコックスは保護を要請するまでに至らなかったが。

脅迫と暴力の脅しは、お互いに喧嘩の構えを取りたがる男性とは違い、女性に対して特有の意味合いがある。ベルルスコーニは、女性は一家の男性に逆らうと叩かれるゴッドファーザー映画の王国に所属していた。トランプは近年の彼の多くの発言の中で、挑発的に、「怯える」必要はないと言ったが、新しいバックラッシュは、ある立場をとろうとする女性へのあからさまな挑発の形をとっている。避妊や中絶に関してついに得られた権利の核心はいまやかつてないほどに脅威にさらされている。「第2波フェミニズム」の頃から闘われなければならなかった自由を守るよう求められているのは女性自身である。

この脅威がどれほど現実的なのかはいえないが、最近のこのバックラッシュをみると、女性たちには、女性たち自身のために、またその娘や夫や父、息子のために、階級や民族の境界を超えて、真剣に権利を擁護する新しい方法を見つける緊急の必要性がある。フェミニズムがこれまでそしてこれからもその生をより良いものとするものであることを思い起こす必要もあるのだから。










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# by anti-phallus | 2017-01-25 13:25 | フェミニズム | Comments(0)