菊地夏野のブログ。こけしネコ。


by anti-phallus

プロフィールを見る
画像一覧

S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

記事ランキング

最新の記事

なぜ私はフェミニストではない..
at 2018-01-19 17:25
セクハラ #Me too 
at 2017-12-29 21:46
福島・放射能・原発etcのこと
at 2017-11-23 15:46
2017年衆院選挙結果を受け..
at 2017-10-27 13:54
ナンシー・フレイザー「資本主..
at 2017-09-13 15:49
諦めが生む女性専用車両
at 2017-08-31 18:33
アイヌのこと
at 2017-08-07 17:59
家族に介入する国家が問題なの..
at 2017-05-05 23:51
ジュディス・バトラー インタ..
at 2017-03-11 21:12
朝日新聞・女子力コメント
at 2017-03-08 13:39

カテゴリ

全体
つれづれ
非常勤問題
小説
ブックレビュー
シネマレビュー
仕事
イベントの案内
フェミニズム
セックス・ワーク
クィア/LGBT
日本軍「慰安婦」問題
原発/震災
ユニオンWAN争議
その他
未分類

以前の記事

2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 05月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 08月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 05月
2014年 03月
2014年 02月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月

最新のコメント

> 森さん お読みいた..
by anti-phallus at 16:53
はじめまして、だいぶ昔の..
by 森 at 22:27
はじめまして、だいぶ昔の..
by 森 at 22:27
> サドさん ラディカ..
by anti-phallus at 15:55
結婚制度を廃止したらいい..
by サド at 13:58

画像一覧

なぜ私はフェミニストではないのか:ジェッサ・クリスピンのフェミニスト宣言を読む ラディカルになるべき時

とても面白い英語記事があったのでシェアします。



本の書評ですが、この評自体が今のフェミニズムと社会を鮮やかに浮かび上がらせるものになっていると思います。
最近、フェミニズムに関してやや新しい(かのような)スタイルで語るパターンがあって、「やわらかい」とか「ソフト」とか「楽しい」とか良さげなキーワードで、「これまでのフェミニズムとは違うもの」を売りにする語り口が増えています。男性を攻撃しない、とかおしゃれやファッションを軽く楽しむ、とかの語りが付随します。これは誰かが何かを主張していると言うよりは、なんとなく「フェミが流行ってるらしい」とにおわせるようなやり方です。そしてそのフェミというものが何を意味しているのかはよくわからないまま。

例えばディオールが高いTシャツに「WE SHOULD ALL BE FEMINISTS」と書いたとか、追っかけでGUも「I am a feminist」と書いた安いTシャツを売った、とかは分かりやすい例。(ブランド産業の問題性についてはナオミ・クラインをとりあえず読みましょう)(そういうTシャツを着ることを私は全く否定しませんが、ブランドやファスト・ファッションのマーケティングに乗せられているだけではないかという疑問ぐらいは忘れないようにしましょう。Tシャツを着たからといって性差別の現実は変わりません。メーカーや小売店にわたしたちのお金が入っただけです)

私はこういうのを見るたびに胃もたれのような感覚を覚えていました。世の中の性差別構造はほとんど変わっていないのに、なんかそれを批判しちゃいけないのかな?と。ですがこういうことを言うとそれこそ「やわらか系」の誰かに陰口を言われそうだし、まあそれはいいとしてもフェミニズムに水を差すことになりやしないかと心配だしで、面倒。

アメリカでも似たような状況があるようで、というかむしろ日本のマスコミがアメリカの真似をしているわけで、そういう状況への危機感をはっきり打ち出してくれている本です。

ここでも出てくるように、フェミニストのセレブ、というポジショニングなどもう本当にうんざりさせられるわけです。フェミニズムとはすべての女性のためのものであるはずなのです。女性の中に序列をつけ、トップの人たちを選び出して賞賛するなんて、フェミニズムではないのです。ところが、セレブの持つアクセサリーの一つのようにフェミニズムを語るスタイルが出てきています。こういう語りはフェミニズムの力を奪い、わたしたちの力も盗みます。

文中のアンドレア・ドウォーキンとは有名なフェミニストの著作家ですが、彼女たちのようなラディカル・フェミニストは日本では最近あまり触れられることも減りました。ドウォーキンのよく知られたフレーズに、「すべてのセックスはレイプである」というものがあります。聞いた人は引いてしまうでしょうが、セックスや恋愛をほめたたえる言葉とイメージばかり溢れている中では、いちどこのフレーズを噛みしめる必要があると思います。知人のフェミニストはこの視点を、「一度必要な絶望」だと言っていました。絶望から始まるものがあるということですね。

それから面白いのが、ツイッターの中の「怒りのフェミニズム」について指摘しているところ。近年、ツイッター上で誰かが性差別的な発言をすると大勢が批判し、またそれをマスメディアが報道する、という循環パターンが生まれています。それ自体は必要な仕事かもしれませんが、長くやっていると疲れてしまいますね。それが本当に私たちにとって一番必要なことなのか、著者は問いかけています。

あらぬ方向に流されてしまいがちなわたしたちを、本来の道に呼び戻してくれるような気がします。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
なぜ私はフェミニストではないのか:ジェッサ・クリスピンのフェミニスト宣言を読む ラディカルになるべき時

フェミニズムはかつて、社会の変容やロマンスへの挑戦、生きるための新しい方法を意味していた。今や、無難なものにイメージを変えられてしまっているとクリスピンは論じる。


スザンヌ・ムーア
2017.2.15


ジェッサ・クリスピンはフェミニズムに問題を感じている。それがあまりにも牙を抜かれてしまったので、彼女は同一化(identify)できないのだ。クリスピンは牙をもっているし、それを見せることを恐れていないから。彼女は、一部の人々のように、「フェミニスト」のラベルが不快で、ぼさぼさ髪の男嫌いを思い起こさせるから拒否するのではない。まったく逆だ。フェミニズムは陳腐なものにイメージを変えられてしまっていると彼女はいう。フェミニズムの普遍化はある種の牙抜きのようなものだ。フェミニズムを無意味なものにしてしまっている。

フェミニストが与えなければならない、女性は賢く付き合いやすい存在だという安心感は、クリスピンにとって、問題含みだ。「それはつまり、私は無害で、牙を抜かれてるの、襲って(fuck)ちょうだいと言っているようなもの。だから私はフェミニストのラベルを拒否することにした」。

アメリカ人の編集者であり批評家であるクリスピンは、自分のエンパワメントとしてフェミニズムを批判し、その真のラディカルな可能性を再発見することを決意した。彼女は、女性雑誌やライフスタイルを謳うサプリメント剤に好まれる「自分へのご褒美」フェミニズムに反対する。そこにはまた、ラディカリズムとは本当はどのようなものかについての重要な問題がある。近頃では、たくさんの「セックス・ポジティブ」な歌姫はただの男性への快楽提供者のように見える。この崖っぷちのフェミニズムのほとんどは女性の生の基盤についてまったく何も語らない。わたしたちがポリガミーについて話せる時になぜ年金について語っているのか?

ポップ・カルチャーのなかに自分をフェミニストと認めるセレブがあふれている時代に、大事なことは、主流と周縁の関係性そのものであるとクリスピンは主張する。「主流の人々は、自分のためのラディカルな空間を主張したがるが、同時に、ラディカルな人が行う活動を否定する」。このようなことが生じるために、アンドレア・ドウォーキンやシュラミス・ファイアストーン、ジャーメイン・グレアのようなラディカルな人々の否定が行われる。若い女性の、これら「フェミナチス」を非難したいという母殺しの欲求は、今でも不快な人物として残されているドウォーキンをしばしば中心に置いている。一体これはどういうことだろうか。クリスピンは、ローリー・ペニーがドウォーキンの信念体系について書いたものを、「私が支持しているフェミニズムに全く場所を与えていない」と挙げている。

これは何を意味しているのだろうか。ドウォーキンの仕事は最終的に、権力とその意味するところに関するものであり、それが深く不快である理由は、私たちの最も親密な瞬間の中にさえ、権力関係が存在していることを示しているからだ。ラディカルな変化は恐ろしい。ドウォーキンのような人物に体現される時、女性たちは自分はこの種のフェミニストではないという行列に並ぼうとする。革命は遠くに行ってしまったと言う人々はフェミニズムをもっとユーザー・フレンドリーにするためにそうしていると言うのだろう。だがそのユーザーとは誰のことだろうか?

ラディカリズムから自助グループへの移行は、確かに脱政治化である。かつて生きるための新たな方法を構想した運動は、個人的な目標としてのエンパワメントを伴う自己啓発コースに変わった。フェミニズムが本当に女性をより幸福にしたいと考え、私たちにより良い仕事と結婚とオーガズムを与えたいと考えるなら、「宗旨替えは必要ない」とクリスピンは恐れずに言う。本書の真の刺激は、権力とそれをどのように女性が使うかについて彼女が語る箇所で感じられる。私たちがより多くのカネを得れば得るほど、カネの力で家父長制による困難を解決できるようになる。平等とは男性が生きるように生きることだという考えはラディカルではない。わたしたちは価値体系をリセットし、その全体を解体しなければならない。

これは、女性が、女性に対する抑圧において共犯者となっているのではないかという気まずい疑問を生みだす。それは、たくさんの白人女性がトランプに投票している今やタイミングの良い問いだ。だが、女性にとって、核家族を離れて、男性たちに同一化しないようになるようなどんな動機づけがあるというのだろうか?フェミニズムがオルタナティブな仕組みを提示しているわけでもない。支配的なロマンチックな文化の外部で生きたいと欲する女性に対して何があるのだろうか?これこそがやるべきことなのだ、生きるための新しい共同の方法を創造すること。これについて男性がどう考えるかということにクリスピンは関心を持っていない。もし彼らが反対すれば、「どこか他でやりなさい、男性は私の問題ではないから」。

だがもちろん、クリスピンは男性の非人間化も認めない。例えば彼女は、女性の安全への祈りは、あまりに多くの男性、特に黒人男性を刑務所に入れる十分な理由になるのだろうかと疑問をもつ。

このような考えがいくつも本書にほとばしっていて、さらに論じられる必要がある。だが彼女は常にはっきりしている。オンラインにまず存在している「怒りのフェミニズム」について、彼女は新鮮な空気を入れようとする。そういった怒りの全ては何を達成するのだろうか?わたしたちは「ツイッターおやじ(twitter bros)」にいくら時間とエネルギーを費やすのだろうか?ミソジニー(女性嫌悪)は個人どうしで闘ってはいけないのだ。

挑むところどこでも、彼女はクリシェを明るみに出し、本当に重要なものーーーーーーそれはつまりもちろん平等ではなく自由ーーーーーを私たちの手に取り戻させようと試みる。権力のある地位に女性を増やしても、彼女たちがそのシステムに挑戦しないのならば不十分だ。美や承認の定義を広げるだけでは足りない。むしろ、恋愛は私たちの生の中心的な特徴から降格されなければならない。

クリスピンはより良いものを築くためにそれを想像する必要を語っている。自分に夢中になるものとして、新しいライフスタイルへの追加オプションとして、フェミニズムはわたしたちをつかんでいる、・・どこに行こうとしているのか?わたしたちは今どこにいるのだろうか?止まってみよう。どれだけ素早く後退してしまえるのか見極めよう。フェミニズムはいつそんなに小さいものになってしまったのか?いつから、礼儀正しく安全な、よく売れるものになったのだろうか。クリスピンはわたしたちに大きく、恐ろしいほど大きく考えるよう促すことでこれら全てを爆破してしまう。













[PR]
# by anti-phallus | 2018-01-19 17:25 | フェミニズム | Comments(0)

セクハラ #Me too 

 ここのところ気になっているセクハラの告発の動きについて書きます。
 アメリカの映画界や音楽界等で著名な俳優やアーティストなどがセクハラ被害について告発したことにも影響されて、日本でも声が上がっているという件。
 とりあえずニューズウイーク日本の記事を。


 この後、(日本の)有名ブロガーなども告発して、動きが広がっています。

 この動きをみていていろんなことを考えさせられます。今回特徴的なのは、やはり、被害者が顕名で告発していることでしょう。セクハラという言葉が社会に広まり出した時代、90年代初めには、ほとんどが匿名でした。私が個人的にも記憶に大きく残っているのは、京大矢野事件です。当時京都大学東南アジア研究センター所長で、ノーベル賞選考にも関連していた矢野暢氏が、複数の女性職員や研究者にレイプを含むセクシュアル・ハラスメントを繰り返していたということで、大きな問題になりました。ある被害者の方は裁判も起こしましたが、「甲野乙子」という名前を使われていました。この裁判(被害者の勝訴で終わった)については本(甲野乙子さん著)も出ています。私は大学に入学したての頃だったので「やっぱり大学といえどもこういうことはあるんだよな」みたいな気持ちで、納得とがっかり感と両方あるような心境で受け止めていました。

 その頃と比べると、ここ数年になって著名人を含む被害者が名前を出して告発するようになったことについては、ある程度「前進」したといえるでしょう。被害者が匿名でないと声をあげられない状況はあまりに酷いから。被害者は何も悪いことをしていないはずなのに、名前をあげられないということは、名前を出すことで否定的な反応、不利益しか想像できないからですね。告発することが社会的な死を含み持ってしまうという場合があるということ。それと比べると、被害者が名前を出して告発する、それをメディアが否定的ではない形で報道することができるというのは被害者を尊重する社会的意識が育ってきているということを意味しています。ですが、それでも被害者にとって顕名の告発は大きな「リスク」を抱えることでもあります。告発すると、加害者からの攻撃、周囲からのバッシング、ネット上のバッシングに囲まれることになるからです。これは今も変わっていない。
 
 被害者バッシングというのは男性も女性もやることで、その論理の主要なものに「有名になりたいだけだろう」というものがあります。被害の告発をして社会的な注目が集まることを目的としているのだろうという受け止め方。実はこの論理はセクハラの事実の有無に関わらず持たれうる。たとえセクハラが事実だったとしても目立つために告発したんだと受け止められれば、告発は無効にされてしまう。これは恐ろしい論理なのですが、それだけ私たちは「社会的な注目を集める」ことの欲望を自明視しているのだなと思うとまた怖くなります。「ひとは社会的な注目を集めるためならなんでもやる」という前提でなければ成立しない論理ですからね。ネット社会のなかでおおぜいのひとが自撮りしてSNSにアップする、それによってセルフ・プロデュースしてキャリアアップを追求するということが増えている今だからなおさら、こういう受け止め方は説得力を持ってしまいますね。

たまたま最近読んでいた内田春菊さんのエッセイ本で、「昔上京したての頃、肉体関係を持てばチャンスをくれるという話があるならどんどん持っちゃうと思ってたけどそんな話はなかった」という趣旨のことが書いてあった。内田さんはこういうことを書けるからすごいポジションにいるんだけど、多くの女性は、こういう欲求をもっていることすら口に出せないと思います。物書きのような特別な職業でなくても、普通の会社勤めであっても、「認められたい」「キャリアアップしたい」ということをはっきり口に出せる女性は多くないと思います。

仕事に打ち込んでいたら、周りに評価されたいと思うのは当然のことだし、男性なら難なくそれを表現できるし周りも期待するのに、女性となるとそういう願いを持つことは恥ずかしいことのように見られる。代わりに、「良いお母さんになりたい」「良い妻になりたい」というのはおおっぴらにいえることですね。

いつの間にか若干話がずれましたが(汗)、ともかくセクハラの告発に対して足を引っ張る心理には、こういう女性に社会的上昇を許さない意識が背景にあるように思います。

セクハラそれ自体が、仕事を続けたい、働きたいという女性の気持ちを利用して行われるし。仕事を続けたければ、多少の嫌なことには目をつぶらなくちゃ、となりますよね。セクハラの背後には、こういう仕事とジェンダーをめぐる複雑な意識が横たわっています。セクハラの解決には、仕事とジェンダーの複雑な絡みつきをなくす必要があります。

社会的上昇、承認を求める欲望をめぐる私たちの葛藤の深さと、そこにあるジェンダーの不平等。こういうものから解放されるのが本当のフェミニズムなんだろうと思います。












[PR]
# by anti-phallus | 2017-12-29 21:46 | Comments(0)

福島・放射能・原発etcのこと

 ずっと気にかかっていたことがあります。気にかかる、どころか心の深いところに重石のようになっている、という方が正確な表現なんですが。何かと言うと、なんと名付けていいかすら分からないような感じで、つまりは福島の原発事故のこと、放射能のこと、避難者のことなど。2011年の3・11以来、自分の中の何かが止まったようになっていて、それは考えだすとあまりに重いので、ふたをしていました。でもそうもしていられないので、ちょっとずつ頑張って書くことにしたいと思います。

 放射能や原発のことがほとんどタブーとなっている現状ですが、このようななかでも貴重な仕事をしているひとはたくさんいます。まずは毎日新聞の記者の日野行介さんの本、『原発棄民 フクシマ5年後の真実』(毎日新聞出版、2016年)と『フクシマ6年後 消されゆく被害』(尾松亮と共著、人文書院、2017年)をお勧めします。事故後、福島と周辺の多くの住民が関東や関西以西に避難しました。彼女、彼らは「自主避難者」と呼ばれます。自主避難者に対する政府の政策について報じられています。世間では「たくさん金をもらって」という冷たい視線もあるようですが、じっさいにはそんなことはなく、唯一あった住宅支援も切られました。政府は「帰還」をほとんど一つだけ選択可能なものとして進めていますが、現地はまだ放射能の線量の高いところも多く、そもそも政府が帰還の基準としている「年間20ミリシーベルト」は、事故前の基準「年間1ミリシーベルト以下」を大幅に上回るものです。こんな政策で、子供を育てる責任のある人々が納得できるでしょうか。この本では、このような当事者無視の政策がどのようにして審議・決定・実行されたのか調べられています。2冊目は、それらの政策の中で引用される「チェルノブイリの例」がいかに歪められて用いられているか立証しています。著者が直接訪問するチェルノブイリ被災地のレポートでは、日本とはまったく違う住民支援の例が伝えられています。
 日野さんのインタビューがこちらで読めます。

 それから、マスコミでは避難者の問題が一部ではあるけれど心あるジャーナリストや研究者によって主張されているのに対して、放射能汚染や被曝の問題はそうではないように感じます。放射能汚染、被曝の問題は、事故直後はかなり広範に認識されていたように思うけど、現在ではほとんど口にされないのではないでしょうか。でも本当に、もう安全だと言い切れるひとはどのくらいいるのでしょうか?どうも私は、この問題がタブーになってきているように感じられて仕方ないのです。
 結局、避難した方々が帰れない理由の多くは、「被曝のリスク」です。放射能、放射性物質の怖さはあくまで「リスク」でしか考えられないこと。放射能が引き起こすガンや白血病、その他の疾病は放射能以外の原因でも生じるもの、あるいはそもそも原因をはっきり特定しにくい病気なわけで、一定程度の放射能を被曝したらこのくらいの確率でガン等の病気になりやすいよ、という形でしか理解できない。微細な形で、かつ全体的な形で人体に影響を及ぼすもの。だからこそ、できる限りの安全を期すために細心の注意を払われなければならないのに、今の日本ではこの不安を語ることすら憚られる雰囲気になっていないでしょうか。
 ですから専門家ではない私たちが調べようとすると、ネットや一部の本しかない。ネットではやたらと不安を煽られるようなサイトもあったりして怖いです。
 データとして信頼度の高いものを挙げておきます。

市民放射能測定データサイト みんなのデータサイト 

東洋経済オンラインサイト掲載 2015年のアエラの記事 


これらを見れば、東日本の広い範囲にわたって汚染が存在していること、特に人口の多い関東地方も無視していいレベルではないことが分かるでしょう。だから、避難者を棄民する政策は避難者だけの問題ではないのです。汚染に対して対策もとらずタブー化して、危険な地域に戻そうとする。食品を通じた内部被曝のリスクも考えれば、日本全体(さらには国外にも)の問題なのです。


最後に、私はこの問題は子どもと女性に対する暴力でもあると思っているのです。放射能のリスクは特に女性と子どもにとって大きい。身体的なレベルでも、また、子育ての責任をまかされているという意味でも女性にとって特に大きな問題なのです。避難者の多くは女性と子どもです。国は彼女たちを見捨てようとしている。これが、フェミニズムの課題でなくて何でしょうか。










[PR]
# by anti-phallus | 2017-11-23 15:46 | 原発/震災 | Comments(0)

2017年衆院選挙結果を受けて 小池百合子と山尾志桜里と

今回の選挙にはかなり心を振り回されてしまった。前原誠司氏が民進党を希望の党に合流させたところから、驚いた。民進党はいちおう戦後左翼を代表する大政党だった社会党の後継だったはず。それがこんな簡単に選挙戦略のために解体されていいのか、というのが率直に疑問だった。案の定、結局は希望の党は失速した。前原氏の政治的責任は重い。この政治状況に良い面があるとしたら、政策的にごちゃごちゃだった民進党が一掃され、ある程度路線の明確な立憲民主党ができたことだ。

立憲民主が躍り出て、少し希望が見えるものの、与党の「3分の2」超獲得という結果についてどう考えたらよいだろうか。いくつか気にかかること、けれどもあまり世間では論じられていないように見えることがあるので書いてみたい。

希望の党騒ぎをどう評価したらよいか。希望の党とはほぼ小池百合子を意味しているわけだが、私はこの騒ぎが、今のマスコミ、ひいては日本社会の女性への扱いを象徴しているように感じられて仕方ない。ちょっと目立つと一斉に注目し、ちやほやするが、必ず何かスキャンダルなり事件なりマイナスな出来事が起きて、そうすると手のひらを返したように叩く。山尾志桜里議員、少し前の小保方晴子さん、もっと前の辻元清美、みなそうではないだろうか。最初の頃の、チヤホヤぶりも、その女性の実際の「実力」や「実績」を公正に評価しているようにも感じられない。「女性なのに(すごい)」という男性中心的な視線が感じられる。それが一旦ケチがつくと、同じことを男性がやったときに想定される以上の制裁が行われていないだろうか。

ただ、小池氏はそういうマスコミのバイアスも承知の上で行動しているようにも見える。何らかの政治的駆け引きの結果の行動であろうから、小池氏は単純にマスコミのジェンダーバイアスから損をしたとはいえない。
私は小池氏をもちろん支持していない。きちんとした政治的見識がある政治家とは考えられない。とくに安全保障政策や憲法改正問題への姿勢において評価できない。だが同時に、マスメディアの報道ぶりにも疑問を感じる。そういうアンビバレントな印象を、彼女を見ていると抱いてしまい、居心地が悪い。小池氏の政治的立場をよく理解せずに、彼女の女性という性別ゆえに期待をしている女性有権者や若い人たちの存在を考えると、全く悲しくなる。この社会が女性に対してバイアスを課しているゆえに、多くの女性が「強い女性」に見える小池氏に期待をし、小池氏やその周辺はその期待を利用するが、彼女/彼らの政治がその期待に応えることはおそらく絶対にない。どうしたら多くの人は眼が覚めるのか・・・。

マスコミと政治の男性中心性で最も損失を受けたのが山尾志桜里氏だろう。「不倫疑惑」というが、「不倫」というのは結婚制度への忠誠があるからこそ成立する概念で、わたしの「反婚」の立場からは意味のない概念である(笑)。あるとしたら、当事者を傷つけないようにできるだけ関係性を一つ一つ尊重した方がいいという信念から、どうジャッジできるかということのみである。そう考えると、山尾さんの私的な関係性を問えるのはその当事者たちのみであるから、そのことを国政という政治の場面に持ち出す必要性はゼロである。安倍首相が森友・加計学園問題で批判されてもいまだ無傷でいるのと比べて、山尾氏への制裁はあまりに過剰で異様なほどだ。ただし誤解のないように書いておけば、ハラスメント等は別問題だ。例えばクリントン元大統領のセクハラ問題があったが、あれは被害者の告発があり問題化したものである。ハラスメントとは権力関係のある中での性的な力の行使だから、いわゆる「不倫」というものとは次元が異なる。

歴史的に見れば、男性には婚外の性関係が奨励されるが女性には貞節や夫への忠誠を求める時代が長かった。現在日本では法的にその意味での男女の差が解消されたとはいえ、社会的には男性のそれより女性のそれに対するほうが視線は冷たい。
保育園の問題で注目を集めていた山尾さん。保育園の問題とはすなわち女性の問題である。保育園が不足していて、利用できずにまず困るのは女性である。そのような女性たちのニーズを受けて、注目されていた山尾氏が、「不倫」疑惑という男性中心的な問題化で政治的に追い詰められるとは、なんとも皮肉というか、逆によくできたお話のようにも見える。山尾氏を追い詰めた週刊誌は、常に女性の(半)ヌードグラビアを載せているような媒体だ。男性中心社会からのリベンジのような。

とはいえ選挙では辛勝したことは、本当に「お疲れ様」と言いたい。これからも彼女にはこの疑惑の語りがついてまわるのだろうけど、そういう「傷」を負ってこそ、頑張って欲しい、いろんな「傷」を受けている女性のために。

ちなみに瀬戸内寂聴さんが、この疑惑について「絶対クロ」だとした上で、どうのこうのという論評を新聞で発表していたが、このようになんでもスキャンダル化+(ヘテロ)ロマン化して発言しようとする層にはもういい加減紙面を提供するのを「自粛」して欲しいものである(笑)。(追記:あれは山尾応援論だという説を聞きましたが、だとしても、冒頭、山尾さんの容貌についてどうのこうのと書いていて、政治家を容貌のみで評価している時点でもうアウトでは?なんか女優のことでも書いてるのかと思った・・。飲み屋の談義じゃないんだから。こういうところが日本の新聞のジェンダー意識の低さを示しています)

そして最後に残る問題は、あいかわらずの自民党へのマジョリティの依存である。自民党に投票している人々がいちばん気にしているのは「経済」や「景気」であろう。自民党が「経済」に強いというのは幻想である。自民党が強いのは、「景気」をよくしたと見せかけて、エリート大企業へ利益を誘導するマジック戦略である。自分たちの生活をよくしたいのならば、「人権」や「公正」を優先する政治にしないといけないのに。

世の中が不安定化し縮小していると感じられると、権力のあるマッチョな存在に救いを求めてしまいがちだ。国の軍事力を解禁させようとするのはその象徴である。だがそれでは権力の不均衡が再生産されるだけ。不均衡のあるところ、必ず状況は暴力的になり、社会問題は拡大する。少しでも不均衡を是正させようとする政治が最終的に安定を保証するのである。ああ、もう少し政治リテラシーが向上しないと・・・。































[PR]
# by anti-phallus | 2017-10-27 13:54 | つれづれ | Comments(0)

ナンシー・フレイザー「資本主義におけるケアの危機」

ナンシー・フレイザー(Nancy Fraser)のインタビュー記事(2016)を翻訳しました。原文はここです。



「ケアの危機」とは現在私たちが直面している構造的な問題です。ケアを代表とする家事や子育て、介護などの「社会的再生産」がどんどん民営化・商品化され、私たちの生活が切り縮められている状況のことをいいます。このインタビューでは、その歴史的背景の説明や様々な大事な論点の解説があります。ケアといえば今は子育てや介護という私たち個人が家庭で日々直面する営みが議論されますが、それにとどまらず、公的な教育費の削減や福祉・医療の民営化なども大きな問題です。もちろんアメリカや欧米だけでなく日本も、というより日本は特に深刻に直面している課題です。

要約すると、近代史は、19世紀の自由資本主義→20世紀半ばからの国家統治型資本主義→現在のネオリベラル資本主義、という3段階に分けられます。それぞれの段階で社会的再生産・ケアに対する国家のスタンスは違い、自由資本主義では放任(野放し)で民衆任せ、国家統治型資本主義(いわゆる福祉国家の時代)には家族賃金をモデル(理想)化して社会設計、ネオリベラル下では私的領域までをもさらなる商品化、という流れになります。このなかで福祉国家時代の家族賃金というのは良さそうに見えますが、性別分業を基軸としたものなので、「女性の従属」をも意味するのです。フェミニズムはこのジェンダー化された家族賃金モデルを批判してきたのですが、そこでネオリベラルの「二人稼ぎ手モデル」に足をすくわれた、というのが現在私たちが抱える矛盾をなしています。

従来からのフレイザーのフェミニズム論を、より歴史的・構造的に学ぶことができます。このフェミニズム批判を、単なるバックラッシュのようにではなく、より良質で開かれたものを求める過程の中で理解して欲しいと思います。例えば、安倍政権が進める女性活躍政策や、それを支持するフェミニズムは、私たちの指針にも救いにもならないということです。インタビューの中で、次のように言っているのを読むと目が覚めるような思いがします。

「ちなみに、ネオリベラル・フェミニストはフェミニストです。否定はできません。ですがそのフェミニズムの要素には、フェミニストの発想が単純化され、切り縮められ、市場フレンドリーな用語で再解釈されているのに気づきます。例えば、女性の従属を、才能ある女性が上昇するのを妨げる差別として考えるようなときに。そのような思考は完全にヒエラルキー的な企業の虚像を正当化します。それは、女性の大部分の利益に対して、いやむしろ世界中の全ての人々の利益に対して基本的に敵対する世界観を正当化します。」

ここまで明確に指摘できるフェミニストは少ないでしょう。
企業社会の中で女性が昇進するのは「女性活躍」の目標とされています。最近よく、女性管理職の数がどうのこうのいわれていますね。そのなかで、女性の昇進が本当に性差別の解消になるのか、疑問を持つ人は多いでしょう。ですが多くのひとはフレイザーのようにここまではっきり批判も出来ないでしょう。この批判でフレイザーに違和感を感じる人も多いでしょう。けれど、わたしはフレイザーを支持します。女性が昇進することは、個人レベルでは本人が望むのであれば良いことですし、応援したくなる時もあると思います。ですが、それがフェミニズムの最優先事項であるとはわたしにはいえません。やはりフェミニズムは、ある恵まれた女性(のみ)を応援するものではなく、あくまで女性の間の望ましいつながりを構想するもの、できるだけ多く、すべての女性を尊重するものだと思うからです。またそもそも、企業社会という場がどれだけ女性に良いものをもたらすか、例えば地位の高い女性であろうとそこに居続けることは大きな犠牲を求めるだろうと思うからです。それは男性にとっても本当は同じことです。ですがたいていの場合、企業社会で働き生活することしかできませんから、みなそうして頑張っています。そういう現実があるからこそ、そうではない世界を最終的に求めることに意味があるのです。

社会的再生産の重要性を理解しない左翼やマルクス主義への批判もあります。ここが古い左翼(新しいのも?)とフェミニズムが袂を分つ分岐点です。

===========================

ナンシー・フレイザーはニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチの哲学と政治学の教授であり、今日最も尊敬される批判理論家の一人である。新しい著作、『Fortunes of Feminism(フェミニズムの明暗:国家統治型資本主義から新自由主義の危機へ)』でフレイザーはリベラル・フェミニズムの困惑させられる資本主義への収束と、フェミニズムが過酷な搾取のシステムのためにうわべだけの自由を提供しようとするやり方と闘っている。資本主義批判と、根本的に異なるフェミニズムのビジョンを発展させるために、彼女はジェンダーの公正はどのように平等な社会のためのあらゆる闘争の核心に置かれるべきかということを示している。最近、フレイザーは「ケアの危機」と呼ぶ状況に言及している。それを冠した彼女の論文は『New Left Review』100号で発表されている。

◆社会的再生産とは?

サラ・レオナルド:社会的再生産とは何でしょうか、また、それはなぜあなたのフェミニスト分析の中心にあるのでしょうか?

フレイザー:社会的再生産とは、社会的な関係性の創造と維持に関連しています。このひとつの側面は、世代間のつながり、例えば出産、子育てや高齢者の介護などに関連しています。他の面では、友人や家族、近所付き合いやコミュニティなどの水平なつながりの維持に関連しています。これらの種類の活動は社会にとって絶対的に本質的なものです。それは感情的であると同時に物質的で、社会的な共同を支える「社会的接着剤」を与えます。それなしには、どのような社会的な組織も、経済も政治も文化も、存在できないでしょう。歴史的に、社会的再生産はジェンダー化されています。そのための責任の大部分は、男性もいつも一部を演じはしますが、女性に割り当てられます。
資本主義の成立はこのジェンダーの分割を強化しました、社会的再生産から経済的生産をくり抜き、それを二つの分離されたものとして扱い、二つの異なる制度に位置付け、二つの異なる方法で調整することによって。生産は工場と会社へ置き換えられ、そこではそれは「経済的」であり賃金によって報われると見なされました。再生産は後景に追いやられ、新しい私的な家庭内の領域に格下げされ、そこではそれはセンチメンタルに自然化され、金銭ではなく「愛」や「徳」のために行われるとされました。少なくとも理論上はこのようにいえます。実際には、社会的再生産は決して完全に私的な家庭内の境界内に置かれることはなく、地域や公的な施設や市民社会にも配置されていました。にもかかわらず、社会的再生産からの経済的生産のジェンダー的分離は、資本主義社会における女性の従属の主要な制度的な基礎を構成しているのです。したがってフェミニズムにとって、これ以上に中心的な問題はないのです。

レオナルド:あなたの分析によれば、私たちはケアの危機に突入しています。それは何を意味していて、私たちはどのようにしてここに至ってしまったのでしょうか?

フレイザー:資本主義社会では、社会的再生産のために可能な能力は貨幣価値には一致しません。それは当然のこととされ、無料で全く入手可能な「贈り物」と扱われ、注意を払われたり補充されたりすることはありません。経済的生産が、より一般的には社会が依存している社会的つながりを持続するための十分なエネルギーが常に存在するだろうと考えられています。これは、資本主義社会において自然が、欲しいだけ手にすることができ、要らなくなればどれだけでも廃棄することのできる無限の貯蔵庫として扱われるやり方によく似ています。じっさいには、自然も社会的再生産能力も無限ではありません。両方とも極限まで拡張されはします。自然の場合、多くの人々が既にこのことを理解しています。そして私たちは「ケア」の場合にも同じように理解し始めているのです。社会が社会的再生産のための公的支援を一斉に取りやめ、その主要な提供者を何時間もの厳しい賃労働へ追いやる時、それが依存している社会的能力自体を枯渇させます。これがわたしたちの今日の状況そのものです。現在の資本主義の金融化された形式は、組織的に、社会的絆を持続する私たちの能力を消費しています、自分の尻尾を食べる虎のように。その結果が「ケアの危機」であり、現在の環境の危機と全く同じように深刻で組織的であり、あらゆる場合においてつながっているのです。

私たちがどのようにしてここに到達したのかを理解するために、資本主義のこの形式を以前の形式に対比させたいと思います。資本主義の歴史が、異なる蓄積体制の連続から形成されているというのは共通の思考です、例えば自由資本主義、国家統治型(あるいは社会民主主義的)資本主義、ネオリベラル金融資本主義など、研究者はたいてい、国家と市場が相互に関係する特有の方法の観点からこれらの体制を識別します。ですが彼(女)らは同等に重要な、生産と再生産の間の関係を無視してしまいます。その関係は資本主義社会の典型的な特徴であり、私たちの分析の中心に属しています。社会的再生産がそのそれぞれの局面でどのように組織化されるかに注目することで、資本主義の歴史を理解するのに大いに役に立ちます、あらゆる時代でどれだけ多くの「ケア・ワーク」が商品化されているか、というように。国家あるいは共同の供給によってどれだけ支援されているのだろうか?世帯や地域、市民社会にどれだけ多くが割り振られているのか?

これに基づいて、19世紀のいわゆる自由資本主義から20世紀半ばの国家統治型体制、そして現在の金融資本主義へと歴史的軌跡を跡付けることができます。つまり、自由資本主義は社会的再生産を私有化し、国家統治型資本主義は部分的に社会化し、金融資本主義はますます商品化しようとしています。それぞれの場合において、社会的再生産の特有の組織はジェンダーと家族の理想の特徴的な組み合わせとともに進みます。「分離した領域」という自由資本主義のビジョンから、「家族賃金」の社会民主主義的モデル、「二人稼ぎ手家族」というネオリベラルの金融化された規範へと。説明しましょう。

自由資本主義の場合はかなり明瞭です。経営者が女性や子どもを含む新たにプロレタリアート化された人々を無理やり工場や鉱山へ押し込めていた時、国家は主として傍観を決め込んでいました。結果は、社会的再生産の危機であり、民衆の反発や「保護法制」を求める運動を誘発しました。しかしそのような政策は問題を解決できようもなく、その結末は、労働者階級と農民共同体を自力でやっていくよう放置することでした。にもかかわらず、この資本主義の形式は文化的に生産的でした。社会的再生産を私的な家族内の女性の領域と再配置し、「分離された領域」「無情な世界の中の安息地」「家の中の天使」といった新しいブルジョワ的な家内性の想像物を発明しました。それはたいていの人々からそれらの理想を実現するために必要な条件を奪うものなのに。危機に苦しめられ、自由体制は20世紀に資本主義社会の新しい国家統治型の変形に取って代わられました。この局面では、大量生産と大量消費に基づいて、社会的再生産は部分的に、国家と「社会福祉」の組織的支援を通して社会化されました。そして、ますます古くなった「分離した領域」のモデルは、より新しくより「近代的な」「家族賃金」の規範に取って代わられました。労働運動の強力な支持を得たその規範によれば、産業に従事する男性労働者は、妻を子供と家庭に専念させられるように、その家族を養うだけの賃金を払われるべきだという規範です。再び、限られた特権層の少数派のみがこの理想を達成しました。だが、それは非常に多くの人々の心を動かしました、少なくとも資本主義の中核たる富める北大西洋諸国では。植民地とポスト植民地は、グローバル・サウスの継続する略奪のままにおかれ、これらの協定から除外されました。またアメリカ合衆国では、人種の不均衡が埋め込まれていて、家庭内と農業の労働者は社会保障と他の形の公的援助から除外されていました。またもちろん、家族賃金は女性の従属と異性愛規範(heteronormativity)を制度化しました。したがって、国家統治型資本主義は黄金の時代などではありませんし、私たちの現状とはかなり異なっています。

もちろん今日、家族賃金の理想は絶えました。それは一方では(1パーセントの人々でない限り)一人の稼ぎでは家族を扶養できなくなった実質賃金の縮小の犠牲となりました。そして他方では、家族賃金に埋め込まれた女性の依存の思想を脱正当化したフェミニズムの成功の代償でもあります。ワン・ツー・パンチの結果、私たちは今「二人稼ぎ手家族」という新しい規範を手にしています。良さそうではないですか、あなたがシングルではないとしたら?しかしながら、これも、家族賃金のように、ごまかしなのです。それは、今や世帯を維持するに必要とされる長時間の賃労働の急増を神秘化し、もしその世帯が子供や高齢者や病気や障害を持っていてフルタイムの賃労働者として機能しない人を含んでいたら、事態はより悪化します。またもし一人親家庭の場合、それ以上に深刻です。今やこれに加えて、その二人稼ぎ手モデルは国家の援助の削減の時期に促進されています。労働時間の増大の必要性と公的サービスの削減の間で、金融資本主義体制は社会的絆を維持する私たちの能力を体系的に枯渇させようとしています。この資本主義の形式は、私たちの「ケアする」力を極限まで拡張しようとします。この「ケアの危機」は構造的に理解される必要があります。現在の状況下では、それは偶然でも付随的でもなく、資本主義に内在する社会的再生産の危機に向かう傾向の表れなのです。ですが、それは現在の金融資本主義の体制ではとりわけ先鋭化された形態をとるでしょう。

◆ケアの危機とフェミニズム
レオナルド:この危機におけるフェミニズムの役割についてもっとお話ししていただけますか。フェミニストは必死に頑張る二人稼ぎ手家庭を目標とはしていませんでした。

フレイザー:ええもちろん。ですがフェミニズムがこれらすべてにおいて果たしたことについては深刻で悩ましい問題があります。フェミニストは家族賃金の理想を女性の従属の制度化として拒否しましたし、それはその通りです。しかしわたしたちは、製造業の再配置が経済的にその理想をつぶしたときにそうしたのです。他の世界では、フェミニズムと産業の変化は互いに強化したりしないかもしれませんが、この世界ではそうなのです。結果として、決してフェミニズム運動がその経済的変化を引き起こしたわけではないけれど、わたしたちはその正当化を知らぬ間に提供するはめになってしまいました。わたしたちは他者のアジェンダに、魅力やイデオロギー的な安定剤を提供してしまったのです。

けれども一方で、このアジェンダに完全に乘っている、1%を代表するネオリベラル・フェミニストが現実に存在していることを覚えておきましょう。あえて言わせてもらえば、わたしたちはそのうちの一人を合衆国の大統領として選出するところでした。ちなみに、ネオリベラル・フェミニストはフェミニストです。否定はできません。ですがそのフェミニズムの要素には、フェミニストの発想が単純化され、切り縮められ、市場フレンドリーな用語で再解釈されているのに気づきます。例えば、女性の従属を、才能ある女性が上昇するのを妨げる差別として考えるようなときに。そのような思考は完全にヒエラルキー的な企業の虚像を正当化します。それは、女性の大部分の利益に対して、いやむしろ世界中の全ての人々の利益に対して基本的に敵対する世界観を正当化します。そしてフェミニズムのこのバージョンはネオリベラリズムの略奪へ解放的な見せかけを提供します。

レオナルド:私たちの金融経済においてケア・ワークの分配がどのように女性同士を争わせているか詳しく説明できますか?

フレイザー:もちろんです。今、ケア・ワークの二元化された構造があります。家事の支援を単に支払うことで入手できる人々と、第一のグループのための有給のケア・ワークに、しばしば非常に低い賃金と実質何の保護もない状態で従事することでいっぱいで自らの家族のケアをする余力もない人々に。わたしたちはこのセクターで生まれている権利と生活賃金のための闘いを目にしています。したがって明確に、これはお互いの利害の直接的な対立です。わたしはいつも、シェリル・サンドバーグの「リーン・イン」の発想は皮肉だと思っています。彼女のリーダーシップが企業の重役室でリーン・イン(乗り出す)することを思い描けるのは、薄給のケア・ワーカー達が彼女のトイレや家を掃除し、子どものオムツを替え、年老いた両親の世話をするのに頼っていられる限りなのですから。

そしてここで人種について触れなければいけません。このような仕事をしているのは結局、主に有色の移民女性、アフリカ系アメリカ人女性、ラテン系女性なのです。ニューヨークで中流階級の住む地域の公園に行きさえすれば、すぐに分かります。いわゆる「開発」戦略が、女性をこの目的のために富裕な国や地域に移民することを促進することである国があります。例えばフィリピンは、海外にいる家事労働者からの送金に依存しています。そしてこれは国家が組織した労働の交換であり、国家の開発戦略です。問題の国家は構造調整に従属してきました。その国は債務を背負っており、資金がなく、国際通貨を必要としていて、女性をこの仕事のために送り出す以外に道がありません。彼女達は子どもと家族をおいて他の貧しい人々にケアしてもらうほかない状態で。ところで私はケア・ワークは決して有給の仕事とされるべきでないなどと言いたいのではありません。それがどのように支払われ、組織され、誰によってかで全く大きな違いがあるということです。

◆社会的再生産と社会運動・社会主義の可能性
レオナルド:あなたが指摘したような問題に関してその根元に達するような方法で組織化している具体的な活動はありますか?

フレイザー:驚くほど多くの組織や活動があります。とても創造的でエネルギーに溢れています。ですが拡散したままで、社会的再生産の組織を変えるカウンター・ヘゲモニーの試みのレベルまでは到達していません。労働時間の短縮や無条件のベーシック・インカム、公的な子育て支援、移民家事労働者や営利の医療施設や病院、子育て支援センターのケア労働者の権利のためにともに闘うなら、そして特にグローバル・サウスの安全な水や住居、環境汚染への闘いも付け加えるなら、私の意見では、結局は社会的再生産を組織する新しい方法が必要だということになるのです。

社会的再生産のための闘いはほぼどこにでも存在します。それはその名前を名乗りはしません。けれどももしこれらの闘争がこのような方法で自らを理解するようになれば、社会変革のための広い運動においてともにつながり得る強力な基礎となるでしょう。また現在のケアの危機の構造的基礎が再生産を生産に従属させようとする資本主義に内在的な動因にあることを理解すれば、そのとき状況は本当に面白くなるでしょう。

レオナルド:若いアメリカ人の間で社会主義が関心を高めていることを受けて、社会的再生産の闘いを社会主義への闘いに関連づけますか?

フレイザー:もちろんです。私は自分自身をバーニー・サンダースと同様に、民主的社会主義者と呼んでいますが、それがいったい何を意味するのか分からないことを率直に認めざるを得ない時代に生きています。わたしたちは、それが権威主義的な統制経済や共産主義の一党独裁モデルを意味するものではないことを知っています。社会民主主義より、より深く強力で平等主義的なものを意味しています。搾取や流用、抽出が全くトランスナショナルな世界において、国民国家に限定されません。言い換えれば、私たちはそうではないものは全て知っていますが、肯定的にプログラムを定義するのが困難な時代にいるのです。私が主張したい一つのことは、社会的再生産を再想像することは、21世紀に望ましいと主張できる社会主義のあらゆる形式にとって中心にあらねばならないということです。再生産と生産の区別は今日どのように再発明されるべきでしょうか。また二人稼ぎ手家庭は何に代えられるのでしょうか。社会主義の歴史を見ると、マルクスとエンゲルスが拒否したことで知られる古いユートピア社会主義ですら、私が社会的再生産と呼んでいるものに大きな焦点を当てているのは興味深いことです。家族と共同体の生活の組織化などのことに。それは私たちにとっては有効でないという意味でユートピア的ですが、近代の産業社会主義の歴史においても難しい問題でありました。マルクスの社会主義と非マルクスの産業社会主義ではこの問題はやってきては見えなくなります。ほとんどの場合、それは工業化を組織し生産を計画する問題に対して二次的なものとして扱われてきました。ですがもし生産と再生産の二者関係の一方のみを強調するなら、他方は戻ってきて、予期せぬ、すべての企図を台無しにするようなやり方で仕返しをするでしょう。

レオナルド:あなたが社会生活や家族について提起した問いの多くは、やはりユートピア的で、1960年代の残骸のようですし、社会主義者のプログラムに必ずしも中心的ではないように見えます。にもかかわらず、あなたは我々がまさに危機の地点にいると主張し、それらの問題が中心であるべきだと言っています。社会的再生産の挑戦は誰もの毎日の経験にとって非常に基本的なのに、現在の社会主義のリバイバルの中で欠如しているのは驚くべきことですね。

フレイザー:それには強く同意します。この社会的再生産の危機の深刻さのなかでも、左翼がこれに目を向けないのは、悪い意味でユートピア的でしょう。製造業をなんとかして取り戻せるという考えは、これも悪い意味でユートピア的です。すべての成人を、第一にケアの責任、共同体への参加や社会的コミットメントの責任のあるものとして想定する社会を築けるという考えは違います。それはユートピア的ではありません。人間の生活が本当になんであるかに基づいたビジョンです。

レオナルド:これらすべてにおいて、テクノロジーに積極的な役割を見出しますか?それとも機械化された家事労働はより「リーン・イン」につながるだけでしょうか?グーグルで卵子の凍結保存が話題を呼び、それは子どもを持つ前に女性がより長く働くことを可能にするといわれています。多くの工業労働は機械化されるべきと考えられているのですから、ケア・ワークも同様なのでしょうか?それともそうするにはあまりにも親密すぎるでしょうか?

フレイザー:私はラッダイトではありませんからね。夜読書するための電気を使え、遠方のあなたとスカイプができ、その他もろもろのことに深く感謝しています。卵子凍結や搾乳機械のような、これまで批判的に書いてきたテクノロジーに対しても反対しているわけではありません。問題は文脈なのです。どのように生み出され、誰によって誰の利益のために使われているのか。それらのものの入手が合法的な選択となる文脈を容易に想像することができます。最悪の、あるいはわずかな選択肢の中で極めて制限された選択をした誰かを責めるつもりは全くありません。
社会的つながりを持続することを志向する活動は、無視できない個人的な側面を持っているとも考えます。それは定義上、個人的で、間主観的なコミュニケーションを含み、ある場合には身体的な接触も含みます。そしてケアの完全な機械化の思想には妨げとなります。ですがやはり、あらゆるものの完全な自動化を思い描けるということには疑問を持たざるをえません、もしそれがすべての人間の貢献を除去することを意味するならば。

レオナルド:ええ、ある意味では私たちは時間について話しているのですから。私たちはケアのようなものを時間を節約するために機械化します、時間がないという理由で。結局、時間がたっぷりある場合にしか、何を機械化したいか本当にはわからないでしょう。
フレイザー:私も洗濯物を全て手で洗いたくはないですし、自分の時間をわざわざ費やしたくはないことがたくさんあります。それ以外のことにより時間をかけたいのです、例えばこのような対話にね。

(小見出しは訳者による)







[PR]
# by anti-phallus | 2017-09-13 15:49 | フェミニズム | Comments(0)

諦めが生む女性専用車両

 このところ、学生に授業への感想等を書かせると、「女性専用車両」を批判するものが増えてきています。とはいっても授業で「女性専用車両」については全く触れていないのに、です。ジェンダー一般の話をしたのに対して、「昔は男尊女卑だったかもしれないが、今は女尊男卑で・・その代表例が女性専用車両だ」という流れで書いてきます。
 なんだかまるでジェンダー論やフェミニズムが女性専用車両を作ったかのような言われ方なので、ひそかに腹を立てていました(笑)。で、女性専用車両について何か書きたいと思っているなか、名古屋市議会宛てに、女性専用車両に反対する何者かが爆発物を送ったというニュースがあった(名古屋市の地下鉄は女性車両を導入している)り、ネット上で女性車両に反対する会があったりと、世間ではかなり注目されているのを実感。

 そして2日前にはこんなニュースも。




 イギリスで女性専用車両をめぐって政治家間で論争が起こり、女性議員が反対しているということですが、日本でこの問題が政治家レベルでこれだけ大きな論争になることはおそらくないだろう、ということがまずポイント。日本の政治は私たちの日常的な生活空間を公論の対象とすることは少ないですからね、特にジェンダーがらみなんて。
 それからイギリスの女性議員が反対している理由が、女性専用車両は性犯罪の容認につながるということのようですが、このもっともな意見は日本でどれだけ理解されるでしょうか。
 私の感触では、女性専用車両が性犯罪の防止のためだということすら十分認識されていないように思います。いや、というよりは、女性専用車両を設置している鉄道会社が本当に痴漢や性犯罪に対して本腰を入れて取り組んでいるのか、ということですね。鉄道会社が性犯罪防止や軽減に力を入れたければもっと様々な手段が可能なはずです。警備員を定期的に車両内に巡回させるとか、主要駅ホームに被害申し立てを受け付ける窓口を設置するとか、ポスター掲示やアナウンス等の啓発を増やすとか。そういうことをした上での専用車両ならまだ分かるのだけど、そうではなくてポンと専用車両だけ設置されると、お手軽な方法でアリバイ的にやってるのかなと感じられてしまう。

 そもそも鉄道会社を含む日本社会全体が性犯罪の問題に対してどれだけ真剣に考えているのか疑わしい。確かに以前よりは敏感になったかもしれない。だが、痴漢といえば、被害者の立場よりもむしろ痴漢冤罪のニュースのほうが多いかのよう。被害がどれだけ多くて日常化しているか、また被害を受けるとどれだけの傷を与えるか、ということが理解されないまま、男性が女性に被害を申し立てられると無実なのにすぐ加害者に仕立てられる、というイメージばかりが広がっているのではないでしょうか。
 女性専用車両をめぐって、男性専用車両も設置するべきだという声を聞きますが、男性専用車両に賛成する意見に、冤罪被害を防ぐため、というものがあります。これなど見ると、本当に心が寒くなる。この日本は、被害をなくす、また、被害者を支える、という気持ちよりも、「自分が無事でいる」「事件に関わらない」という意識の方が圧倒的に強い空間だということなのです。このような主張が浸透している社会が、本当に性犯罪の問題を重視し、厳しい態度でのぞもうとするわけがない。だから、多くの被害者は声をあげられないのです。

 個人的な経験を書くと、昔、田舎から出てきて東京の大学を受験する朝(満員電車などその日が初めて)に、痴漢にあいました・・。やはりものすごいショックでした。その時のことも踏まえて考えると、痴漢にあった時に、声をあげられたとして、どれくらいのひとが協力してくれるのかな、という不安があるということ。その時は声など上げられず、なんとか逃げましたが。加害をしないという教育や啓発はもちろんですが、声をあげた被害者に協力する、支えるという教育や政策、取り組みも必要。

 また、性別で分離することへの違和感を持つ人が少ない、ということもいえる。私は最終的な地点では女性であろうと男性であろうと性別で分離する車両には反対です。とても気持ち悪い。確かに女性専用車両は居心地いいです。女性の方が動作がソフトな人が多いし、なんとなく静かです(とはいえわたしは女性専用車両に乗った回数は少ないので分からない)。性暴力の被害にあった(性自認に大きな違和感のない)女性、あるいは男性からの性暴力を恐れる女性にとっては、女性専用車両はシェルターになります。だけど同時に、女性専用車両は男性か女性かどちらを選んだら良いか迷う人への想像力をもちません。性暴力の加害者のほとんどが男性であるとはいえ、加害者の100%が男性ではないし、男性の全てが加害者では当然ない。前半の意味合いを選択して、後半の事実を切り捨てる。そのことによって性に関するマイノリティの存在を捨象してしまう。日本社会がどれだけ日常的に性別分離を行なっているか、分離に違和感をなくさせられているかがわかります。
 ですが、わたしは更衣室やトイレは男女別で分けていいと思うし、すべて男女混合にされたらつらい。ただし同時に性別不問の個室的な選択肢も用意する方が望ましいと思うけれど。更衣室やトイレが全て個室になればベストですがそれは現実的にすぐには無理でしょう。

 というように性別分離はごく限られた条件下で許されるもので、鉄道という限りなくパブリックな空間では行われるべきではないと思います。でも日本では女性専用車両はネット上では反対の主張が目立つものの、一般的には乗客に支持されているからこそ、鉄道会社も維持しているのでしょう。ですがこれは、鉄道会社を含む日本社会全体が性犯罪に甘いことへの裏返しではないでしょうか。性犯罪について真面目に議論したくない、取り組みたくないという社会の意識が、被害者を含む女性客に、専用車両を支持させているのではないでしょうか。どうせ痴漢は無くならないのだから、当面自分は女性専用車両に乗って自衛するしかない、というような。諦めが女性専用車両を生んでいるのでは?

 このようななかでネット上で女性専用車両は「男性への差別」「女性の特権だ」という声を聞くと、痴漢の問題からずれて、女性へのバッシングにも見えてきます。なぜ女性専用車両が女性の特権なのでしょうか?女性は常に男性の横にいて、性犯罪のリスクに耐えなければならない、ということでしょうか。性犯罪から逃れることが女性の特権??わたしなどは、女性専用車両があるせいで、それ以外の車両に乗って痴漢にあったら自己責任だといわれるのではないかと怖いです。

いつまでも痴漢や性犯罪の加害者へは注目が集まらない、どのようにしたら加害を減らせるのか、被害者を支えられるのかという議論にはならない。痴漢、性暴力と闘うという認識ではなく、男女という性別で管理、比較競争しようとする社会の意識。
全く悲しい現実が見えてきます。















[PR]
# by anti-phallus | 2017-08-31 18:33 | フェミニズム | Comments(0)

アイヌのこと

北海道の歴史に興味が湧き、いくつかの点から勉強している。その中でもアイヌの存在は大きい。
今までアイヌについては自分から詳しい勉強をしたことがなく、正確な知識もなかった。ところが北海道の歴史について知る中で、不思議な感覚を味わっている。

沖縄の近代史を勉強して、日本国家の暴力性を学んだ。だが北海道の近代史からは沖縄に対して発動されたのとは異なる暴力性が見て取れる。
沖縄の日本併合、「琉球処分」はあくまでも集権化された琉球王国の「処分」(侵略)だった。一方アイヌは、当時集権化された国家を作っていなかった。アイヌは多くのコタン(集落)に分かれ、それぞれがリーダーをもって生活していた。それが長期にわたる松前藩、江戸幕府からの搾取との戦いの中で弱体化してゆき、明治政府の同化政策で言語や文化を奪われていった。

先日、白老のアイヌ民族博物館においてあった新聞のスクラップブックを見たら、北海道新聞が頻繁にアイヌに関する記事を載せているのに驚いた。それは、道内各地でのアイヌ関連の企画や施策、アイヌ当事者のインタビューなどである。わたしはこれまで新聞でアイヌ関連の報道に触れたことはあまりなかった。北海道新聞の全てを見たわけではないので分からないが、どうも北海道に住んでいるのとそうでないのとでは、アイヌに関する理解度が大きく異なってくるのではないかと想像される。
ここ最近は、ドイツの学術団体が日本にアイヌの遺骨を返還したという報道が新聞のトップニュースになったが、これも、何のことだかよくわからない人が大半だろう。

道外では、「アイヌ民族は滅亡した」というイメージを持っている人が多いのではないだろうか。そこでは差別の対象としてすら意識されていないかもしれない。だが、学んでいくにつれて、このイメージのもつ政治性に気づかされる。現実には、アイヌの血を引くということで葛藤し、悩み、差別を受けている人々がいる。その事実すらも、「アイヌは滅亡した」という多くの人が持つイメージは消失させる。これがナショナリズムの暴力性でなくて何だろう。

また驚いたことの一つに、白老にあるアイヌ民族博物館が来年閉館するという。この博物館は地域の人々が運営している。白老はアイヌの人々が多く住む地域で、戦後、当事者によるアイヌ観光(?)で賑わったらしい。当時の写真を見たら、明るく当事者と観光客が集合写真に写っていて、何とも言えない気分になった。そして小学校に「アイヌの子供がいるか」といって忍び込んでくる者もいたらしく、そういうことを憂いてこの博物館が作られたと博物館のボランティアの方から伺った。施設内にはカフェがあってアイヌ料理も食べられたり、アイヌ伝統の音楽と舞踊を見学できたりする。それが、2020年に国立博物館と公園がオープンするにあたり閉館をやむなくするらしい。2020年というのはオリンピック開催に合わせたものらしく、なんとも唐突な企画だ。この計画を道外の人はどれだけ知っているのか疑問だし、日本政府は今までアイヌに対してどれだけの取り組みをしてきたのだろうか。日本のマジョリティがアイヌについてほとんど知識のない状態は、第一には政府の責任がある。敗戦による大日本帝国解体後も政府は「日本には外国人はいない、要らない」という態度で十分な政策を行っていない。「日本に先住民はいない」と長年言い放ってきた。この無策によって、アイヌの当事者は言語や文化を継承できず、アイヌ語をしゃべられない人が大半だという。

f0210120_18010264.jpg

博物館のボランティアの方のお話では、この国立施設の構想には、教育に関するものが欠けているという。外向けの、参加型展示やら野外ミュージアムなどばかりで、当事者たちが当事者のためにする視点がない。
政府はハコモノ行政を繰り返すのはやめて、アイヌ当事者が文化を継承しアイデンティティを尊重するための教育や、その他の市民への啓発・教育政策から始めるべきではないだろうか。博物館等を作りたいなら、すでに北海道各地に小さいながら地域や当事者の記念館・博物館等はいくつかあるのだから、それらの活動を支援することだってできるはずである。


アイヌ文化の継承は、当事者にとって必要なだけではなく、非当事者にとっても価値がある。今の日本社会が見失っている精神性をアイヌ文化は教えてくれる。自然に対する価値観、個人と家族や共同体との関係性、生死の意味・・。わたしはまだ知り始めたばかりだが、それでもハッとさせられることがとても多い。近代化により周縁化させられた文化や生き方、価値観を取り戻すことは、わたしたちがどのように生きるべきか、生きたいかを考えるために豊かな示唆を与えてくれる。






[PR]
# by anti-phallus | 2017-08-07 17:59 | その他 | Comments(0)

家族に介入する国家が問題なのか:親子断絶防止法案

 最近、「家族に介入する国家」という言い方を見かける。そのとき話題になっているのは憲法24条や「親子断絶防止法」案。親子断絶防止法案は、今国会で成立がめざされている、超党派の議員による法案。この法案については早くブログで書かなければと思いつつ、4月は怒涛の忙しさで動けず、連休に入ってやっと抱えていた論文もひと段落し、まとめ始めることができました。

 この法案は、「子の連れ去りを防止する」ことを目的としていて、「子の連れ去り」とはなんだか随分悪いことのような言い方ですが、別居や離婚をするときに片方の親が子を連れて出て行くことを意味しています。そう聞いてもなかなかピンとこないと思います。親子の断絶を防止するなどといわれると、良い法案のように思えてしまうと思います。ですが実際はかなり危ない法律なのです。
 厚労省のデータ(リンクはこれ。このデータは重要です)によると、2012年時点で子どものいる世帯中、母子世帯は6.8%で、父子世帯は0.8%なので母子世帯が多数派です。
 この法案は、離婚後、同居していない親と子の面会交流を義務づけようというものです。離婚後、当事者間で一定の関係性を保てていれば面会の義務づけなど必要にならないわけで、問題になるのは両親間や親子間で信頼関係が損なわれて争いがある場合です。そしてそこにはDVが相当割合推測できるわけですね。


 これまでたくさんのDV被害に遭われた方々にお話を伺ってきましたが、DVは本当に体だけでなく心までむしばみます。新しい場所で新しい生活を始めようとしていても、元夫に居場所を突き止められないように、これまでの人間関係を全て絶って、名前まで変えて生活している方もいます。子どもも、自分は直接DVを受けていなくても、母の被害を見ていれば同じように感じてしまいます。そしてお話を聞く中で印象的だったのは、多くの女性が、「自分のことだけだったら我慢したかもしれないけど、子どものためにこれ以上止まってはいけないと思って逃げることを決意した」と語っていたこと。
 DV支援をしているある弁護士の方は、「子どもの方が逃げるよう母の背中を押すことも多い」と言っていた。
 この法案は、「DVの場合は特別に配慮する」としていますが、どのケースが DVでどれがそうでないか、誰がどのように決めるのでしょうか。被害者がDVを訴えても、それを認める加害者は少ない。もしこの法案が実現されたら、DVケースのうちごく一部のものしか配慮の対象にならないのではないか。

 ほかにもこの法案が実現したら、離婚するときに、役所の窓口で、子のいる場合、面会交流の取り決めができていないとされれば離婚届を受け付けられなくなるかもしれない。またこの法案によって、母子がDV夫から逃げる際に、これまで行政がしていた相談/支援活動を受けにくくなるおそれもあります。行政が、「子の連れ去り」を支援したと非難されることを恐れるからです。

 そもそも、なぜ面会交流を義務づけなければならないのでしょうか。面会交流は「子の最善の利益」のために、としていますが、子どもにとってそれは本当に常に必要なことなのでしょうか。別居したり離婚したりとなった場合、そうなったまでにはそれなりの事情があったはず。なぜその後で行政が「面会交流」のみ義務付けるのでしょうか。
 多くの関係者が批判しているように、行政がやるべきことはもっとほかにある。
 まず、養育費やひとり親家庭の経済的困難の問題。母子世帯で、父から養育費を受けているのは2割を切ります。養育費を受けていても金額は月数万円程度。母子世帯の年収平均は181万円です(ともに前掲データより)。貧困率もすごい。行政がやるべきは、養育費の支払いをもっと確実にするか、公的な支援を増やすことでしょう。アメリカなどでは養育費の取り立てはかなり厳しいですが、日本では、例えば転職してしまえばもう追えません。まあDVの場合、養育費どころか関係を切る必要のある場合がほとんどなので、行政のひとり親家庭支援策の拡充の方が重要ですね。
 この法案は養育費や経済支援についてはほとんど触れません。面会交流のみです。そこから連想したのが、戦前は女性は法的に無能力者とされていたため、離婚して家を出るときには子どもを連れて出ることは許されなかった。子は家父長のものとされていたから、ということ。この法案が背景にしているのはそのような家族観なのではないかということです。子どもはいつでも親、特に父親に従うべきもの、母が連れて出たとしても父の権威を忘れてもらっては困る、という意識。
 実は私は昨年母を亡くしました。そのため親子や母子、家族について改めて色んなことを考えざるを得ませんでしたが、少なくとも言えることは、私が母を尊敬するのは、私の自由を尊重してくれたこと。良い親子関係のためには子どもを尊重することが必要条件ではないでしょうか。家父長が一番偉くて次に偉いのは長男、なんて序列が決まっているような家庭はしんどくてたまらない。もし自分の両親が離婚したとして、どちらかの親に会うよう誰かに仕向けられたり、まして行政から義務づけられたりしたら、それだけで非常にストレスでしょう。
 法律で会うことを義務づけられたりするなんてもうその時点で親子の関係性は傷つけられてしまう。親子関係はそもそも上下関係、権力関係のあるものですから、これ以上負荷をかけてはいけないと思う。行政は、親子関係や家庭が当事者間でできるだけうまくいくよう「見守る」べきで、虐待やDVなどの問題がある場合に支援を全力ですべきで、家庭の形がどうあるべきかということまで介入してはいけない。


 とこういう風に考えていて、冒頭の、「家族に介入する国家」という左派側のスローガンにひっかかってしまった。この法案を「家族に介入する国家」として批判すると、じゃあDVなどで被害者を支援する場合も「国家の介入」になってしまうんじゃないかと思ったから。
 家庭というのは容易に支配と従属の関係になりがち。しかもどんな内実であっても「家庭は癒しと憩いの場」「国の基礎単位」という美名で覆い隠されがち。それを考えると、国家が家族に介入することが問題なのではなくて、どのような介入なのかということが問われるんですね。支配に転化しがちな家庭の形を守るのではなく、あくまで一人一人の人権と自立を尊重するのが行政の望ましいあり方。

 ところがそもそもの人権のレベルから崩されようとしているのが近年の動き・・・。安倍首相が5月3日憲法記念日に日本会議の集会で改憲を2020年まで実現するというメッセージを発表した(…)ということですが、自民党が目指す国のあり方は、戦前の家父長制的家族をモデルにしています。家父長を絶対として皆が上下関係に縛られる家族のあり方は、政府に国民が従い戦争にも行く国の基本とされているのです。
 私は、そんな息苦しい家族の方がよっぽど愛情を欠いていると思いますがどうでしょうか?愛情を育てたいなら、できる限り力関係は減らして楽にすべき。
 やっぱり周りを見回すと、息苦しい家族関係はまだまだ多い。息苦しい中で育ってしまうと、平等や対等、個の尊重ということを想像できないから、息苦しいのが普通になってしまう。安倍さんたちが望んでいるのはそういう世界。トップにいる人たちばかりが輝く世の中。
 フェミニズムが目指してきたのは、より自由で平等な社会。そのなかでDV被害者を支援する法や行政が生まれてきた。でも被害者支援策はまだまだ不十分。この断絶防止法案はそういうフェミニズムの第1歩をつぶそうとしている。
 今期国会で、共謀罪の後に審議予定と報道されています。マスコミではまだまだ注目されていないこの法案。危険性を理解して、なんとか止めないと…。




[PR]
# by anti-phallus | 2017-05-05 23:51 | フェミニズム | Comments(2)

ジュディス・バトラー インタビュー「トランプは抑えられない憎悪を解放している」

ジュディス・バトラーのインタビューを訳してみました。
バトラーの翻訳なんてわたしなどにはハードルが高くて、他に訳してほしい方々がたくさんいらっしゃるんですが、非常に刺激的な内容で、ついつい恐れながらやってしまいました。多分これまた誤訳がたくさんあるのではないかと思います。ご指摘いただければたいへんありがたいです。f0210120_11470653.jpg

バトラーについては説明は要らないかと思います。インタビューは2016年の10月に行われています。ドイツのサイトのものなので、ドイツの政治状況についてが多いですが、アメリカの占拠(オキュパイ、99% etc)の運動やトランプについても語っています。インタビュアーとのかけ合いというか、インタビュアーがおそらくわざとたたみかけるような質問をして、バトラーがそれに対して否定したり肯定したりして議論が深められていくのが面白いです。

欧米で激化するレイシズムがメイン・テーマになっています。フレイザーのテキストについても言えますが、フェミニストというと「女性の問題」のみ論じるのだろうというイメージを持っている人も多いですが、それは大きな勘違いで、いわゆる狭義の「女性の問題」も当然扱いますが、バトラーたちはそれに止まらず、一見「女性の問題」とみなされないような多種多様な重要な課題について取り組んでいます。

とりわけ、90年代に注目されたフレイザーとバトラーを中心とした論争は経済と文化の関係性という社会科学に根源的で伝統的なテーマを直接論じました。今でも読む価値のあるものです。ちなみに下記の本はこの論争の現状を取り上げています(私も書かせてもらいました)ので是非読んでみてください。

『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」: 格差、文化、イスラーム』
越智 博美 (著), 河野 真太郎 (著)
で、このインタビューでは、バトラーの人種差別/レイシズムと闘う決意が強く伝わってきます。その背景にある経済社会の不安定化についても触れています。それは左派的な政治と深く結びついていますが、同時に運動や政治の暴力性への警戒もはっきり語られていて、わたしはこういうところにフェミニズムの精神を発見します。上で書いたことと関係しますが、フェミニズムとは、単に「女性の問題」を扱うものというよりは、様々な世界に関する分析や視点、理論の中に立ち上がる何らかの形のスタイル、価値観、方法だと思えるのです。

また、同様にレイシズムやネオリベラリズムについて分析していても、フレイザーとは大きく違う点があるのもお分かりになると思います。とくにトランプを支持する人々への評価が違っています。フレイザーがトランプ支持者を批判しながらも、同時に左派がキャッチすべき潜在的仲間だと考えようとするのに対して、バトラーはシンプルに厳しく、その本質を言葉にしています。この違いは、上記の90年代の二人の論争での対立点とも重なっていて、評価の分かれるところでしょう。わたしはどちらも好きですが‥

最後に、トランプや欧米のレイシズムがこれだけ議論の対象になり、日本でも大勢の関心を呼んでいるわけですが、日本で既に長期間政権を握っている安倍さんだって、排外主義、ナショナリズム、レイシズム、セクシズムの頭領なわけです。バトラーの分析が日本の社会経済状況についても当てはまる部分は多いです。にもかかわらずトランプやヨーロッパのレイシストに比べて日本の安倍政権への批判は弱い。どうしたものか‥‥

()内は私が加えたものです。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


トランプは抑えられない憎悪を解放している



これらすべての反動的なポピュリズムはどこから来るのだろうか?哲学者ジュディス・バトラーに、ドナルド・トランプ、ドイツの「歓迎する文化(Willkommenskultur)」、ラディカル・デモクラシーについて聞いた。


なぜ今、公的な集会について本を書こうと決めたのですか?

JB 公的な集会は民主主義の純粋な形なのかどうかについて議論が始まった“アラブの春”の間、それらのことについて考え出したのだと思います。「これが市民であり、彼女・彼らは不公正な体制を打ち破ろうとしている」と言われていました。そしてそれはもちろん、「市民とは本当は誰なんだ?」というようなすべての種類の問いを生起します。「彼女・彼らが街に姿を現していることは重要なのだろうか、街に現れたそれらの身体はすべての人々を代表しているのだろうか?街に出ていない人々についてはどうなんだろうか?」と。

身体が集会において演じる役割についてなぜそれほど関心を持ったのですか?

JB オキュパイ運動に関連する他の議論もありました。そこではあるひとびとは「彼女・彼らは要求を出さない、ただ場所を占拠しているだけだ」と言っていたので、「いやそうではなく、それが要求を形成する方法であり、この場所がわたしたちのものでありこの空間は公的なものであるべきなんだということを言う方法だ」と言おうと努めました。けれどもそのような主張が遂行されるために言語化される必要はないのです。というのはわたしは、彼女・彼らはその身体であるいはその身体が空間を占拠する方法を通じてそれを行っていたと思います。そのような身体的な行動や身振りは政治的に有意なものでもあることを主張したいと思います。それは空間を占拠して主張を行い、主張を具体化しています。

あなたの本には集会への暗黙の共感が読み取れます。一部の人々はそれを恐れるでしょう。

JB 私たちが考えなければならないのは集会という言葉なのかもしれません。大勢の集まりだったり、集団の運動や暴動、暴徒かもしれません。暴徒(mob)はおそらくわたしたちが同様に恐れるものでしょう。それは暴力によって保障されるように思われます。それは意図的なものでも、政治的な関心のあるものでもありません。集会は違います。そこでひとびとはともに集まり議論します。そして彼女・彼らがともに集まり、お互いに姿を現わすことが重要なのです。ハンナ・アーレントのような人にとって、ギリシアやローマの集会は民主主義の発足の重要な一部分でした。そしてわたしたちは民主主義を実現するために集会を必要とし続けていると思います。自省的で包括的なーー民主的な参加と討議の形式を実証することを求めているようなーー集会と、民主主義を諦めている人々との違いを見極められるようになるべきです。

あなたは集会は、普段排除されている人々が公的空間に入ることを許すと書いています。ペギーダ(PEGIDA、「西洋のイスラム化に反対する欧州愛国者」、ドイツで勢力を伸ばす反イスラム団体)の場合でもそれはいえますか?

JB 私が支持するような種類の集会には、ラディカル・デモクラシーの原則が賭けられています。右翼の人種差別主義者が集まって、人種差別主義者にはふさわしくない公的空間から排除されてきたと言うなら、そのとき彼女・彼らはじっさいには他者を排除する権利を求めているのです。彼女・彼らは集まって、人種差別主義者の表明された目的と排他的な計画のために公的空間を獲得しようとしています。それは意図においても効果においても民主的ではありません。

どの集会を「私たちが必要としている」と決められるのでしょう?ある集会は包括的であると同時に排他的であるかもしれません。カイロのタハリール広場では何年も前から無数の女性たちが性的暴行を受けています。

JB 集会は異なる種類の危険を異なる種類の人々に課すと思います。あなたが女性あるいはトランスあるいは移民であるなら、おそらく公的な集会で危険にさらされるでしょう。というのは公的な集会は身体的で公的な露出を含むからです。あなたの隣にいるのは誰か常に知ることはできないし、誰があなたやあなたの隣の人や群衆の反対側にいる人を傷つける目的で、近くにいることを利用するか常に分かっていることはできません。だから公的な集会には危険も常にあるのです。

あなたは街頭でもっと多くのひとびとを見たいと思いますか?

JB いいえ。街頭にもっと多くのひとびとが出れば私たちの生がより良くなるとは思えません。ところで、わたしは身体がしていることと言語を分離できないと思います。身体は表現します、それは意味があるのです。

ペギーダが運動と身振りを通して表現するものと、民主主義を志向する集会が表現するものを差異化できるでしょうか?

JB できると思います。身振りと運動を単に脱文脈化することはできないでしょう。問題はどのように文脈化するかということです。それらは概して、特定の政治を伴う人種差別と反移民の集会です。わたしたちは彼女・彼らがしていることを理解し、適切に判断しなければなりません。それは新しい移民が街に出て統合を求めるのとは全く異なります。もしあなたが、公的空間に足を踏み入れることが法に背くからといってそこから禁じられていたならば、公的空間に入ることは法に対する関係を取り上げることになります。

ですがそれは極右のポピュリストの示威行動についても言えることです。

JB 確かにそうですが、国家の暴力と国家の検閲、人種差別主義者の大衆運動は全て民主主義に対する主張に反して働くと言うこともできます。例えば白人の特権を主張する人々は、移民によって「排除されて」いると主張するかもしれませんが、じっさいのところは自らの特権を失うことを恐れているのです。それが文脈であり、わたしたちはそれら全ての身振りと運動、言語による主張によってその文脈を理解しなければならないのです。

あなたは著書の中でハンナ・アーレントの公的領域と私的領域の区別を批判的に評価しています。そのなかのどのあたりが問題含みなのでしょうか?

JB 『人間の条件』の中でハンナ・アーレントは、再生産や睡眠などの私的で家庭内の活動、身体の再生産を意味するそれら全ての政治的ではない活動と、おそらく栄養たっぷりの身体が登場する政治的な領域を明確に区別しています。アーレントの民主主義の原則の考えは、以下のような仮定を持っています。食料は分配されていて、入手可能であり、ひとびとは保護されていて、病気になれば医療を受けられると。ですが問題はもちろん、私たちは「不安定性(precarity、バトラーのキーワードで、「あやうさ」とも訳す※)」の時代に生きていて、基本的な生の必要性をめぐる非常に多くの事柄があり、そのために私たちは闘っているということです。誰が家を持っているのか、誰が医療を受けられるのか、誰が国境を越えられるのか?これらは全て身体の維持と身体の可動性に根本的に関わっている政治的問題です。具体的な生を考えずに、集団や集会の自由、言論の自由さえももつことはできません。

不安定性(precarity)は今でも増大していますか?

JB 不安定性(precarity)より重要な政治的概念になっていると思います。イサベル・ローリーという研究者によれば、それが私たちの現在の瞬間に本当に内在している経済的政治的条件なのです。「プロレタリアート」は、食べたり生きるために十分なほどには支払われていない労働者たちのことですが、「プレカリアート」はそれとは異なるカテゴリーです。プレカリアートは仕事すら持っていないかもしれません。仕事を得たとしてもすぐに失うかもしれません。一時的な労働者であるかもしれません。家を手に入れても翌日失うかもしれません。未来は根本的に予測できないのです。

なぜそのようなことに?

JB 市場が障害なく拡張できるように労働がますます一時的で不安定にされるにつれて、働く人々と生計可能な賃金に向けた公的義務はますます脅かされています。そのためより多くの人々があるやり方で打ち捨てられ奪われるのをわれわれは目にするようになっています。第一次・第二次世界大戦後、おびただしい数の人々が奪われるのを目にしましたが、その奪われ方は異なる種類でした。現代の強奪も、戦争を通して起きていますが、財政政策やネオリベラリズム、そして労働や住宅の条件、住宅市場や住宅の入手機会に対するその影響、さらに食料への影響をも通じて起きています。多くの人々が非常に基本的な問いで苦しんでいるのを知るのにそれほど遠くに行く必要はありません。

現在のポピュリズムの上昇は、より多くの人々が自分自身を、この新しいプレカリアート、その一部だと考えるようになっている事実に関係していると考えますか?

JB 南アメリカ、例えばアルゼンチンの運動のように、右翼と左翼のポピュリズムを識別すべき理由があると思います。こういった種類の運動に関心のあったエルネスト・ラクラウにとって、ポピュリズムは肯定的な概念でしたし、あるいはそうなり得るものでした。

それはなぜですか?

JB 異なる主張のために集まる異なる種類のアイデンティティの人々が互いに結びついているからです。彼女・彼らは共通する条件を見つけ始め、互いの状況を理解することを求めています。これらのつながりを通して、新しい人々の意識が生まれ、あるいは生まれ得るのです。だからラクラウにとって、ポピュリズムは左翼の約束を与えるものだったのです。彼はポピュリズムを超議会的な政治運動にとどまるものとしては考えませんでした。それが選挙による議会や代議制民主主義、国家権力にすら変容する可能性を実際に思い描いていました。

ではどのようにしてこの明らかに肯定的な形式のポピュリズムと否定的なそれを差異化しますか?

JB おそらく、その形式の良し悪しを識別し始める前に、それを理解しなければならないでしょう。結局のところ、「良い」としていたものが後になって「悪い」ものに変わることがあります。あらゆる種類の国家権力に反対し、すべての国家的過程を憎み、超議会的領域にとどまり続けようとする種類のポピュリズムがあります。現在私たちが目にしているような、男女の平等を保障する法や人種差別に反対する法、移民を許可し民族的に宗教的に異種混淆な人々を認めさえする法に反対する右翼的形式のポピュリズムもあると思います。そしてそのような種類の反動的ポピュリズムは、郷愁に駆られたり特権を失ったと考えて、社会の初期状態を取り戻そうとしたがります。彼女・彼らの以前の世界の喪失のために国家権力を引きずり降ろそうと望んでいます。

ドイツでしばしばなされる議論で、あるひとびとは社会の周縁に追いやられ不安定性(precarity)の中に取り残されていると感じているからAfD(Alternative für Deutschland、反EUを掲げるドイツの政党)を支持するのだというものがあります。賛成できますか?

JB 右翼団体はしばしば疎外されていると感じることがありますが、彼女・彼らが本当に意味していることはその特権が失われたということです。彼女・彼らの特権、白人の前提は揺れ動いています。お分かりのように、確かに彼女・彼らは白人の特権を失いつつあります。白人の特権が前提されていた以前の世界を失いつつあります。その通りです、失いつつあるし、その喪失に慣れて受け止め、より大きくより民主的で異種混淆的な世界を受け入れるのが彼女・彼らのなすべきことです。

けれども彼女・彼らをプレカリアートの概念に含めることはしませんか?

JB 問題は、ネオリベラル経済が人々の隅から隅まで右派と左派を区別することなく不安定性(precarity)を生み出していることです。そのため、自らの位置をとったとして移民を責めているので、右派の人々あるいはより右派的になった人々がいますが、彼女・彼らは、富裕な人々は利益を得続けるのに、不安定性(precarity)が経済的階級を横断して拡大するという、問題の根本を見極めていません。彼女・彼らは、ますます多くの人々の幸福を現実に危険にさらしている財政や金融政策を注意深く見ることをせずに、移民に責めを帰すことに決めています。

トランプの支持者についても同じことが言えますか?

JB トランプの支持者ですか・・

ドイツ人には非常に興味があります。

JB それは全くかなり解読しにくいものです。トランプの支持には経済的要素があります。彼の支持者のある部分にとっては政府は生計をなして財政的に成功する可能性を邪魔するものだから、規制や政府に反対しています。またそれは、労働者の健康や安全を保障するための税の納入や職場の規制をも含み得ます。彼女・彼らはトランプが連邦税を払っていなかったらしい事実を称賛し、「自分もあの人になりたい」と考えているのです。

怒りはありますか?

JB 巨大な怒りを感じます。女性や人種的マイノリティや移民に対してだけではなく、彼女・彼らは自らの怒りが彼の公的で検閲されない発言によって解放されていることに興奮しています。左派にいるわたしたちは、恐らく良心(superego)です。トランプが美辞麗句を飾ってやろうとしていることは、左翼だけではなくリベラリズムを、基本的なアメリカのリベラリズムと左翼を単なる検閲の塊として特定することです。私たちは抑圧的な機械で、彼は解放の車です。これはまさに悪夢です。

彼の公然とした性差別と人種差別についてはいかがですか。

JB トランプが解放しているものは、抑えられない憎しみであり、最近見たように、誰の同意も気にかけさえしない性的行動の形式です。わたしたちはいつから触れてもいいかどうかについて女性に尋ねなければならなくなったのか、それはなぜか?彼が実際言っているのは違いますが、彼はまさにそうほのめかしています。それは人々を、その怒りを、その憎しみを解放しています。そしてこれらの人々は金持ちかもしれず、貧しいかもしれず、あるいは中流かもしれません。彼女・彼らは自分たちが左派やフェミニスト、公民権や平等を求める運動、黒人男性が国を代表することを許したオバマの大統領任期期間によって抑圧され検閲されていると感じています。

あるトランプ支持者は、もし彼が権力を得たらその不愉快な想定に基づいた行動はとらないだろうと言います。

JB あなたにそのようなことを言う人々は、彼が言っている全ての不愉快な事柄を好んでいるかのように見られたくないという意味で、真実を否認しています。その人はこう考えているだけです。彼は国境を閉じ、戦争に行き、あるいはお役所仕事を省くだろう。ですが事実はこうです。彼女・彼らは彼の言う不愉快な事柄と共に生きていきたいのです。彼女・彼らは必ずしも賛成しないでしょうが、そのことに慣れているし、反対しないことを意味しています。彼女・彼らは暗黙のうちにそのような言説に同意を与えています。多くの人々が彼の言説から私的な喜びを得ています。彼女・彼らはそれを大声で言うことはできないかもしれません。というのは人種差別主義者や性差別主義者、あるいは同性愛嫌悪的とされることは恥ずかしいことだと見なされているからです。ですがそのような感情を私的に心に抱いています。

哲学者のエマニュエル・レヴィナスは、私たちが他者に出会う時、その出会いは直接的な要請を私たちに課すと書いています。あなたは彼の理論を拡張して、お互いに出会い、道徳的義務の感覚を相互に課す公的な集会における身体について考え出しています。あなたがここで思い描いている倫理はどのような種類の政治的意味合いを持っていますか?

JB いいえ、身体から身体への個人間の接触のモデルを、より大きな政治的関係のモデルとして見なすことはできません。ですが、より大きな構造へ翻訳され得るそれらのより小さな出会いから、いくつかの一般的な原則を引き出すことはできます。そしてそれらの原則のなかには相互依存性があるでしょう。グローバルな相互依存性、それは気候の変化や食料の分配を含みます。けれどまた例えば、合衆国は、それ自身の領土における悪影響に苦しめられることなく世界の異なる側で戦争をすることはできません。というのは、私たちは実際に世界を共有しているからです、私たちが破壊しようとしている人々とすら。第1世界の状況の中で生き、そこで自由や直接的暴力からの相対的安全を享受しているわたしたちは、本当にそれが好きです。私たちはそれが自らに近づいてくると衝撃を受けます。このことがここで、ブリュッセルで、パリで、ロンドンで、ニューヨークで行われていることです。これらの都市を標的にする人々は、わたしたちが他者が苦しむことを強要されている種類の破壊から距離を取り得るというわたしたちの想定を攻撃しようとしているのです。

そのことは国内政治に対しては何を意味しているのでしょうか?

JB わたしにとって倫理的なものは政治的なものから完全に分離されてはいません。私たちの公的な政策に影響を与えるべき倫理的原則があります。そしてそれは次のことを含みますし、それが私が最も関心のあることだと思います。私たちがあるときには他者の生活に起きていることに注意を払わず、誰かの嘆くべき生に想いを馳せることも、平等なあるいは平等に有意な人々の生を考えることもなく私たち自身の地政学的区域に暮らしているあり方のことです。ですから、私たちの限られた国家や言語の境界を超えて平等を広げることが私たちの責任です。

私たちは現在、シリアの人々の生を生きられたり嘆かれたりされるべきものではないと考えているのでしょうか?

JB 白人のヨーロッパ人がトルコとの国境でシリアに拘束されたとすれば、大きな怒りが生まれるでしょう。それは同一化作用(identification)がすぐに行われるからです。

アンジェラ・メルケルの「歓迎する文化」政策はあなたが思い描く種類の倫理の表現なのでしょうか?

JB はい。それは二つの異なる段階に分けて考えることができます。第一に、わたしたちが歓待や「歓迎する文化」と呼んでいるものは絶対に重要です。それは国際法や難民保護法にも合致しています。またハンガリーのような、国境を閉じて全ての「歓迎する文化」を拒否している場所でも見ることができます。ドイツは「歓待の限界はどこだ?」という問いを討議しています。しかしながらわたしは、第二の段階があると思います。「私たちは誰だろうか?ドイツ人とは今や誰のことか?」と問うことです。歓待について議論するとき、歓待を「彼女・彼ら」にほどこすのはいつもこの「わたしたち」です。けれど「彼女・彼ら」が一旦中に入ると、そのとき「私たち」は誰を意味するのでしょうか?「私たち」は変わるのでしょうか?そのとき彼女・彼らは「私たち」の一部になるのでしょうか?完全な包括とは、人種的に民族的に異なるドイツ人を認め肯定することです。

それは難しいでしょうか?

JB そうです。「私たちは今やムスリムであり、キリスト教徒であり、ユダヤ教徒だ」とか「私たちは今や白人で、黒人で、褐色で、多文化で、多民族だ」と言うことは。

現在ドイツでは右翼的なポピュリズムと言説が増大し、ますますイスラム嫌悪的になっています。

JB 歓待が、移民をドイツに適合させるよう求めるプログラムになっていく方法を考えています。それはドイツの新しい人種差別主義と闘うことに集中的に尽力するプログラムではありません。新しい移民コミュニティがドイツの不可欠な部分になることを拒否する人々もまた変化を経験しなければなりません。今やドイツとは何であり誰を含んでいるのかということの感覚の変化を。そうするためには、ドイツ人はこれらのコミュニティについて学び、慣れなければならないでしょう。これは歓待以上のものです。それは国として「私たち」とは誰であるかの意味を変えることです。そしてそれがこの第2の段階であり、歓待を超え、たくさんの種類の宗教を受け入れる多国籍的、多人種的国家へと導くでしょう。

ではどのように「私たち」と言う概念を拡張できるでしょうか?

JB それはどのように人々と生きるかという問い、共生の問いだと思います。あなたは彼女・彼らの生活を学び、言語を学びたいとも思いますか?彼女・彼らを常にあなたの寛容の受取人として扱っていますか、それともあなたと平等だと見なすようになれますか?ドイツ語はドイツで話されている唯一の言語ではないと認められますか?援助や支援が様々な宗教的共同体に与えられるべきであることや、彼女・彼らは単に歓迎されていると感じるだけでなく、ドイツ人の一部でもあると感じるべきであり、またそうなりつつあることを受け入れられますか?わたしは、ドイツ文化に移民を適応させるための努力がそういうものとして何度も行われてきたと思います。

トランプのレトリックにも、ブレグジットにも、右翼的ポピュリストの言葉にもそれを見て取ることができます。国籍の民族的理解へと後退しています。なぜでしょう?

JB ハンナ・アーレントがここでの道案内になります。国民国家の観念の中で機能する限り、基本的に、国家を代表するために特定の国籍を、その国籍を代表するために国家を求めることになります。それは、常にマイノリティと、排除される人々、国家の支配的な発想に一致しない人々が存在することを意味しています。彼女・彼らは完全な権利がなく、あるいは権利を奪われ、追い出されさえするでしょう。これが彼女の複数性がそんなにも重要である理由です。そして複数性は人種的民族的異種混交性へと翻訳できるだろうと思っています。けれど異種混交性はヨーロッパの今現在のあり方なのです。それが新しいヨーロッパなのです。



※バトラーの著作で、"Precarious Life" は『生のあやうさ』(本橋哲也訳、以文社)として日本語訳されています。




[PR]
# by anti-phallus | 2017-03-11 21:12 | フェミニズム | Comments(0)

朝日新聞・女子力コメント

 朝日新聞の取材を受け、コメントを載せていただきました(2月19日付)。
 このブログでも何度か取り上げている「女子力」についての記事です。このシリーズ、今日(3/8)のウイメンズ・デーを目標とする「Dear Girlsシリーズ企画」にも続いています。

 朝日の女性記者の方々が海外のメディアでは大きく取り上げられるウイメンズ・デーについて日本のマスコミが取り上げていないのはおかしいということで始められたそうで、その動機はとても重要なものだと思います。しかも切り口も、女子力という、若い世代にはもう日常語となっているにもかかわらず他の世代では気づいていない言葉から考えようとしていて、その意味でも貴重です。マスコミは男性社会であるというのは以前からいわれている定説で、このような企画が立ち上がるのも遅すぎたくらいです。
 ただ、女子力シリーズは一つの言葉をめぐって読者参加も含め多面的に取り上げていて面白かったのに比べて、Dear Girlsシリーズはやや総花的というか、ちょっと盛り込みすぎてなんだかよくわからなくなってしまっているような気もします。まあ何度もここで取り上げているように、女性・ジェンダーをめぐる状況が混沌としていて、フェミニズム内でも議論や対立が先鋭化している背景があるので、ある意味仕方ないのかも。
 しかしウイメンズ・デーというなら、twitterでもつぶやいたんですが、男女の賃金格差の報道が歪んでいるのを直して、そういった正確なデータや現象をきちんと取り上げて、「社会問題」としてのジェンダーを読者に提起するような記事がいつかできないものか・・・・「女の子、がんばって」みたいなのはポスト・フェミニズムの1ヴァージョンに過ぎないのに・・・。(女の子はもうがんばらなくていいのです・・すでにオヤジ社会の中で頑張って頑張らされてるんだから・・)
 というため息はおいといて、コメントでは、「女子力」という言葉の孕む社会的背景、構造に目を向けてもらうように努力しました。新自由主義、という「ヘタレサヨク」言葉を載せてもらったのも良かったと思います。


リンクは下記。



コメント部分だけ抜粋してご紹介します。


++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
「女子力」という一つの言葉にこだわって、その成り立ちと移り変わり、まつわる思いなどについて考えてきました。多くの女性がこの言葉に感じる「呪縛」をほどくにはどうすればいいのか。アンケートに寄せられた声と、識者の見方を紹介します。女性記者たちの呼びかけに応じて、取材に参加した男性記者2人がいま考えることを、最後に。

「女子力」アンケートに寄せられた意見はこちら
 女子力に関する論文を書いた、名古屋市立大学人文社会学部の菊地夏野准教授(ジェンダー論)に、この言葉から見えてくる社会のありようについて聞きました。

     ◇

 女子力という言葉は、古さと新しさの両方をはらんでいます。

 日本でも女性が社会進出し、男女平等な社会にだいぶ近づいたというイメージを多くの人が抱いている一方、この言葉の使われ方を見ると、決して平等になってはいない。社会進出と言っても、実態は家事や育児、見た目の可愛さや気遣いなど、これまで通りの負担を課されたまま、男性中心の長時間労働の場に組み込まれたに過ぎません。

 女性に課される重圧に苦しめられたひとりが、電通社員の高橋まつりさんだったと思います。長時間労働の末、自死し、労災認定されましたが、亡くなる数日前、男性上司から「女子力がない」と指摘されたことなどをツイッターに書き込んでいました。エリートの男性並みに働く女性ですら、一方で女子力をも求められる。

 以前から使われていた「女らしさ」は、女性であれば自然にもつとされる性質を表します。一方、女子力は昔ながらの女性の役割を内包しながら、それを能力として「高い」「低い」と計量化し、本人が自発的に努力して身につけ、ランクアップさせるべきものという、新しい価値評価を持ちこんでいます。そこには「能力」「競争」という、ここ十数年で広がった新自由主義的な価値観が反映しています。

 若い世代に専業主婦願望が広がっていることなどからうかがえるように、女子力の意味するものを肯定する動きも見られます。雇用や社会保障の制度が揺らぐなかで、女子力が示す女性の役割に、さらによって立つことで、不安定化する社会を生き延びようとする若い世代の姿が見えてきます。それ以外のサバイバルの方法が見いだしにくいからです。

 現在の日本社会の様々な矛盾を、女子力の頑張りという形で女性に転嫁し、覆い隠そうとしている。女子力という言葉が果たしている機能は、そこにあるように見えます。(聞き手・錦光山雅子)





[PR]
# by anti-phallus | 2017-03-08 13:39 | 仕事 | Comments(0)