人気ブログランキング | 話題のタグを見る


菊地夏野のブログ。こけしネコ。


by anti-phallus

S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

記事ランキング

最新の記事

3/2(土)公開研究会
at 2024-02-15 15:27
『やまゆり園事件』を読んで
at 2023-11-21 13:54
映画の感想
at 2023-11-07 20:33
ジャニーズ性暴力問題について
at 2023-09-06 13:08
松浦理英子のすごさについて
at 2023-07-25 11:52
『教育と愛国』とポジティブ・..
at 2022-08-20 17:49
時事論評
at 2022-07-04 15:33
ポーランド女性たちのストライ..
at 2022-05-06 14:28
女性議員増やせキャンペーンに..
at 2021-10-22 14:21
映画「君は永遠にそいつらより..
at 2021-09-20 11:29

カテゴリ

全体
つれづれ
非常勤問題
小説
ブックレビュー
シネマレビュー
仕事
イベントの案内
フェミニズム
セックス・ワーク
クィア/LGBT
日本軍「慰安婦」問題
原発/震災
ユニオンWAN争議
その他
未分類

以前の記事

2024年 02月
2023年 11月
2023年 09月
2023年 07月
2022年 08月
2022年 07月
2022年 05月
2021年 10月
2021年 09月
2021年 03月
2021年 02月
2020年 12月
2020年 10月
2020年 05月
2020年 04月
2020年 03月
2020年 02月
2019年 11月
2019年 09月
2019年 06月
2019年 05月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 02月
2018年 12月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 05月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 08月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 05月
2014年 03月
2014年 02月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月

その他のジャンル

画像一覧

ナンシー・フレイザー「資本主義におけるケアの危機」

ナンシー・フレイザー(Nancy Fraser)のインタビュー記事(2016)を翻訳しました。原文はここです。



「ケアの危機」とは現在私たちが直面している構造的な問題です。ケアを代表とする家事や子育て、介護などの「社会的再生産」がどんどん民営化・商品化され、私たちの生活が切り縮められている状況のことをいいます。このインタビューでは、その歴史的背景の説明や様々な大事な論点の解説があります。ケアといえば今は子育てや介護という私たち個人が家庭で日々直面する営みが議論されますが、それにとどまらず、公的な教育費の削減や福祉・医療の民営化なども大きな問題です。もちろんアメリカや欧米だけでなく日本も、というより日本は特に深刻に直面している課題です。

要約すると、近代史は、19世紀の自由資本主義→20世紀半ばからの国家統治型資本主義→現在のネオリベラル資本主義、という3段階に分けられます。それぞれの段階で社会的再生産・ケアに対する国家のスタンスは違い、自由資本主義では放任(野放し)で民衆任せ、国家統治型資本主義(いわゆる福祉国家の時代)には家族賃金をモデル(理想)化して社会設計、ネオリベラル下では私的領域までをもさらなる商品化、という流れになります。このなかで福祉国家時代の家族賃金というのは良さそうに見えますが、性別分業を基軸としたものなので、「女性の従属」をも意味するのです。フェミニズムはこのジェンダー化された家族賃金モデルを批判してきたのですが、そこでネオリベラルの「二人稼ぎ手モデル」に足をすくわれた、というのが現在私たちが抱える矛盾をなしています。

従来からのフレイザーのフェミニズム論を、より歴史的・構造的に学ぶことができます。このフェミニズム批判を、単なるバックラッシュのようにではなく、より良質で開かれたものを求める過程の中で理解して欲しいと思います。例えば、安倍政権が進める女性活躍政策や、それを支持するフェミニズムは、私たちの指針にも救いにもならないということです。インタビューの中で、次のように言っているのを読むと目が覚めるような思いがします。

「ちなみに、ネオリベラル・フェミニストはフェミニストです。否定はできません。ですがそのフェミニズムの要素には、フェミニストの発想が単純化され、切り縮められ、市場フレンドリーな用語で再解釈されているのに気づきます。例えば、女性の従属を、才能ある女性が上昇するのを妨げる差別として考えるようなときに。そのような思考は完全にヒエラルキー的な企業の虚像を正当化します。それは、女性の大部分の利益に対して、いやむしろ世界中の全ての人々の利益に対して基本的に敵対する世界観を正当化します。」

ここまで明確に指摘できるフェミニストは少ないでしょう。
企業社会の中で女性が昇進するのは「女性活躍」の目標とされています。最近よく、女性管理職の数がどうのこうのいわれていますね。そのなかで、女性の昇進が本当に性差別の解消になるのか、疑問を持つ人は多いでしょう。ですが多くのひとはフレイザーのようにここまではっきり批判も出来ないでしょう。この批判でフレイザーに違和感を感じる人も多いでしょう。けれど、わたしはフレイザーを支持します。女性が昇進することは、個人レベルでは本人が望むのであれば良いことですし、応援したくなる時もあると思います。ですが、それがフェミニズムの最優先事項であるとはわたしにはいえません。やはりフェミニズムは、ある恵まれた女性(のみ)を応援するものではなく、あくまで女性の間の望ましいつながりを構想するもの、できるだけ多く、すべての女性を尊重するものだと思うからです。またそもそも、企業社会という場がどれだけ女性に良いものをもたらすか、例えば地位の高い女性であろうとそこに居続けることは大きな犠牲を求めるだろうと思うからです。それは男性にとっても本当は同じことです。ですがたいていの場合、企業社会で働き生活することしかできませんから、みなそうして頑張っています。そういう現実があるからこそ、そうではない世界を最終的に求めることに意味があるのです。

社会的再生産の重要性を理解しない左翼やマルクス主義への批判もあります。ここが古い左翼(新しいのも?)とフェミニズムが袂を分つ分岐点です。

===========================

ナンシー・フレイザーはニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチの哲学と政治学の教授であり、今日最も尊敬される批判理論家の一人である。新しい著作、『Fortunes of Feminism(フェミニズムの明暗:国家統治型資本主義から新自由主義の危機へ)』でフレイザーはリベラル・フェミニズムの困惑させられる資本主義への収束と、フェミニズムが過酷な搾取のシステムのためにうわべだけの自由を提供しようとするやり方と闘っている。資本主義批判と、根本的に異なるフェミニズムのビジョンを発展させるために、彼女はジェンダーの公正はどのように平等な社会のためのあらゆる闘争の核心に置かれるべきかということを示している。最近、フレイザーは「ケアの危機」と呼ぶ状況に言及している。それを冠した彼女の論文は『New Left Review』100号で発表されている。

◆社会的再生産とは?

サラ・レオナルド:社会的再生産とは何でしょうか、また、それはなぜあなたのフェミニスト分析の中心にあるのでしょうか?

フレイザー:社会的再生産とは、社会的な関係性の創造と維持に関連しています。このひとつの側面は、世代間のつながり、例えば出産、子育てや高齢者の介護などに関連しています。他の面では、友人や家族、近所付き合いやコミュニティなどの水平なつながりの維持に関連しています。これらの種類の活動は社会にとって絶対的に本質的なものです。それは感情的であると同時に物質的で、社会的な共同を支える「社会的接着剤」を与えます。それなしには、どのような社会的な組織も、経済も政治も文化も、存在できないでしょう。歴史的に、社会的再生産はジェンダー化されています。そのための責任の大部分は、男性もいつも一部を演じはしますが、女性に割り当てられます。
資本主義の成立はこのジェンダーの分割を強化しました、社会的再生産から経済的生産をくり抜き、それを二つの分離されたものとして扱い、二つの異なる制度に位置付け、二つの異なる方法で調整することによって。生産は工場と会社へ置き換えられ、そこではそれは「経済的」であり賃金によって報われると見なされました。再生産は後景に追いやられ、新しい私的な家庭内の領域に格下げされ、そこではそれはセンチメンタルに自然化され、金銭ではなく「愛」や「徳」のために行われるとされました。少なくとも理論上はこのようにいえます。実際には、社会的再生産は決して完全に私的な家庭内の境界内に置かれることはなく、地域や公的な施設や市民社会にも配置されていました。にもかかわらず、社会的再生産からの経済的生産のジェンダー的分離は、資本主義社会における女性の従属の主要な制度的な基礎を構成しているのです。したがってフェミニズムにとって、これ以上に中心的な問題はないのです。

レオナルド:あなたの分析によれば、私たちはケアの危機に突入しています。それは何を意味していて、私たちはどのようにしてここに至ってしまったのでしょうか?

フレイザー:資本主義社会では、社会的再生産のために可能な能力は貨幣価値には一致しません。それは当然のこととされ、無料で全く入手可能な「贈り物」と扱われ、注意を払われたり補充されたりすることはありません。経済的生産が、より一般的には社会が依存している社会的つながりを持続するための十分なエネルギーが常に存在するだろうと考えられています。これは、資本主義社会において自然が、欲しいだけ手にすることができ、要らなくなればどれだけでも廃棄することのできる無限の貯蔵庫として扱われるやり方によく似ています。じっさいには、自然も社会的再生産能力も無限ではありません。両方とも極限まで拡張されはします。自然の場合、多くの人々が既にこのことを理解しています。そして私たちは「ケア」の場合にも同じように理解し始めているのです。社会が社会的再生産のための公的支援を一斉に取りやめ、その主要な提供者を何時間もの厳しい賃労働へ追いやる時、それが依存している社会的能力自体を枯渇させます。これがわたしたちの今日の状況そのものです。現在の資本主義の金融化された形式は、組織的に、社会的絆を持続する私たちの能力を消費しています、自分の尻尾を食べる虎のように。その結果が「ケアの危機」であり、現在の環境の危機と全く同じように深刻で組織的であり、あらゆる場合においてつながっているのです。

私たちがどのようにしてここに到達したのかを理解するために、資本主義のこの形式を以前の形式に対比させたいと思います。資本主義の歴史が、異なる蓄積体制の連続から形成されているというのは共通の思考です、例えば自由資本主義、国家統治型(あるいは社会民主主義的)資本主義、ネオリベラル金融資本主義など、研究者はたいてい、国家と市場が相互に関係する特有の方法の観点からこれらの体制を識別します。ですが彼(女)らは同等に重要な、生産と再生産の間の関係を無視してしまいます。その関係は資本主義社会の典型的な特徴であり、私たちの分析の中心に属しています。社会的再生産がそのそれぞれの局面でどのように組織化されるかに注目することで、資本主義の歴史を理解するのに大いに役に立ちます、あらゆる時代でどれだけ多くの「ケア・ワーク」が商品化されているか、というように。国家あるいは共同の供給によってどれだけ支援されているのだろうか?世帯や地域、市民社会にどれだけ多くが割り振られているのか?

これに基づいて、19世紀のいわゆる自由資本主義から20世紀半ばの国家統治型体制、そして現在の金融資本主義へと歴史的軌跡を跡付けることができます。つまり、自由資本主義は社会的再生産を私有化し、国家統治型資本主義は部分的に社会化し、金融資本主義はますます商品化しようとしています。それぞれの場合において、社会的再生産の特有の組織はジェンダーと家族の理想の特徴的な組み合わせとともに進みます。「分離した領域」という自由資本主義のビジョンから、「家族賃金」の社会民主主義的モデル、「二人稼ぎ手家族」というネオリベラルの金融化された規範へと。説明しましょう。

自由資本主義の場合はかなり明瞭です。経営者が女性や子どもを含む新たにプロレタリアート化された人々を無理やり工場や鉱山へ押し込めていた時、国家は主として傍観を決め込んでいました。結果は、社会的再生産の危機であり、民衆の反発や「保護法制」を求める運動を誘発しました。しかしそのような政策は問題を解決できようもなく、その結末は、労働者階級と農民共同体を自力でやっていくよう放置することでした。にもかかわらず、この資本主義の形式は文化的に生産的でした。社会的再生産を私的な家族内の女性の領域と再配置し、「分離された領域」「無情な世界の中の安息地」「家の中の天使」といった新しいブルジョワ的な家内性の想像物を発明しました。それはたいていの人々からそれらの理想を実現するために必要な条件を奪うものなのに。危機に苦しめられ、自由体制は20世紀に資本主義社会の新しい国家統治型の変形に取って代わられました。この局面では、大量生産と大量消費に基づいて、社会的再生産は部分的に、国家と「社会福祉」の組織的支援を通して社会化されました。そして、ますます古くなった「分離した領域」のモデルは、より新しくより「近代的な」「家族賃金」の規範に取って代わられました。労働運動の強力な支持を得たその規範によれば、産業に従事する男性労働者は、妻を子供と家庭に専念させられるように、その家族を養うだけの賃金を払われるべきだという規範です。再び、限られた特権層の少数派のみがこの理想を達成しました。だが、それは非常に多くの人々の心を動かしました、少なくとも資本主義の中核たる富める北大西洋諸国では。植民地とポスト植民地は、グローバル・サウスの継続する略奪のままにおかれ、これらの協定から除外されました。またアメリカ合衆国では、人種の不均衡が埋め込まれていて、家庭内と農業の労働者は社会保障と他の形の公的援助から除外されていました。またもちろん、家族賃金は女性の従属と異性愛規範(heteronormativity)を制度化しました。したがって、国家統治型資本主義は黄金の時代などではありませんし、私たちの現状とはかなり異なっています。

もちろん今日、家族賃金の理想は絶えました。それは一方では(1パーセントの人々でない限り)一人の稼ぎでは家族を扶養できなくなった実質賃金の縮小の犠牲となりました。そして他方では、家族賃金に埋め込まれた女性の依存の思想を脱正当化したフェミニズムの成功の代償でもあります。ワン・ツー・パンチの結果、私たちは今「二人稼ぎ手家族」という新しい規範を手にしています。良さそうではないですか、あなたがシングルではないとしたら?しかしながら、これも、家族賃金のように、ごまかしなのです。それは、今や世帯を維持するに必要とされる長時間の賃労働の急増を神秘化し、もしその世帯が子供や高齢者や病気や障害を持っていてフルタイムの賃労働者として機能しない人を含んでいたら、事態はより悪化します。またもし一人親家庭の場合、それ以上に深刻です。今やこれに加えて、その二人稼ぎ手モデルは国家の援助の削減の時期に促進されています。労働時間の増大の必要性と公的サービスの削減の間で、金融資本主義体制は社会的絆を維持する私たちの能力を体系的に枯渇させようとしています。この資本主義の形式は、私たちの「ケアする」力を極限まで拡張しようとします。この「ケアの危機」は構造的に理解される必要があります。現在の状況下では、それは偶然でも付随的でもなく、資本主義に内在する社会的再生産の危機に向かう傾向の表れなのです。ですが、それは現在の金融資本主義の体制ではとりわけ先鋭化された形態をとるでしょう。

◆ケアの危機とフェミニズム
レオナルド:この危機におけるフェミニズムの役割についてもっとお話ししていただけますか。フェミニストは必死に頑張る二人稼ぎ手家庭を目標とはしていませんでした。

フレイザー:ええもちろん。ですがフェミニズムがこれらすべてにおいて果たしたことについては深刻で悩ましい問題があります。フェミニストは家族賃金の理想を女性の従属の制度化として拒否しましたし、それはその通りです。しかしわたしたちは、製造業の再配置が経済的にその理想をつぶしたときにそうしたのです。他の世界では、フェミニズムと産業の変化は互いに強化したりしないかもしれませんが、この世界ではそうなのです。結果として、決してフェミニズム運動がその経済的変化を引き起こしたわけではないけれど、わたしたちはその正当化を知らぬ間に提供するはめになってしまいました。わたしたちは他者のアジェンダに、魅力やイデオロギー的な安定剤を提供してしまったのです。

けれども一方で、このアジェンダに完全に乘っている、1%を代表するネオリベラル・フェミニストが現実に存在していることを覚えておきましょう。あえて言わせてもらえば、わたしたちはそのうちの一人を合衆国の大統領として選出するところでした。ちなみに、ネオリベラル・フェミニストはフェミニストです。否定はできません。ですがそのフェミニズムの要素には、フェミニストの発想が単純化され、切り縮められ、市場フレンドリーな用語で再解釈されているのに気づきます。例えば、女性の従属を、才能ある女性が上昇するのを妨げる差別として考えるようなときに。そのような思考は完全にヒエラルキー的な企業の虚像を正当化します。それは、女性の大部分の利益に対して、いやむしろ世界中の全ての人々の利益に対して基本的に敵対する世界観を正当化します。そしてフェミニズムのこのバージョンはネオリベラリズムの略奪へ解放的な見せかけを提供します。

レオナルド:私たちの金融経済においてケア・ワークの分配がどのように女性同士を争わせているか詳しく説明できますか?

フレイザー:もちろんです。今、ケア・ワークの二元化された構造があります。家事の支援を単に支払うことで入手できる人々と、第一のグループのための有給のケア・ワークに、しばしば非常に低い賃金と実質何の保護もない状態で従事することでいっぱいで自らの家族のケアをする余力もない人々に。わたしたちはこのセクターで生まれている権利と生活賃金のための闘いを目にしています。したがって明確に、これはお互いの利害の直接的な対立です。わたしはいつも、シェリル・サンドバーグの「リーン・イン」の発想は皮肉だと思っています。彼女のリーダーシップが企業の重役室でリーン・イン(乗り出す)することを思い描けるのは、薄給のケア・ワーカー達が彼女のトイレや家を掃除し、子どものオムツを替え、年老いた両親の世話をするのに頼っていられる限りなのですから。

そしてここで人種について触れなければいけません。このような仕事をしているのは結局、主に有色の移民女性、アフリカ系アメリカ人女性、ラテン系女性なのです。ニューヨークで中流階級の住む地域の公園に行きさえすれば、すぐに分かります。いわゆる「開発」戦略が、女性をこの目的のために富裕な国や地域に移民することを促進することである国があります。例えばフィリピンは、海外にいる家事労働者からの送金に依存しています。そしてこれは国家が組織した労働の交換であり、国家の開発戦略です。問題の国家は構造調整に従属してきました。その国は債務を背負っており、資金がなく、国際通貨を必要としていて、女性をこの仕事のために送り出す以外に道がありません。彼女達は子どもと家族をおいて他の貧しい人々にケアしてもらうほかない状態で。ところで私はケア・ワークは決して有給の仕事とされるべきでないなどと言いたいのではありません。それがどのように支払われ、組織され、誰によってかで全く大きな違いがあるということです。

◆社会的再生産と社会運動・社会主義の可能性
レオナルド:あなたが指摘したような問題に関してその根元に達するような方法で組織化している具体的な活動はありますか?

フレイザー:驚くほど多くの組織や活動があります。とても創造的でエネルギーに溢れています。ですが拡散したままで、社会的再生産の組織を変えるカウンター・ヘゲモニーの試みのレベルまでは到達していません。労働時間の短縮や無条件のベーシック・インカム、公的な子育て支援、移民家事労働者や営利の医療施設や病院、子育て支援センターのケア労働者の権利のためにともに闘うなら、そして特にグローバル・サウスの安全な水や住居、環境汚染への闘いも付け加えるなら、私の意見では、結局は社会的再生産を組織する新しい方法が必要だということになるのです。

社会的再生産のための闘いはほぼどこにでも存在します。それはその名前を名乗りはしません。けれどももしこれらの闘争がこのような方法で自らを理解するようになれば、社会変革のための広い運動においてともにつながり得る強力な基礎となるでしょう。また現在のケアの危機の構造的基礎が再生産を生産に従属させようとする資本主義に内在的な動因にあることを理解すれば、そのとき状況は本当に面白くなるでしょう。

レオナルド:若いアメリカ人の間で社会主義が関心を高めていることを受けて、社会的再生産の闘いを社会主義への闘いに関連づけますか?

フレイザー:もちろんです。私は自分自身をバーニー・サンダースと同様に、民主的社会主義者と呼んでいますが、それがいったい何を意味するのか分からないことを率直に認めざるを得ない時代に生きています。わたしたちは、それが権威主義的な統制経済や共産主義の一党独裁モデルを意味するものではないことを知っています。社会民主主義より、より深く強力で平等主義的なものを意味しています。搾取や流用、抽出が全くトランスナショナルな世界において、国民国家に限定されません。言い換えれば、私たちはそうではないものは全て知っていますが、肯定的にプログラムを定義するのが困難な時代にいるのです。私が主張したい一つのことは、社会的再生産を再想像することは、21世紀に望ましいと主張できる社会主義のあらゆる形式にとって中心にあらねばならないということです。再生産と生産の区別は今日どのように再発明されるべきでしょうか。また二人稼ぎ手家庭は何に代えられるのでしょうか。社会主義の歴史を見ると、マルクスとエンゲルスが拒否したことで知られる古いユートピア社会主義ですら、私が社会的再生産と呼んでいるものに大きな焦点を当てているのは興味深いことです。家族と共同体の生活の組織化などのことに。それは私たちにとっては有効でないという意味でユートピア的ですが、近代の産業社会主義の歴史においても難しい問題でありました。マルクスの社会主義と非マルクスの産業社会主義ではこの問題はやってきては見えなくなります。ほとんどの場合、それは工業化を組織し生産を計画する問題に対して二次的なものとして扱われてきました。ですがもし生産と再生産の二者関係の一方のみを強調するなら、他方は戻ってきて、予期せぬ、すべての企図を台無しにするようなやり方で仕返しをするでしょう。

レオナルド:あなたが社会生活や家族について提起した問いの多くは、やはりユートピア的で、1960年代の残骸のようですし、社会主義者のプログラムに必ずしも中心的ではないように見えます。にもかかわらず、あなたは我々がまさに危機の地点にいると主張し、それらの問題が中心であるべきだと言っています。社会的再生産の挑戦は誰もの毎日の経験にとって非常に基本的なのに、現在の社会主義のリバイバルの中で欠如しているのは驚くべきことですね。

フレイザー:それには強く同意します。この社会的再生産の危機の深刻さのなかでも、左翼がこれに目を向けないのは、悪い意味でユートピア的でしょう。製造業をなんとかして取り戻せるという考えは、これも悪い意味でユートピア的です。すべての成人を、第一にケアの責任、共同体への参加や社会的コミットメントの責任のあるものとして想定する社会を築けるという考えは違います。それはユートピア的ではありません。人間の生活が本当になんであるかに基づいたビジョンです。

レオナルド:これらすべてにおいて、テクノロジーに積極的な役割を見出しますか?それとも機械化された家事労働はより「リーン・イン」につながるだけでしょうか?グーグルで卵子の凍結保存が話題を呼び、それは子どもを持つ前に女性がより長く働くことを可能にするといわれています。多くの工業労働は機械化されるべきと考えられているのですから、ケア・ワークも同様なのでしょうか?それともそうするにはあまりにも親密すぎるでしょうか?

フレイザー:私はラッダイトではありませんからね。夜読書するための電気を使え、遠方のあなたとスカイプができ、その他もろもろのことに深く感謝しています。卵子凍結や搾乳機械のような、これまで批判的に書いてきたテクノロジーに対しても反対しているわけではありません。問題は文脈なのです。どのように生み出され、誰によって誰の利益のために使われているのか。それらのものの入手が合法的な選択となる文脈を容易に想像することができます。最悪の、あるいはわずかな選択肢の中で極めて制限された選択をした誰かを責めるつもりは全くありません。
社会的つながりを持続することを志向する活動は、無視できない個人的な側面を持っているとも考えます。それは定義上、個人的で、間主観的なコミュニケーションを含み、ある場合には身体的な接触も含みます。そしてケアの完全な機械化の思想には妨げとなります。ですがやはり、あらゆるものの完全な自動化を思い描けるということには疑問を持たざるをえません、もしそれがすべての人間の貢献を除去することを意味するならば。

レオナルド:ええ、ある意味では私たちは時間について話しているのですから。私たちはケアのようなものを時間を節約するために機械化します、時間がないという理由で。結局、時間がたっぷりある場合にしか、何を機械化したいか本当にはわからないでしょう。
フレイザー:私も洗濯物を全て手で洗いたくはないですし、自分の時間をわざわざ費やしたくはないことがたくさんあります。それ以外のことにより時間をかけたいのです、例えばこのような対話にね。

(小見出しは訳者による)







by anti-phallus | 2017-09-13 15:49 | フェミニズム