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ジュディス・バトラー インタビュー「トランプは抑えられない憎悪を解放している」

ジュディス・バトラーのインタビューを訳してみました。
バトラーの翻訳なんてわたしなどにはハードルが高くて、他に訳してほしい方々がたくさんいらっしゃるんですが、非常に刺激的な内容で、ついつい恐れながらやってしまいました。多分これまた誤訳がたくさんあるのではないかと思います。ご指摘いただければたいへんありがたいです。ジュディス・バトラー インタビュー「トランプは抑えられない憎悪を解放している」_f0210120_11470653.jpg

バトラーについては説明は要らないかと思います。インタビューは2016年の10月に行われています。ドイツのサイトのものなので、ドイツの政治状況についてが多いですが、アメリカの占拠(オキュパイ、99% etc)の運動やトランプについても語っています。インタビュアーとのかけ合いというか、インタビュアーがおそらくわざとたたみかけるような質問をして、バトラーがそれに対して否定したり肯定したりして議論が深められていくのが面白いです。

欧米で激化するレイシズムがメイン・テーマになっています。フレイザーのテキストについても言えますが、フェミニストというと「女性の問題」のみ論じるのだろうというイメージを持っている人も多いですが、それは大きな勘違いで、いわゆる狭義の「女性の問題」も当然扱いますが、バトラーたちはそれに止まらず、一見「女性の問題」とみなされないような多種多様な重要な課題について取り組んでいます。

とりわけ、90年代に注目されたフレイザーとバトラーを中心とした論争は経済と文化の関係性という社会科学に根源的で伝統的なテーマを直接論じました。今でも読む価値のあるものです。ちなみに下記の本はこの論争の現状を取り上げています(私も書かせてもらいました)ので是非読んでみてください。

『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」: 格差、文化、イスラーム』
越智 博美 (著), 河野 真太郎 (著)
で、このインタビューでは、バトラーの人種差別/レイシズムと闘う決意が強く伝わってきます。その背景にある経済社会の不安定化についても触れています。それは左派的な政治と深く結びついていますが、同時に運動や政治の暴力性への警戒もはっきり語られていて、わたしはこういうところにフェミニズムの精神を発見します。上で書いたことと関係しますが、フェミニズムとは、単に「女性の問題」を扱うものというよりは、様々な世界に関する分析や視点、理論の中に立ち上がる何らかの形のスタイル、価値観、方法だと思えるのです。

また、同様にレイシズムやネオリベラリズムについて分析していても、フレイザーとは大きく違う点があるのもお分かりになると思います。とくにトランプを支持する人々への評価が違っています。フレイザーがトランプ支持者を批判しながらも、同時に左派がキャッチすべき潜在的仲間だと考えようとするのに対して、バトラーはシンプルに厳しく、その本質を言葉にしています。この違いは、上記の90年代の二人の論争での対立点とも重なっていて、評価の分かれるところでしょう。わたしはどちらも好きですが‥

最後に、トランプや欧米のレイシズムがこれだけ議論の対象になり、日本でも大勢の関心を呼んでいるわけですが、日本で既に長期間政権を握っている安倍さんだって、排外主義、ナショナリズム、レイシズム、セクシズムの頭領なわけです。バトラーの分析が日本の社会経済状況についても当てはまる部分は多いです。にもかかわらずトランプやヨーロッパのレイシストに比べて日本の安倍政権への批判は弱い。どうしたものか‥‥

()内は私が加えたものです。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


トランプは抑えられない憎悪を解放している



これらすべての反動的なポピュリズムはどこから来るのだろうか?哲学者ジュディス・バトラーに、ドナルド・トランプ、ドイツの「歓迎する文化(Willkommenskultur)」、ラディカル・デモクラシーについて聞いた。


なぜ今、公的な集会について本を書こうと決めたのですか?

JB 公的な集会は民主主義の純粋な形なのかどうかについて議論が始まった“アラブの春”の間、それらのことについて考え出したのだと思います。「これが市民であり、彼女・彼らは不公正な体制を打ち破ろうとしている」と言われていました。そしてそれはもちろん、「市民とは本当は誰なんだ?」というようなすべての種類の問いを生起します。「彼女・彼らが街に姿を現していることは重要なのだろうか、街に現れたそれらの身体はすべての人々を代表しているのだろうか?街に出ていない人々についてはどうなんだろうか?」と。

身体が集会において演じる役割についてなぜそれほど関心を持ったのですか?

JB オキュパイ運動に関連する他の議論もありました。そこではあるひとびとは「彼女・彼らは要求を出さない、ただ場所を占拠しているだけだ」と言っていたので、「いやそうではなく、それが要求を形成する方法であり、この場所がわたしたちのものでありこの空間は公的なものであるべきなんだということを言う方法だ」と言おうと努めました。けれどもそのような主張が遂行されるために言語化される必要はないのです。というのはわたしは、彼女・彼らはその身体であるいはその身体が空間を占拠する方法を通じてそれを行っていたと思います。そのような身体的な行動や身振りは政治的に有意なものでもあることを主張したいと思います。それは空間を占拠して主張を行い、主張を具体化しています。

あなたの本には集会への暗黙の共感が読み取れます。一部の人々はそれを恐れるでしょう。

JB 私たちが考えなければならないのは集会という言葉なのかもしれません。大勢の集まりだったり、集団の運動や暴動、暴徒かもしれません。暴徒(mob)はおそらくわたしたちが同様に恐れるものでしょう。それは暴力によって保障されるように思われます。それは意図的なものでも、政治的な関心のあるものでもありません。集会は違います。そこでひとびとはともに集まり議論します。そして彼女・彼らがともに集まり、お互いに姿を現わすことが重要なのです。ハンナ・アーレントのような人にとって、ギリシアやローマの集会は民主主義の発足の重要な一部分でした。そしてわたしたちは民主主義を実現するために集会を必要とし続けていると思います。自省的で包括的なーー民主的な参加と討議の形式を実証することを求めているようなーー集会と、民主主義を諦めている人々との違いを見極められるようになるべきです。

あなたは集会は、普段排除されている人々が公的空間に入ることを許すと書いています。ペギーダ(PEGIDA、「西洋のイスラム化に反対する欧州愛国者」、ドイツで勢力を伸ばす反イスラム団体)の場合でもそれはいえますか?

JB 私が支持するような種類の集会には、ラディカル・デモクラシーの原則が賭けられています。右翼の人種差別主義者が集まって、人種差別主義者にはふさわしくない公的空間から排除されてきたと言うなら、そのとき彼女・彼らはじっさいには他者を排除する権利を求めているのです。彼女・彼らは集まって、人種差別主義者の表明された目的と排他的な計画のために公的空間を獲得しようとしています。それは意図においても効果においても民主的ではありません。

どの集会を「私たちが必要としている」と決められるのでしょう?ある集会は包括的であると同時に排他的であるかもしれません。カイロのタハリール広場では何年も前から無数の女性たちが性的暴行を受けています。

JB 集会は異なる種類の危険を異なる種類の人々に課すと思います。あなたが女性あるいはトランスあるいは移民であるなら、おそらく公的な集会で危険にさらされるでしょう。というのは公的な集会は身体的で公的な露出を含むからです。あなたの隣にいるのは誰か常に知ることはできないし、誰があなたやあなたの隣の人や群衆の反対側にいる人を傷つける目的で、近くにいることを利用するか常に分かっていることはできません。だから公的な集会には危険も常にあるのです。

あなたは街頭でもっと多くのひとびとを見たいと思いますか?

JB いいえ。街頭にもっと多くのひとびとが出れば私たちの生がより良くなるとは思えません。ところで、わたしは身体がしていることと言語を分離できないと思います。身体は表現します、それは意味があるのです。

ペギーダが運動と身振りを通して表現するものと、民主主義を志向する集会が表現するものを差異化できるでしょうか?

JB できると思います。身振りと運動を単に脱文脈化することはできないでしょう。問題はどのように文脈化するかということです。それらは概して、特定の政治を伴う人種差別と反移民の集会です。わたしたちは彼女・彼らがしていることを理解し、適切に判断しなければなりません。それは新しい移民が街に出て統合を求めるのとは全く異なります。もしあなたが、公的空間に足を踏み入れることが法に背くからといってそこから禁じられていたならば、公的空間に入ることは法に対する関係を取り上げることになります。

ですがそれは極右のポピュリストの示威行動についても言えることです。

JB 確かにそうですが、国家の暴力と国家の検閲、人種差別主義者の大衆運動は全て民主主義に対する主張に反して働くと言うこともできます。例えば白人の特権を主張する人々は、移民によって「排除されて」いると主張するかもしれませんが、じっさいのところは自らの特権を失うことを恐れているのです。それが文脈であり、わたしたちはそれら全ての身振りと運動、言語による主張によってその文脈を理解しなければならないのです。

あなたは著書の中でハンナ・アーレントの公的領域と私的領域の区別を批判的に評価しています。そのなかのどのあたりが問題含みなのでしょうか?

JB 『人間の条件』の中でハンナ・アーレントは、再生産や睡眠などの私的で家庭内の活動、身体の再生産を意味するそれら全ての政治的ではない活動と、おそらく栄養たっぷりの身体が登場する政治的な領域を明確に区別しています。アーレントの民主主義の原則の考えは、以下のような仮定を持っています。食料は分配されていて、入手可能であり、ひとびとは保護されていて、病気になれば医療を受けられると。ですが問題はもちろん、私たちは「不安定性(precarity、バトラーのキーワードで、「あやうさ」とも訳す※)」の時代に生きていて、基本的な生の必要性をめぐる非常に多くの事柄があり、そのために私たちは闘っているということです。誰が家を持っているのか、誰が医療を受けられるのか、誰が国境を越えられるのか?これらは全て身体の維持と身体の可動性に根本的に関わっている政治的問題です。具体的な生を考えずに、集団や集会の自由、言論の自由さえももつことはできません。

不安定性(precarity)は今でも増大していますか?

JB 不安定性(precarity)より重要な政治的概念になっていると思います。イサベル・ローリーという研究者によれば、それが私たちの現在の瞬間に本当に内在している経済的政治的条件なのです。「プロレタリアート」は、食べたり生きるために十分なほどには支払われていない労働者たちのことですが、「プレカリアート」はそれとは異なるカテゴリーです。プレカリアートは仕事すら持っていないかもしれません。仕事を得たとしてもすぐに失うかもしれません。一時的な労働者であるかもしれません。家を手に入れても翌日失うかもしれません。未来は根本的に予測できないのです。

なぜそのようなことに?

JB 市場が障害なく拡張できるように労働がますます一時的で不安定にされるにつれて、働く人々と生計可能な賃金に向けた公的義務はますます脅かされています。そのためより多くの人々があるやり方で打ち捨てられ奪われるのをわれわれは目にするようになっています。第一次・第二次世界大戦後、おびただしい数の人々が奪われるのを目にしましたが、その奪われ方は異なる種類でした。現代の強奪も、戦争を通して起きていますが、財政政策やネオリベラリズム、そして労働や住宅の条件、住宅市場や住宅の入手機会に対するその影響、さらに食料への影響をも通じて起きています。多くの人々が非常に基本的な問いで苦しんでいるのを知るのにそれほど遠くに行く必要はありません。

現在のポピュリズムの上昇は、より多くの人々が自分自身を、この新しいプレカリアート、その一部だと考えるようになっている事実に関係していると考えますか?

JB 南アメリカ、例えばアルゼンチンの運動のように、右翼と左翼のポピュリズムを識別すべき理由があると思います。こういった種類の運動に関心のあったエルネスト・ラクラウにとって、ポピュリズムは肯定的な概念でしたし、あるいはそうなり得るものでした。

それはなぜですか?

JB 異なる主張のために集まる異なる種類のアイデンティティの人々が互いに結びついているからです。彼女・彼らは共通する条件を見つけ始め、互いの状況を理解することを求めています。これらのつながりを通して、新しい人々の意識が生まれ、あるいは生まれ得るのです。だからラクラウにとって、ポピュリズムは左翼の約束を与えるものだったのです。彼はポピュリズムを超議会的な政治運動にとどまるものとしては考えませんでした。それが選挙による議会や代議制民主主義、国家権力にすら変容する可能性を実際に思い描いていました。

ではどのようにしてこの明らかに肯定的な形式のポピュリズムと否定的なそれを差異化しますか?

JB おそらく、その形式の良し悪しを識別し始める前に、それを理解しなければならないでしょう。結局のところ、「良い」としていたものが後になって「悪い」ものに変わることがあります。あらゆる種類の国家権力に反対し、すべての国家的過程を憎み、超議会的領域にとどまり続けようとする種類のポピュリズムがあります。現在私たちが目にしているような、男女の平等を保障する法や人種差別に反対する法、移民を許可し民族的に宗教的に異種混淆な人々を認めさえする法に反対する右翼的形式のポピュリズムもあると思います。そしてそのような種類の反動的ポピュリズムは、郷愁に駆られたり特権を失ったと考えて、社会の初期状態を取り戻そうとしたがります。彼女・彼らの以前の世界の喪失のために国家権力を引きずり降ろそうと望んでいます。

ドイツでしばしばなされる議論で、あるひとびとは社会の周縁に追いやられ不安定性(precarity)の中に取り残されていると感じているからAfD(Alternative für Deutschland、反EUを掲げるドイツの政党)を支持するのだというものがあります。賛成できますか?

JB 右翼団体はしばしば疎外されていると感じることがありますが、彼女・彼らが本当に意味していることはその特権が失われたということです。彼女・彼らの特権、白人の前提は揺れ動いています。お分かりのように、確かに彼女・彼らは白人の特権を失いつつあります。白人の特権が前提されていた以前の世界を失いつつあります。その通りです、失いつつあるし、その喪失に慣れて受け止め、より大きくより民主的で異種混淆的な世界を受け入れるのが彼女・彼らのなすべきことです。

けれども彼女・彼らをプレカリアートの概念に含めることはしませんか?

JB 問題は、ネオリベラル経済が人々の隅から隅まで右派と左派を区別することなく不安定性(precarity)を生み出していることです。そのため、自らの位置をとったとして移民を責めているので、右派の人々あるいはより右派的になった人々がいますが、彼女・彼らは、富裕な人々は利益を得続けるのに、不安定性(precarity)が経済的階級を横断して拡大するという、問題の根本を見極めていません。彼女・彼らは、ますます多くの人々の幸福を現実に危険にさらしている財政や金融政策を注意深く見ることをせずに、移民に責めを帰すことに決めています。

トランプの支持者についても同じことが言えますか?

JB トランプの支持者ですか・・

ドイツ人には非常に興味があります。

JB それは全くかなり解読しにくいものです。トランプの支持には経済的要素があります。彼の支持者のある部分にとっては政府は生計をなして財政的に成功する可能性を邪魔するものだから、規制や政府に反対しています。またそれは、労働者の健康や安全を保障するための税の納入や職場の規制をも含み得ます。彼女・彼らはトランプが連邦税を払っていなかったらしい事実を称賛し、「自分もあの人になりたい」と考えているのです。

怒りはありますか?

JB 巨大な怒りを感じます。女性や人種的マイノリティや移民に対してだけではなく、彼女・彼らは自らの怒りが彼の公的で検閲されない発言によって解放されていることに興奮しています。左派にいるわたしたちは、恐らく良心(superego)です。トランプが美辞麗句を飾ってやろうとしていることは、左翼だけではなくリベラリズムを、基本的なアメリカのリベラリズムと左翼を単なる検閲の塊として特定することです。私たちは抑圧的な機械で、彼は解放の車です。これはまさに悪夢です。

彼の公然とした性差別と人種差別についてはいかがですか。

JB トランプが解放しているものは、抑えられない憎しみであり、最近見たように、誰の同意も気にかけさえしない性的行動の形式です。わたしたちはいつから触れてもいいかどうかについて女性に尋ねなければならなくなったのか、それはなぜか?彼が実際言っているのは違いますが、彼はまさにそうほのめかしています。それは人々を、その怒りを、その憎しみを解放しています。そしてこれらの人々は金持ちかもしれず、貧しいかもしれず、あるいは中流かもしれません。彼女・彼らは自分たちが左派やフェミニスト、公民権や平等を求める運動、黒人男性が国を代表することを許したオバマの大統領任期期間によって抑圧され検閲されていると感じています。

あるトランプ支持者は、もし彼が権力を得たらその不愉快な想定に基づいた行動はとらないだろうと言います。

JB あなたにそのようなことを言う人々は、彼が言っている全ての不愉快な事柄を好んでいるかのように見られたくないという意味で、真実を否認しています。その人はこう考えているだけです。彼は国境を閉じ、戦争に行き、あるいはお役所仕事を省くだろう。ですが事実はこうです。彼女・彼らは彼の言う不愉快な事柄と共に生きていきたいのです。彼女・彼らは必ずしも賛成しないでしょうが、そのことに慣れているし、反対しないことを意味しています。彼女・彼らは暗黙のうちにそのような言説に同意を与えています。多くの人々が彼の言説から私的な喜びを得ています。彼女・彼らはそれを大声で言うことはできないかもしれません。というのは人種差別主義者や性差別主義者、あるいは同性愛嫌悪的とされることは恥ずかしいことだと見なされているからです。ですがそのような感情を私的に心に抱いています。

哲学者のエマニュエル・レヴィナスは、私たちが他者に出会う時、その出会いは直接的な要請を私たちに課すと書いています。あなたは彼の理論を拡張して、お互いに出会い、道徳的義務の感覚を相互に課す公的な集会における身体について考え出しています。あなたがここで思い描いている倫理はどのような種類の政治的意味合いを持っていますか?

JB いいえ、身体から身体への個人間の接触のモデルを、より大きな政治的関係のモデルとして見なすことはできません。ですが、より大きな構造へ翻訳され得るそれらのより小さな出会いから、いくつかの一般的な原則を引き出すことはできます。そしてそれらの原則のなかには相互依存性があるでしょう。グローバルな相互依存性、それは気候の変化や食料の分配を含みます。けれどまた例えば、合衆国は、それ自身の領土における悪影響に苦しめられることなく世界の異なる側で戦争をすることはできません。というのは、私たちは実際に世界を共有しているからです、私たちが破壊しようとしている人々とすら。第1世界の状況の中で生き、そこで自由や直接的暴力からの相対的安全を享受しているわたしたちは、本当にそれが好きです。私たちはそれが自らに近づいてくると衝撃を受けます。このことがここで、ブリュッセルで、パリで、ロンドンで、ニューヨークで行われていることです。これらの都市を標的にする人々は、わたしたちが他者が苦しむことを強要されている種類の破壊から距離を取り得るというわたしたちの想定を攻撃しようとしているのです。

そのことは国内政治に対しては何を意味しているのでしょうか?

JB わたしにとって倫理的なものは政治的なものから完全に分離されてはいません。私たちの公的な政策に影響を与えるべき倫理的原則があります。そしてそれは次のことを含みますし、それが私が最も関心のあることだと思います。私たちがあるときには他者の生活に起きていることに注意を払わず、誰かの嘆くべき生に想いを馳せることも、平等なあるいは平等に有意な人々の生を考えることもなく私たち自身の地政学的区域に暮らしているあり方のことです。ですから、私たちの限られた国家や言語の境界を超えて平等を広げることが私たちの責任です。

私たちは現在、シリアの人々の生を生きられたり嘆かれたりされるべきものではないと考えているのでしょうか?

JB 白人のヨーロッパ人がトルコとの国境でシリアに拘束されたとすれば、大きな怒りが生まれるでしょう。それは同一化作用(identification)がすぐに行われるからです。

アンジェラ・メルケルの「歓迎する文化」政策はあなたが思い描く種類の倫理の表現なのでしょうか?

JB はい。それは二つの異なる段階に分けて考えることができます。第一に、わたしたちが歓待や「歓迎する文化」と呼んでいるものは絶対に重要です。それは国際法や難民保護法にも合致しています。またハンガリーのような、国境を閉じて全ての「歓迎する文化」を拒否している場所でも見ることができます。ドイツは「歓待の限界はどこだ?」という問いを討議しています。しかしながらわたしは、第二の段階があると思います。「私たちは誰だろうか?ドイツ人とは今や誰のことか?」と問うことです。歓待について議論するとき、歓待を「彼女・彼ら」にほどこすのはいつもこの「わたしたち」です。けれど「彼女・彼ら」が一旦中に入ると、そのとき「私たち」は誰を意味するのでしょうか?「私たち」は変わるのでしょうか?そのとき彼女・彼らは「私たち」の一部になるのでしょうか?完全な包括とは、人種的に民族的に異なるドイツ人を認め肯定することです。

それは難しいでしょうか?

JB そうです。「私たちは今やムスリムであり、キリスト教徒であり、ユダヤ教徒だ」とか「私たちは今や白人で、黒人で、褐色で、多文化で、多民族だ」と言うことは。

現在ドイツでは右翼的なポピュリズムと言説が増大し、ますますイスラム嫌悪的になっています。

JB 歓待が、移民をドイツに適合させるよう求めるプログラムになっていく方法を考えています。それはドイツの新しい人種差別主義と闘うことに集中的に尽力するプログラムではありません。新しい移民コミュニティがドイツの不可欠な部分になることを拒否する人々もまた変化を経験しなければなりません。今やドイツとは何であり誰を含んでいるのかということの感覚の変化を。そうするためには、ドイツ人はこれらのコミュニティについて学び、慣れなければならないでしょう。これは歓待以上のものです。それは国として「私たち」とは誰であるかの意味を変えることです。そしてそれがこの第2の段階であり、歓待を超え、たくさんの種類の宗教を受け入れる多国籍的、多人種的国家へと導くでしょう。

ではどのように「私たち」と言う概念を拡張できるでしょうか?

JB それはどのように人々と生きるかという問い、共生の問いだと思います。あなたは彼女・彼らの生活を学び、言語を学びたいとも思いますか?彼女・彼らを常にあなたの寛容の受取人として扱っていますか、それともあなたと平等だと見なすようになれますか?ドイツ語はドイツで話されている唯一の言語ではないと認められますか?援助や支援が様々な宗教的共同体に与えられるべきであることや、彼女・彼らは単に歓迎されていると感じるだけでなく、ドイツ人の一部でもあると感じるべきであり、またそうなりつつあることを受け入れられますか?わたしは、ドイツ文化に移民を適応させるための努力がそういうものとして何度も行われてきたと思います。

トランプのレトリックにも、ブレグジットにも、右翼的ポピュリストの言葉にもそれを見て取ることができます。国籍の民族的理解へと後退しています。なぜでしょう?

JB ハンナ・アーレントがここでの道案内になります。国民国家の観念の中で機能する限り、基本的に、国家を代表するために特定の国籍を、その国籍を代表するために国家を求めることになります。それは、常にマイノリティと、排除される人々、国家の支配的な発想に一致しない人々が存在することを意味しています。彼女・彼らは完全な権利がなく、あるいは権利を奪われ、追い出されさえするでしょう。これが彼女の複数性がそんなにも重要である理由です。そして複数性は人種的民族的異種混交性へと翻訳できるだろうと思っています。けれど異種混交性はヨーロッパの今現在のあり方なのです。それが新しいヨーロッパなのです。



※バトラーの著作で、"Precarious Life" は『生のあやうさ』(本橋哲也訳、以文社)として日本語訳されています。




by anti-phallus | 2017-03-11 21:12 | フェミニズム